第5幕 //第8話
なんて考えていたら、希は既に買い物を済ませていたらしい。売店の小さな白いビニール袋は、ポストカードでぱんぱんに膨らんでいる。
今時ハガキを出す人は少なそうだが……どんだけ買ったんだ、お前。
「どう?いいでしょ!気になった写真のは全部買っちゃった!だって十枚単位で買うとお買い得ってなってたんだもん!」
安売りとかバーゲンに燃える、おばちゃんみたいなことを言う希。
「玲央くんは何も買わなくて良かったの?」
丸い瞳をくりくりさせる姿は––––畜生、可愛い。
「あー、うん、俺は大丈夫」
『祈り』の複製はちょっと欲しいななんて思ったが、それより目の前の希と成冨武先生の方が心を占めているんだから仕方がない。
「じゃあそろそろ行こっか!」
「おう」
希は戦利品、俺は二人の存在。それぞれ大切なものを抱え、俺たちは美術館を後にした。
***
写真展も画材の調達も無事終えた頃。陽はすっかり傾き、空は夕焼け色に染まっている。
俺たちは前原行きの電車に乗るため、福丘駅へと向かっていた。
「あっれェ?あいつ、紫村じゃね?」
そんな素っ頓狂な声が聞こえたのは、改札を通ろうとしたまさにその時だった。
どこかで聞いた高い声に、弾かれたように固まった。
「え?マジ?ほんとにあの紫村かよ」
疑いの色を含んだ、掠れたその声にも、俺は聞き覚えがあった。
「なァお前、ちょっとこっち向けよ」
「おい世良、人違いだったらどーすんだよ」
「はは、やべぇな」
「なに、あいつ堺も知り合い?」
––––––間違いない。この声にこの話し方、世良だ……!
「おい、向けってば紫村ァ」
あの時から変わらない、狂った声が俺の名前を呼ぶ。
振り返ってはいけないことくらい分かっていた。頭の中のもう一人の俺も、このまま希を連れて改札を通ってしまえとそう言った。世良なんて、もう一度たりとも顔を合わせたくない存在なんだ。
でも、俺は……
「––––––すみません世良さん、俺たち急いでるんで」
逃げたくない一心からなのか、強張る身体を奮い立たせるためなのか。
半身だけ振り返って、それだけやっと絞り出すように口にした。
「あ、マジに紫村じゃん」
世良の取り巻きの一人だった堺が、掠れた声で笑った。貼りついたような薄ら笑いが、三年前と重なった。
「え、なに?女連れ?やるねぇ」
その隣で、ジーンズのポケットに手を突っ込みながら笑っているのは、俺の知らない奴だ。でも世良や堺といるんだから、関わらない方がいいに決まってる。
で、そのまた隣にいる、ジャージの男は……
「あ"?紫村ぁ?」
––––––なんで、お前がここに。
ジャージ姿の男は、梅雨、俺が北門で絡まれた三人組の一人だった。金に近い髪を尖らせて、にやついた笑みを浮かべていたあいつだ。
何故あいつがはるばる福丘まで出てきて世良たちと一緒にいるのかなんて、正直どうでもいいんだが、俺の顔を知ってるってのは結構マズくねぇか。だって俺はどの高校を受けるか、中学の知り合い誰一人として言ってなかったんだから。
「おい本田ァ、お前紫村と知り合いなのかァ?」
案の定、世良が金髪ジャージ男––––本田って名前らしいな、俺には名前とかどうでもいいけど––––に尋ねた。
「あー、同高だよ。まぁじムカつくの、こいつ」
「へぇ、紫村って前原いってんだァ」
再び俺を向いた世良の目を見て、ゾクリ、と背筋が凍る。
––––––ヤバい、と直感がそう言っていた。このままじゃ、また。あの時みたいに。
「ねぇ玲央くん、この人たちと知り合い、なの……?」
背中に隠れた希が囁いた。白い袋をぎゅっと握りしめて、不安気な瞳で俺を見上げてくる。
可愛い、なんて思う余裕はもうなかった。
「––––行くぞ、希」
「えっ?」
返事を待たずに、強引に希の腕を掴む。そして無理やり改札を通り抜けた。
「おい紫村ァ!逃げんのかァ!?」
追い打つ声を背中で聞く。
「お前はどーせ“ヤバい奴”なんだよ!せいぜい楽しんでろよ!」
「またな紫村ァ!」
堺と世良の声に、道行く人は何事かと振り返った。––––俺はもう絶対に振り返らない。もう、絶対にだ。
「玲央くん、玲央くん!」
半ば引っ張られるような形で小走りになった希が、懸命に声をかけてくる。
「玲央くん、さっきのって、」
「中学のサッカー部の……先輩、なんだ。はは、ビックリするよな、まさかこんな所で会うなんて」
前を向いたまま、努めて平静に聞こえるように答える。はは、と口に出した、乾いた笑いが苦しかった。
「ねぇ玲央くん!」
何故か希が泣きそうな声をしていた。
「玲央くんってば!」
––––––ごめん希、俺はまだ。
「もしかして、あの人たちって、あの噂の……––––」
「違う、俺はあいつらのしたことが許せなかったから!!」
––––––しまった、と思った時にはもう遅かった。
俺の怒鳴り声に、希はビクンと固まった。
見上げた瞳が潤んで、でも溢れそうな涙は零れさせまいとするように、希はぎゅっと唇を噛み締めていた。
「ごめん、希……」
謝る俺の声は、電車の発着音に掻き消された。
「……ううん、いいの」
呟くように希が答えた。
「大丈夫。わたしが信じてるのは、今の玲央くんだから」
ね?と首を傾げて俺を見上げる、その潤んだ微笑みがどうしようもなく痛くて。
俺たちは黙ったまま、前原行きの電車に乗り込んだ。
(第5幕 終)
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