第6幕 //第9話

 目をやったその瞬間。

 その一瞬で、あ、と身体全身が強張るのが分かった。振り向いた格好そのまま、俺はただ目だけを見開いた。これがもし漫画の一コマだったなら、俺の背景には“!?”とか“ギクッ”とか“……ッ!”とか、その類の擬態語が付けられていたんだろう。


 そんなことはどうでもいい。


 そんなことより、問題はここになんであいつらが––––素っ頓狂なダミ声を響かせて我が物顔で廊下を歩く、世良たちが来ているのかってことだ。世良と堺、そして金髪ジャージの、確か本田って名前のやつ。ついこの間、福丘の美術館からの帰りに会ったばかりだから記憶に新しい。耳にこびり付く声、罵声、背筋が粟立つ薄ら笑い。どこを取っても不快感しかないあいつらが、何でうちの学園祭にいるんだ。


 背中に一筋、つつ、と汗が伝った。嫌な予感しかしない。


 あいつらに限って、偶々学園祭に足を運んだなんてあるわけがない。前原は都心である福丘からは遠いし、学園祭なんて人が多いばかりであいつらの好む場所でも時間帯でもない。

 じゃあ、何故わざわざやって来たか?

 考えられるのは、最悪の理由だ。目当ては多分俺。他に世良たちの気に触るやつがいるなら別だが、俺の知る限りでは俺以上にって噂されてる生徒はいなかった筈だ。だから多分俺。

 確かこの間会った時、本田ってやつが俺が前原にいることをバラしたから、対外に開かれる学園祭に乗じて俺を嘲笑なり報復なりしにきた、そんなところか?もしそうなら大分マズい。


 世良たちとの距離は、約三クラス分だ。人混みで足は遅いが、もうじきこのクラスの前に辿り着く。



 薄手の黒い浴衣に、じわりと嫌な汗が染み込んだ。廊下の喧騒は耳を擦り抜けて、代わりに俺の中には段々と速まる鼓動だけが響く。



「玲央、くん……」

 隣に座る希が、俺の浴衣の袖をぎゅっと握りしめた。その黒く丸い瞳は、世良たちの方を見つめたまま不安気な色を湛えている。さっきまで隣ではしゃいでいた、楽しそうな笑顔はどこにもない。


 しっかりしろ、俺。俺が、世良たちを何とかしなくちゃいけないんだ。


「玲央くん、あの人たちって……」

「ああ、この前会った––––希に話した奴らだよ」

「……っ」

 袖を握りしめる手が、微かに震える。その小さな手の甲に、俺はそっと右手を重ねた。


 大丈夫、希が前言ってくれた通り、大丈夫だ。大丈夫にする。絶対、俺が何とかするから。



 三クラス、二クラス、一クラスと世良たちとの距離が縮む。一際大きくなった世良のダミ声が、その存在の現実味を嫌でも感じさせた。

「何で前原に……」

「さあな。とりあえず俺目当てじゃないと有難いんだけど」

 希の呟きに努めて平静を装いながら、内心では「まあ十中八九俺だな」なんて付け加える。十中八九が外れて残りの一割、俺目当てじゃなかったら本当に有難いんだが––––残念なことに、世良に嘲笑されるのも報復されるのも十分に心当たりはある。



 最後の一クラス、つまりは隣のクラス前を通り過ぎ、世良たち三人は俺のクラスに差し掛かった。それと同時に、じろじろと辺りを見回していた本田と目が合う。あ、やべぇ。絶対バレる。

 今日もだらしなくジャージを着て金髪を立てている本田は、俺と目が合った瞬間目を眇めた。口の端を少し上げ、世良の脇を肘で突く。


「おい、世良、あいついたぜ」

「ア"ァ?どこに」

「ほら、そこ」

 顎で示された先、受付に座る俺の姿を、世良の濁った瞳が捉えた。見る見る内広がる薄ら笑い、細まった両の目に––––ゾクリ、と肌が粟立つ。

 固まったまま目を離せずにいる俺に、世良たちは一歩近付いた。


「あっれェ?まさか紫村じゃねェ?」


 ついこの間聞いたばかりのダミ声が、真上から振り下ろされた。その耳障りな疳高い音に、希の肩がビクンと跳ねるのが分かった。


「てめェみたいなヤツが、なーに呑気に座ってんのォ?」

 更に一歩歩み寄って、世良は俺の目を覗き込む。濁った黒茶の瞳には、強張った俺の表情が映り込んでいた。

「なァお前ら、紫村がこんなとこいんの、意味分かんねぇよなァ!?」

 振り向いて、堺と本田に同意を求める。世良の言葉に賛同するように、二人は鼻で嗤う素振りを見せた。見下ろす姿勢で目を眇めて、まるでこの場に在る俺という存在を侮辱した嗤い方。世良は満足そうに頷いて––––再び俺の顔を覗き込む。

