08 SCENE -04-『ゴトー』

 バスから降りたゴトーの顔面に無数の雨粒がはらはらと落ちてくる。傘など用意していなかったため濡れるがままになっていたが、そんなことを気にする様子もなくゴトーは歩き出した。

 そもそもゴトーにはたかだか通り雨の名残を気にしていられるほどの余裕がなかったともいえる。見た目に忠実な重々しい足取りも、見方を変えれば呆然としているのだということに気づく。

 ゴトーは、およそ無意識ともとれるほどに、ただ歩くことだけを続けていたのだった。



 昨晩、ゴトーの職場に電話がかかってきた。

 食器を洗っていた最中だったため、エプロンの裾で濡れた手を拭きながら店長の呼び出しに答えた。

 ゴトーがそのレストランで働いていることは、ゴトーのごく身近な人間しか知らない。校則の都合で担任のウジイエに許可をとった他では、学校の誰にも話していない。そもそもゴトーは学校ではほとんど誰とも会話をしないため、そんなことを伝えるべき相手さえいないのだ。だから、職場まで電話がかかってくることなど、本来ならばあり得ないはずだった。

 電話の相手は『父』――アキラが入院している病院の看護師だった。

 病院の名前が出たとき、アルバイト先の電話番号をアキラの担当医であるヤシロにだけは話していたことを思い出した。ゴトーは携帯電話を持っていないため、自宅の電話で連絡が取れないときのためにとヤシロに教えたのである。

 そこまで考えて、途端に嫌な予感がした。

 働き始めてまだ間もないとはいえ、こんなことは一度もなかった。それどころか、病院から直接連絡が来たことだってない。

 電話の相手はひどくあわてた口調で用件を伝えた。

 アキラが危篤状態になった、と――



 顔面に衝撃が走った。

 ゴトーは慌てて正面を向き直ると、目の前に道路へはみ出た枝葉があった。葉っぱについていた水滴がゴトーの顔を一層濡らした。

 ゆっくりとした動作で目元についた水滴を払った。指先が少しざらついた。

 昨晩の電話が掛ってきてから、ゴトーはすぐに病院へ向かった。それからはついさっきまで救急治療室の前で夜通し『父』の無事を祈っていた。

 『父』は意識不明の重症だったが、幸いにも命の危機からは脱した。

 本当ならアキラの意識が回復するまで病院に残っていたかったのだが、治療室から出てきたヤシロの強い勧めを受けて一度自宅に帰ることにしたのだ。

 半日以上を病院で過ごし、ろくに何も食べていない。それでも、ゴトーは空腹を感じなかった。それよりずっと大きな感情がゴトーの体を支配していたからだ。

 アキラが死ぬかもしれない。それはゴトーにとって最大の恐怖だった。

 去年の年末にアキラが倒れて以来、ずっと考えないようにしていた。大丈夫、自分を残して『父さん』が死ぬはずがない。その願望が強すぎて、現実から目を背け続けていた。

 だが、アキラの顔色は日に日に悪くなっていった。ヤシロは全力を尽くしてくれている。そのことに疑問は持っていない。しかしいかにゴトーが現実を受け入れようとしなくても、事実はゴトーの眼前にしっかりと突きつけられる。

 『父』はきっともう、長くは持たない。

 ヤシロはアキラの病名を教えてくれなかった。看護師に聞いても、みんな口止めされているようで誰も答えてくれない。それでも、アキラの病が非常に重たいものであることは簡単に予想がついた。

(本当に治らないような病気なのか。)

(それならヤシロさんが自分に任せてくれなんて言うはずない)

(自分だけが知らない)

(『父さん』を助けて)

 浮かんでは沈んでいく、ゴトーの不安。一度思い立ってしまった不安は姿を見せなくなっても、またすぐ表面に戻ってきてしまう。考えないようにしても考えをそらしても、ゴトーの不安が日常から消えることはない。

