第2幕 //第3話
「ただいま」
玄関の扉を開けると、家の中には夕飯の匂いが立ち込めていた。
「おかえりなさい」
母さんがひょこっと台所から顔を出して、目を丸くする。
「ちょっと玲央、ずぶ濡れじゃない。どうしたの」
「あー……」
一応、タオルで拭きはしたんだけどな。
希に借りた白いタオルは、俺の肩の上で雨を吸い、もうぐっしょりと湿っていた。濡れた制服の袖がペタリと肌に張り付いて気持ちが悪い。
「なあに、傘壊したの?それとも無くした?」
母さんが溜息を吐いた。
「いや、ちょっと、転んでさ」
だいぶ苦しい言い訳をしながら、俺は靴を脱ぐ。雨は靴の中にも容赦無く染み込んでいたようで、白いソックスのつま先はぐっしょりと濡れている。
靴の中の汚れか、黒く滲んだそれを見て母が顔を
「とりあえず、先お風呂入っちゃいなさい」
「分かった。……と、その前に」
洗濯機の蓋を開けて、俺はタオルを中に入れた。後、洗濯カゴから適当に何枚か無難そうなものを追加する。それこそタオルとか、部屋着のTシャツとか。
指に引っかかったピンク色の––––妹の下着は見なかったことにして、そっと洗濯カゴに戻しておく。
えっと、次は洗剤だよな。
「これ使って」
ふいに、母さんが洗剤のボトルを差し出した。察しが良い。
「玲央が洗濯なんて始めるから、何事かと思ったわよ。さっきのタオル、誰かからの借り物なの?」
「あー、まあ」
青い液体洗剤を、慎重に注ぎ込む。基本的に洗濯なんて母さんに任せきりだから、見よう見まねでしかない。洗濯洗剤は洗剤用のポケットに注げばいいってことだけ、昔一度言われたことがある。後は洗濯機が何とかやってくれるだろ。
「それにしても、転んだ、ねぇ。まあいいわ。膝の泥もちゃんと落としてきなさいよ」
母さんは呆れたようにそう言って、台所の奥へと引っ込んだ。
––––––そういや、ズボンについた泥のこと、忘れてたな。
さっき、膝を折って地面についた時だ。チェックのズボンには、湿った泥と砂がこびり付いている。俺は洗濯機のスイッチを押して、もう一度玄関に戻ることにした。
「それにしても、これ、どーすっかな」
明るい所でよくよく見てみると、新調したばかりのはずの制服は至る所が汚れていた。これはどうやら、単純に乾かすだけじゃ無理そうだ。
あいつら好き勝手殴ってくれたからな、と思い出すと、腹の辺りがムカムカしてくる。今度は覚えとけよとか何とか言われたが、それはこっちの台詞だ。あの倉持という女子生徒がどう出るかだが、一応理事長に報告はいくみたいだし……何より、彼女自身が大分ビビられていた。
出来る限りあいつらに会わないように俺が気をつければ、まあ当分問題はない筈だ。
「玲央!」
台所から母が呼ぶ。
「何?」
「言い忘れてたけど、お風呂に入ったら、一応冷やしたほうがいいわよ!」
「……何を」
「そのほっぺた。痣がひどくなるよりマシでしょ?」
「……」
どうやら、色々とお見通しらしい。
やっぱり母さんに秘密ごとは無理があるな、と俺は苦笑した。
***
次の日の寝覚めは、不思議と良かった。
それにしても、最近の乾燥機付き洗濯機というのは有能だ。濡れてしょぼしょぼになっていた白いタオルは、柔らかさを取り戻していて、何となく新品のような気さえする。昨日希が貸してくれたまま、そっくりのふわふわ加減だ。
俺はそれを丁寧に畳んで、鞄の一番上に入れた。
––––––あれ、こういうのって、そのまま返すもんなのか。
ふと変な疑問が頭に浮かぶ。
他人から何かを借りたことなんて、あの事件の日以来ない。ましてや、俺のことを怖がる女子から借り物なんて、絶対。
一応、何か袋とかねーかな。そう思って部屋を見渡してみたものの、高校2年男子の俺の部屋に、可愛い袋なんてものがあるはずもない。
––––––これは仕方ねーな。
俺は諦めて、鞄を肩にかける。そして部屋を出た。
隣の部屋にいる妹は、まだ寝ているようだ。妹なら可愛い袋の二、三枚程度持っているのだろうが、無理に起こすと何を言われるか分かったもんじゃない。
中二になって一段と反抗期を強めた妹には、俺が一番手を焼いていた。
リビングでは、母がテレビを見ながら朝ごはんを食べていた。朝のワイドショーを見ながら、時折ふうんと小さな声を漏らす。いつものことだ。
「母さん、いってきます」
リビングに向かってそう声をかけ、俺はローファーに足を突っ込む。久しぶりに履くローファーはちょっと硬い。まあ、昨日運動靴を濡らしてしまったせいなのだが。
「玲央、お弁当は?」
「もう取った!」
「あら、そう」
「じゃ」
「はーい、いってらっしゃーい」
朝が弱い母さんののんびりとした声に見送られ、俺は学校へと向かった。
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