第7幕 //第2話
朝、八時ちょうど。
ガラリと開けられた扉の音に、うちの優秀な委員長は凛とした声で号令した。
「起立、礼」
「「「おはようございます!」」」
ガタガタと椅子を引く音に、クラスメイトの挨拶が重なる。朝からハキハキとした元気の良い者に、欠伸の止まらない者。さっきまで机に突っ伏して寝ていた希は、ワンテンポ遅れて華奢な身体をぴょこんと曲げた。
そんな、いつも通りの朝の風景。
「……あぁ、おはよう」
その風景に少しの違和感があったのは、朝のホームルームに時刻通りやって来た栄が、普段と違う厳しい顔をしていたことか。
いつもなら遅れて教室に入ってくるばかりか、ホームルームの進行を委員長に丸投げし、自分は扉の側で連絡事項のみ伝えるだけが栄という教師だ。しかし今日はどうしたのか、真っ先に教壇に立って教室中をぐるりと見渡す。細縁眼鏡の奥に見える瞳は、至って真剣だ。栄が担任になってもう十ヶ月以上になるが、正直今まで見たことあるかどうかレベルの真面目ぶりだった。
「みんなも分かっているとは思うが」
そう前置きして、栄はごほんと一つ咳払いした。
「今日は、第三回進路希望調査票を配布する。今年度最後の、とても重要な調査票だ。来年度のクラス替えはこの調査票をもとに行うし、三年になって最初の三者面談にも大きく関わってくる」
しんと静まり返った教室に、栄の低い声が響く。
「今就職希望のやつも進学希望のやつも、もう一度よく考えてから書けよ。これは、お前らのために言ってんだからな」
もう一度俺たち全員を見渡して、栄は調査票を配り始めた。いまだ静かな教室に、調査票を回す紙の擦れる音だけが響いた。
俺の前に座る瑠花が振り向いて、黙ったまま用紙を差し出す。真っ白なその用紙はペラい一枚のくせに、何故だかずっしりと重い気がした。
「提出は今週末、金曜朝のホームルームでな。各自親御さんときちんと相談して持って来いよ」
全員に調査票が行きわたったのを確認して、栄は再び教壇に立つ。手元のバインダーに目を落とし、これで伝達事項は以上だよな、なんて確認する異常っぶりだ。本当にいつもとは違う、教師らしい彼がそこにいた。いや、これが通常営業であるべきなんだろうがな。
「よし」
教壇でトントン、とバインダーと生徒名簿を揃えてから、栄は眼鏡の縁をくいと持ち上げる。奥の瞳が、すっと細まったように見えた。
「んじゃー、辛気臭い話はこれで終わりな!」
突然、ワントーン上がった栄の声に、俺は思わず目を丸くした。
「なぁに珍しく静まり返ってんだよ、お前ら。確かに重要だとは言ったが、別に思い詰めてまで決める必要はねーからな!何だってお前らの人生だ、好きにやれ!」
––––は?
「俺だってなんだかんだ教師やってるわけだし、お前らの道だって一個じゃねーからな!多分だけど!」
「は?」と誰かの呟きが聞こえた。俺じゃない。俺じゃないが、誰しも内心では似たような気分だろう。だって態度が様変わりし過ぎだ。せめてホームルームの時間分くらい、真面目教師で通してくれ。そんで、良い事言いそうなフリして最後に「多分」をつけるな。台無しだ。
呆然とした俺たちを前に、
「んじゃ、ホームルームもこれで終わりな。さっさと次の授業の準備でもしとけよー」
俺たちの表情に気がつく筈もなく、栄はそのまま扉をガラリと開ける。そして、さっさと教室を後にした。
俺は栄を見直した、僅か数分前の感動を取り消す。栄という教師は、やっぱりただの適当教師でしかない。
その気持ちはクラスメイトも同様のようで、暫く俺たちの間には気の抜けた温い空気が漂っていた。
***
気の抜けたまま午前中を消化した昼休み、ふいに瑠花が切り出した。
「ねぇ、あんたたちはどうすんの?将来」
あんたたち、というのは勿論、片瀬の後ろの席で弁当を広げていた俺と購買で買ったパンを頬張っていた大樹、そして家から持ってきたらしいお握りを食べている希のことだ。俺ら三人は、唐突な質問に顔を見合わせた。
「将来?」
メロンパンの最後の一口を飲み込んで、大樹が聞き直す。
「そ、将来」
小さく頷いて、瑠花は足を組み直した。
「朝さぁ、進路のやつ配られたじゃん?あれ、あんたたちはどぉすんのかなーって思ってさぁ」
黒いソックスを履いた細い
「なんか、意外だな」
「意外?」
「ああ、ちょっとな。片瀬が俺たちの将来に興味があるとは思わなかったってゆーかさ」
「はぁ?」
濃いアイラインを引いた、片瀬の切れ長の目がつり上がる。
「ちょっとそれ、あたしって何だと思われてたわけ?」
「いや、俺的に片瀬は、今を楽しんでるタイプかなーって思ってたから」
「はぁあ?」
「悪い意味じゃねーよ、でも進路調査とか、気にしてそうには見えなかったってゆーか」
「いや、それ、ちょー失礼だからね!だってあたしが馬鹿な子みたいじゃん!?」
「や、そうは言ってねーってば」
瑠花の剣幕に仰け反る大樹に、希が助け舟を出す。
「瑠花ちゃん、落ち着いて」
「だって希!大樹が!」
「うん、でもきっと、中嶋君は瑠花ちゃんを馬鹿にしてたわけじゃないと思うよ」
優しい柔らかな希の声に、瑠花はぐっと黙る。ここぞとばかりに、大樹も「そう、その通りだ」と首を振った。何も言ってはいないが、俺も一応同調しておく。瑠花を敵に回すと怖いなんてこと、とうの昔から知っている。
ただ、今日の彼女は少し違った。それ以上俺たちに厳しい言葉を浴びせることはなく、切れ長の瞳で睨むこともなく、自慢の長い睫毛を伏せていた。
「別に……」
か細い、まるで独り言のような声が漏れる。
「別に、分かってるし。ただ、あたしは、単に……」
言い淀んだ瑠花のその腕にそっと手を添えて、希が「うん」と小さく笑った。その姿に瑠花は再び黙り込み、手に持っていたジュースを勢い良く飲み干す––––いい飲みっぷりだ––––と、ゆっくりと口を開いた。
「だってさぁ。将来ってゆーかさぁ。今日の進路希望によって、次のクラスも替わっちゃうわけじゃん?あたしは、当たり前にこんな楽しいばっかの毎日が続くって思いたかったから、全然、先のことなんて考えようなんてしてこなかったし」
一度流れ出せば止まらない水のように、とめどなく言葉が溢れてくる。だが誰も、瑠花を茶化すものはいない。静かに、続く言葉を待っている。
「あたしは、なんだかんだ、あんたたちとまた一緒のクラスだったらなって……でも、将来とか夢とかも、ちゃんと応援したいなとも思って。だからこう、朝からもやもや?って」
なんてあたしが言うのって変じゃんね、と付け加え、瑠花は苦笑した。その言葉に返すように、「変じゃねぇよ」「全然」「変なわけないよ」と、俺ら三人の声が重なった。
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