03 SCENE -01-『ジョー』
暦のうえでは秋でも、未だに真夏の日差しが残る九月の中ごろ。放課後の教室で事件は起こった。
ホームルームのあと、用を足して教室に荷物を取り戻って来たときのこと。教室の前半分には机と椅子が寄せられて、がらんと空いた教室の後ろ半分に数人の男女がたまっている。
その中心には、我らが栄えある学級委員、カエデの小さな後ろ姿があった。
「ちょ、ちょっと待ってよ。クラスの仕事はみんなで分担する決まりじゃない!」
「いやいやいやだからさぁ、オレらみんな忙しーンすよ。部活とかぁ、バイトとかぁ、塾とかさぁ」
「アタシも掃除とかやってる暇ないんだよねぇ。ってなわけで、あとは学級委員のカエデさんにまかせちゃっていいよね! いいだろ?」
「そんな……当番は当番なんだし、みんなでやらないと……」
カエデはおろおろしながらも、掃除当番を無視して帰ろうとしている他のメンバーに注意しているようだった。
「ままま、いいじゃんいいじゃん。どーせ委員長は勉強しなくたって成績いいんだから、オレたちの分まで面倒みてくださいよぉ」
男子は小柄なカエデの顔をわざと覗き込みながら言った。
それを見ていた残りの男女は、さも愉快と言わんばかりに下卑た笑い声を零している。
あぁ、なるほど。ただの妬みかよ。
面倒くせぇもん見ちゃったなぁ、もー。
ここには学生鞄代わりに使っているメッセンジャーバッグを取りに来ただけだったが、あんないびりの光景を見てしまったら気分が悪い。
別に正義ぶる気なんてさらさらない。
ただ、人の弱みにつけこんで他人を踏みつけにするような人格を見るのは、虫唾が走るだけだ。
俺はいつもどおり、こそばゆい優等生の仮面を被ってから、教室から出て行こうとしているサボり魔たちに駆け寄った。
「みなさん待ってください!」
「おぅわっ」
先陣を切ってさぼろうとしていた男子が、音にするとこんな声をあげた。
俺が声をかけたのと同時くらいに、戸の廊下側にいた誰かにぶつかって教室内に押し戻されたのだ。
列の先頭にいた男子はぶつかった相手へ詫びを入れようと、
「いっててスンマセ――」
と口早に言いかけて、黙り込んだ。
さぼり男子が廊下にいる誰かの顔を見た途端に、そいつの息を飲む音が聞こえたような気がした。
俺はさぼり男子の視線を追うように廊下側へと目を向けた。
黒い壁が道を塞いでいる。
開いているはずの戸の先に闇が広がっていた。
――などということはない。ここは現実世界である。
そこには一人の巨漢が突っ立っており、たった一人で引き戸を通行止めにしていたのである。
ゴトーだった。
ゴトーはサッシに額がぶつからないように少しだけ身体を前かがみにしながら、自分にぶつかってきた男子と、その後ろにいる女子たちをゆっくり見まわした。
そんなヤツを前に、俺は内心、深いため息をついていた。
俺はこの転校生のことが気に食わなかったのである。
ゴトーはひどく無口な男で、何を考えてるのかまるでわかりやしない。それに加えて同級生たちから頭一つ突き出た図体と、野獣みたいなおっかない面構えときてる。ヤツのことを何も知らない人間なら、平謝りして逃げ出すこと請けあいのルックスだ。
ゴトーがそんな外見どおりの威圧的な男なら、腹などたちはしない。
問題は、容姿以外にヤツを怖がるような理由が何ひとつとしてないというところにある。
ゴトーが転校してから二週間足らずだが、あいつの振舞いを見て、俺を含めたクラスの全員が理解していた。
『こいつは見かけ倒しもいいところの、ただただ善良で愚鈍な、いわゆるイイヤツでしかない』ってことを。
クラスの連中がゴトーにぶつかって一瞬黙ったのも、突然目の前に現れたヤツの外見に圧倒されたからにすぎない。だからちょっとビビッて慌てたとしても、ずる賢い連中はすぐに態勢を整えて、何かしらの企みをのたまうまでに復活する。
「いやぁわるいわるいゴトーちゃん、前方不注意だったわ。あっ、そうだゴトーちゃん、どうせだったらちょっと委員長と教室を掃除してってくんない? オレら今日急いでんだわ」
「ゴトーちゃん確か、まだ部活に入ってなかったもんね? それじゃ放課後も暇なんだし、少しくらい時間を割いてもらえるよね?」
「…………」
こうやって勝手なことを言われても、ゴトーの野郎は一言も口を開かない。
あいつが何も言わないものだから、さぼり女子の一人がわざわざロッカーから箒を取ってきてしまう。
ゴトーは手渡された箒の柄をじっと見つめるだけで、相変わらず何の反論もしない。
別段おかしくもなんともない、いつもどおりの光景だった。
この男はいつだってこうして何一つ言い返さないまま、流れに身を任せている。
ちょっとその気になればいくらだって強弁をふるうことができる外見なのに、ヤツはちっともそんな素振りを見せない。
俺は、ゴトーが気に食わない。
自己主張せず、ただその場をやり過ごせればいいという無気力さ。
誰とも関わろうとせず、誰に対しても受け身な消極さ。
男なら誰もが憧れるような屈強な肉体を持て余す臆病さ。
それが、俺がゴトーを嫌う最大の理由だった。
そうこうしている間に、さぼり魔たちは俯いているカエデやゴトーに一瞥くれると、笑いながら立ち去ろうとしていた。
こんな男の風上にも置けないようなヤツに、この場を任せておけるかよ!
