西沢はちょっと心が痛む
夕食を済ませ、自室に戻った西沢が、机に向かってパソコンを起動させていると、小さくノックする音が耳にはいった。両親だったら無視しようと思っていると、「俺だけど」と兄の声が聞こえ、渋々ドアをあけた。
中に足を踏みいれた兄、慎一郎が、何を言うでもなくベッドに腰かける。
「なんの用?」
椅子に座ってじれた面持ちになった西沢をいっとき見つめてから、兄が口を開いた。
「最近、長く出かけられるようになったんだな」
自分とあまり似ていない、女性受けがよさそうな兄の顔は、むしろ嬉しそうに見えた。
だが西沢は、兄の好意的な感情にうまく合わせられない。
「悪い?」そっけなく返した弟に、それでも兄は笑顔を見せた。
「いや、いいことだと思ってさ」
どうしても素直になれない西沢は、無表情に兄を見返す。しかし心中では、まったく非がない兄を恨んで可愛くない態度ばかりとる自分にも、そんな態度をとられようと優しい目で見守ってくれている兄にも無性に苛立っていた。せめて兄だけには素直になれたらどんなにいいだろう、と思うも、すっかりひねくれてしまったせいでうまくいかないのだ。
兄が、不思議そうに首を少し傾けた。
「でも、どういう心境の変化なんだ?」
一瞬応えに迷った西沢は、パソコンへと目を移した。
「……この家を出られるかもしれないから」
「ってことは、仕事を探してるのか」
「そういうわけじゃないけど……」
「働く気があるなら、俺が就職先をみつけて──」
「それはいい」と遮って西沢は振り返った。「やりたい仕事は、自分で探す」
そうか、と兄が表情をゆるめた。
「そうだよな、慎次も、もう子供じゃないんだし」
わずかな沈黙のあと、兄が尋ねた。
「家、出たいのか?」
「そりぁね」西沢の顔に、皮肉げな笑みが浮かぶ。「父さんも母さんも、そのほうが嬉しいんじゃない?」
「そんなわけないだろ」怒ったように否定した兄が、心配そうに西沢を見やる。
「まさか……家出とか、考えてないよな?」
「家出するにも、先立つものがないから」
軽く応えると、兄がゆるやかに首を振った。
「家出は、応援できないなぁ。父さんも母さんも悲しむし」
「そうかな? せいせいするだろうと思うけど」
「そんな言い方はやめろよ、慎次」兄が大きくため息をついた。「でも、本気で家を出たいなら、アパートぐらいなら借りてやるぞ?」
「いいよ」
「どうして」
「兄貴の世話にはなりたくないんだ」
きっぱり言うと、兄が寂しそうな顔になったため、ちょっと心が痛んだ西沢もまたため息をつく。
「俺、自力で家を出て、自立できるようになりたいんだよ、もう二十二だし」
「そうなのか」と優しく言った兄が、思いを巡らせるように天井を見あげ、それから西沢に目を据えた。
「なんか……俺が兄貴でごめんな、慎次」
「は? なんのこと?」いきなり何を言いだすんだと西沢は驚く。しかし、兄は真顔でこちらを見つめたままだ。
「母さん達の、おまえに対するきつい態度は昔から知ってた。でも、子供の頃はどうすればいいのか、わからなかったんだ」
真摯な告白に、西沢は戸惑いを隠せない。無表情が崩れそうになる。
「兄貴はどうもする必要ないじゃん。俺がだめなんだってだけのことだし」
「俺は、おまえをだめだと思ったことは一度もないよ。なんに対しても、いつも一生懸命がんばってたじゃないか。そんなおまえを、俺は歳の離れた可愛い自慢の弟だと、ずっと思ってた」立ちあがって近づいた兄が、西沢の頭にそっと手を置いた。「これからもそう思ってる。だから、何かあれば俺を頼ればいいんだよ」
こんなふうに言われては、さすがに西沢も拒絶の言葉は吐けなかった。
「……考えとく」
ぼそっと言った西沢は、表情を見られたくなくて、兄が部屋を出ていくまで俯いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます