第3幕『Unbiased look at ...』

第3幕 //第1話

「おはよっ、玲央くん!」


 少し早く登校したある日の朝。

 教室で携帯をいじっていたところ、頭上から希の声が降ってきた。俺は画面から目を離して、顔を上げる。


「おはよう」

「うん!」

 希はにっこりと微笑んだ。その額には、汗に濡れた前髪がペタリと張り付いている。

「希……額の汗、すごいよ」

「え?」


 黒髪が、濡れたせいかいつもより少し艶っぽい。もしかして、今日も学校まで走ってきたのだろうか。遅刻ギリギリで教室に駆け込むことも多々あるから、あながち間違ってはいない気がする。

 

「あっ、ほんとだ!こんなに汗かいてるとは思わなかった!」

 希は慌てたように前髪を手で覆った。

「玲央くん、ちょっとあっち向いてて」

「何でだよ」

「いいから!向いてってば!」

「いや、何でだよ」

「だって汗びっしょりとか恥ずかしいでしょ!」

 もう、と文句をこぼしながら、希は恥ずかしそうに目をそらした。その間、左手は必死に鞄の中を漁っている。––––あ、もしかして、これを探してるのか。


「これ、使って」

 俺は、自分の鞄から黒いタオルを取り出す。好きなスポーツメーカーのタオルだ。一応、ちゃんと洗濯はしてある––––いい匂いのする(らしい)洗剤だから臭くはないだろう。


「……ありがとう」

 希は、しぶしぶといった感じで俺の差し出したタオルを受け取った。そのままタオルを頭に載せ、むう、と頬を膨らませる。

「……どうしてそこで怒ってんだ」


 ––––––え?まさか、まさか臭いとかか?俺のタオル、臭かったのか!?


「何か悔しい」


 ––––––おい、なんだ、そっちかよ。


 焦って損した、と俺は息を吐く。すると希は、頭上のタオルをぐいと掴んで自分の鼻に押し当てた。

「とってもいい匂いするの。この前わたしが貸したタオルなんて、ただの家のタオルだったのに」

「いや、希のも別にいい匂いだったけどな」

「でも、うちの、こんないい匂いしないもん!なんか悔しい!」


 ––––––っしゃ、母さんナイス。



 前回同様、母さんの洗剤のチョイスには感謝だ。

 そして内心では嬉しさでいっぱいになりながら、この前のお返しみたいなもんだろ、とさらっと付け加えた。本当はものすごく、ものすごく嬉しかったけれど。たぶん、顔には出てないよな。そんなことを考えてしまうあたりがまだまだ小物だ。


「うん。ありがとう」

 そう言って、希は嬉しそうに笑ってくれた。



「あ、そういえば思い出した!教えなきゃって思ってたこと!」

 唐突に、そんなことを言い出す。

「何を?」

「あのね!さっき聞いたんだけど、今日、席替えするんだって!」

「……席替え?」

 また、何でこんな月中旬の微妙な時期に。俺は怪訝な顔をしたが、希は喜々とした様子で続ける。

「今月まだ席替えしてなかったでしょ?それで、夏休み明けの九月いっぱいまでの席を、今日決めるんだって!」

「ああ……なるほどな」

 栄の考えそうなことだ。大方、席替えの時間を取ることとか席替え表を作ることとか、色々と面倒臭いって理由だろう。



「で、希は」

「うん?」

「何で、そんなに席替え楽しみにしてんの?」


 俺が尋ねると、希は目を大きく見開いた。え、なんでそんなに驚くんだ。

 元が丸くてくりくりした瞳なだけに、驚きでさらに丸くなるとちょっと面白い。黒い瞳は転がり落ちそうで––––うん、決して本人には言えないけどな。


「だって、席替えって楽しみじゃない?次はどこになるんだろう、誰と近くになるんだろう!ってちょっと緊張しながらも期待に胸を膨らませる、そんな一大イベントじゃないの!?」

「……は?」

「まだ話したことのないあの子と近くの席になりたい、でも仲のいい麻美ちゃんとも近くになりたい――そんな葛藤で胸を苛まれながら、たった一つのくじを引く、一大イベントじゃないの!?」

「いや……」


 ––––––ちょっと待て、一体どうしたんだ。


「ドキドキ、ワクワク。そう、胸を躍らせて新しい席につく。見える景色も、感じ方も違う、そんな驚きと嬉しさがある一大イベントだよ!一ヶ月に一回しかない、とって……」

「うん、ごめん、分かった。希にとってとっても大事なイベントってのは分かった、だからちょっと落ち着け」

「わたしは落ち着いてる!」

「分かったから落ち着け」

 勢いで身を乗り出してきた彼女の華奢な肩を、やんわりと押し戻す。席替えにかける思いがこんなに熱いやつ、見たことがない。そもそも、俺自身席替えには全く興味がないからな。


 ––––––まあ、窓際一番後ろのこの席は人と話さなくていいから気に入ってんだけど。



「それに」

 急に希が静かになった。

「それにね……」

「ん?どうした?」

「今度は、玲央くんと近くの席になれたら楽しそうだなぁ、とか思って……」

 想定外のところから来た変化球に、固まる。


 ––––––おまえ、それはナシだろ。


「って、ちょっと思っただけ!」 

 希がバッと顔をあげる。

「いや、そしたら、ほら、話しやすいし!」

「お、おう……」

 そこに、朝礼を告げるチャイムが鳴り出した。



 キーンコーンカーンコーン♪



 全く緊張感のない、機械的な音が教室中に鳴り響く。おい、チャイムだって少しはタイミングってもんがあるだろう。確実に、今のは間が悪すぎる。


「じゃ、席っ、戻るね!」

 案の定、希は弾かれたように席へと向かった。廊下にいたクラスメイトたちもぞろぞろと教室へと流れ、自分の席に戻りだす。


 ––––––まるで言い逃げみたいじゃねーかよ。



 俺まで席替えのことが気になり出して、その後の朝礼が上の空だったことは言うまでもなかった。

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