高橋は南條にグチる

 午後十二時二十五分、いつものように社員食堂で昼食を済ませたあと時間をもてあました高橋は、四階フロアの一番奥にあるカウンセリングルームに向かった。今までそんな場所に興味はなく、行ってみようと思ったことなどなかったが、なぜか今日はそんな気分になっていた。突然別れを言いだした彼女のことで、かなりまいっていたのだ。

 順番待ち用に置かれているらしい、廊下に並べられた椅子に誰も座っていないのを確認してから、そのドアを叩く。どうぞ、という声が聞こえるのを待って中にはいった。

 そこは二畳ほどの小さなスペースで、中央に白い机と二脚の椅子が置かれているだけだった。意外にすっきりした室内に足を踏みいれた高橋は、窓際の椅子に腰かけていた、同じスーツ姿の優男風のカウンセラーの向かいに座る。どうきりだしていいかわからず黙っていると、緊張をとくかのように彼がほほ笑んで名刺を差しだした。

「カウンセラーの南條です、よろしくお願いしますね」

 やわらかい口調で言われ、名刺を受けとった高橋は、思わず小さく頭をさげる。

「経理部の高橋です。よろしくお願いします」

「今日は、どんなお悩みでしょう?」

「その前に、堅苦しい丁寧語はやめてもらえないかな……俺はただ、愚痴を言いに来たようなもんだから」

 社内の誰かに愚痴を言えば、相手の愚痴も聞かなくてはならなくなる。しかし、そんなわずらわしさがないここなら好きなだけ愚痴れそうだ、と高橋は思ったのである。

「じゃあ、そうしようか」と笑顔で了解した南條が、顔つきを真顔に改めた。

「それで、何があったんだい?」

 渋い面持ちで、高橋はネクタイを少しゆるめる。

「二年付き合った彼女にふられたんだ」

「それって、この会社の人?」

「……企画課の山口美加」

 一瞬迷ったが、高橋は正直に白状した。南條が知っていれば、彼女のことを何か聞けるかもしれない。

 だが、彼はそんな様子を見せなかった。

「それは……残念な話だね」

「っていうか、百万ぐらいの指輪を買ったら、戻ってきてくれるらしいけど」当てが外れた高橋は、ちょっとやけ気味に事実を伝える。

 南條が、「え?」と目を見開いた。

「だったら、買えば解決──」

「そんな金があったら、ここには来てない」

「だよね」

 うんうんと南條が頷いた。

「だから、指輪なしでよりを戻せないかと、あの手この手で慰めたりしてるんだけど」

「慰める?」

「仕事でミスしたらしいから慰めて、詐欺にあったって言うから力になろうとしたけど、『もう彼氏じゃないんだから、私のことはほっといて』って、拒否された」疲れたように、額をさする。「いったい何をどう言えばいいんだよ」

 すると南條が、興味深そうに体を前に傾けた。

「彼女、詐欺にあったのかい?」

「引っかかるの、そこかよ」

「ああ、ごめんごめん」

 苦笑まじりに謝る彼に、さめた目をくれてから、高橋は言った。

「なんか、困ってる男に金を貸して、後日指定された場所に返してもらいに行ったら、どっかの宗教団体がセミナーを開いてて、ぜひ参加してくれって言うからそのとおりにしたら……あとで気づいたらしいけど、貯金を寄付させられてたって」

「ほう……」と南條が読めない表情を見せる。

 高橋はあり得ないとでも言うように首を振り、話を続けた。

「貯金をとられてあとで気づくって、そんなことあるのかと思ったけど、美加はすごいショック受けてるし、俺はどうすりゃいいんだって、感じなんだけど」

「かわいそうだけど、彼女が拒否してる以上、無理やりはだめだよ」

 諭すように言われ、高橋の肩が落ちる。

「打つ手なしかよ……俺がなんとかとり戻してやれればいいんだけどな」

 心の底から、高橋はそう思っていた。人嫌いで他人には優しくできない自分だが、愛する女性だけは別だ。美加は、気が強くて浅はかで面食いだが、そんなところさえ愛おしいと思えた。しっかりしているようで抜けているところも。感情を、よくも悪くもはっきり出すところも。──そこまで美加が好きなのだと気づいたのは、別れを言い渡され、あとの祭り状態になってからだったが。

「あー、その前に百万の指輪か……」

 彼女をとり戻したい、という思いが募る高橋の口からは、ため息しか出てこない。

「とにかく、まず百万が必要なら、とりあえず友人から借りたらどうだい?」

「友人と呼べる人間がいないわけじゃないけど、そこまで親しいわけでもないから、そういう借りは作りたくないな」

「親は?」

 顔をしかめ、高橋は頭をかいた。

「自分達のことでぎりぎりなはずだから、無理だね、絶対。っていう前に、ほとんど会ってないから、金のことで泣きつきたくないし」

 いい歳をして、それはすごく格好悪い行為だ、と高橋は常々思っていた。だからたとえ親が裕福で、頻繁に会っていたとしても、これまでのようにこれからも、金の無心をすることなどないだろう。

「でも、そんなことを言ってる場合じゃないんじゃ」

 もっともな台詞に、高橋の眉間の皺が深まる。

「なんだけど……自力でなんとかしたいしな……」

 悩む高橋を見る南條の唇が、わずかにゆるんだ。

「君は、人に頼るのが苦手なんだね」

「苦手じゃなくて、嫌いなんだ」

 不遜に返すと、「わかったよ」と南條が指を組んだ。

「なんとかできないか、考えてみよう」

「何? 考えてくれるのか?」

「カウンセラーは、人の悩みを解決するのが仕事だからね」

 そう言って微笑した彼を、高橋は胡乱な眼差しでただ、見つめた。

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