俺はいよいよ見ていられなくなり、自らさぼり魔たちを言い負かしてやるために、声を上げようとした。
ただ、その時だった。
「君たちの」
地の底からとどろく地響きみたいに野太い声が、教室中の壁を振るわせた。
俺は思わず、教室内へ振り返った。
他のヤツらも俺と同じように、怪訝そうに教室を見渡していた。教師が入ってきたわけでもなく、そこにいるのは視線が自分に集中して気まずそうにしているカエデ委員長ただ一人。
俺を含めてみんな思ったことだろう。
あんな重厚感のある渋い声で喋るヤツなんか、このクラスにいるはずないって。
……たった一人を除けば。
「君たちの心には――」
みんな声の主が目の前に立っていた巨漢だってことに気づいて、ゴトーの方に向き直った。
転校してきてから半月近く、ゴトーがまともに口を利いたところを誰も聞いたことがなかったものだから、全員驚いた顔つきでヤツを見上げていた。
「『シンギ』がない」
……………………はい?
し、神技? 何だそれ。
今までずっと、何を言っても言われっぱなしのおバカさんだとばかり思っていたヤツの発言に、俺を含めてみんな時間が止まってた。
言葉の意味が理解できなかったのだ。
「…………誠実さにもとる、ひどい言い分だと思う」
セイジツ、誠実…………
あっ、『シンギ』って『信義』か!
いきなり何を言い出すかと思えば、顔に似合わずに高尚な言葉を使いやがってこのヤロー。
「ひどいって、な、何がだよ? おれらはただ、忙しいから――」
「ちがう」
ゆっくりと、だがきっぱりと、ヤツはさぼり魔の言葉を封殺する。
その歳不相応な重苦しい物言いに、誰もが唖然としていた。
「君たちの心に信義があるなら、そんな言い分にはならないと思う。そんな表情にならないと思う。そんな目つきに、ならないと思う」
開いた口がふさがらないとはこのことかと思った。
このデカブツ、普段から言いたい放題されすぎたせいでおかしくなっちまったんじゃないの?
偉そうなことを言いやがって、まるで人の心が読めるみたいな言いぶりじゃねぇかテメェ!!
――と、俺以外のヤツは思ったに違いない。
だからこそ、それを聞いていたさぼり魔たちは怒り沸騰な表情を隠すことなく、「はぁあ!?」の合唱から批判のソナタを始めた。
余程プライドが傷ついたのか、ヤツらはみな口汚くゴトーを罵った。一人が言ったことに他のサボり魔が同調するから、ゴトーはひたすら責められっぱなしの蔑まれっぱなし。
まったく、なんて(不)愉快な光景ですことよ。
こういうときに相手を怒らせたって何の意味もねぇっつーのに。
……仕方ねぇな。
ゴトーのヤローはどうでもいいが、一人さびしく事のなりゆきを見つめてるカエデが気の毒だ。
ここは俺が火消しをするしかない。
「ちょっとよろしいですか、みなさん」
「あぁんっ!? な、なんだよっ」
サボり魔どもは俺のインテリぶった呼び声にびくっと肩を震わせた。
「みなさんの用事というのがどんなものかは私にはわかりません。でもそれは、たった数分も無駄にできないほど切羽詰まった、絶対に遅刻できないような類のものなんですかね?」
俺は普段学校で見せる模範生徒の顔つきをして、いかにも真面目腐った言い方で理路整然と正論をつきつけた。
「絶対にって……それは……」
「違いますよね。こんなところで雑談できる時間があるくらいですからね。それなら、みんな平等です。クラス全員が交代で掃除をすることになってるのに、一人にだけ押し付けて帰るのはフェアじゃないです」
「フェアかどーかなんか関係ねーじゃん、だって委員長は――」
「確かに、何も言いませんね。でも、それさえ掃除をさぼっていい理由にはならない。どうしても忙しいならその分急いで掃除すればいいだけのことですよね? そうしてくださいよ。こうしてる間にもみなさんの大切な時間は刻一刻と無駄になってるんですから」
このころにはクズども全員、反論一つできなくなっていた。
人はあまりに正論すぎることを言われると戸惑うものだ。
多分、ゴミはゴミなりにやましいことをしている自覚があるから、その悪事を誰かに指摘されることをみんな恐れているのだろう。
どう言いくるめても俺が動じないことを悟ったのか、さぼり魔連中は面倒くさそうにゴトーの手から箒を奪い取った。
かくして、掃除は無事に当番全員によって行われた。
掃除要員になぜかゴトーが加わっていたり、成り行きで俺が監視役みたいになってしまったことを除けば、概ね結果オーライである。
掃除は無事に終わったが、結局ほとんどのゴミくずはカエデとゴトーの二人で回収した。
ほかの男女は携帯電話を片手に教室をぶらついて、時々思い出したようにもう片方の手の箒を揺らすだけだった。
ここまでだらけられると、もう文句を言う気力もなくなる。
ゴミ箱から取り出した袋の口を結わきながら、俺は溜息をついた。
一通りゴミ袋をまとめたが、まだ掃除は終わらない。
その日は俺のクラスが両隣の教室のゴミ袋をまとめてゴミ収拾所に持って行く日だった。
ゴミ袋はリサイクルごみと燃えないごみの二種類。三クラス合わせて六個のゴミ袋を、三階ほど下って、新校舎から旧校舎まで歩いた先にあるゴミ収集所へ持って行かなければならない。
軽い長旅気分が味わえる道中なだけに、普通は誰もやりたがらない。そのためゴミ捨て係は公平にじゃんけんで決めるところなのだが……
いつの間にか、あたりが静かになっていた。
「おや、ほかのみなさんは?」
いくつもの掃除道具を抱えていたカエデに声をかける。
「えっと、机を戻したら、みんな黙って帰っちゃって……」
はぁぁぁっ……まぁ聞かなくてもわかっちゃいたがよ。
文句を言いたいのもやまやまだが、カエデの前で素顔を見せるわけにはいかない。
またいつどこで、どんなひどい目に遭うかも知れないからな。
俺は不快の感情を滲ませないよう、優等生の仮面を被り直す。
一方カエデは、少し陰りのある表情を浮かべていた。
俺と違い、カエデには放課後の予定がみっちり詰まっていることを俺は知っている。
気が弱いせいで、きっと言い出せなかったのだろう。
「カエデさんも、部活に行ってください。あとは私がやっておくんで」
それを聞いたカエデの顔色は一瞬明るくなったが、またすぐに翳った。
「え。で、でも、ジョーは当番じゃないのに……」
「いいんですよ。放課後は特に予定もないですし。それよりもカエデさんの方こそ、練習に間に合わないんじゃないですか? 文化祭に向けて、今がラストスパートなのでしょう?」
「あ、ありがとう、ジョー……!」
動物でたとえるなら、チワワかダックスフントみたいなウルウルしたまなざしで見上げられた。
上目遣いが可愛らしいが、それが申し訳なさゆえの目つきなのか、媚びる目つきなのか区別がつかなくて、なんだかこそばゆい。
俺は恥ずかしさで赤くなりかけた顔を軽く笑みで加工してから、カエデに支度をするよう促した。
カエデは自分の机からカバンを取り、そのまま教室の外へ――行かなかった。
なんとカエデは、ずれた机の並びを直しているゴトーのところへ駆け寄ったのだ。
「あの、ゴトーさんも……ありがとうございました」
「…………いや」
はぁぁぁぁぁっっっ!? 「いや」じゃねえよテメェ!!
