04 SCENE -01-『ゴトー』

 ゴトーは一目見ただけでイラついているのがわかる『』を前に、ひどく戸惑っていた。何をどう説明すれば『彼』を傷付けずに済むのか、真剣に言葉を選んでいたのだ。

『彼』は同級生たちからジョーの愛称で呼ばれているが、それは本名ではない。

『彼』の名はジョスリーヌ、姓はルミエールという。

 故に『彼』のことは、出席簿ではルミエール・ジョスリーヌと記されている。

 日仏ハーフの父親とフランス人の母との間に生まれたクォーターだが、『彼』は日本で生まれ育ったという。担任教師が言うには、出生時に母方の姓で単独戸籍を作ったせいで、書き記すと外国人にしか思われない名前になってしまったらしい。

 そのうえ正面から見た『彼』を日本人として根拠づけるものは、『彼』の話す流暢な日本語と、短めに整えられた漆黒の頭髪しかない。

 もしも『彼』が口を開かなければ、誰も『彼』を日本人と断定することはできないだろう。

 『彼』は利発で折り目正しく、振る舞いの一つ一つが洗練されていた。『彼』が教室にいるだけで、自分が映画のワンシーンに溶け込んだかのように錯覚した。

 『彼』の姿見はそれほどまでに華麗で、その優雅さは人種さえも超えて、他の同級生たちを圧倒していた。

 しかしその容姿は、まぎれもなく可憐な女の子のものだった。

 覗きこめば吸い込まれそうなほど濃い、深緑の瞳。日本では稀に見る冷め冷めとした肌。整った目鼻立ちは歴史上の有名画家が描いた絵画の中で微笑んでいてもおかしくないようにすら思える。その凛とした土台に『彼』がいつも浮かべている自信に満ちた微笑みを足したなら、もはや誰もその人物をゴトーと同じ日本人だとは考えないに違いない。たとえ四分の一は日本人の血を引いていても関係ない。『彼』の心が日本人そのものであるとしても、人はすぐ、見た目に騙されてしまう。

 学校の人間もそうだった。クラスメイトはもちろん、担任教師まで、誰もが『彼』の見た目に、振舞いに騙される。『彼』が、いや、みんなにとっては『』が、模範的な生徒であることに疑いを持たない。そうではないという可能性さえ頭をかすめない。

 ましてやそんな『彼』が『女の子ではない』などと、誰も思わないだろう。

 みんなそうだった。

「…………僕は、知ってる。わかってるんだ」

 初めて『彼』と出会ったときから、わかっていた。

 ゴトーは一目ですぐに、『彼』の心が男のものであるということに気がついた。

 この都立法武高校に転校してからというもの、ゴトーはそれを伝える機会をずっと窺っていた。しかしゴトーの性格上、積極的に誰かと会話に持ち込むことは困難を極めた。何より相手は生物学上は女の子である。頭では理解できていても、ゴトー自身も『彼』の外見に躊躇してなかなか話しかける機会を見いだせなかったのだ。

 だがその日、ゴトーはついにチャンスを得た。

 それを言うことは、ゴトーにとってどうしても必要なことだった。

 『彼』――ジョーのためにも、それはどうしても言わなくてはいけないことだとゴトーは思った。

 ゴトーにはわかっていたのだ。

 自分を偽り続ければ、いつかその跳ね返しが来て、自分を壊してしまうことになるということを。

「だから、何を――」

 ジョーは極力隠そうとしているが、その深緑の眼光に不愉快さが色濃く滲み出ていた。あまり話を引き伸ばしても『彼』の怒りが増すだけだとはわかっているが、それでもゴトーは言葉を選ばずにはいられなかった。

 ゴトーは『彼』の助けになりたかったのだ。

 だからこそ、その第一歩を踏み出す前に『彼』に嫌われてしまっては意味がない。言葉を選んでいたのはそのためだったのだが、かえって『彼』の機嫌を損ねてしまった。

 だからゴトーはもう、はっきりとそれを言うことにした。

「ルミエールさん。君が、女の子じゃないってことだよ」

 その一瞬、『彼』の顔から表情が抜け落ちた。

 テレビに向けて一時停止ボタンを押したみたいに、ジョーの全身は完全に硬直していた。

 そんな『彼』から答えが返ってくるはずもなく、ゴトーは勝手に話を続けることにした。

「その丁寧な話し方は……世間向けのフェイク、だよね。君のことをよく知らない人がその話し方を聞けば、君はまるで『礼儀正しい女子高生』に見える。でも、別に君はそれが狙いでやってるんじゃない。君は、ただ単純に使なんだよね。敬語なら、男でも女でも話し方はほとんど同じだ。……自分に対して、そんな言い訳もできる」

