第7幕 //第7話

 高場先生は、俺が三つの条件さえ守ればアトリエ1教室を自由に使っていいと言ってくれた。

 三つの条件というのは、一つ目が画材は極力自分で準備する事、二つ目が他の部活動生の下校時刻にはきちんと帰る事、そして三つ目は換気と戸締りに気をつける事であった。条件といっても、当たり前の事ばかり。むしろ、これだけで自由に教室を使わせて貰えるというのが凄い。

 美術の授業は美術室で行われるし、美術部も隣のアトリエ2教室を使うことがほとんどらしい。つまり、先生を除けばこの教室は基本的に貸し切りということ。その高場先生は、時間が空いた時に専門的な事を教えてくれるとも約束してくれた。


 初っ端から待遇がぶっ飛び過ぎている。

 前世で徳を積んだ記憶は勿論ない。今世でも、特にない(と思う)。なのに、こんなに恵まれてていいんだろうか。受験の時に大転落、なんてのはお断りだぞ。



 そんなわけで、俺は早く描きたくてうずうずしていた。

 画材は学園祭の時に調達したものが残っていて、キャンパスは家にしまい込んでいた物を持って来た。一人になれる教室もある。

 あと必要なのは、絵を描く時間だけ。――好機は、翌日。本来ならば体育の時間にやって来た。




 ***




 体育の前の休み時間。授業連絡の係が、着替え前で慌ただしい教室に戻ってくるや否やこう言った。

「ごめん皆、今日の体育、先生の都合で自習だって!予定だったマラソンをしてもいいし、教室で自習でも良いってさ!」


 聞いた途端、内心でガッツポーズが出た。

 マラソン?自習?そんな事より、俺は描きに行くぞ。むしろ、描くことがある意味自主学習に繋がるし。


「うし、じゃあ男子は軽く走って、サッカーかなんかやるか?」

「お!良いじゃん、さっすが大樹!」

「大樹、俺もやる!」

「オッケー。じゃー俺、ボール借りてくるわ!」


 うっわ、やべえ。今日ばかりは、大樹の人望に巻き込まれたくない。ボールを借りに出たあいつが戻ってくる前に、さっさと移動しよっと。

 身を縮めてそそくさと教室を後にしようとすると、背後から声がかかった。

「あれぇ? もしかして、玲央も体育サボりぃ?」


 ――おい。それは目敏いぞ、瑠花。


 面倒な奴に捕まった、と思わず顔を顰めると、瑠花はにっと目を細める。

「実はあたしもサボろっかなぁって思ってたんだよねぇ〜。寒い中マラソンなんてどぉ考えてもめんどいしぃ。それなら最初っからテスト勉強でもした方がマシじゃんね?」

「まあ、そうだな……」


 テスト勉強を気にし始めるようになったんだな、お前。凄く偉いぞ。だが悪い。今は勉強を見ている暇はない。俺はマラソンも自習も放って、絵を描きに行くんだから。


「希も他の子と走ってくるって。希も大樹も偉いよねぇ〜」

 俺の内心など知る由もなく、瑠花はのんびりと話す。そして、間を持て余すように、くるくると金に近い髪を指に巻きつけた。――と、髪から見え隠れする指に、またも絆創膏が貼ってあるのが目に留まる。しかも、親指人差し指薬指、の三本共に。