 誰に言うでもなく、一人で勝手に悩み続けても、『父』の病が治るわけではない。そうと知りながら、それでもゴトーは不安に駆られる。その気持ちを止めることはどうしてもできなかった。

 そしてその不安があったからこそ――身勝手とはいえ、ゴトーにもうひとつの心配ごとを抱えさせることになったのだ。

 ジョーのことである。

 頭にもたげる、可憐な少女の姿。それが『彼』本来の姿とはかけ離れていることはゴトーが一番わかっている。それなのに『彼』は、あえてその姿に忠実な振る舞いをしようとしている。そうすることで誰よりも『彼』自身が傷ついているはずなのに、『彼』は自分を守るために、敢えてそうすることを選んでいる。

 ダメなのだ。そんなことをして誤魔化しても、結局すべて無駄になってしまうのは目に見えている。

 このままでは、『彼』は自分自身を、自分の心を殺してしまう。

 そう、それはまるで――

(……あれは)

 そこで、ゴトーの思考は唐突に打ち切られた。

 呆然と歩くうち、いつの間にやら自宅のアパートの前にたどりついていたらしい。

 ゴトーはそこで、この世のものとは思えないほど美しい舞踏を目にした。

 その姿はさるところ、かの有名なボクサーの遺した言葉を体現するようなものだった。蝶のように舞い、蜂のように刺す。素人目に見てもその姿はあまりに美麗で、それでいて容赦がなかった。振り乱された漆黒の短髪が制止するまでのわずかな間、ゴトーはその姿から目を離すことができなかった。

 鮮烈な印象に、息をすることさえ忘れた。誰が見ても万雷の拍手を送りたくなるほどの姿に、知らず知らずに引き寄せられていく。

 手を伸ばせば届く位置にその後ろ姿はあった。しかし、そうすることをためらわせるくらい、高貴な輝きがその背中からにじみ出ていた。

 そんな時、

「あの獣顔はありえねぇし」

 というかすれた声が聞こえてきた。

 それに対しゴトーは反射的に、

「……ごめん」

 とつぶやいていた。

 小さな勇士が電撃に打たれたかのようにゴトーの声へ反応する。ゴトーに向けられた驚愕の表情が、彼を無意識から覚醒させた。

(……え、あ、あれ? 僕は今、何を……?)

 いつから見ていた。

 ジョーの深緑の瞳は険に吊りあがり、無言でそう語っている。

 指呼の間に寄っていたゴトーは言い訳がましく言葉を継いだが、ジョーはおろかゴトーにさえそれらの言葉は耳に入っていなかった。

 無言の時間がしばらく続いた。蛇に睨まれた蛙のようにゴトーはその場から退くことができない。そしてジョーも、ここで距離をとることは負けだとでも思っているのだろうか、頑として離れようとしない。

 あまりに激しく睨みつけられ、ゴトーは目のやりどころに困った。そうしてジョーの顔から視線を下へ外したとき、ショルダーバッグの上に置かれた茶封筒が目に入った。表面に貸付を受けることになっている奨学金財団の社名が記されていることに気づく。

