柊はいいことを思いつく
翌日の日曜日の午後、お気に入りのジーンズをはいた柊は、電車で十五分、徒歩で十分ほどのところにある五階建てマンションに向かった。そこに住んでいるのは、二番目の姉が一年前に別れた夫で、今はすっかり他人の仲だが、四歳年上の元義兄──
オレンジ色のモダンなマンションの外階段を軽やかにのぼり、二○二号室のインターフォンを鳴らす。モニターで確認したらしい村瀬がドアをあけるや、「来たよ、武ちゃん」と笑顔を見せた。
「相変わらずバカ面だな」
そっけなく言って、村瀬が廊下の先にある部屋にはいっていく。そこはリビングだったが、ペットシッターをやっている彼の事務所もかねていた。
冷たい態度はいつものことなので、気にせず柊はついていく。事務所といっても、電話やメールで依頼を受けて出向くことがほとんどなので、部屋の隅にパソコンが置かれたデスクがある以外は、ソファーやローテーブルがある普通のリビングルームとかわらなかった。
常と同じく、ベージュ色の革張りソファーにもたれるようにラグの上に胡坐をかいた柊に、村瀬がミネラルウォーターのペットボトルを投げ渡す。コーヒーでもジュースでもなく、ただの水を投げて渡すというぞんざいな扱いを受けても柊は気にしない。彼の性格からすると、水を出してもらえるだけましなのだ。村瀬は、気に食わなければ玄関ドアすらあけない。運よく中にいれてもらえたとしても、水すら出ない場合も多々あるらしい。
だから柊は、部屋にいれてもらえて、さらには水まで出してもらえる自分は可愛がられている、と単純に思うことにしていたのだった。
そのままデスクの椅子に座り、煙草に火をつけた村瀬に、さっそく柊は愚痴をこぼす。
「また親父に殴られた」
紫煙を吐いた村瀬が、フッと鼻で笑う。
「そりゃ、おまえがバカ息子だからだろ」
「だとしても、毎日殴るかぁ? 俺の頭はサンドバッグじゃないっての」
「親父さんには、喋るサンドバッグに見えてるんじゃないか?」
「ほんとそう思う。姉ちゃん達は何やっても、絶対殴らねーのに」
「娘は可愛いからな、おまえはつい殴りたくなるバカ息子だからしょうがない」
「バカはしょうがないけど、恐怖症はしょうがなくね?」
「一つならまだしも、おまえの場合多すぎるからな。暗いとこに狭いとこ、高いとこに、あと尖ってる物か」言いながら、村瀬がハサミを手にして、その先端を柊に向けた。
「やっ、やめろよー」このうえなく嫌そうな顔で首を振り、柊は口を尖らせる。尖った物をこちらに向けられると、とにかく眉間が気持ち悪くうずくのだ。そして、嫌すぎて目をあけていることすらできなくなる。「親父も怒るとさ、柳刃とかまともとか、ぶんぶん振りまわすんだよ、トタン切るハサミだから、めっちゃとがってるんだって。もう怖いなんてもんじゃねーから」
柊が日頃の窮状を訴えると、とたんに村瀬があくどい笑みを浮かべた。
「そう言われると、よけいやりたくなる」
「やめろってっ」
本気で怒鳴ってようやく、村瀬がハサミをしまう。この話が出るたびに面白がってやってくるのだから、たまったものではない。
「まじでドSだな、武ちゃんは」
不満げに言ったものの、それでも村瀬が嫌いになれない柊は、ペットボトルの水を一口飲むと、気をとり直して話題をかえた。
「それにしても武ちゃんって、見た目すげークールだし、そんな性格でちゃんと客商売できてんの?」
無表情に、村瀬が煙草を灰皿に押しつける。
「おまえと違ってバカじゃないからな」
「そりゃー俺はうまくできないけどさ、犬や猫の相手なら得意だぜ」