あきらかにこれ俺の手柄だろうがよぉぉぉ!!
なに「自分も貢献しました」みたいな態度してんだブチ殺すぞ!!
用件が終わると、カエデはそそくさと教室を出て行った。小走りで階段を駆け下りていくカエデを俺は爽やかに見送る。
もちろん、怒り沸騰状態なのは誰にも悟らせない。
俺は釈然としない気分のまま、隣の教室に燃えるゴミと燃えないごみの袋を回収しに行った。
隣のクラスでは気の弱そうな小太り男と根暗そうな大女がたった二人だけで掃除していた。それを見ると、ゴトーに対する不満感と相まって更なる怒りが湧き起こる。
まったく、どいつもこいつも臆病者ばっかりか!
俺はその二人にゴミ袋を持って行くことを伝えて、両手にゴミ袋を持ちながら教室に戻った。
すると窓の下で件のさぼり魔連中が、さもうんざりしたと言いたそうな醜い表情で校舎から出てくるのに気がついた。
遥か頭上から俺に見られていることを知らないからなのだろう、男子は一様にしかめっ面、女子は一様にふくれっ面をしていた。
もう不機嫌さを隠すこともしないようだ。
「んだよ、別にいーじゃねーかやりたいやつにやらしときゃよー」
「いい子ぶっちゃってあぁヤダヤダ。まじキんモいよあいつ」
「外人風情が調子乗りやがって、ソッコー日本から出てけよ」
「どうせあれでしょ? あのデカブツに気でもあるんじゃない?」
「あははははっ、それ案外マジかもよ~」
「とんだゲテモノカップルじゃねーかぁ? ぎゃははははっ!!」
聞くに堪えない悪意の塊は、四階にいる俺の耳にもしっかりと届いていた。
頭から湯気が出そうだった。
温室育ちのクソバカどもは言っていいことと悪いことの区別がつかないらしい。そんなだからネット掲示板でアホな言説並べ立てたりブログだのSNSだのを炎上させたりできるんだよ。
大本は遺伝、引き金は環境、かな?
あぁ、悲しい悲しい。
俺が外人だったらテメェらみんな人外だぜゴミ屑がっ!!
心の中で首を掻き切るポージングを強く思い描いていたら、あと少しでゴミを持った右手がそれを実行してしまいそうになった。
危ない危ない。感情に身を任せてもいいことなんてこれっぽちもないのだ。俺は優等生、冷静にならなければ。
さっさとゴミ袋を捨てに行ってしまおうと、もう片方の隣の教室へと歩を進める。
すると、教室からゴミ袋を手にしたゴトーが現れた。
掃除当番だったカエデの代わりに仕事を引き受けたのはこの俺だ。貴様なんぞお呼びではない。
「あぁ、いいですよ。ゴミは私が一人で持っていきますから」
俺はゴトーの手にあるゴミ袋を受け取ろうとした。
だが、ゴトーはゴミ袋を手離そうとしなかった。
どうやらこのバカは、どうしても雑用を押しつけて欲しいらしい。
誰がおまえの思い通りになんかさせてやるものか、これは俺の仕事だバカ野郎。
「あの、本当に大丈夫なんで、もう帰ってくださいって」
俺は力任せにヤツからゴミ袋をひったくった。
さぁこれで用なしだ。さっさと帰るがいい。
俺は足早に階段へと向かう。
しかし、その行く先をゴトーが立ち塞がった。
ゴトーは俺を見下ろしながら、重厚感のある声で静かに告げる。
「それなら、僕にも手伝わせてくれないかな?」
「……いやだから、そういうわけにもいきませんから」
「手伝いたいんだよ。僕が。それに二人とも掃除当番じゃないのは同じだ。手伝わないなんて、フェアじゃないでしょ?」
こンの野郎っ……!
