第7幕 //第6話

 二、三度ノックを繰り返すと、教室内から「はい」と若い男性の声が聞こえた。緊張が背筋を走る。


「あの、俺、二年の紫村と言います。高場先生にお話があって――」

 職員室を訪ねる時のような、形式的な文言が口をついて出た。が、いざとなると何の話から始めればいいのか、全く考えていないことに気がつく。ええとまずアレだろ。まずは成冨武さんの事を話して、それから中野芸大含めた芸術大学への進学を視野に入れてるって事を話して、それで……――


 慌てて話すことを考えていると、目の前の扉がガチャリと音を立てて開く。内開きだったのが幸いで、顔面に一発、なんていう間抜けな事態は免れた。


「君が、紫村玲央くん、ですね?」

 扉の向こうから現れたのは、長身痩躯の若い男性。少し低めの、柔らかな声が特徴的な人だ。

「初めまして、僕が美術担当の高場浩大です。倉持さんから話は聞いています。どうぞ、入って下さい」

 そう言って、男性――高場浩大先生は教室の中を示す。

「ええと、」

「さ、遠慮は要りません。先程まで作業をしていた関係で散らかっていますが、隅の作業台が空いているのでそちらで話しましょう。ああ、少し待っていて下さい。コーヒーを淹れますから」

 いかにも善良そうな笑顔には頷くしかない。言われるがまま、俺は室内へと足を踏み入れた。確かに部屋の中は雑多な様子ではあったが、油絵の具の独特の匂いがした。



 作業台の側にあった椅子に腰掛けて数分としないうちに、高場先生は二つカップを持って戻ってきた。

「お口に合うかは分かりませんが。熱いうちにどうぞ」

「ありがとうございます……」

 鼻腔を満たす香りに、思わずほうと一息。油絵や絵の具特有の、石油に似た匂いの中にいても、コーヒーは変らず落ち着くものだ。手渡された濃緑のマグカップは所々凹凸と色ムラがあって、既製品にない味わいがある。手作りのものだという事は、一目で分かった。


「さて、それで」

 ゆっくりと一口目を飲んでから、先生が口を開く。

「紫村くんは、成冨先生の事を知りたいとか?」

「え、」


 あれ。もうそこまで話が通っているのか。倉持は「芸術大学に興味がある生徒がいると伝えておいた」と話していたから、てっきり進路相談に来た生徒的な扱いかと思っていた。


「おや、違いましたか」

「あ、いえ。そうです、成冨武さんについてお伺いしようと思って」

 伝わっているなら、話は早い。

「高場先生は、成冨さんの元で学んだ経験があると聞いたんですが」

「ええ、そうですよ」

 ことり、とマグカップを作業台の上に置いて、先生は俺に向き直る。

「少し長くなりますが。折角なので、成冨先生との出会いから話しましょうか」



 成冨さんと高場先生との出会いは、高場先生の大学時代に遡るらしい。

 当時教育系の大学で美術教諭の教職課程を受講していた先生は、とある講義で、非常勤講師として招かれていた成冨さんの教えを受ける事になった。既に画家として名の知られていた成冨さんとの出会いに、先生は少なからず興奮した。

「現代アートの一端を担うとまで言われていた先生です。それはそれは、学生の僕も心踊りましたよ。これからの日本美術を支える人に教えを請う事ができるんだってね。しかし、――」


 成冨さんは、決して派手で個性的な絵を描くタイプの人ではなかった。モダンや象徴的絵画とは違って、どちらかというと写実主義のような、ありのままの世界を絵にする人だった。


「その頃の僕は、単なる模写と言いますか、現実を掠め取った絵はつまらないと思っていたんです。これからは、もっとインパクトがあって、見る人をあっと言わせるような絵が描けなくてはならないと。今となっては、本当に恥ずかしい話です」

 そんな僕の気持ちが分かっていたのでしょうね、と高場先生は苦笑する。

「ある時成冨先生が、僕の前に果物の籠を置いて、こう仰いました。「今から、ちょっとこの果物を描いてみろ。模写とは言わないが、君の瞳に映るありのままの姿でな」とね。だから描きましたよ。静物画は得意ではありませんでしたが、それでもある程度の水準のものは描けるつもりでした。そもそも、水準なんて思っている時点で違ったのでしょうが……」

「何と、言われたのですか」


 はあ、と肩を落とす高場先生に、尋ねずにはいられなかった。俺の言葉に、先生は細い肩をすくめる。


「こっぴどく叱られましたよ。「お前は、この絵で何を出したかったんだ?」と、そりゃあもう怖い顔で」

「はあ」

「僕も若かったので、「静物画は不得意ですみません、でもありのままを描いたつもりです」と答えました。今考えると、命知らずなものです。そうすると、成冨先生は答えたのです。「ありのままと言うが、お前の色は、こんなもんなのか? お前の瞳に映っている世界には、たったこれっぽっちの色しかないのか? 表面上の色合いだけではない。この果物を大切に育てた人、収穫前に受けた太陽の色、そういう果物たちのドラマも含めて、お前はありのままを描けたのか?」とね」


 目から鱗でしたよ、と高場先生は呟く。俺も、驚きのあまり言葉を失った。

 そうして、俺が中学生の頃に見た、『あしたへ』の絵のことを思う。夜の街並みにいる、人々や猫のそれぞれの営みを切り取った絵。あの絵にも、成冨さんは込めていたのだろう。一人一人が持っている、派手ではない、けれど確かなドラマを。

 

 胸の奥が、じんと熱くなる。つい最近灯されたばかりの小さな炎に薪がくべられ、また一つ大きくなったような、そんな感覚だった。

 

「どうです、紫村くん。君さえよければ、僕は中野芸術大学への合格に向けてサポートを惜しみません。君なら成冨先生の元で、もっともっと、沢山の素晴らしい絵を描けると思います」

 そう言って、高場先生は微笑む。――この厚意に、応えたいと思った。そして、描きたい。俺の瞳に映る、大切な人々のドラマを。


 返事は既に決まっていた。


「高場先生」

「はい」

「まだまだ未熟者ですが、頑張ります。ぜひ、ご指導よろしくお願いします」

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