「もしかして、それを届けに来てくれたの?」

 茶封筒を指差す。ジョーはあからさまに舌打ちをしながら封筒をちらりと見て、すぐに視線をゴトーに戻した。

「よくも帰ってきてくれましたね。ありがとうもなしですか?」

 まったく笑っていない瞳で、やんわりと責め立てられる。対するゴトーは慌てて礼を言うが、そこで再び会話が止まってしまった。

 あまりに居た堪れない。

 『父』のことがまだ心配だからというのもある。ジョーの炯眼けいがんが恐ろしいということもまた、ゴトーの口を閉ざす原因の一つだ。

 しかしゴトーそれは以上に、こんなときでさえ『彼』がルミエール・ジョスリーヌをことが悲しかったのである。

 今にも怒り狂いだしそうなほど感情をたぎらせているにもかかわらず、存在しない誰かの目を気にして、『彼』は優秀な女子高生の仮面を決してはがそうとしない。

 自分を表現させてもらえない。表現すれば後ろ指を指される。表現しなければ自分の内側に負の感情をため込むしかない。目の前にいるジョーがそうしているように。

 これが悲しくなくて、何だというのか。

 お礼はすでに口にしている。無駄な言葉を重ねても相手の怒りを煽るだけ。それなら自分は、何を喋ればいい。

 そうしてゴトーが陰鬱な気持ちで悩んでいた、その時――

 くぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ……

 という、ひどく場違いに間の抜けた音が聞こえてきた。

 それは最初、半日以上何も食べていなかった自分の腹の虫が泣き出したのかと思った。しかしそうではなかったらしい。

 視界の外でジョーが動く気配がした。横目でジョーを見下ろすと、『彼』の右腕がのろのろと自らの腹部に添えられるのが目に入った。

(まさか)

「お昼ごはん、食べてないの?」

「…………ええ。あなたのおかげで」

 ジョーはそう言いながら、腰を曲げて地面に置かれたかばんと、その上に置かれていた封筒を手に取った。封筒をそのまま突き返すような仕草でゴトーに渡そうとしたが、ゴトーの全身がびしょ濡れだったことに気付くと、少し迷ってから郵便受けの上に封筒を立てかけた。

「確かに封筒は渡しました。要件はこれで……まぁ終わってませんけど、空腹でどうでもよくなってしまいましたよ。帰ります」

 ショルダーバッグを左肩にかけながら、ジョーは足早に屋根の下から歩き始めた。

 『彼』が霧雨の中を去って行ってしまう。

 それを見て、ゴトーは自分でも信じられない行動に出た。

 ジョーの後ろ姿を目で追うよりも早く、ゴトーの右腕はジョーの左腕を勝手につかんでいたのだ。

 その瞬間、ゴトーの肝臓レバーに鈍痛が走った。

 一瞬呼吸が止まるほどに激しいその衝撃の正体を探るべく、ゴトーは自分の脇腹を見た。『彼』のか細い右腕が、力の限りゴトーの脇腹にえぐりこんでいた。

「放せ」

 腕を引き抜きながら、ジョーはゴトーを静かに睨みつけてきた。『彼』はゴトーに腕をつかまれたまま、ゆっくり右足を後ろに引いた。

 次はない。『彼』の目が冷たくそう告げている。

 『彼』を引き留めるためとはいえ、とっさに腕をつかんでしまった。非はゴトーにある。だから、『彼』には

 とはいえ――

(こんなに嫌われてるとはね……)

 ゴトーは内心で苦笑していた。先日の『父』の言葉と目の前の現実とでは相反しているにも程がある。わかりきっていたことだが、やはり自分は誰からも信用されていないのだと思う瞬間だった。

 もう、用件を口にするのはあきらめてしまおうか。そう思った。

 だが、ここであきらめていいのか。

 自分はこのまま『彼』に関わることなく、ただのクラスメイトとして傍観するだけで本当にいいのか。

 目の前にいつ自分を壊してしまってもおかしくない人間がいるのに、そうだとわかりすぎるくらい自分にはわかっているのに、放っておくのが正しいことだといえるのか。

 ゴトーは病床に伏せる『父』に誓った。『彼』の誤解をとき、安心させるのだと。

 それこそが信義であると。

 これは不安で押しつぶされそうな自分の心を紛らわすための偽善かもしれないとわかっている。だがしかし、たとえ何千発殴られようと、何万回罵られようと、『彼』の力になりたい。

 それだけは、偽らざる本心だ。

 だからゴトーは、不倶戴天の敵を前にするかのようにして自分をねめつけるジョーに、勇を鼓してこう切り出したのだ。

「よかったら、うちでごはんを食べていかない?」

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