俺の言い分をそっくり真似て、この俺を論破しようとしてきた。
内心腸が煮えくり返りそうだったが、ヤツの言い分に対して有効な反論が思いつかない。普段から優等生で通っている俺は、ヤツを怒鳴りつけることもできない。
だから仕方なく、六個中三個のゴミ袋をゴトーに引き渡した。
それから二人連れ立って、ゴミ収集所までの長い道のりを歩いていった。四階から一階へ、新校舎から旧校舎へ、そして旧校舎裏手のゴミ集積所へと移動する。
その間、俺たちは互いに一言も喋らなかった。
別に言い負かされたことが悔しかったからではない。単純にこの野獣もどきにくれてやる話題がなかっただけだ。
ゴミ収集所へとたどり着いた俺たちは、やはり無言でゴミ袋を捨てていった。俺は最後の一つを思い切りぶん投げてしまいそうになったが、なんとか押しとめて穏やかに捨てた。
さっきから何かと優等生の仮面が剥がれかかっている。
こんなバカ相手とはいえ、俺の正体がばれたらこの先の学園生活に支障をきたす。
グラウンドと旧校舎を区切るネットの上に止まっていたカラスが、俺をあざ笑うかのようにギャーギャーと鳴き出した。
笑いたければ笑うがいい。
俺は、俺だけの平和を守りぬく。
俺は両手を叩いて塵を落としたあと、収拾所の網をゴミ箱に被せ直しているゴトーを置いてさっさと校舎へ戻ろうとした。しかし――
「あのさ」
という、カラスたちの甲高い鳴き声とは対照的に重々しい声が、俺の歩みを引きとめた。
…………今日はまた随分と喋るじゃねぇかよ、ゴトー。
「なんですか?」
俺は喉元まで這い上がっていた不快感を極力抑えて、振り返り際にそう切り返した。
俺の軽い睨み顔を見て、ゴトーは開きかけた口を閉ざしてしまう。
そのだんまり加減が、俺の怒りに火をつけた。
「だから、なんですか? 言いたいことがあるなら口に出してくださよ」
「さっきは、ありがとう」
俺の目をまっすぐ見つめながら、ゴトーははっきりそう言った。
何の臆面もなく、そこにはただ純粋に感謝の意しかこめられていないように思えた。
「すごくカッコよかったと思う」
「……それはどうも」
混じり気のないまっすぐな言葉が俺の耳をくすぐる。身体が少しむずがゆい。
「私は言いたいことを言っただけです。感謝される覚えはない」
「でも、とてもうれしかったから……やっぱり、ありがとう」
そんなに感謝してくれるんなら、とっとと俺を解放して欲しいんだがな。
「ただ、その……」
「……だから、言いたいことがあるなら――」
「我慢、しないで欲しい」
我慢? まさかこいつ俺が怒ってることに気づいて……いやでも、それじゃまるでコイツが怒られたいみたいじゃないか。
…………マゾなのか?
理解に苦しむと言いたげな俺の内情をちょっとでも察したのか、ヤツは慌てて言い足した。
「そ、その……、言いたいことがあるなら、君も喋っていいと思うんだ」
言いたいこと?
ダメだこいつ、何を言ってるのかわからない。
「あの、話がちっとも見えないんですけど。このまま訳のわからない内容が続くようなら、もう帰っていいですかね?」
「だ、だからっ!」
耳をつんざくようなバカでかい声だった。バスの音域に到達するその野太い声を必死に張り上げて、ゴトーは何故か懸命に話そうとしていた。俺はゴトーの意味不明な圧力に押されて、帰るに帰れなくなってしまった。
「だから、何ですか?」
「その話し方……やめて欲しい」
「話し方? 失礼な人ですね。別に私がこの話し方で誰かに迷惑をかけてるわけでもないでしょう?」
「…………迷惑は、かけてないよ。でも……」
「ならいいじゃないですか。こういう言葉づかいは大人になってから急に身につくものじゃない。今から練習しておいて損になることなんて――」
「でも君が……ひどく、辛そうに見えるから」
…………はぁぁ?
「辛くなんかないですよ別に。当たり前のことをしてるだけです」
「…………そうは、見えない。僕には、君がとても無理をしているようにしか、見えないんだ」
ゴトーは陰った表情で視線を地面に落した。
だがゴトーの言葉は静かでいて、底知れない熱量が潜んでいるように思えた。その正体不明の熱さが、俺の心にえもいわれぬ圧迫感を与えてくる。
「…………僕は、知ってる。わかってるんだ」
「だから、何を――」
そのあとの記憶は、ほとんど定かじゃない。
ただ、ネットの上に止まっていた二羽のカラスがうるさい羽音を立ててどこかに飛んで行ってしまった光景と、あいつの言葉だけが、強く俺の心に刻み込まれた。
「ルミエールさん。君が女の子じゃないってことだよ」
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