第2幕 //第2話

 目の前に、三つの人影が立ちはだかる。

 は?と眉根を寄せて傘を傾けると、そこには制服のやつが二人、ジャージのやつが一人。胸元のバッチの色からして、どうやら三年か。

 制服をだらしなく着た長身の男が、俺を見下ろすように一歩踏み出した。

「二年の紫村ってのは、お前?」



 ––––––いきなり何なんだよ。

 


 俺は眉根を寄せたまま答える。

「そーですけど、俺に何か用ですか」

 俺の答えを聞いて、三人はにやついた笑みを浮かべ互いに顔を見合わせた。仲間内だけに通じる目配せとの仕方を見るに、それの意味するものが良いことなわけがない。

 怪訝な顔をする俺に、真ん中の茶髪が含み笑いの表情かおのまま言った。

「お前、柏中で先輩殴ってたって、マジ?」



 ––––––またそれかよ。



 俺の中で、一気に感情の波が引いていくのが分かった。寄せていた眉根も細めた目も、瞬く間に平易の表情へと戻っていく。

「そんなの只の噂ですよ」

 顔色一つ変えずに、あんたらには関係ねーよと内心で悪態を吐く。馬鹿の一つ覚えみたいに、どいつもこいつも噂を鵜呑みにしやがって。事の真相なんて、誰も知っちゃいないだろうに。


「やー、強ぇんだって?後輩に聞いたぜ?囲まれて全員ボコった、って。怖ぇーな」

 真ん中の男が隣のジャージ男に同意を求めた。ワックスで金に近い髪を立てたその男も、ニヤニヤと胸糞悪い笑みを浮かべている。

「それで停学くらったとかマジで笑える」

「そんだけボコれば当然だろ」

「バッカだよなー」

 口々にそう言って、奴らはゲラゲラと品のない声で笑った。


 笑いたければ笑えばいい。

 尾ひれのついた噂に喜ぶお前らに、真相なんて知って欲しくもない。どうせすぐに飽きるんだ、せいぜいアホみたいに笑っていればいい。


「あー、やべ。ほんっとにバカなんじゃね」

 茶髪の男が鼻で笑うように吐き捨て、––––その目がふいに冷たくなった。

 背筋にぞくりとした感覚が走る。

「いいこと教えてやるよ」

 口元だけにバカにしたような笑みを浮かべて、男は一歩ゆらりと前に出た。

「人をボコんならさあ、こーゆー風にさあ、誰も見てないところでやんだよ?」


 ––––––右ストレートっ……!


 ゴン、という思い音とともに頰から頭にかけてずっしりとした痛みが走る。突然の衝撃に、目の前がぼやけて俺は思わずフラついた。殴られた、という認識は数秒遅れでやってくる。

 紺色の傘が俺の手を離れ、濡れた道を空しく転がった。


「てめぇっ……」

「ヤりてぇ奴がいんなら、上手くヤんなきゃな」

「……っ!」


 息つく暇もなく、今度は左右から蹴りが飛ぶ。

 腹を狙ってきたそれを辛うじて躱し、躱した先から飛んでくる蹴りは瞬時に手で受けた。じん、という鈍い痛みに手が痺れる。


「おうおう、どーしたんだよ」

「少しはやり返せよ」

 三人は笑いながら、囲むようにじりじりと距離を詰めてくる。四方から飛んでくる拳や蹴りを俺はひたすら躱し続けた。決して反撃はしないように。もう、殴った奴なんていうレッテルは貼られたくない。

「逃げてばかりじゃヤられちまうぜー」

「おらっ!」

「……ッ!」

 ジャージの男が放った右足が、俺の腹にヒットする。容赦ない一撃に俺はがくんと膝を折った。

「ボヤボヤしてんじゃねーぞっ!」

 低くなった俺の頭めがけて、今度は茶髪の足が振り下ろされる!



