第5幕 //第7話
美術館のロビーに出た希は、頰を紅潮させていた。
別に、熱だとか暑いからだとかいう理由じゃない。季節はすっかり一番過ごしやすい時期になったし、希は誰がどう見ても元気いっぱいだ。
じゃあどうしてかって?
そんなの決まってる。
「あー、ホントに良かった!写真展も常設展も、すごく、すごーく、良かったね!!」
入り口で貰った写真展のパンフレットは、ずっと握り締められていたからかもうボロボロだ。それほど写真展と常設展が良かった。つまり、気分の高揚。展示の素晴らしさに関しては、俺も全力で同意なんだけどな。
「あのね、わたしは『紅葉の舞姫』が特に好きだったんだけど!玲央くんはどの写真が一番好きだった?」
興奮気味に、希がそう尋ねた。
「そうだな……俺は『祈り』かな。秋の稲穂と空の色合いが綺麗だった」
「あー、確かに!優しい黄金色だったよね!」
「そうなんだよ。空の鮮やかさも稲穂を全然邪魔してなかったし、写真でもこんなの出来んのかって思った」
「ね!写真も結構すごいでしょ!」
なだらかな(なんて死んだって口には出せないが)胸を張って、希は満面の笑みを浮かべた。
「ああ。見れて良かった」
「えへへ」
『紅葉の舞姫』も『祈り』も、今日の写真展で展示されていた写真のタイトルだ。
『紅葉の舞姫』はタイトルの通り、あかあかと染まった紅葉の写真だ。場所はどこか高台。紅葉の木を丁度斜め上から撮ったアングルで、風に吹かれひらりと葉が舞う一瞬が切り取られていた。木の下には子ども達の影が映っていて、影の黒と紅葉の色の対比もくっきりとした印象だったな。
俺が一番好きだと思った『祈り』は、秋の田んぼと青空だけの写真。見事に実った稲穂と、その頭上に広がる雲ひとつない青空。稲穂の黄金色と空の青さがそれぞれ綺麗な色をしているのはもちろん、稲穂がまっすぐに空へと伸びる雰囲気がいいと思った。語彙力がなくて上手く言えないが––––強さ、だ。そう、稲穂からは凛とした強さを感じたんだ。
常設展の絵画も、中学の時観たように相変わらずいいと思ったが、今回ばかりは写真に心を持って行かれた。それだけ、写真家達が思いを込めて捉えた一瞬がすごいってことか。
––––––希もいつか、その一人になるのだろうか。いや、希はなるだろう。
じゃあその時俺は?俺は一体、希が夢を叶えたその時、何をしているんだろう……。
「玲央くん、ちょっと売店見てきてもいい?ポストカード欲しくなっちゃった」
希が俺のシャツの袖をつんつんと引っ張る。見上げる瞳は子犬のそれだ。
––––––天然なのか、お前。
ちょっとしたセンチメンタルな気分はどこかに飛んで行った。
あくまで平静を装って、俺は頷く。
「いいんじゃねーか、折角来たんだし」
「だよね!行ってくる!」
答えを聞くや否や、希は売店へと駆け出した。せめて一緒に行こうとか––––ないか。写真のことになったら、希が止まるはずもない。
俺もなんか買って帰るか、そう思って足を向けた。
その時––––壁に貼られた一枚のポスターが目に入った。
***
“中野芸術大学 秋期芸術祭”
期日:11月10日(土)、11日(日)
場所:中野芸術大学キャンパス内
最寄駅:JR中央総武線中野駅、東京メトロ東西線中野駅、東京メトロ丸ノ内線
新中野駅
テーマ:『熟れた果実に祝杯を』
講師紹介:上山條、津田沼恵子、成冨武
***
概要と突っ込みどころの難しいテーマはまあ置いといて……。
気になるのは、その下の講師のところだ。
三人目、成冨武。
同じ福丘市出身で、画家として広く活動している。たまに広告やポスターの仕事も引き受けているらしいが、専ら家やホテル等に飾る絵画を描いていると聞く。海外にも売っているから、すごい人だ。
そして何より––––俺が絵を好きになったきっかけだ。
中学に入る時、この美術館の特設展で観た彼の絵に、俺は夢中になったんだ。
それは『あしたへ』と名付けられた、夜の街並みの絵。住宅街のある一本の道路を真ん中に、夜の一幕が描かれている。星々の下を歩く丸まった背中、灯りのついた家の窓に映る楽しそうな人影。車庫に入る車に、屋根の上を渡る猫。
一枚の絵の中で、それぞれの暮らしが、営みが、静かに進んでいくような絵だった。決して賑やかな絵でも、色が多いわけでもない。だが静かに、いつもの日常はこうして続いていくんだと思わされた。
中学生が何を、と思うだろうが……逆に中学生だったから、感化されたのかもしれない。世界は広くて明日は必ず来てしまうけれど、それでも、俺たちは。一人一人が生きているんだって、思春期なりたての俺はじんと胸にアツく感じたんだから。
とにかく、その成冨武先生は“中野芸術大学”にいるんだな。
これは家に帰ったら即検索––––そう決めた。
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