「だってさァ紫村。お前、何やってんのォ?」

「……ッ、」


 乾いた唇に言葉がのらない。微に漏れ出た吐息に、世良が顔を顰めた。


「ア"ァ?なんだァ!?」


 圧迫される。威圧される。

 だが、怯むな俺。俺が何とかしなくちゃいけないんだ。たかが、たかが世良に負けてられるか。


「……ッ、学園祭、やってるんです」

「っ、はァア"!?」

 一際大きくなったダミ声に、思わず俺も顔を顰めた。世良は右拳を固め、飛び掛ろうとして––––堺に肩を掴まれる。

「おい、てめェ!」

 噛み付かんばかりの世良に肩を竦めながら、堺は俺に冷ややかな目を向けた。

「なに、お前、まさか友達ごっこしてんの?」

「友達、ごっこでは……」

「いやそうだろ?」

 俺の言葉を遮り、堺は掠れた声で嘲笑する。

「暴力少年が、何クラスに溶け込もうとしてんだよ」


 言い返す前に、頭が真っ白になった。


「お前さァ、自分が何した奴か分かってんの?殴ったんだろ?俺たちのこと」

 冷ややかに、ゆっくりと、堺は俺に突きつけた。過去は過去、今の俺は今の俺––––そう言い聞かせても納得しても、決して塗り替えられる訳では無かった現実。否定の出来ない俺の過去が、じわじわと身体の芯からせり上がってくる。

 


「ねぇ、やっぱりあの人ってさ……」

「アレでしょ、確かって言われてる」

「まぁ、そんな生徒がいるのかしら?」

「え、何、どういうこと?」


 周りに出来た人集りから、不穏な声が聞こえ始める。世良が黙った所為もあって、堺の声は廊下に響いていた。奴らに煽られて、忘れられようとしていた噂が呼び起こされたのか。それとも、新しくレッテルが貼られようとしているのか。


 ––––––どっちだって同じだ。俺はまた、になって、一人になる。


「え、じゃあクラスの子達もそうなのかしら?」

「どうだろ、紫村ってやつに従ってるだけなんじゃね?」


 ––––––でも、今の俺は、どうやったって希や大樹や片瀬を巻き込んでしまう。


 こうなるくらいなら、最初から一人を選んでおけば良かったのか?いや、それは違うと教えられた。

 じゃあ、俺はどうすればいい?俺自身と、希や大樹や片瀬みんなを守るには、一体どうしたらいい?



「残念だったなァ、紫村ァ!」

 周りのざわめきに、勝ち誇ったような世良の嗤いがのった。世良はそのまま、目の前に積まれたビラを薙ぎ払う。勢いよく振られた右腕に為す術はなく、ビラは呆気なく宙に舞った。


 ––––––やめろ。


「てめェはいつになってものまんまなんだよォ!!」

 足元に舞い落ちたビラを、靴底で踏み潰す。忌々しげに二度、三度。綺麗にカラー刷りされたビラには、世良の靴跡がありありと付いた。

 

 ––––––やめろ、もうやめろ。


「ま、ごっこ遊びはもう無理だな。そいつらも可哀想だぜ?お前が一緒にいるなんてさ」

 そう言って、堺は嗤う。

「こんなモン作って仲良しごっこしたところで、所詮お前は暴力少年でしかねーよ」

 踏み躙られたビラを見下ろす瞳には、ありありと嘲りの色が滲んでいた。

 

 ––––––やめろ、やめろ、やめろ!



 ぐっと拳を握り締める。冷え切った身体とは裏腹に、頭には血が上っていた。もう何も分からない。考えられない。ただ、これ以上好き勝手言われるのは我慢できない。これ以上俺を、俺たちを侮辱するな……!


 再び拳に力を込める。

 と、その上にふっと手が重ねられた。握り締めた憤りを溶かすような、柔らかい手だった。

 はっと隣を見れば、希が俺を見つめて首を横に振る。淡い唇が、ダメ、と小さく呟いた。

「希……」

「玲央くん、大丈夫だから」

 それだけ言い放つと、希はガタンと椅子を引いて立ち上がった。そして、俺を庇うかのように前へ出る。


「ア"ァ?なんだてめェ」

 世良のダミ声に怯みもせず、希はすうと深く息を吸った。

「何、馬鹿なこと言ってるんですか」

 

 落ち着いた、けれどハッキリとした声が、ざわめきの波に割って入った。

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