 ゴトーは一歩、ジョーに近づく。

「君が本当の君でいようとしても、世間はそれを許してくれない。だからこそ仮面が必要になる。たとえ身振りを偽っていても、心の中までは覗かれない。敬語を話しているだけっていう口実があれば……自分はあくまで男なんだって、自分に言い聞かせられるから」

 ゴトーはもう一歩、ジョーに近づいたが、ジョーはそれに対して一瞬びくりとしたあと、半歩身体を後ろに退けた。

「…………な、んで、おまえ……!」

 今やもう、ジョーは本来の自分を隠すことを忘れているようだった。その綺麗な顔にはしっかりと、困惑のあまり醜く歪んだ表情が張りついている。

「……無理しちゃダメなんだよ。そんなことを続けてたら、きっといつか破綻する。僕はただ、君が心配なんだ」

 ジョーの瞳には、焦りと怒りの光がくすぶっているように思えた。

 それはさながら、犯行現場を警察に押さえられた指名手配犯のような、命懸けの威力がこもった睨みだった。いまや『彼』の視線には強い殺意さえ感じられた。

 この話題はジョーにとってこれからの学校生活の平和にかかわる大問題だ。転校してからこれまでのジョーを見たところ、『彼』はたぶん、この学校で自分の本当の性別を明らかにする気は一切ない。誰とも深くか関わらないようにして、つつがない日々を送ろうと考えていたのだろう。

 そんなとき、ゴトーのように『彼』の本質を見抜く人間が現れたことは、『彼』として大きな誤算だったに違いない。自分の平和が壊されてしまう、そんな脅威をゴトーに対して感じているのかもしれない。

 それでもゴトーはもう一歩だけ、ジョーに近づいて、言った。

「このことは誰にも言わない。信用、できないかもしれないけど」

 事実、『彼』の鋭い眼光がそう物語っている。

「本当にただ君のことが心配なだけなんだ。だから――」

 ジョーの目じりが、ゴトーの「心配」という言葉に反応してぴくりと動いた。

「心配、だと……?」

 のどの奥から搾り出すようにしてジョーは言った。

 ジョーは真正面からゴトーをにらみつけ、顔をしかめたまま動こうとしない。そんな『彼』の刺々しさが、ゴトーを心苦しくさせた。

 ジョーはきっと、これまで数え切れないほどひどい目にあってきたはずだ。

 その迫害の記憶が、『彼』をこんなにも憎憎しい目つきにさせるように仕向けている。それがとても悲しくて、ゴトーはそれ以上、何も話すことができなくなってしまった。

「…………私は」

 ふっ、と一瞬だけ口の端を吊り上げてジョーは笑った。

 それからゆっくり、今度はジョーのほうからゴトーに向かって歩いてきた。

「……いや」

地面の砂利を踏みしめながら、ジョーはじりじり近づいてくる。

――」

 ジョーはゴトーの目の前に立った。

 すると急に、ジョーはゴトーの胸倉をねじり上げて自分のほうへ強く引き寄せた。

「てめぇなんかに心配されるほど落ちぶれちゃいねええええええっっ!!」

 鼻先がぶつかりそうになるほどゴトーの顔を近づけて、鼓膜が破れんばかりのどら声を上げて、『彼』は絶叫した。

「わかったようなこと言ってんじゃねぇこのクソバカヤローが!! 偽善ぶってるヒマがあンならてめぇの心配してろやボケえっ!!」

 思い切り突き飛ばされ、ゴトーはしりもちをついてしまう。

 そんなゴトーを見るなり、ジョーは取り付く島もなく走り去ってしまった。

 その場に一人で取り残されたゴトーは、『彼』につかまれた服のシワをのばしながら考える。

 少し、『彼』の気持ちを考えなさすぎたのかもしれない。

 『彼』は傍目からわかるように高潔で、正義感がある。

 それに何より、プライドがとても高いように感じる。

 『彼』からしてみれば、ゴトーの存在はまったくの想定外だったはず。まさか自分のような野暮ったい、根暗な人間に『彼』自身の存在を指摘されるとは思ってもいなかったはずなのだ。

 それなのにゴトーは、ジョーに対して「心配だ」などと言ってしまった。きっと『彼』の誇りを傷つけてしまったのだろう。

 自分が本当にイヤになる。どうして自分は、もっと喋り言葉がうまくなれないのだろう。

 でもこれで終わりにしてはいけない。

 『彼』の――ジョーのためにも、終わらせてはいけないのだ。

 ゴトーは知っている。

 イヤと言うほどわかっている。

 ジョーの苦しみを理解できる立ち位置にいる。

 『彼』を魂の苦悩から救うことができる場所にいるはずだと、そう自負している。

 だが果たしてそれは、思い上がりの偽善でないと言い切れるのだろうか?

 そう問いかける声もまた、ゴトーの脳裏に響いていた。

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