「玲央ぉ?」

「なあ瑠花。お前、学園祭の前も絆創膏してたよな。なんか怪我でもしてんのか?」

 手入れされた色白の指には余りにも不似合な絆創膏それに、思わず俺は尋ねていた。質問している時間なんて無かった筈なんだけどな。

「あー、これぇ?」

 両手を広げて、瑠花はへへっと照れたように笑う。

「これねぇ、お菓子作るといっつも怪我するんだよねぇ、あたし」

「お菓子?」

 突然飛び出たワードに、眉根を寄せる。「そぉそぉ」と瑠花は頷いて、キーホルダーを沢山つけた鞄から何かを取り出した。


「はい。これ、玲央にブレゼントぉ」

 渡されたのは、ピンク色の包み紙。両手の平に収まるそれは、大きさの割にずっしりと重い。思いがけないプレゼントに驚いていると、瑠花は再び髪をいじり始める。

「本当は放課後に渡そうかと思ってたんだけど。これ、バレンタインのチョコケーキ。玲央にはいつもお世話になってるし」


 ああ――忘れていたが、そういえば今日はバレンタインか。言われてみれば、朝から教室が浮き足立っていた気がしないでもない。家でも、昨日の夜から妹がバタバタ慌てていたような。が、全然気にも留めていなかった。

 俺はどうやら絵のことで頭がいっぱいで、健全な男子高校生がそわそわする日さえ忘れていたみたいだな。


 まあ、思い出したところで、悲しい事に余り関係はないんだが……。

 一番気になる相手の顔が浮かんで、慌てて打ち消す。あいつが、もし誰かにチョコレートを渡すなんて事は考えたくもないからな。

 

「玲央ぉ?どぉかした?」 

「ああ、いや、何でもない。さんきゅーな、瑠花」

「うん!」

「というか、つまり瑠花はあんなに前からバレンタインの練習してたのか?」

「や、違うの。本当は学園祭とか、クリスマスとかにも、大樹と玲央に何か作ってこようとは思ってたんだけどぉ。あたし、自分で思ってたより不器用でさぁ。結局、食べて貰えるレベルになったのが、つい最近なんだよねぇ」

 へへへ、と瑠花はまた照れた笑いを零す。俺はその溶けた顔を見ながら、言われた事を反芻した。


 ええと、何だって?

 どうやら今まで見てきた絆創膏は、お菓子づくりの練習でできた怪我のためで?今まで学園祭、クリスマスとお菓子を渡す為にひっそり練習を積み重ねていて?漸くバレンタイン間際になって、人に渡せるレベルになったと。以前作ってたお菓子が一体どんなクオリティなのかは、聞くと怖いから止めよう。

 とにかく、並々ならぬ努力があったわけだ。このチョコケーキには。


「あとぉ、玲央にちょっとお願いがあってぇ」

 反芻で遠い目になっているであろう俺ではなく、周りをチラチラと気にしながら、瑠花は声を潜めた。

「今から、これ、大樹にも渡すんだけどさぁ……。その、色々失敗して、ね? 大樹に渡すやつ、玲央のと中身が違うんだよねぇ。だから、えぇと」

「大樹には見せない方がいいってこと?」

 何となく言わんとするところを察して尋ねると、「うん、そぉ!」と瑠花は大きく頷いた。

「さっすが玲央! 面倒かもだけどさぁ、味は多分大丈夫だから、家で食べて欲しいな」

「分かった分かった。多分、ってのが若干怖いけどな」

「あぁっ、もぉ! すーぐそぉやって足取るんだからぁ」

「揚げ足、な」

 即座に間違いを訂正しつつ、俺はふと疑問を口に出した。

「あとさ、瑠花。一ついいか」

「んー?」


 学園祭前から今日まで散々練習してきて、そんなに色々失敗するもんなのだろうかとか。俺に渡されたピンク色の包み紙から覗くケーキは綺麗で美味そうな出来上がりになっているのに、大樹のに限って失敗するのだろうかとか。そもそも、学園祭とかクリスマスにお菓子を渡したかったのは何故かとか。

 反芻を終えた俺の中に浮かび上がる疑問はいくつかあるにはあるんだが、

「瑠花ってもしかして、」

 


「――大樹が好きなのか」


「ばっっっっっ!!!!」

 その言葉を口にした途端、俺より低いところにある切れ長の瞳が大きく見開かれたと思うと、すごい勢いで口を塞がれた。

「あっ、あんたねぇっ、いきなり何っ、」

 唇を震わせて、瑠花が声を絞り出す。その紅色よりも更に濃くなった頬が、俺の考えが間違いじゃないことを裏付けていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る