第3幕 //第6話
日曜日は、あっという間に訪れた。
外に出てみれば、夏祭りにふさわしい良い天気だ。太陽がだいぶ傾いて、雲一つない空には青や橙や小紫が淡いグラデーションを描いている。毎度のように思うことだが、夕方のこの空の色は不思議と心が洗われる。何を高二の男がと言われるかもしれないが、何色もの色が混ざり溶け一つの空になっている景色を見ると、すっと心のわだかまりが浄化されるようだった。
この色味を、キャンパスの上でも上手く出してみたい。これも毎度のように思いはするが、なかなかそう上手く描けるものではない。一度だけ、何となく描いてみようと試みたことはある。しかし俺がキャンパスに塗った色は、それぞれが自分の色を主張するばかりで、少しも溶け合おうとはしてくれなかった。
ふう、と一つ息を吐く。俺は浴衣の掛衿をピンと張って、坂道を歩き出した。
––––––え?何で浴衣なのかって?
いや、俺は全く着るつもりはなかった。というか、浴衣があることすら知らなかった。これは母さんが用意したものだ。
俺が友達と夏祭りに行くと伝えたところ、母が何故か小躍りしそうなほどに喜んで「じゃあ折角だから浴衣でも着ていきなさいよ」といそいそと浴衣を出し始めたのだ。単身赴任中の父さんが昔来ていた浴衣を、どうやら大事にとっていたらしい。母さん曰く、濃紺に白の刺子縞のこの浴衣を着た父さんはとっても格好良かったとか。まあ、そんな惚気はどうでもいい。
そういえば、玲奈も今日は夏祭りに行くらしい。玲奈、というのは妹の名前だ。悔しいことにあいつは夏祭りを知っていたばかりか、去年も友達と出かけていたという事実がついさっき明らかになった。
その事実に俺は言いようのない敗北感に駆られたわけだが、そもそも俺はどうして気が付かなかったのか……。自分の鈍感さとか無頓着さに呆れるばかりだ。
––––––にしても、下駄は歩き慣れねぇな。
坂道を下って、商店街の方へとゆっくり歩く。
ふっと前方を見やれば、俺の少し前を三人家族が歩いていた。父親と母親、その間に挟まれた女の子は四、五歳くらいか。鮮やかな朝顔柄の浴衣を着て、両親に手を繋がれ何やら楽しそうに笑っている。
夏休みの、和やかなワンシーン。
丁度その家族が通り過ぎた辺りに、ようやく俺の第一目的地である写真館が見えてきた。そう、あれこそが希の家、吉田写真館だ。
大樹に電話で爆弾発言をくらった後、俺は少しの(いや四日だから結構か)躊躇いの末、希の家を訪ねた。何でそんなに時間がかかったかって、そりゃあ彼女が携帯という文明の利器を持っていないからだ。電話やSNSだったら、こんなに時間を要しなかっただろう。家に行くというのは、分かると思うが俺にとってめちゃくちゃハードルが高い。吉田写真館を調べて、家まで行けたことを褒めてほしいくらいだ。
そんなわけであれから四日後、ようやく夏祭りの話を持ち掛けたわけだが、彼女は喜んで賛同してくれたばかりか、商店街まで一緒に行こうと提案してくれた。本当に有難い話だ。希の家が俺の家と商店街の丁度中間地点にあったことにも感謝。大樹たちとの待ち合わせの場所まで希がいてくれるのは、結構心強い。
写真館の扉の前にたって、ゴホンと一つ咳払い。衿がよれていないか、浴衣が着崩れていないかも軽くチェック。よし、大丈夫だ。
そうして俺は、写真館の扉をゆっくりと押した。今日の営業はもう終わっているらしい。CLOSEDと彫られた木の板がドアノブにかかっていた。
「吉田さん、こんにちは」
ギィという軋んだ音とともに扉が開く。照明の落とされた薄暗い店内では、希の父親がカウンターで作業をしている。俺に気がついた様子はない。
「すみません、吉田さん」
二、三歩近づいて再び声をかけると、彼は手元から目を離して俺の姿を認めた。
「ああ、玲央くん!いらっしゃい!おい、のん!玲央くんがいらっしゃったぞ!」
鼻の下にヒゲを生やしたちょっと渋めの父親は、二階へと続く階段の方を向くと大声を出した。途端、上からバタバタと忙しない足音が響く。
「すまんな玲央くん、待たせてしまって」
「いえ、そんなことは」
「のん––––希な、夏祭りを楽しみにしてるそうだ。今日は誘ってくれてありがとう」
そう言って吉田さんは目を細めて笑った。笑った顔、口元だろうか。希に良く似ている。
「いえ、こちらこそ」
俺は軽く頭を下げる。ありがとう、なんてそんな。有難く思っているのはむしろ俺の方だ。
その時、バタン!と大きな音、そして次に階段を駆け下りる音が響き、希が姿を現した。俺と同じ濃紺に大輪の向日葵の浴衣を着て、後ろで小さなお団子を作っている。
「ごめんっ!お待たせしました!」
「おう」
お前、よく浴衣で階段駆け下りられたな––––口に出そうになったが慌てて引っ込める。せっかく浴衣を着て、それでも俺を待たせないように急いでいたのだろう。
––––––でもちょっと待て。
俺は希の胸元に釘付けになった。突っ込んでいいのか迷いながら、恐る恐る尋ねる。尋ねずにはいられない。
「あの、さ」
「えっ?あっ、これっ、浴衣?せっかくだから着てみようかなって思ったんだけど、へっ、変かなっ!?」
「いやいや、そうじゃなくて、」
「あっ、でも向日葵ってやっぱり子どもっぽい柄だよね?やっぱりよせば良かったかな」
「そうじゃなくてっ、」
「ええ!?じゃあ何、わたしの顔?髪型!?」
––––––違ぇよ、どっからどーみてもだな、
「なんっでそんな重そうな
俺は希の胸元に下げられた大きな黒いカメラを指さした。俺の少ない知識によれば、多分それは一眼レフとかいうカメラじゃねーのか。
可愛らしい(と実際口には出せないが)浴衣に、その大きな黒は存在感がありすぎる。
「え?––––ああ。これか」
希はやっと合点がいったというように頷く。そしてそのカメラを愛おしそうにそっと撫でた。
「なんでって言われても。これ、わたしの通常スタイルだから」
「……は?」
「わたしの相棒、クロ亀くんって言うの!」
まだ理解の追いつかない俺に構わずいきなりカメラの愛称を紹介すると、希はにっこりと微笑んだ。
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