第7幕 //第8話

「も、もご、もごご……(瑠花、とりあえずこの手を外してくれないか)」

「ちょっ、黙れっ!」

 今までに見た事ない程鋭角に吊り上がった瞳に睨まれ、仕方なく口を閉ざす。いやまあ、物理的にはすでに閉じられてるんだけども。

 なので、俺も負けじと目で訴えかけてみた。どうだ、俺の予想は当たってんだろ、とでも言わんばかりに。


「玲央、あんたねぇ……!」

 やべ、益々怒らせた。めっちゃ怖い。

 俺が言った通りの気持ち――大樹への恋心なわけだが――と、それを指摘された怒りとで真っ赤に染まった顔が、殊更に怖い。


 つう、と一筋の汗が背中を伝う。


 結構、本気で命の危機を感じてきた。おかしいよな。ついさっきバレンタインを貰った相手の筈だぞ?もしかしなくても、大樹のことが好きだなんて、察さないでおく方がよかったんじゃないか?


 巻き戻しの効かない時間を恨めしく思ったところで、俺の生死を左右する彼女はふっと口を塞いでいた手を緩めた。

「もぉ、馬鹿ぁ……」

 そして、崩れ落ちるように俺の机に突っ伏す。表情は見えないが、辛うじてその背中が震えているのが分かった。


 え?震えてんの?

 ちょっと待てよ。俺はこの状況下で、一体どうするのが正解なんだ?


「ええと、その、瑠花?」

「……何よぉ」

 恐る恐る声をかけると、突っ伏した姿勢のまま、か細い声が返って来る。普段とは打って変わって弱々しい瑠花の様子に、今度は違う意味で冷や汗が止まらない。


 これ、マジでやっちゃった感じだよな。え?俺、瑠花を泣かせた?てか、そもそも俺が悪いんだっけか?


 一旦落ち着こう。そしてとりあえず、好奇心丸出しの周りのクラスメイトから受ける二次災害の防止と、各人への弁明を早急に考え――うん、やっぱ弁明は止めとくか。希はともかく、大樹に事の弁明でもしようものなら、今度こそ瑠花に殺されかねない。即座にこの場を収めるのが一番マシそうだ。


 俺はそっと、瑠花の耳元に唇を寄せた。そのまま、彼女にしか聞こえない声で囁く。

「瑠花」

 これ以上刺激しないように、慎重に慎重に言葉を選んで。

「俺は、その……別に揶揄うつもりもないし、他人ひとに言うつもりもないから。それだけは信じてくれ」

「……」

「瑠花だって、今、ここで注目を集めるのは不本意だろ?大樹だってもう直ぐ戻ってくるだろうし」

 大樹、という言葉にピクリと肩が動いた。


 よし。の連発は瑠花には可哀想だが、仕方ない。これは二次災害の防止に繋がるんだから。

 二次災害とは、クラスメイトに瑠花の気持ちがバレることだけじゃない。傍目に見れば瑠花を泣かせたという、つまるところ俺が加害者っぽく扱われることも含まれる。それだけは、絶対に避けなければ。悪いが、俺は保身を選ばせて貰う……!


「瑠花」

 なるべく、優し気に声をかける。

「大樹にまだ知られたくない気持ちだったら、一度落ち着くために場所を変えないか?その方が、後で大樹にチョコレートを渡す時だって――」

「!」

 最後まで言い終わらないうちに、瑠花が椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。ただ、俯いたままでどんな表情かおをしているのかは分からない。


「ええと、瑠花?」

「あたし、図書室で自習してくる」

 不自然な程に硬い声は、俺への怒りなのか、緊張なのか、他の何かなのかまるで検討もつかない。まあ一番あり得るのは怒りだろうな。大樹大樹と連呼し過ぎたから。

「瑠花、俺、」

「――大丈夫だから」

 言い募ろうとした言葉は、バッサリと切り捨てられる。ぎゅっと握り締められた絆創膏だらけの両拳を見てしまっては、罪悪感に苛まれて、もう何も言えなかった。


「分かった。えーと、じゃあ、俺は行くな」

 ただ、それだけを伝えて身を翻す。すると、「待って」と鋭い声が飛んだ。振り返れば、涙に揺れる切れ長の瞳が、真っ直ぐに俺を見つめていた。

「玲央」

 名前を呼ぶ声は、瞳とは対照的に微塵の揺らぎもない。

「あたし、頑張りたいから。お願い。絶対絶対、大樹には言わないで」


 畜生。格好良すぎかよ、お前。


「分かった」

 不意打ちの指摘に加え保身のためのまで使っておいて、裏切る真似なんて出来るわけがない。いつも底抜けに明るくて強くって、ここでも「頑張りたい」って言える瑠花に、俺はこれ以上野暮なことは言えねえよ。