そこまで返して、柊ははたと閃いた。この仕事って、恐怖症があってもできるんじゃないか? と。しかも、難しい言葉遣いをしたり、脳が拒否反応を起こすほど覚えたりすることもなさそうだ。身近にこんないい仕事があるというのに、なぜ今まで思いつかなかったのか──。
これならバカな自分でもやれる、と思い至った柊は、表情を輝かせて村瀬を見た。
「そうだ、俺を雇ってくれよ、武ちゃん! 俺、動物大好きだし、そしたら親父の仕事やめられるし」
たちまち村瀬が目を眇める。
「簡単に言うな、クソバカ。ペットシッターだって資格がいるんだ」
「資格って、どんな?」
「認定ペットシッターっていう資格があるんだよ。さらに俺みたいに開業するには、金をかける以外に動物取扱責任者として、動物取扱業の登録申請もしなきゃならない」
首を傾け、柊は眉を寄せた。
「なんか……むずかしそうな話だな」
「加えて、俺は愛玩動物飼養管理士の資格もとったしな」
「アイガン動物……何それ」
「日本愛玩動物協会の通信教育を受けて、資格試験に合格すると認定登録される民間資格だ。それをもってると、ペットの正しい知識やしつけとか、アドバイスしたり指導できる」
「……で、でも俺、動物好きだからできる気がするんだけど」よくわからないが、それでも柊はねばった。この機会を逃したら、ずっと鈑金をやらされそうな嫌な予感がしたのだ。
対する村瀬は、とりつく島もないほど淡々としている。
「ペットシッターは、動物が好きなだけじゃだめだ、責任感がないとできないし、バカにもできない」
「俺、ちゃんと責任感もつし勉強もするし、助手でいいから雇ってくれよー、頼むよー」
胡坐を正座にかえ、柊は顔の前で両手を合わせた。
「がんばるからっ、お願いしますっ、このとおりっ」
「無理だな」
「なんでだよー、可愛い義理の弟がこんなに頼んでんのに」
「元、義弟な」さらっと訂正した村瀬が、やれやれとでも言うように息をついた。
「実は借金があるから、今おまえを雇っても給料が払えない」
「そうなんだ、じゃ金いらねーから」
「バカ、それじゃ意味ないだろ」
「借金って、何?」
「おまえの姉に払った慰謝料だよ」
「あー……」自分も無関係ではない返答に、思わず柊の勢いも止まる。
村瀬は、以前は安定した職業──公務員をやっていた。しかし一年前のある日、突然相談もなく仕事をやめ、稼げるかどうかもわからないペットシッターになってしまった。そのため激怒した姉、
「それって、いくらだったっけ?」
「百万だ」
「げ、そんなに?」
驚いた柊は、思いきって言ってみた。
「姉ちゃんに頼んで、少し返してもらったら?」
「あいつがそんな優しいと思うか?」
すぐさま返ってきた応えに、確かに、と苦い面持ちで柊は納得する。どちらかといえば穏やかな長女、
「でもなぁ」柊は、困ったように頭をかいた。
「俺、武ちゃんのとこで働きたいんだよな……やれそうな仕事、全然みつからないし」
「じゃあ、俺の借金をポンと返してくれたら、雇ってやるよ」
「えっ」
「まあ、無理──」
「わかったっ」
村瀬の言葉を遮る勢いで、柊は嬉々として応えた。その心は、雇ってもらえるならなんだってやってやる、という思いで超盛りあがっていた。
あまりの勢いに鼻白んだ村瀬が、怪訝な目を向けた。
「……そんな金、もってるのか?」
「もってないけど、なんとかする」
「なんとか、って、どうやって」
「それはこれから考えるぜ」ニッと笑って親指を立てる。
「だから、そうしたら雇ってくれよ? な? な?」
「ああ、わかったわかった」
柊がしつこく念を押すと、面倒くさそうに返して、村瀬はパソコンを見始めた。
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