06 SCENE -03-『ゴトー』
「そうか……世の中、狭いものだね」
薬品臭さが充満して妙に清廉とした空気を入れ替えるために、ゴトーは窓を少し開いた。
ゴトーは放課後、父親が入院する室町大学付属総合病院に訪れていた。いつもどおり父親の服を取替えに、そして短い面会時間をいっぱいに使って互いの日常を語り合うために。
そうは言っても、ゴトーの父親は自分ことを話すよりもゴトーの話を聞きたがった。だからゴトーは勉強への不安や、アルバイトでうまくいったこと、失敗したことなどをよく話した。
そして今は、数日前に学校で起こった出来事を話し終えたところだった。
「それで、その子とは仲良くなれそうなのかな?」
だだっ広い一人用の病室に置かれた立派な病床から、父親は話しかけた。
ゴトーは窓辺に立って、遥か遠くに広がる山稜を眺めながら質問に答えた。
「なりたいと思うけど、無理かもしれない」
「それはどうして?」
「深く考えもせずに言いたいことを言ってしまったから。きっと嫌われてしまったと思うんだ」
風が運んでくる潮の匂いが部屋の空気を人工的なものから自然なものへと換えていく。換気された空気から元気をもらったかのように、ゴトーの父親は病床の上でからからと笑った。
「心配性だね相変わらず。君の悪いクセだ」
「……でも、プライドを傷つけてしまったのは確かだから」
「ははは……確かに、その子はいきなり核心をつかれて驚いたかもしれないけど、それだけで君を心底嫌ったりはしないよ。だって君はそのことをとやかく言ったり、言いふらすようなことなんてしないだろ?」
「『彼』はきっと、そうは思わない。僕は誰からも信用されていないから」
「……もし君が本当にそう思うのなら」
少し真剣味の増した父親の声を聞いてゴトーは振り返った。
ベッドには、病に伏せ、やせ細ってなお優しい表情をたたえた父親がゴトーを見据えていた。
「彼に君の誠実なところを見せてあげなさい。自分は彼の敵ではないということを、全身全霊で教えてあげなさい」
「……僕にできるんだろうか」
ゴトーは自分自身に問いかけるようにつぶやいた。視線は父親を離れ、リノリウムの床に落ちている。
「できるさ。君は僕の息子なんだから」
「…………今度、ちゃんと謝ってみるよ」
ゴトーは父親の目をまっすぐに見つめながら続けた。
「誤解をといてから、少しずつ話しかけてみる。もうすぐ文化祭の準備が始まっちゃうから、できるだけ早くに。彼が不安がっているなら、早く安心させてあげたいから」
父親は前進しようとしているゴトーを見て穏やかに微笑んだ。
「それが、信義というものさ」
父親の病室から出た途端、白衣の男と鉢合わせになった。
「やあ」
「こんばんは、先生」
その男性は父親の担当医である。身長190センチ近くあるゴトーには及ばないが、それでもかなり上背のある細身の男性だ。
彼もまた、父親と同じように人のよさそうな笑顔を向けて話しかけてくる。
「ははは、いやだなぁ先生だなんて仰々しい。ヤシロでいいって、前から言ってるのに」
そう言ってゴトーの肩にぽんと置かれた彼の手は、お世辞にも力強いとはいえないほっそりとしたものだった。ただその掌から伝わってくる暖かさが、ヤシロの柔和さや親切さをそのまま表しているような気がした。
少し馴れ馴れしい感もあるが、ゴトーはこの執刀医のことが嫌いではなかった。
「……いえ、こんなにお世話になっているのに、とてもじゃないですけどそんな気安くは……」
「気にしなくたっていいのにそんなこと。君はアキラの息子じゃないか。アキラは僕にとって何物にも代えがたい大切な存在だ。なら、君も僕にとって大切だってコト、わかってくれるだろ?」
「…………はい、ヤシロさん」
「そうそう。ホントは『さん』だってつけなくたっていいくらいなんだからねぇ」
頭をかきながらほがらかに微笑むヤシロのふるまいは、彼の長身とは相反して幼いものに映る。父親の修行時代の友人ならば、もう四十を超えているはずだろうに、彼の感性はとても若々しい。
(『父さん』も、先生と同じくらい元気になってくれないかな)
心の曇りが顔に現れてしまっていたのか、ヤシロはゴトーの両肩に手を置くと、ことさら明るく口を開いた。
「大丈夫。アキラには僕がついてる。何があっても君の親御さんは助けてみせるから。僕にまかせてくれ」
包容力のある、自信にあふれた微笑みだった。実際、看護師たちから聞いたところによれば、医師としてのヤシロの腕は相当に確かなものらしい。裕福な家庭の人間が病に倒れたとき、わざわざ彼の力を頼りに全国から患者が集まってくることもあるという。普段から多忙で、教授のイスだって狙えるような人だというのに、彼は昔馴染みだというそれだけの理由で父親の力になってくれると約束してくれた。
「……ありがとう、ございます」
ゴトーは口数こそ少なかったが、それでもありったけの感謝の意をその言葉に込めた。言いたいことはもっとある。だが、それらをうまく紡ぎ出す舌をゴトーは持ちあわせていなかった。下手に言葉を飾っても、慣れない言葉はかえって礼を失することになる。
それはきっと、信義に反することだろう。
ヤシロはそんなゴトーの気持ちを汲むように、肩に置いた手をほんの少しだけ強めると、父親の病室へ入って行った。
あの医師は決して悪い人間ではないと思う。それどころか、ゴトーが今まで出会ってきたどんな人たちとも違う何かを、ヤシロは持っているように感じた。
ふわふわしているようで、どこか一本気の通っている。これこそが父親の言うところの信義なのだとしたら、ゴトーは彼を見習いたいと思った。
(ただ、どうしてだろう)
ヤシロと話し始めたときから、なにか釈然としないものがゴトーの心の中にあったのだ。
それがヤシロのせいなのか、ゴトーの個人的な事情からくる不満感からなのかわからない。
ただなんとなく、居心地が悪かった。
廊下の端から、なにげなく父親の病室を振り返ってみる。
特におかしなところは何もない。
ときどき看護師があわただしそうに通りすぎていったり、持ち運び台に下げられた点滴と一緒にゆっくり歩く患者がいるだけ。
おかしいところなど何もない。
ゴトーはそう自分に言い聞かせ、そのまま病院を出て行った。
そんな彼の後ろにあった曲がり角に、人影がひとつ床に落ちていた。
彼は自分を見つめ続けていた視線の存在に、とうとう気づくことはなかった。
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