高橋は冷静さをとり戻す
ドアの向こうはまた廊下になっており、少し行った左手にあった部屋に竹上によってつれてこられた高橋は、緊張をほぐすために浅い呼吸を繰り返していた。
それほど広くない白一色の室内は、間接照明があるだけで薄暗く、なんとも言えない香の匂いが漂っている。さらにはジャンルもよくわからない音楽も小さく流れていて、まるで別世界に来たような錯覚に陥った。
部屋の中央にある真っ白な脚のないソファーに座っている、白づくめの格好をした太った男に、竹上が声をかけた。
「阿南さん、彼と、あと二人いるんですが、皆さん貯金を全額寄付してくださるそうですよ」
アナンと呼ばれた男が鷹揚に頷く。長髪をうしろで縛った彼のその顔は、俗に言う恵比寿顔で、とてもじゃないが、悪いことをしそうには見えなかった。だからこそ、誰もが騙されるのだろうが──。
「では、よろしくお願いします」一礼し、竹上が部屋から出ていく。
いよいよだ、と思った高橋は、また南條の言葉を思いだした。
『もし催眠術をかけられるようなことがあったら、別のことを考えていれば、たぶん大丈夫だから』
別のこと、別のこと、と心中で呪文のように唱えていると、「こちらへどうぞ」とアナンが立ちあがり、ソファーの脇に置かれた白い椅子へと高橋を誘った。
顔を強ばらせたままそこに座った高橋に、「大丈夫ですよ」とアナンがほほ笑みかける。
これから金をとられるのがわかっているのに、何が大丈夫なんだと高橋は内心で思う。しかし今さらどうにもできないのも事実なので、とりあえず落ち着こうと息をついた。
そんな高橋の横にアナンが立ち、「目を閉じてください」と穏やかに言う。
そのとおりにすると、彼の柔和な声が聞こえてきた。
「深く息を吸って……吐いて………吸って……吐いて………吸って……吐いて………吸って……吐いて………そう、いいですよ」
深い呼吸を繰り返すと気持ちが楽になった感じがしたが、これでは術にはまってしまうと、高橋は気を引き締める。
なおもアナンの喋りが続く。
「あなたは今、バイクのうしろに乗っています。次第にスピードがあがっていきます。そして草原へとやってきます。一面緑が続いています。そうです、とても綺麗な風景です。風を切って走っていて気持ちいいですね。……やがてバイクは、でこぼこした道にはいっていきます。バイクが揺れ、あなたの体も揺れます。……ほら、体が揺れてきましたね──」
そう言われて、本当に揺れた感覚がした高橋は、これはまずいと狼狽した。男の話に耳を傾けてはいけない、と脳が警告する。アナンの声は、なぜかしみこむように耳にはいってくるのだ。
そこで高橋は、南條のアドバイスに従って、自分が好きな古い洋画に出てくる俳優の姿を次々に心の中に浮かべ始めた。ロバート・レッドフォード、ジャン・ポール・ベルモンド、ポール・ニューマン、ジャクリーン・ビゼット、キャンディス・バーゲン、と知る限りの名前を絶え間なく思い浮かべ続けた。
そうすることで、アナンの声の支配から逃れた高橋は、もう何を言われようと心を乱すことはなくなった。眠りましょう、と言われれば、眠る振りをすることもできた。
これが催眠術のやり方か、と冷静に受けとめることができたのである。
そして最後に、予想どおりの言葉をかけられた。
「あなたは、貯金をすべておろしてきて、私達の教団に寄付したくなります」
もちろん、高橋はこくんと頷いて見せた。
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