第5幕 //第6話
気は急いていたが、昼休みまで待った。
当の希が相変わらず遅刻ギリギリで登校してきたため、朝は聞く暇がなかったんだ。
「あのさ、希」
「うん?」
四時間目の国語の教科書をしまっていた希は、その手を止めて俺の方を向いた。
「聞きたいことがあるんだけど」
「あ、うん、なぁに?」
すう、と一息吸って、単刀直入に切り出す。
「なんで希は、俺が絵を描くやつだって分かったわけ?」
一瞬の間。
「ああ、そのことね」
希は合点したように頷き、教科書をしまいきって俺の方へと向き直った。そして、うーんと少し考える素振りを見せる。
「そうだね、まあ、玲央くんは絵が上手いってことは元々知ってたんだけど……」
考えながら話しているのだろうか、黒い瞳が時折右上にチラチラと動いている。
「何となく、今も絵が好きなんじゃないかなあって思って」
「俺が?」
「うん」
希はこくりと一つ頷いた。
「だって玲央くん、校内の絵、よく見ているでしょ?偶に立ち止まってる時もあるし……それは、少なからず絵が気になってるってことかなあって」
「マジで?」
「うん」
またも即座に頷かれる。そもそも、希は一体いつ何を見てんだ。校内の絵を見て立ち止まるなんて、当人の俺すら意識してねー行動だぞ。
一周回って、その観察眼には尊敬さえ覚えてくる。
––––––ってか、俺そんなに
自分の行動は全然分からないもんだ。無意識のうちに感情とか欲求とかだだ漏れになってるとか思うと、怖ぇ、としか言いようがない。
そんな俺の内心なんて知る筈もなく、希は続ける。
「中学校一年生の時だったかなあ。夏休みの、何かのコンクール……確か一般の人も応募してるものだったと思うけど、その入選作の展覧会、お父さんに連れられて見に行ったの」
中学校一年生の夏休み。一般参加の、県全体から作品を集めたコンクール。入選作の展覧会。––––間違いない、あの時だ。
「最初は写真の題材探しとか、同じようにドラマを描くってものに興味があっただけなんだけど。回っているうちに、ある一枚にすごく心を惹かれたんだよね」
そう言って、希はどこか懐かしそうな目をした。きっとその瞳には、今、あの絵が映っている。ここにきて、俺の予想が傲慢で自信過剰でなければきっと。
「その絵はどこまでも草むらと青空が広がっていて。どこまでも駆けていけそうな少年が、空とも大地ともつかないところで楽しそうにボールを蹴っているの。少年以外は誰もいない、けれどその少年はすごく自由で、ボールを蹴るのが幸せだってばかりの笑顔で」
––––––ああ、そうだ。あの頃はサッカーが本当に楽しかった。ただ無心に、心の赴くまま、目の前のボールをどこまでも蹴っていれば良かったから。何にも囚われることはなく、何の柵もなく、自由にサッカーができたから。
「本当にね、明るくて、とっても爽やかな絵だった。自由で、心地よくて、観る人の心までふわって持ち上げてくれるような感じで。––––そう、あれは玲央くんが描いた絵だったんだよ」
希は、一言一言を噛みしめるように繰り返す。懐かしい記憶をなぞるように、視線がゆっくりと上に動いた。
記憶といってもあれは中学一年生、つまり四年も前に描いた絵だ。その絵を、そして描いた俺の名を、四年も経った今でも覚えているなんて。
俺は、驚きのあまり言葉を忘れていた。
希は、そんな俺には構わず訥々と言葉を紡ぐ。
「わたしね、元々、絵自体にはそんなに興味がなかったんだけど。あの絵を見て、ちょっと変わったの」
「……変わった?」
「うん」
頷いて、少し恥ずかしそうに笑う。
「それまではね、絵画は単に画家の創作物でしょって……何て言えばいいかな、描く人の想像ばかりで作られたものだと思ってて。わたしが写真で表現したいのはあくまでも現実で起こっている一瞬のドラマだったから、絵画とは全然違うなぁって思ってたんだ。相容れない芸術だなって。でもね、」
希は手に持ったカメラを大事そうに抱え直す。
「玲央くんの絵を見て感じた。感じた、って言うより、わたしの中に感情が流れ込んできた感じかな。ボールを蹴る少年の楽しさと、自由さと、そして絵を描いた当時の玲央くんの気持ち。それが目の前で起こっていたことじゃなくても、玲央くんの感情があの絵には溢れ出ていたから」
だから、と向けられた強い瞳は真っ直ぐに俺の瞳と重なった。
「ああ、わたしもこんな風に表現したいな、って素直に感じたの。それまでのわたしの写真は一瞬の出来事を収めたってだけで、一番大切な“感情”が抜け落ちていたように思って。だからあの絵を見て……わたしも、写真に収めるその対象にある想いと、撮りたいと思ったわたしの想いまでカメラで切り取れたらいいなって」
だからね、と希は微笑む。
「玲央くんの絵は、わたしに大事なことを教えてくれた。だから……ありがとう」
渡された言葉が全て、俺の心に染み渡っていくのが分かった。染み渡る言葉の一つ一つが優しく、あたたかく。
俺に振られた役割だとか、何で希が俺が絵を描くって知っているのかとか、そんなことはもうどうでも良かった。それだけ、希の言葉は心に響いた。
「あれ?玲央くん、涙目になってない?」
希が悪戯っぽく小首を傾げる。折角貰った言葉を噛み締める余韻は与えてくれないらしい。
「そんなんなってねーよ」
「そっか、わたしの気のせいかな」
「そーだろ」
二人、顔を見合わせると笑いがこみ上げた。
「そうだ、玲央くん!」
パッと瞳を輝かせて、希が何やら鞄から取り出す。
「これ、良かったら一緒に行かない?」
希の小さな手に握られたそれは、二枚のチケットのようなもの。綺麗な色合いの紙に、白抜きで––––秋の芸術写真展、の文字が書かれている。
「お父さんから貰ったの。福丘市立美術館でやってるからちょっと遠いんだけど、あそこなら常設展も結構いいの揃ってるからどうかなって」
福丘市は県庁所在地で、前原なんかよりかなり都会だ。前原からだと電車で四十分は優にかかる。
そして、福丘は俺がつい二年前まで住んでいたところだ。あの中学も勿論ある。
「そうだな……」
逡巡する様子を見せると、希は「大きな画材店もあったと思うよ」と付け加えた。
確かに学園祭の表看板を描くなら、うちにある画材じゃ到底足りない。何より“画材店”なんてワードを出されたら、気になるに決まってる。希はそれを十分に分かった上で言っている。怖いくらいに抜かりがない。
「分かった、行くか」
「ホント!やったぁ!」
––––––ホント、も何も明らかにお前の誘導だったけどな。
まあ仕方がない。“画材店”に釣られたのも、正直希と二人で出掛けることに心が跳ねたのも本当だ。
こうして、次の日曜日。俺たちは福丘市に行くことにした。
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