「絶対言わねーよ。それは約束する」

「うん、ありがと」

 俺の請け合いに漸く微笑んで、瑠花は立ち去った。


 その後ろ姿を見ながら、全力でエールを送る。そうして願わくば、二人には幸せな決着が待っていて欲しいと思った。

 俺にとっては大樹も瑠花も、かけがえのない大事な友人に違いはないから。

 



 ***




 キーンコーンカーンコーン

 授業の終わりを告げるチャイム音に、俺はキャンパスの中から現実へと引き戻された。


 握っていた絵筆を置き、両手を組んでぐっと背中を伸ばす。一時間と言えど、同じ姿勢でいるとやっぱり身体のあちこちが凝るらしい。暫くキャンパスを使っていなかったから尚更だ。特に右腕と右肩。冗談抜きで、後数時間続けたら筋肉痛になりそう。

 背中をある程度伸ばし終えたら、今度は絵の具のついていない左手で、目頭と鼻の付け根の間にある窪みを押す。目の奥にじんと広がる心地良さに、思わず「ああ」と声が漏れた。

 

 そうして全身をほぐしてから、俺は改めてキャンパスに目を向ける。

 受験に向けた練習で、初めて描く題材は希にしようと決めていた。俺が再び絵を描くきっかけをくれたのも、背中を押してくれたのも希だから。最初の絵は、感謝を込めて描きたかった。希には秘密だ。一番最初に描いたのがお前だなんて、小っ恥ずかしくてとても言えたもんじゃない。

 と言っても、描きかけのキャンパスには、コンテで引いた薄い下書き線と一番下地となる淡い肌色がのせてあるだけだ。理想とする完成までは、勿論程遠い。これから、色を重ねて乾かしてを繰り返していく。



「玲央くん、ここに居たの?」

 静かな部屋に、急に可愛らしい声が響いた。声の主は、教室の入り口からひょっこりと顔を覗かせている。

「ああ、希か。びっくりした」

 内心はびっくりしたどころじゃない。危うく叫ぶところだった。

「もう、体育は終わったのか?」

 タイムリーな本人の登場に早鐘を打つ心臓をなだめつつ、俺はあくまで平静を装う。だが、希は俺の質問に呆れ顔をくれた。

「当たり前でしょ。 とっくにチャイム鳴ったよ?」

「ん? そりゃそうか、そうだな」

 だめだこれ。全然平静を装えてないぞ、俺。


「もー」

 希はそんな俺の不自然さは気にも止めず、唇を尖らせる。

「今度はちゃんと一緒に走ろうね? これからは描く機会が増えるんだし、身体鈍っちゃうよ?」

「え? ああ」

 なんだ、そんな事か。「何描いてるの」なんて聞かれたらどうしようかと焦ったじゃねーか。


 俺はそっとキャンパスを外し、俺専用の画材入れにしまい込む。ここに入れてしまえば、誰にも見つかる心配はない。ついでに他の画材も片付けとくか。どうせ希がいる間は、描くものも描けないんだから。


「もう! 玲央くん、ちゃんと聞いてる?」

「あー、うん。聞いてる」

「絶対聞いてないでしょ!」

 片付けで曖昧になった返事に、希は頬を膨らませた。

「あのね、マラソンは確かに面倒かもしれないけど、走ってないと身体って鈍るんだよ! 唯一の運動だったサッカーもしてない玲央くんとか、すぐに鈍っちゃうんだからね!」

「なっ、!」

 サッカーはしてるぞ、と反駁しかけた言葉をぐっと飲み込む。卓たちとのサッカーは、俺らだけの秘密だ。というか、小学生相手に思いっ切り楽しんでいる姿を見られるのは、ちょっと恥ずかしい所もある。


 ――と、ちょっと待て。今日って、木曜日じゃなかったか。


 慌てて携帯を見ると、ああやっぱり。二月十四日、木曜日。

「希。俺、ちょっと用事あるから帰るわ!」

「え?」

 木曜は、卓たちが公園で集まってサッカーをする日だ。都合がつく日は、俺も極力参加するようにしている。小学生相手とはいえ、男同士の約束は守らなきゃだからな。


 最低限の片付けと戸締りを終えて、俺は足元に置きっぱなしにしていた鞄をひっ摑んだ。

「ちょっ、玲央くん!」

「折角呼びに来てくれたのにわりーな。話の続きは、また明日な!」

 すれ違いざま、申し訳程度にぽん、と頭を叩く。自分でした行為に顔が赤くなる前に、俺は脱兎のごとく駆け出した。

 


「ってちょっと玲央くん!」

 頭に置かれた手の感触からハッと我に返って叫んだところで、既に玲央の姿は見えなくなっていた。

 教室の前に一人残された希は、はあと大きな溜息を吐く。


「もー。チョコレートを渡しに来ただけなのに、わたしったら何をやってるんだろう……」


 その呟きは、誰もいない廊下に静かに溶けていく。

 帰り際に触れた手の温かさだけが、不思議といつまでも残っていた。



(第7幕 終)

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