第2幕 //第5話

「紫村くん、おはよう!」


 朝。

 靴箱で靴を履き替えていると、希が駆けてきて隣に並んだ。学校まで走ってきたのだろうか、少しだけ息が上がっている。希の持つ赤い傘から雨粒が滴り落ちて、すのこの上に小さな丸い跡をつけた。


「……おはよ」

 俺は目を伏せて、くるりと向きを変える。

「あっ、待って」

 希が慌てて靴を脱いだ。パタン、ガコンという、靴箱の扉が閉まる乱暴な音。

「あのっ、一緒に教室まで行かない?」


 ––––––どうして、また、そーゆーこと言うんだよ。


 俺はずり落ちてきた鞄を肩にかけ直した。あからさまに避ける態度を取っているのに、どうしてそんなに。

「……ごめん。俺、用、あるからさ」

 俺はそれだけ言って、逃げるように歩き出す。決して、後ろは振り向かない。振り向いて希の顔を見てしまったら、決心がぐらついてしまう気がして。


 足早に歩き出した俺を、希は追ってはこなかった。



 最近、俺は希を避けてばかりだ。


 あの日以来毎日声をかけてくる彼女に、俺は正直どう接したらいいか分からない。有難くトモダチになるのがいいのか、それとも、他の奴らと同じように無視するべきなのか。一度は“関わらないでおこう”とそう決めたのに、毎日毎日笑顔で挨拶されると、流石に無視続けるのは胸が痛む。


 今までは、俺の噂を知っていながら、わざわざ好んで話しかけてくる奴なんていなかったから、余計にどうしたらいいか分からないのだ。


 でも、俺はこう思う。

 正直俺に関わったって、いい事なんてないって。


 “危ない奴”––––そうレッテルを貼られた俺だ。俺と仲良くすれば、希も同じように避けられる事態もあり得る。ウワサが大好きな女子に、根も葉もない話を言われるかもしれない。


 ––––––だから、これでいいはずなんだ。


 希のくれた一時の優しさは、勿論嬉しかったけれど。もうそれで十分だ。俺は今まで通り、一人で生きていく。


「……あァもう、むしゃくしゃすんな」

 廊下を歩きながら、俺は髪をぐしゃぐしゃと掻きむしった。濡れた髪の毛が、手の平を湿らせる。梅雨は嫌いだ。雨も、湿気も、鬱陶しい。

 教室の入り口でたむろしていた女子生徒たちが、俺に気がついてバタバタと教室に入っていく。


 ––––––これだからな。


 やっぱり、俺の判断は正しかった。そんな気がした。




***




 それからも、俺は希と関わらないように努めた。そして、“希”という存在を気に留めないようにした。正確に言うと、彼女を周囲の一般生徒と同じように扱おうとした、といったところか。

 

 あの日以来、俺も自然と希を意識するようになってしまっていた。希の優しさに甘えていたい、希を無視することで胸が痛む……そんな気持ちは、希を一般生徒じゃないって特別視する俺に問題がある。だから、希と出会う前に、希のことを知らなかった時のように考えればいいんじゃねーか、ってな。


 しかし当の本人は、以前ほどではないが懲りもせず声をかけてくる。「おはよう」「また明日ね」––––––この、たった二言。毎日繰り返されるこの言葉は、俺の耳に刻み込まれている。まるで、じわじわと効いてくる暗示みてーに。


 ふとした時。一日に何度も、俺の頭はこの二言を再生する。少し高めの、透き通るような声で。柔らかそうな桜色の唇から漏れるその声に、俺はどうすることもできない。



 ––––––って待て。柔らかそうって何だ、って。



 ブンブン、と頭を振って俺は勝手に出来上がった妄想を打ち消す。何やってんだ、俺。柔らかそうとか、桜色とか、そもそも希の唇なんてまじまじ見たことねーだろーが。


 落ち着け、俺。

 

 ふう、と息を吐いて目を閉じる。そこに、教壇から数学科・さかえの声が降ってきた。

「おい、紫村。聞いてんのか」

 細い縁の眼鏡がトレードマークの、この数学教師は俺の方を向いてひと睨みする。俺のクラスの担任でもある栄は、口は悪いがそこそこ人気はあるらしい。俺に対する扱いも他の生徒と変わらず、その点では俺も一目置いていた。大抵の教師は、俺のことを怖がるか煙たがるかだったからな。


「紫村?」

「聞いてます」

「本当か?」

 眼鏡の奥の瞳が、ぎろりと動く。

「じゃあ、この問八、紫村が解け」


 –––––うわ、めんどくせぇ。


 思わず眉間に皺を寄せると、栄は睨むどころか、ニヤリと笑みを浮かべた。してやったり、といった表情だ。

 俺は一つ、溜息を吐いて席を立つ。仕方なく黒板に向かって、半分に折れた白チョークを手に取った。


「お前らも自分で解けよー」

 栄はそう言って、生徒たちの席の間を周り始めた。

「紫村、お前は早く解けよ」


 ––––––いちいちうるせぇな。


 ところどころチョークの跡で汚れた黒板を見上げる。書かれた問八は……何?“この曲線とx軸で囲まれた2つの部分の面積の和Sを求めよ”ってか。積分だろ。とりあえずx軸との交点を出して……チッ、計算がめんどくせぇ。


「おうおう日高、数学は美少女を眺める時間じゃねーぞ」

「あっ、栄取んなよ!」

「なら昼休みにでも眺めて喜んどけ、鼻の下伸ばしてかっこわりーぞ」

「伸ばしてねーよっ!」

 黒板に向かう俺の後ろで、どっと笑い声がした。


 ––––っせーな……。っと、これを足して答えは4だな。


 無心で解き終えて、俺は笑い声の中を席へと戻る。栄はというと、日高と呼ばれた男子生徒からグラビアを没収して教壇へと向き直った。


「おっ、紫村解いたか。答えは……」

 栄はニヤリと笑いながら、赤いチョークを手に取った。

「4だろ––––うし、正解!答えはあってるけどな、ちゃんと授業は聞けよ!」

「……っす」

「それから日高!」

 栄が日高という生徒の方を向く。

「美少女なんかよりな、この数式の方がずっといいぞ!女なんてな、怖いぞ、だから授業聞け」

「なんだよソレ!」

「栄センセー、ぜってぇ何かあっただろ!」

 教室が再びどっと沸いた。俺はその教室を何気なく見渡して––––ふっと希と目が合う。


 ––––––あ、ヤベ。


 希は手を口元にあてて、くすりと笑った。そして唇が動く––––さ・す・が?

「おーし、じゃ、次いくぞ」

 栄の声に、ハッと我に返って、俺は慌てて目を逸らした。



 それから、俺は希の座る方を決して見ることが出来なかった。

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