西沢は昼間からビールを飲む

 西沢慎次にしざわしんじは、缶ビールやつまみをもって訪ねてきた友人の和佐かずさと、二階の自室でだらだらと平日の午後をすごしていた。

「休みが決まってない仕事もたいへんだな」

 ジャージ姿でベッドにもたれ座った西沢が言うと、向かいに胡坐をかいた和佐が「まあな」と応えてビールをあおった。

「でも、だから平日の昼間っからおまえと飲める。その分、朝も夜もなく働かされるんだけどよ」缶ビール片手に、にやりと和佐が笑う。

 元不良だった和佐は、高校を卒業後も荒れた生活を送っていたが、二年前、成人したのを機に心をいれかえて探偵事務所にはいり、以来真面目に働き続けている。その荒れっぷりを知っている西沢からすれば、よくもここまで、と感心するほど和佐はかわったのだ。

「けど俺、この仕事むいてると思うんだよな」

「二年も続いてるしな。それに、和佐は顔が広くていろんな情報をもってるから、意外と重宝がられてるんじゃないの?」

 いつもは無表情な西沢がわずかに笑むと、和佐が気の強そうな目つきをゆるめた。

「俺みたいに喧嘩しかしてこなかったクソ野郎でも働けるってのは、ラッキーだと思うぜマジで」

「和佐はほんとにドヤンキーだったもんな、髪は金髪で学ランも改造してて、眉も細くしてたから、凶悪犯に見えてしょうがなかった」

「そんな俺に平気で話しかけてきたのは、どこのどいつだよ」

「不良になる気はなかったけど、自分もまともじゃないと思ってたから、親近感がわいたんだ」正直に話すと、「そんときは俺もびっくりしたぜ」と和佐が片眉をあげた。

「成績上位の真面目くんでハンド部のエースが、俺らなんか相手にすると思ってなかったからな」

 当時を思いだした西沢は、つまらなさそうに缶ビールに目を落とす。

「勉強も部活もやりたくてやってたわけじゃないし。っていうか、相手が不良とかどうでもよかったし」

 ははっ、と和佐が苦笑した。

「兄貴がすげー奴だから、投げやりになるのもわかるけどな」

「和佐って、兄貴のこと知ってたっけ? 七歳も上なのに」

「実は知ってたんだ。俺の先輩の兄貴が、おまえの兄貴と同級生で、そりゃあ有名だったらしいぞ。顔はいい、頭もいい、そのうえ運動もできて、女どもがアイドルに群がるみてーにキャーキャー騒いでたって」

「おまけに性格もいいしな、こんな俺に小遣いくれるし。そんなできすぎた兄をもつと、こういう、二十二にもなるのに引きこもってるクズな弟になる」自嘲して西沢は、皮肉げな笑みを浮かべた。ただ、こんな環境に生まれてきた自分を不幸だとは思いたくはなかった。そう思ったら、みじめな気分になるに決まっている。物心ついた頃から何かと兄と比較され、プレッシャーをかけられ続けてきたあげく、引きこもりになってしまった自分を、これ以上追いこみたくなかったのだ。

「そういや、もう一年になるか……」視線をあげてしみじみと呟いた和佐が、まっすぐ西沢を見た。「驚いたぜ、おまえが大学に行かずに、家でこもってるって知ったときには」

 その声は、真摯な響きを帯びていた。そう知って以来、暇ができると顔を見せに来るようになった和佐は、本気で西沢を心配してくれていた。ビールを飲んでたあいもない話をするだけだが、誰よりも心配してくれているのが西沢にはわかった。和佐は、上っ面の優しい言葉をかけるのではなく、本音で喋る。嫌なことでも、はっきり言う。だから、西沢も彼のことを信頼していて、ひねくれた自分を偽ることなく接していたのだった。

 なおも西沢を見つめたまま、和佐が問う。

「大学、戻る気ねぇのか?」

「やりたいことがわからないのに、大学に戻ってもな……」

「けど、このままってわけにはいかねぇだろ」

 和佐が表情を少しやわらげた。

「せめて、バイトでもやってみりゃどうだ?」

「西沢家の息子が、フリーターみたいな生活してたら、世間体が悪いらしい」

「今の状態は、それより悪いニートってやつじゃねぇのか? 二年遊んでた俺が言うのもなんだけどよ」

「今の俺は、体を悪くして大学を休学してることになってるんだ」しらけた面持ちで、西沢はこめかみをかいた。「だから大学に戻るか、ちゃんと就職するかしないと、父親は許さないと思う。──って言っても、兄貴と同じ会社員にはなりたくないから、大学に戻る気はほとんどないんだけど」

