第1幕 //第5話

 大樹が瑠花を送って帰ってきた後、俺たちは樹子さんに用意して貰ったカレーとサラダの夕食を平らげ、日付が変わる前に床についた。

 大樹の部屋の床に敷かれた、客用だと言う布団に潜り込む。柔らかい掛け布団からは、大樹の家と太陽の混ざった、暖かい匂いがした。

 


「玲央、さっきはおふくろが変なこと言って悪かったな」

 ベッドの上から、大樹の声がした。

「ああ、クラスマッチの写真か」

「そうそう。お似合いだなんて、無神経な親でほんとわりぃ」

 まさかあのタイミングでぶち込んでくるなんてな、と大樹が溜息を吐く。苦笑いしている顔が目に見えるようだ。

「いや、そんなには気にしてねーよ」

「ちょっとはしてるんじゃねーか」

「……まあ、ちょっとは、な」

俺も苦笑して、寝返りを打つ。


 静かな部屋に、時を刻む音だけが律儀に響いた。


「こんなこと聞くのも無神経かもしんないけどさ」

 一呼吸の間。

「お前、まだ、吉田のこと好きなの?」


「……っ」

 大樹にしては珍しく、躊躇うような口調だった。

 ハッキリ、そう聞かれたのは久しぶりで、ちくりと胸が疼く。“好き”という二文字はまだ少し辛い。七年の月日は、そう安安とこの二文字を忘れさせてはくれなかった。


「好き、ってゆーより、憧れ、とゆーか」

 俺は、慎重に言葉を選びながら答える。

「希は、今でも俺の背中を押してくれてる気がする」

「へえ」

「へえ、って」

「いやさ、今でも不思議なんだよな。他人に興味のなさそーな玲央がそこまで想うってさ」

「うっせーな。確かにそんな時期もあったけど、希は––––あいつは、そんな俺に世界を見せてくれた。俺の夢を肯定してくれた。そのおかげで今の俺があるわけで……って、うわ、俺、だいぶ女々しいな」

「いや。それは別に女々しくねーよ」


 即座に大樹が否定した。


「お前にとって、吉田がそんだけ大きな存在だったってことだろ。ま、俺だって、お前にとって偉大な存在だっただろーけどな」

「自分で言うかよ」

「だって本当のことだろ?」

 はは、と大樹は低い声で笑った。

「じゃあ、もし、の話だけど」

「ん?」

「玲央は、吉田に会えたら、今度こそうのか?」


 何を、というのは聞かずとも知れた。


「——伝えたいとは思う」

 俺は左手を握りしめながら答える。一度だけ触れたその温もりは、もう思い出すことができないけれど。

「でもな、もう、七年経ってんだ。さすがに遅ぇよな」

 自分で言った言葉で、自分の胸を締め付けた。

 七年という時の流れは相当重い。だってそうだろう?その時感じた出来事を、その時感じた気持ちを、一体どれだけの人が覚えていられる。大樹や瑠花のように連絡を取り合って、互いが“覚えていよう”としない限り、どうしたって記憶はすり減っていくばかりなのに。



「––––そうだよな。遅ぇ、よな」

 繰り返した声は、時計の音に掻き消されそうなほど弱々しいものだった。

「やっぱ、もう」

「バカ、遅いも早いもあるかよ!」

 瞬間、大樹がガバッと布団をはねのけて起き上がる。暗い部屋で表情は見えないが、バカと言い切った語気は荒かった。


「何言ってんだ玲央、いたいのはお前の勝手だろ。それならえばいいんじゃねーの?何年前とか、もう遅いとか、気にする必要ねーよ」

「でも、今更」

「だから、今更とかねぇんだって!お前が伝えたいなら、それが今なら、もっかい告る理由は十分だろ?さっきの訂正、やっぱ女々しいわお前」

「おい……」

「俺も自分勝手かもしんねぇけど、告るのにお伺いなんていらねーよ」

 告白してもいいですかなんて聞いたことねーしな、と大樹は付け加えた。


 ああ、こういうところが流石だ。強くて真っ直ぐな言葉で、弱気になった俺の背中を押してくれるところが。希も同じだった。芯があって、真っ直ぐで、いつだって俺を支えて……————


 会いてぇな、と素直にそう思った。

 希に会って、話がしたい。あの笑顔に、また触れたい。そして願わくば、あの時伝えられなかったことを。



「俺の中であいつは、あの頃のままなんだ」

「それなら尚更、七年分会ってこねーとな」

 大樹は笑った。

「心配なんて会ってからしろよ。––––俺は、玲央と吉田のこと、ずっと応援してんだから」

 親友の言葉は、強く、そして温かい。

「さんきゅーな、大樹」

「おう。頑張れよ」

 大樹はそう言うと、どっと布団に倒れ込んだ。

「っしゃ、じゃあ俺、仕事だからもう寝るわ。おやすみ」

 ばさっと布団を被る音がしたかと思うと、すぐに寝息が聞こえ出す。相変わらず寝つきが良い。再び静かになった部屋には、時計の音と、気持ちの良さそうな大樹の寝息が交互に響く。

 俺も布団を被り直して、天井を見上げた。



 あの日希が旅立ってから、俺は幾度となく再会を夢見てきた。居所さえ掴めたなら、たとえあいつが望んでいなくとも、無理矢理にでも押しかけてやろうと。

 でも、その思いは時が経つにつれて薄くなってしまった。

 二年が経ち、三年が経ち。

 大学を卒業する頃には、希はもう俺を忘れてしまったのではないかとさえ考えた。


 ––––––だってそうだろ?


 あれからどこにいったかも、今、どこで何をしているかも分からない。誰といて、どんな日々を送っているのかも。そんな状態で今更会えたとしても、一体何が言えるだろう。

 希にはもう、新しい日々が流れているのに。

 昔を引きずったままでいるのは、もしかしたら、俺だけかもしれないのに。


 あの日告えなかったことを今になって後悔する自分が情けなくもあったし、同時にあの日の俺を叱りたいと思った。あの日、無理にでもえばよかったんだ。それが全てではないが、きちんと伝えておけば、七年も引きずるなんてことは無かった筈だ。



 ––––––“遅いも早いもあるかよ”



 大樹の言葉が、まだ耳の奥に残っている。

 えなかった言葉を、俺はまだ失ってはいない。正確に言えば、失うことが、忘れることができなかった。

 この言葉を、今、伝えてもいいのだろうか。それも、もし会うことができたなら、の話だが……。


 俺は再び寝返りを打って、目を閉じた。瞼の裏に、希の顔が浮かぶ。

 やべぇ。俺、結構重症だよな?


 目を閉じると、長旅の疲れか精神的な疲れか、多分その両方かも知れないが、睡魔がぱっくりと俺の意識を包み込む。身体が布団を通り越して、どこまでも沈んでいくような感覚が襲った。俺はその感覚に大人しく身を委ねる。

 瞼の裏に浮かんだ希が、可笑しそうに笑った。


「大丈夫だよ、玲央」

「きっと、まだ、ドラマは終わってなんかいないよ」


 薄れていく意識の中で、俺は懐かしいあの頃を思い出していた。




 (第1幕 終)

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