 糞が。



 カッと頭に血が昇って右手を握りしめた、その瞬間。



「ちょっと。そこ通れないんだけど?」

 背後から、凛とした女声がした。

 俺はハッと我に帰る。飛びかけていた理性は、なんとか間一髪俺の身体に踏み止まった。


「あ"ぁ?」

「なんつった、今」

 語気を荒くさせて、三人は俺の背後をギロッと睨みつける。が、声の正体を目にするや否や、彼らはギクリと固まった。

「おい、なあ、あの女って」

 ただならぬ三人の様子に、一体誰だよ、と俺も振り向いて––––え、いや、誰。

「ヤベーぞ、倉持じゃん」

「なんでこんなとこにいんだよっ」

「くそ、行くぞっ!」

「今度こそ覚えとけよ、紫村!」

 怪訝な顔をする俺を他所に、三人は慌てて駆け出した。バシャバシャと水を跳ねながら茶髪の男だけが一度振り返り、俺を睨むと唾を吐き捨てて行った。

 どうやら、助かったみたいだ。何が何だか分からないが。



 俺は息を吐いて、ゆっくりと立ち上がる。

 髪も制服も足元も、全身が降りしきる雨にぐっしょりと濡れてしまっていた。新調したばかりのズボンには、べっとりと泥がこびり付いている。これは母さんに何を言われるか分かったもんじゃないな。

 

 まだ痛む手を押さえながら、俺はさっきの女声の方へと向き直った。


「誰か知んねーけど、助かった。さんきゅ」

 切れ長な瞳をした女子生徒は、俺の言葉にフンと鼻を鳴らす。

「通学路で面倒ごとは起こさないでくれる?帰れないじゃないの」

「お、おう」


 待て待て待て。俺、明らかに絡まれた側だぞ⁉︎


「ま、あいつら三年の問題児集団だから。後で理事長に報告しとくわ」

 女子生徒はそう言うと、長い髪をかき上げた。幅広のピンクの傘で守られた髪が、ふわりと持ち上がり背中に流れる。亜麻色の綺麗な髪だ。

「理事長……?」

「そう、理事長も理事長よね、ああいう問題児は一度停学にでも処してしまえばいいのに。いつまでも甘い態度でいるからああやってのさばるんだわ」

 物騒なことを口にする女子生徒。倉持って、あぁ、そう言えば理事長の苗字が倉持だったような気もしないではない。入学式の時に一度きりだが、理事長の挨拶があった筈だ。

 俺が合点したのが分かったのか、倉持は口の端に笑みを浮かべた。

「じゃ、私は帰るわよ。のぞみ、いきましょ」


 ––––––え?まだ誰かいたのか?


 その時、ツンツンっとブレザーの裾を引っ張られた。慌てて振り向くと、黄色い傘を差した小柄な女子生徒が立っている。あまり定かではないが、多分クラスで見た顔だ。うろ覚えではあるが、確か教室の前の方に座っていたはずだ。

 彼女は、喧嘩の最中に転がっていった俺の傘を持っていた。

「はい、これ。紫村くんのだよね」

「お、おう……さんきゅ」

 そっと渡された傘を受け取る。すると希というその女子生徒は、自分の鞄から白いタオルを差し出した。

「はい、これも。そのままじゃ、風邪引いちゃうよ」

「えっ」


 ––––––俺のこと、知らないのか。


 戸惑いを隠せない俺の様子に、希は不思議そうに首を傾げる。

「もしかして、わたしのじゃ、何か嫌?」

「えっ?いや、そういうわけじゃ」

 俺は慌ててタオルを受け取る。濡れた手のひらに、真っ白なそれはふわりと馴染んだ。

「よかった」

 希は、嬉しそうに微笑んだ。


「希、もういくわよ」

「あ、待って待って!」

 先を歩き始めた倉持を追いかけるように、希も駆け出す。––––と、立ち止まって、彼女は振り返った。黄色い傘がくるりと回る。

「わたし、吉田希って言うの!よろしくね!」




***




 この日が、俺とのぞみの出会いだった。

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