「じゃあ、どうしたいんだ」

「とにかく、この家から出たいな……世間体第一の親からも、すべてが完璧な兄貴からも離れたい」

 初めて願望を口にした西沢は、そう言うと一気にビールを飲み干した。「そうなったらどんなバイトでもやって、和佐みたいに一人で生活して、やりたい仕事を探したいかな」

「そうできりゃいいな」

 和佐が思いのこもった眼差しを向ける。

「おまえがうちの事務所に来るつもりがありゃー口きいてやれるけど、その気はねぇんだもんな」

「バイトならともかく、体を使う仕事には就きたくないんだ」

 西沢がきっぱり返すと、和佐が軽く舌を打った。

「おまえだって結構な身体能力してるくせに、なんだかんだ面倒くせー奴だぜ」

「そういうおまえは、面倒見のいい奴だな、こんな俺にわざわざ会いに来てくれたりして」

「やめろ、おまえが殊勝なこと言うと、雨がふる」

 ちょうどそのとき、一階で物音がした。母親が帰ってきたらしい。それがきっかけであるかのように、和佐が腰をあげた。

「んじゃー、そろそろ行くわ」

 母親が、不良だった自分を快く思ってないことを、和佐はわかっているのだ。『あなたみたいな不良が、うちの息子に関わらないで』などと直接言われた過去があれば当然だろう。それなのに、嫌な顔ひとつ見せずに付き合いを続けてくれる彼に対して、西沢は心底感謝していた。

 そんな気持ちをもちつつも、いつもとかわらず無表情に「またな」と西沢は手をあげる。

 ニッと笑って和佐が帰っていくと、心にぽっかり穴があいたような気分になった。


 空き缶を袋に集めた西沢が、それを手にキッチンにはいると、やはり不機嫌な顔をしていた母と目が合った。

「また来てたのね」

 予想どおりの反応を無視して、西沢は空き缶用のゴミ箱に向かう。

「高校のときに比べたらましな見た目にはなったけど、お母さん、やっぱり嫌だわ」

 母の表情からも声音からも、嫌悪感が滲み出ている。現在更生していようとどうだろうと、過去がだめなら、もうそれでアウトなのだ。常に真面目で品行方正な人間しか、息子の友人として受けいれられない。そんな考えをもつ母は、そして父も、真面目に生きて世間体を保つことこそがすべてだと思っている。だから、息子が突然引きこもりになったとわかったとき、母は卒倒しそうになり、父は激昂のあまり言葉が出ないほどだった。

 彼らは息子が引きこもりになった事実を、ただ怒り嘆いたが、なぜそうなったのか、という根本的なことは、まるで考えようとしなかった。彼らにとって一番重要なのは、息子の意思ではなく、まわりの目に自分達家族がどう映っているかを考えることだったのである。

「ねえ、あなたがこんなふうになったのは、ほんとにあの子のせいじゃないの?」

「あいつは関係ない」

 空き缶を捨てて振り向くなり、嫌な台詞を吐かれ、口をきくつもりがなかった西沢も思わず低く応える。

 その心の中では、あいつじゃなくて、あんたのせいだよ、と思いっきり吐き捨てていた。

 七歳年上の兄──慎一郎しんいちろうが子供のときから真面目で優秀で器用だったせいで、そうでもない西沢は、幼い頃から嫌と言うほど親に怒られてきた。

『お兄ちゃんを見習いなさい』

『お兄ちゃんはできたのに、なぜおまえはできないんだ』

 耳にタコだ。兄ができたからといって、弟もできるとは限らないのに。

 重圧をかけられ、比較され続けて、ときにはむかつき、ときにはうんざりしながらも、兄が気遣ってくれていたためそれなりにがんばってきた。嫌いな勉強もがんばったし、面倒くさい部活動もがんばった。言われるがまま必死に受験勉強し、親が選んだいい大学にも入学した。

 それなのに──。

『慎次はだめで困ったものだけど、そのぶん、長男の慎一郎がちゃんとしてくれてるから、将来も安心ね、っていつも主人と言ってるの』

 母が誰かと電話でそう話していた。それを聞いてしまったとき、西沢の中で何かがぷっつり切れた気がした。こんなにがんばってきたのに、俺はだめなんだ、という思いだけが脳内を支配し、もはや何もする気になれなくなった。大学に行かなくなり、自分の部屋に閉じこもった。それに気づいた両親は体調を心配したが、ただの引きこもりだとわかったとたん、態度をかえた。鍵を壊して部屋の中にはいってきた父に、初めて殴られた。なおも殴ろうとするのを兄が止め、その傍で母が泣いていた。

 なぜこうなったのか厳しく問われたが、西沢は頑として理由を応えなかった。口にするのも嫌だったからだ。ああ言った母の真意を訊くこともしなかった。もう何もかもがどうでもよくなっていた。二十歳をすぎてこのざまはまずい、と自分でもわかっていたが、壊れてしまった気持ちを立て直すのは無理だった。そして一年以上たった今、顔を見ればがみがみと怒っていた父は、「いい加減大学に戻るか、就職しろ」としか言わなくなり、母も涙を見せなくなった。彼らは、だめな次男のことをすっかり諦めてしまったのだ。こうなったら、世間体さえきちんと保てればそれでいいらしい。兄だけは、何かわけがあるはずといまだに心配してくれているが、西沢の凍った心を溶かすことはできていない。兄が何も悪くないのはじゅうぶん理解しているものの、しかし、もとはと言えば兄のせいだと思う気持ちもあり、どうしても素直になれなかった。

 それきり無言のままキッチンを出ようとした西沢に、「ねえ」と母が声をかけた。

「いつまであんな子と付き合うつもり?」

「死ぬまでだけど」

 振り返ることなく応えた西沢は、さっさと二階の自室に戻った。



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