第6幕 //第7話

 二人が帰っていく後姿を見送って、一息吐く。と、ふいに俺の隣に大樹が並んだ。

「すげーな、お前のおふくろさん」

 そんなことを言って、にやりと笑う。いや、実際にそう笑ったのかは分からない。ぐるぐるに巻きつけた包帯の隙間から、少しだけ上がった口の端と細くなった目元が見えた気がした。

 

「俺さ」

 俺は、ふっと大樹から目を逸らし、二人の消えた廊下の奥をもう一度見やった。

「まさか、母さんたちが来るとは思ってなくてさ」

 そう、まさか母さんと玲奈が来るなんて思いもしなかった。その上、俺が絵を描くのを望んでいてくれたようなことを口にするなんて。母さんはともかく、反抗期で随分とまともに話していなかった玲奈が「絵が上手い」などと言うのは予想の遥か斜め上どころか、何年経っても思いつきそうにない。

 玲奈のことだから、思わず言ってしまった感じだろう––––学園祭の熱気と勢いでクラスが団結したり多数のカップルが成立したりといった、いわば学園祭マジックの一つとでも言えそうだ。


「でも、良かっただろ?」

 隣に並んで立ったまま、大樹はトンと俺の肩を小突く。

「何がだよ」

 分かっていたが、聞かずにはいられなかった。

「おふくろさんたちが来たことも、玲央が絵を描いたことも、だよ」

「……そうだな」

「だろ」

 そう言うと、大樹は再びにやりと笑った――――ような気がした。



 昼下がりとはいえ、決して人が途絶えるわけではない。三組、四組、五組と続く廊下は、様々な人の往来で賑わっている。思い思いの衣装を身に纏った各教室の売り子に、半ば強引な客引き、各学年の生徒、楽し気に笑う家族連れや地域の人、見回りを兼ねて学園祭を周る先生。絶えず入れ替わり歩み寄り立ち去る人々のそれぞれに、今日はどんな日に映るのだろう。


 俺にとっては、全く真新しい一日だ。そして、自分のやっていることが認められたような少しの誇らしさと、家族の応援という気恥ずかしさを持った一日。



「ごめーん、玲央くん、お待たせ!」

 見やった廊下の奥から、今一番会いたかった女子生徒が駆けてくる。自慢の真っ黒なクロ亀くんを首から提げ、いつもは下ろしている黒髪をきゅっと後ろで一つにまとめた彼女は、俺の姿を認めると大きく手を振った。振った手の反対側の手には、黄色い「写真部」と書かれた腕章が付いている。


「お疲れ様、希」

 トントン、と軽快に駆け寄ってきた希は、俺と大樹の前で立ち止まると少し膝に手を吐いてふうと一息ついた。

「ありがとう!二人も、お疲れ様」

 丁寧に切り揃えられた前髪からのぞく額には、僅かに汗が滲んでいる。よっぽど急いで走ってきたんだろう。


「お化け屋敷はどんな感じ?」

 息を整えながら、希が教室前の看板を仰いだ。

「まあ……悪くないんじゃないかな」

 つられて俺も、自分が描いた看板を見上げた。

 廊下の窓から差し込む陽光に、赤い文字が鮮血の如く鮮やかに輝いている。隅に書き足した蜘蛛の巣の白い糸が、その光を眩しく反射した。


「おい玲央。悪くない、どころじゃねーよ」

 ぐるぐるに巻き付けた包帯の奥から、大樹が呆れたような声をくれる。午前中働きづめだったからか、その声には疲労の色が見える。

「さっきまですごい列だっただろ、あれのどこがまあまあなんだよ」

「ええっ、そーなんだ!」

「そーそー!みんなのおかげで、クラス賞も夢じゃないよぉ!」

 大樹の後ろから顔を出して、片瀬は爛々と目を輝かせた。その顔は全く女子高生らしいものじゃなくて、なんというか、金儲けに勤しむ守銭奴のようだ。ケバい金髪守銭奴JK――ううん、俺の噂なんかよりよっぽど怖い。


 とりあえず学園祭が終わるまでは、こいつに近づかないでおこう。


「そっか、クラス賞かぁ」

瑠花の怖ろしさには気が付くはずもなく、希は瑠花の口にした言葉を味わうように繰り返した。そして、汗で濡れた前髪を搔き上げるとにっこりと微笑む。いつもの、極上の笑顔で。

「流石だね、みんな」

 

 ――ダメだ、やっぱその顔はずるい。

 さっきまで不慣れな受付で内心緊張して、更には想定外の訪問に揺さぶられまくったせいでできた疲れが嘘みたいに吹き飛んでいく。希のこのにっこり、はめちゃくちゃ絶大だ。大げさだけれど、少なくとも俺と……多分、片瀬にはめちゃくちゃ効いてるんじゃないか。


「そんなことないよぉ~希も部活お疲れ様でしょぉ~」

 思った通り、片瀬はにへらと笑った。ケバめの金髪守銭奴も、希の前では相好を崩す以外にできることはない。

「ほらぁ、折角だから、玲央と一緒に周ってきなよぉ」

 笑ったまま、片瀬は俺と希の肩をぐいと押し出した。


「えっ、でも……」

 希が目を丸くして、片瀬と俺を交互に見つめる。

「わたし、実行委員長なのに全然クラス手伝えてないから、受付とかやるよ……?」

「え?」

「えぇー?」

 写真部の方で散々働いてきただろうに、意識の高い実行委員長だ。流石希と言うべきだが、今回ばかりはその提案は飲めない。俺の待ち望んだ機会なんだ、飲んで堪るか。


「希、今日はクラスは大丈夫だと思うぞ」

 安心させるように言って、ポンと一つ肩を叩いた。俺の隣で、片瀬もしきりに頷く。

「え、でもみんなに悪い……」

 それでもまだ不安気に目を瞬かせる希に、大樹が声をかけた。

「吉田さん、確か明日シフト入ってるだろ?」

「あ、うん」

「じゃあ今日はいいよ。玲央の言った通り、今日は大丈夫だからさ」

「……ほんと?」

「ああ」

 短く答えた大樹に、希はようやく納得したようだ。ありがとう、と再び極上の笑顔を見せると俺の方へと向き直った。その後ろで、希からは背を向けられる形になった大樹がにやりとグーサインを示して見せる――大樹には暫く頭が上がらない。



「じゃあ、行くか」

「うん!玲央くん、何か食べたいものある?」

「そうだな……」

 並んで歩きながら、俺は腕を組む。

「すげー腹減ってるから……何でもいいな」

「何でもは一番困るんだけどなあ」

 学園祭のパンフレットを開き、希は頬を膨らませた。


 だって、何でもいいだろう。

 希と一緒に周って、一緒に食べるんだったら何でも。


 まだ絶対に口にはできない言葉が思い浮かんだが、そっと瞼を閉じて打ち消す。身体に残った火照りは、まだ消えそうになかった。

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