第8幕 //第6話

 休みが明けて、翌日。

 前原学園では、今日から一週間に渡って三者面談が設定されていた。俺は初日の最後の時間だったから、面談まではアトリエで絵を描いて時間を潰した。


 希の絵は、暫く描いていない。

 受験の練習にと思っていたが、下書きを終えたところでそっとアトリエの隅にしまっている。今の俺の実力では、頭の中に描いた理想を描ききれないと思ったからだ。

 この絵は絶対、納得のいくものにしたい。卒業式に渡せたらな、とは考えているけど。


 代わりに、最近は受験の勉強を兼ねてひたすらデッサンの練習をしている。

 受験までは、残り約8ヶ月。学力試験の方は多分なんとかなる気はしているが、希の絵を描ききれないと思ったように、実技試験の自信は全くと言って良いほどない。

 一緒に試験を受けるのは、ずっと芸術に対してひたむきに頑張って来たやつらだ。俺みたいな急に芸大を目指し始めるやつなんてほとんどいないだろう。


 それでも、俺は受かりたい。受からなくちゃいけない。


 握り締めそうになった鉛筆を持ち直して、俺は描きかけの画用紙に向き直った。




 * * *




 俺らと向き合って座る担任は、「それで」と前置きしつつ、トレンドマークの黒縁眼鏡を押し上げた。


「紫村は、本当に中野芸大ここで良いんだな」

「はい」

 重みをつけた言い方につられ、神妙に頷く。

「お前の成績なら、今後の勉強次第では充分国立大を狙えるとも思うが……」

 眼鏡の奥の瞳がすっと細まる。その試されるような視線を断ち切るように、俺はゆっくりと首を横に振った。

「いや。俺は、中野芸大一本でいきます」


 緊張と覚悟とで、普段よりも張り詰めた声だった。

 でも栄は、そんな俺の答えに口の端を上げる。そしてただ一言、「そうか」と満足気に笑った。


「では、お母様から何かご質問やご意見はございますか」

「私からですか?……そうですねえ、」

 栄の突然のフリに動じる事なく、母さんはゆるやかに首を傾げた。

「私から玲央に対して、特にどうこうして欲しいって事はないのですが……。まあ、強いて言うなら」


 のんびり紡いでいた言葉を止めて、ちらりと俺を見やる。

 思わずゴクリと唾を飲むと、母さんはふふっと柔らかな笑みを浮かべた。


「この時代に芸大って道は、将来とか色々考えてしまうと、少し難しいのかもしれないけれど。玲央が自分で道を決めたのなら、やれるだけ、満足がいくまでやって見なさいね」

 そっと、膝の上で握った拳に柔らかな手のひらが重なる。

「私は、玲央がまた筆を取ってくれて嬉しいもの。貴方が絵を描く事に対して、家族に反対する人なんていないから、安心して頑張りなさい」

 予想よりも力強いエールに、今度は少し息が詰まった。


 母さんは栄に視線を戻す。

「栄先生には引き続きお世話になりますが、どうぞ玲央を宜しくお願い致します」

 深々と頭を下げるその姿は、俺より小さい筈なのに不思議と大きな安心感を与えてくれる気がした。

 

 芸大に受からなくちゃいけない理由が、また一つ増えた。

 けれどそれは両肩にかかる重責なんてものではなくて。自信のない俺の背中を、あたたかく押してくれる力だった。




 俺は一人、昇降口に向かった。


 面談は、わずか数分で終わった。受験に当たって、学力的にはそんなに問題がないだろうという理由が一つと、逆に実技試験については栄からどうこうしろと言うアドバイスができないという理由からだ。必要があれば相談にはのるが、技術面は高場先生に指導して貰うべきだろう、と栄は言った。

 まあ、至極真っ当だ。高場先生は、授業の準備と美術部の指導の合間に、ちょくちょく俺の絵を見にきてくれている。ただ趣味で描いてきた俺にとって、基本から教えてくれる高場先生の存在は本当にありがたい。「君は、君の見える物を好きに描きなさい」なんて言ってくれるけど、試験となればやっぱり基本的な知識と技術が見られるからな。


 靴箱でローファーに履き替える。すると、不意に屈んだ俺の足元に小さな影が落ちた。


「玲央くん?」

 優しげな声にパッと顔を上げると、目の前にはクロ亀くんを抱えた希が立っている。

「なんだ、希か。びっくりした」

「なんだ、はひどーい」

 軽く頬を膨らませて見せて、希はふふっと笑みをこぼす。可愛さとばったり出会えた嬉しさに、頰が緩んで仕方ない。頑張れ、表情筋。


 そんな俺の胸の内など知る由もなく、希は首を傾げた。

「もしかして、今日が三者面談だったの?」

「おう。希は?」

「わたしは明後日だったかなあ。丁度休館日だから」

「そっか。吉田さん、水曜日以外は写真館開けてるんだもんな」

「うん。まあ、そんなにお客さんは来ないけどねー」

「それはっ、」


 珍しく自嘲気味な言葉に、俺は慌てて打ち消す言葉を探す。だが、希の方が「そうそう」と話題を変えた。


「で、どうだったの?三者面談」

「どうって……まあ、普通だったよ」

「えー、それだけ?」

「それだけ、ってなあ」

 仕方がないから、希の話にのってやる。

「後はそうだな、思ってたよりも栄が応援してくれてる気はする。親にも反対されずに済んでるし」

 口に出して思う。改めて、ありがたい事だって。今更芸術をやりたいなんていう息子を、止めることなく応援してくれるんだから。


 希も、俺の言葉に大きく頷いた。

「お母さんは勿論だけど、なんだかんだ、栄先生って良い先生だよね。たまに適当だけど」

「いや、希。ちょっと違うぞ」

「え?どこが?」

 良い先生には違いないが、一つだけ訂正が必要だ。

「たまに、じゃない。基本が適当なんだ、あの人」


 顔を見合わせ、同時に吹き出す。

 こんな一瞬が、たまらなく愛おしい。


「希」

「うん?」

「俺、絶対受かるよ」

「うん。わたし、誰よりも応援してるね」

「ん、ありがとう」

 その一言で、どんなに元気が出るか、希は知っているのだろうか。いつか、ちゃんと伝えたい。希の言葉にどれだけ救われて、どれだけ励まされていたのかってことを。


 そのためにも、必ず受かってやる。


 今日何度目かも分からない決意を新たにして、俺は希に尋ねた。

「希は、結局志望大決めたのか?」

「うーん……。わたしは、まだちょっと、迷ってて」

「え?それは意外だな」

「そうかな」

「ああ。てっきり、写真専門のとこをずっと目指してるもんだと思ってたから」

 あんなに写真に対して情熱を傾けてきた希のことだ。俺なんかよりもとっくの昔から、自分の志望大を見つけているのだと思っていた。


「そんなに沢山、惹かれる大学があるのか?」

「んー、って言うよりね……」

 何かを考え込むように口を噤んで、希は俯く。

「ほら。写真専門ってよりも、手広くやれるのも良いかなあとか、あるじゃない?」


 歯切れの悪い答えに、違和感を覚えた。


「なあ、のぞ……」

「玲央、お待たせ。そろそろ夕飯の支度があるから帰るわよ」

 かけようとした声は、タイミング悪くお手洗いから戻ってきた母さんにかき消された。


「あっ、じゃあ私も、行くね。写真部に顔出そうと思ってたんだった」

 弾かれたように、希が顔をあげる。

「玲央くん、またね!」

「あ、ああ。また明日」

 言い終わらないうちに、希は踵を返した。


 少し湿ったぬるい風が、さわさわと頬を撫でていく。

 小走りに駆けていく華奢な背中を見ながら、俺は違和感を拭えずにいた。



(第8幕 終)

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