第2幕 //第6話
そうこうしながら、季節は進んだ。
二週、三週と続いた雨の季節は、そろそろ終わりを迎えようとしていた。
朝はしとしとと降っていた雨も、今日はもう止みそうだ。鼠色の雲の隙間から、うっすらと陽の光が差し込んでいる。一筋の光が、沼のような校庭に線を引いた。それは雲の流れに合わせて、途切れたらはまたつながり、消えては再び一本の道になる。
「っし、じゃ、連絡事項はこれで終わりだな。期末も二週間後だから、ぼちぼちやんだぞ」
栄が、トントン、と書類を揃えた。
「んで、日高・村上?」
「「え?」」
「お前らはちょーっと職員室寄って帰れ?」
「「え?」」
栄はにっこりと笑った––––目の奥は全然笑ってないけれど。
「いーから寄ってけ。留年したくねーなら」
「「あっ……」」
「……ぶっ」
誰かが吹き出し、それが引き金になった。教室が、一気に笑いの渦に包まれる。栄はそんな生徒たちには気にも留めず、書類をバインダーに挟むと教壇を降りた。
「じゃ、また月曜日な」
「さよーならー」
同時に、終礼のチャイムが鳴る。
––––––帰るか。
「日高、お前やらかしてんなー」
「俺は何もしてねーぞ」
「陽介はなにしたのよ、一体」
俄然賑やかになる教室に、俺は背を向けた。いつものように、鞄を肩にかけて。
***
北門を出て、とりあえず左右を確認。
この前の一件から、また三年のやつらが来るんじゃないかと一応気を張っている。また暴力事件なんて起こされたら面倒以外の何でもない。被害者だとしても、俺は“やっぱり危ないやつ”––––そういう風に広まるんだろう。
––––––っし、いねぇな。帰るか。
「ちょっと、そこの貴方」
突然、後ろから声がした。バッと後ろを振り向くと、そこには長い髪をなびかせた女子生徒が、仁王立ちで俺を睨んでいる。
あ。こいつ、この前の、
「倉持……さん」
一呼吸置いた俺の呼びかけに、倉持の眼光はさらに鋭くなった。
「なに、私の名前を忘れてたわけ?」
「いや……そういうわけじゃ……」
「信じられないわ。もちろん私は貴方の名前なんて知らないけれど」
「えっ!?」
倉持はフンと鼻を鳴らす。
「まぁいいわ。貴方、ちょっと付き合いなさいよ」
「は……っ!?」
––––––ちょっと待て。誰か状況を説明しろ。
困惑する俺に構わず、倉持は腕を組んだままさっさと歩き出す。俺は慌ててその後を追う。
「ちょっ……おい、倉持さん」
「おいとは何よ、失礼ね」
数歩先を行く倉持は、振り向いてまた睨んだ。美人なだけに、なかなか迫力がある。だがそんな理事長の孫娘が、俺に一体何の用だって。
「……っと、ここでいいかしら」
倉持はふいに立ち止まると、俺に向き直った。
そこは北門から少し歩いた先。道幅が広がって、二本に枝分かれしている場所だ。このまま道なりに真っ直ぐ進めば、駅前の商店街に出る道へと繋がる。反対に左の道は、閑静な住宅街へと続いている。いつも、俺はここで左に曲がる。住宅街に差し掛かって数分歩けば、俺と母、そして妹の住む家までもう少しだ。
そんな分かれ道のど真ん中に立ち止まって、倉持はふうと一息吐く。そして徐に腕を組むと、あのね、と切り出した。
「貴方、最近、希のこと避けているでしょう」
「えっ」
一陣の風に、亜麻色の長い髪がふわりと持ち上がった。
倉持は腕を組んだまま、真っ直ぐに俺を見つめる。
「……それは、」
「理由はどうだっていいの。貴方が何を気にしているのか、何に囚われているかなんて、私は全く興味ないもの」
「……っ、」
何にも包まない、剥き出しの言葉がざっくりと俺の心を抉っていく。
––––––俺は、囚われているのか。
「でも一つだけ教えてあげるわ」
倉持は髪をかきあげた。
「理由がどうであれ、貴方に、一方的にあの子を避ける資格はない。もしかして、希が嫌い?もしそうなら、そういった上で避けるなり拒むなりすればいい。あの子が単に声をかけてくる、たったそれだけのことに、貴方は一体何を怯えているの」
––––––俺は。俺は、怯えているのか。
「希は、自分の意志で人を判断する子よ。勝手に、彼女の意志を断ち切らないで」
そこまで言って、ふう、と息を吐く。
「じゃ、私はこれで失礼するわ」
呆然と言葉が出ない俺をおいて、彼女は身を翻した。
残された俺の頭には、倉持の放った言葉がこだまする。
“彼女の意志を断ち切らないで”
俺は、何か間違ったことをしたのか?
希が俺のように、避けられないように、レッテルを貼られないように––––そうしてとった行動は、俺の勝手なものだったのか?
じゃあどうすればいいんだ。俺に関わって、いいことなんて何一つないのに。
「……紫村くん」
控え目な声が、優しくシャツの袖を引っ張った。
この前のように、ちょんちょん、と。
––––––だからどーして、お前は。
「これ、忘れ物だよ」
差し出されたそれは、紺色の傘。
朝降っていた雨がやんだからだ。俺はどうやら教室に忘れてしまっていたみたいだ。
「……さんきゅ」
「ううん。あ、やっとこっち向いてくれたね」
へへ、と希は、嬉しそうに微笑んだ。
「吉田さんは––––どうして、俺なんか」
「え?」
もう、聞いてしまえ。
「俺の噂は聞いたことあんだろ?なのに、どーして」
擦れた声で尋ねると、希はきょとんと首を傾げて––––それからちょっとして、ああ、と笑った。
「そんなの決まってるよ」
肩まで下ろした、真っ直ぐな黒髪が風になびく。
「紫村くんと仲良くなってみたい、そうわたしが思っただけだもん」
すとん、とその言葉は心に落ちた。
“希は、自分の意志で人を判断する子よ”
ああ、だから。だから希は。
「ねっ、だから、これからはちゃんと友達になってね!ちょっと悲しかったんだから!」
少しだけ、彼女は頬を膨らませた。白い肌が、頬のところだけ、淡い桜色に染まる。
––––––ああ、唇の色と、同じだ。
「紫村くん、聞いてる?」
「おう、聞いてる」
俺は頷いて、希に向き直った。今度はちゃんと、彼女の、くりくりとした丸い瞳を見て。
「じゃあ、吉田さん…」
「希、でいいよ」
「いや、それは」
内心では呼び捨てにしていたわけだが、実際に口にするのは気が引ける。
「じゃあわたしも玲央くんって呼ぶから。だめかな?」
「……だめじゃねーけど」
「じゃあ、よろしく!」
無邪気な笑顔で、希は手を差し出した。だから、その顔はちょっと反則なんだって。
「の……希、」
「はい」
差し出された小さな右手を、俺は恐る恐る握り返す。
「これから、よろしく。……よろしく?」
友達を作るなんて久しぶりで、何て言ったらいいか分からない。
そんな困った俺の顔を覗き込んで、希はまたへへ、と笑う。
「よろしくね、玲央くん!」
そう言った希は、満面の笑みを浮かべていた。
***
誰とも、もう関わらないと決めたあの日から、二年半。
俺は今日、自分の意志を破ってしまった。
友達になることで、どうなるかは分からない。分からないけれど。
少しだけ、胸のどこかが軽くなった––––そんな気がした。
(第2幕 終)
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