第9幕『Rainy season, I lost ...』
第9幕 //第1話
穏やかな眠りからふと目を覚ましてみると、非情にも、右手で握り締めた携帯の画面には8:00ちょうどの文字――家を出るはずの時間が表示されていた。
やっべ、完全に寝坊した!
慌てて跳ね起き、寝間着を無造作に脱ぎ捨てる。寝間着と言っても、すっかり襟のくたびれたTシャツと、ステテコみたいな薄い短パンだ。大型量販店で、大抵千円以下で売り出されているよーなやつ。
つま先に引っかかる短パンを払いつつ、椅子の背もたれにかけていた制服のシャツを羽織る。制服は、少し前に夏服に替わった。
「ちょっと、おにーちゃん?」
焦っている時に限って留まらないシャツのボタンと格闘していたら、コンコンというノックの音とともに、
「時間、大丈夫なの?」
「あー、うん、大分やばい」
よっしゃ、やっと留まった。後はベルトを締めて靴下履いて、鞄の中身を入れ替えて、と。
「おかーさんが心配してたよ?」
「悪い玲奈、母さんにはもう出るって言っといて」
「ええー、それくらい自分で言えばいいじゃん」
「悪い、頼む」
「ええー?」
不機嫌そうな声とは裏腹に、足音はリビングへと遠ざかっていく。その律義なリズムを聞きながら、俺は身支度を済ませた。
ベッドの上にある目覚まし時計は、嫌みな程にしんと黙りこくっている。きっと今朝も鳴ってはいたんだろうけど、俺はワンフレーズもアラーム音を聞いた覚えはないし、止めた記憶もない。いやまあ、確実に俺がやらかしたんだろうけどさ。
けれどその澄ました姿が癪に触って、俺は部屋を出るときに軽く顰め面をくれてやった。
***
前原の梅雨は長い。
6月中旬には重たい雨雲がやってきて、軽く1ヶ月はどんよりと街の上に鎮座している。
都会の方では梅雨の雨はしとしと、なんて表現するらしいが、こっちの雨はそんなに可愛らしいものじゃない。ぽつぽつ、から始まってざーざー音になったかと思えば、最悪街一体シャワーでも浴びているかのようなどしゃぶりになる。
梅雨が明けたら明けたで今度は台風がやって来るわけだし、雨が多い地域なんだろう。俺も含めて、みんな多少雨が強くても動揺しないしな。
が、やっぱりこう毎日じめっとした空気だと、やっぱり教室の雰囲気も良くはない。
部活動を引退して燃え尽きた一定多数の連中と、特に進学クラスでは中間テストと校内模試の結果が返されたことによって、重たい空気が漂っている。
それは、基本的にテンションの高い瑠花も例外ではなかった。
人の机一面にノートとテスト用紙を広げて、「もう無理」だとか「しんどい」とか、ネガティブ全開の様子だ。
「ねぇ玲央~、これぜんっぜん分かんないんだけどぉ~」
「なに、どの問題?」
「ここら辺全部に決まってんじゃん~」
「いや、全部って」
覗き込んだ瑠花の手元には、容赦なくはねられた数学のテスト用紙。開いたノートには苦し紛れに三行ほどの計算過程が書いてあるが、それ以外は悲しいほどに真っ白だ。
――うん、確かに全部だな。
何も言えずにいる俺に、瑠花は盛大な溜息を吐いた。
「だから言ったじゃん、全部って」
も~と嘆きながら、そのまま机に突っ伏す。真っ白なノートの上に、伸ばしているらしいブラウンの巻き髪が広がった。
「なんっで数学なんてあるんだろ、難しすぎじゃない~?」
「まあな。でも瑠花って、別にセンター試験とか要らなかったはずだろ?」
瑠花は美容とか服飾の学校を受ける予定だと聞いた。確か、専門学校の試験と面接があるのみで、所謂センター試験なんて一般的なものは関係なかったはずなんだが。
瑠花は俺の問いに、もう一度大きな溜息を吐いた。
「試験はないけどぉ、学校のテストで赤点とか取っちゃうと内心にめちゃめちゃ響くって言われたんだもん。そぉじゃなきゃやらないし~」
――確かにその赤ハネばかりのテストだと、もろ赤点だもんな。
憐みのまなざしが伝わったのかは分からないが、ばっちりと化粧をした瞳は、俺を恨めし気に見上げた。
「玲央はいいよねぇ」
「何が」
「受験の悩みとかなさそうじゃん。けっこー順調なんでしょぉ?」
「いや、それは」
そんな風に見えているのだろうか。瑠花にそう言われると、何故かすごい能天気なやつって気がするんだが。
「ね~どーなのよぉ~」
「あー……うん、まあ」
瑠花の言った通り、以前より順調なのは確かだ。テストもとい学力の面では、中野芸大の求めるレベルを何とかクリアできそうだし。不安のある実技の方も、最近は高場先生に「良くなってきた」と言われる事が増えた。半年と少し先の受験日に向けて、まずまずの状況だと思う。
だからと言って、悩まないわけじゃないけどな?俺だって、瑠花ほどじゃないかもしれないが、それなりに……――
「玲央くんも、それなりに悩みはあるもんね?」
「なっ」
内心で呟いたはずの言葉が、ふいに頭上から降ってきた。
驚いて首を捻れば、ああ、やっぱり。希だよな。
「そう、でしょ?」
首を傾げた拍子に、少し伸びた黒髪が真っ白な夏服の上を滑る。じめっとした梅雨でも、変わらない眩しい笑顔だった。何を言っているんだろうな、俺。
たまらず視線を逸らそうとすると、先に希が瑠花の方に目をやった。
「瑠花ちゃん、今やってるのって数学?」
「うん。ぜんっぜん分かんないけどねぇ〜」
「あのね、私も、今回のテストあんまり良くなかったの。良かったら、一緒に先生のとこ行ってみない?」
「え、まじ!?」
希の提案に、瑠花はパッと身体を起こした。
「それ、めっちゃくちゃ助かる!」
「じゃあ、放課後寄って帰ろっか」
「うん!行く!」
さっきまでの落ち込み具合なんて何処へやら、瑠花のテンションは思っ切り上がっている。まあ、良いんだけど。それは良いんだけどさ。
「希、まじで、ホントに感謝〜」
「どういたしまして。それじゃ、そろそろ席戻るね」
希がそう笑顔で答えると、狙い澄ましたかのように4限目のチャイムが鳴った。
「……瑠花。良かったな」
「うん。まじで、希は最高」
滲ませた俺の羨ましさには気づかず、瑠花は席へと戻る希の後ろ姿に、そっと手を合わせる。
別に、数学の質問をしについて行きたいとかではないし。一緒に職員室、っていうのが羨ましいシチュエーションなわけでもないし。
放課後とは言え、今日も俺がある程度実技の練習を終えた頃合いで、一緒に帰ろうってなるんだろうけどさ(多分な)。
ただ、希と二人でいる時間がどんなものであれ、良いなあなんて思ってしまうのは……――そろそろ、限界なんだろうか。
この気持ちを、抱えたままでいる事が。
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