西沢は南條に見抜かれる

 すっかり暗くなった夕食前、西沢がベッドに寝転がってテレビをぼんやり観ていると、下から家族の笑い声が響いてきた。たちまち西沢の顔が不機嫌になる。さっきからずっとこんな調子で喋り声や笑い声が聞こえていて、うるさいことこのうえなかった。

 理由は、兄が婚約者を家につれてきているからだ。前に無理やり会わされたことがあったが、美人というより、可愛い系の明るいタイプの女性だった。両親ともに彼女のことを気にいっていて、遊びに来るたびに四人で盛りあがり、騒がしいのが苦手な西沢を憂鬱な気分にさせていた。

 今日も夕食の支度ができたら、兄が呼びに来るだろう。そして、おおらかで積極的な婚約者の彼女は、自分が引きこもりと知っていても、気にせずガンガン明るく話しかけてくるのだ。

 いい人だとわかっていても、想像しただけでうんざりしてしまった西沢は、財布だけをジャージのポケットにいれると、家族にばれないようそっと家を出た。そのまま近所の居酒屋に向かう。本当は少し離れたところにあるネットカフェのほうがいいのだが、だるいのと空腹なのもあってそこまで行く気になれなかった。

 和佐とも来たことのある小さな居酒屋の中にはいると、西沢は一つだけあいていたカウンター席の一番端に座った。

 とりあえず、大好きなだし巻き卵を注文すると、「居酒屋に来て、まずアルコールを頼まないなんて、珍しいね」と隣の男が話しかけてきた。

「そんなに金ないから」

 やけに人好きのする顔立ちをした男にそっけなく応えると、彼が笑みを深くした。

「だったら奢るよ、ビールでいい?」

 言うなり店員に「ビールとコップをください」と注文する。

「ちょっと待ってよ」

「あ、チューハイのがよかった?」

「そうじゃなくて」つい西沢の口調もきつくなる。「見ず知らずのあんたに奢ってもらう理由なんてないけど」

「理由ならあるよ」男が、出されたビールをコップにつぐ。「一人で退屈してたから、話し相手になってもらうと思ってね」

「何を勝手に──」

「私は南條だ、歳は三十五歳、職業は心理カウンセラーをやってる」名刺を出した南條が、ビールがつがれたコップを「どうぞ」と西沢の前に移動させた。

 金色に輝くビールの誘惑に勝てずに、小さく頭をさげてから、西沢はビールに口をつけた。ここまでされると、さすがに西沢でも断り切れない。

「……俺は、西沢」

 ぼそっと名を名乗ると、南條がじっと見つめてきた。

「君、何か悩んでるよね?」

 唐突に言われ、「は?」と西沢は目を丸くする。ビールを一口飲んで、コップを置いた。

「この世に悩みのない人間なんて、いるの?」

「まあ、人は大なり小なり悩みをもっているものだけど、君の悩みは大きそうだ」

「職業柄わかっちゃう、ってやつ?」

「逆だよ、そういうのがわかってしまうから、この仕事についたんだ」

「ふーん」

「よかったら、悩みを聞くけど?」

 南條は、カウンセラーらしくいかにも話しやすい雰囲気をまとっていたが、易々と打ち明けたくない西沢は、つんと横を向いた。

「カウンセラーに悩みを話すと、金をとられるんだろ?」

「君からはとらないよ、ここで会ったのも何かの縁だ」

「でも嫌だね、面倒くさい」

「会社員とは思えないから、学生かい?」

「スルーするなよ」

 西沢が怪訝に眉をしかめようとも、「じゃ、フリーターか」と南條はかまうことなく話しかけてくる。

「だから」

「わかった、ニートというやつだ」

 むっとしたように、西沢は南條を見据えた。「初対面の人間相手にニートって、失礼なオッサンだな」

「違うのか?」

「……そうだよ、しかも引きこもりだ」

 投げやりに返した西沢は、ちょうど運ばれてきただし巻き卵にかぶりついた。やわらかな物腰のくせにマイペースな彼にむかついた気分になっていたが、好きな物を食べると、なんかどうでもよくなってくる。ビールで少し酔ったせいもあるかもしれない。

「なるほど」と頷いた南條が、西沢のコップにビールをそそいだ。

「で? 君の悩みは?」

 もはや遠慮なくビールを飲んで、西沢は応えた。

「だからとにかく、家を出て自立したいけど、そのために必要な金がないんだよ」

「金か……いくら必要なんだい?」

「言ったら、あんたがなんとかしてくれるの?」

「だとしたら君は、私の金を受けとるかい?」

「まさか」西沢は鼻で笑った。「俺、二十二の若僧だけど、初対面の大人から金を借りるほど世間知らずじゃないから」

「だよね」

 笑った南條が、ビールではなく水を飲むと、真顔になった。

「自立する気があるのはいいことだけど、だったら、まず家にいたまま就職する気にはなれないのかな? それならお金も貯められるだろう?」

 もっともな意見だと思いつつも、西沢は口を尖らせた。

「俺にはできのいい兄貴がいるんだけど、世間体第一の親に、何から何まで兄貴と比べられるのは、もううんざりなんだ。俺の取り柄なんて、運動神経が人よりちょっといいくらいのもんなのに」

「ああ、兄弟と比較され続けて、何もかも嫌になったパターンか」

 納得したように息をついた南條が、はずした視線をまた戻す。

「そのお兄さんとの仲は?」

「悪くない、っていうか、こんな弟にでも優しくしてくれるいい兄貴だよ。だから相談すれば、親にも黙ったままなんとかしてくれるだろうけど、そんな兄貴にはなおさら頼りたくないんだよな」

 テーブルに肘をついた片手に顎をのせ、西沢は賑わう店内を鬱々と眺める。優秀なだけでなく、弟思いでもある兄は、悩みを話せばきっと力になってくれるだろう。でも、それではだめなのだ。そこで頼れば、ずっと兄を頼ってしまいそうになる。両親が言うように、自分はだめな弟のままだ。兄の呪縛から逃れて自力で生きていきたいのに、頼っていてはなんの意味もない。兄に勝てると思わないが、負けたくはない。そしてとにかく、西沢は自由になりたかった。

 本音を打ち明けられた南條が、浅い頷きを繰り返した。

「まあ、気持ちはわからなくもないな」

「金さえあれば、今すぐにでもあんな家から出ていけるのに……」

 表情に悔しさを滲ませて、西沢はだし巻き卵を口に放りこむ。

「君の悩みも金か……」

「も……?」

「いや別に。──じゃあ、もし一気に金儲けできる話があったら、のるかい?」

「……内容によるな」と返答したものの、しかし内心で、そんなうまい話があるわけない、と西沢は思っていた。

「とりあえず、連絡先を教えてもらえないか? 何かあれば連絡したいから」

 すっかりぐれた気分になっていた西沢は、南條のことをどこか胡散臭いと思いながらも、酔いの勢いもあって「わかった」と頷いた。



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