南條はさらに仕事をする

 心理カウンセラーである南條が、二年前、三十三歳のときに開いた『南條心理相談室』は、繁華街の一角の雑居ビルの三階にある。ガラス張りのドアを開くと、白を基調とした小さな受付室があり、壁際に椅子が三脚並べて置かれている。その隣がカウンセリングルームになっており、奥のドアの向こうが南條の居住スペースになっていた。

 川村が帰ったあと、受付に座って本を読もうとすると、整った顔立ちをしたスーツ姿の男がドアを開いて中にはいってきた。

「ここは、予約制でしょうか」

 尋ねられ、南條は本を置く。

「予約も受け付けていますが、今からでも大丈夫ですよ。相談が解決可能かどうか、まず面接を受けていただいてからになりますが」

 南條が説明すると、男はほっとした表情になり、「では、お願いします」と靴を脱いでスリッパにはきかえた。受付の前に立ち、「最近、よく眠れなくて困っています」と悩みを訴えた。

「それは、心理的なものだと思いますか?」

「だと思います」

「体に苦痛はありますか?」

「寝不足で、頭痛がすることはあります」

「そうですか、じゃあ」と、引き出しから必要事項を書きこむ紙をとり出し、南條は相談者に差しだした。

「ここに、お名前、生年月日、住所、連絡先、あと職業を書きこんでいただけますか?」

 ボールペンも渡すと、「わかりました」と男が紙に書きこんでいく。

 書き終えた紙を返され、彼が竹上敬たけがみたかしという三十八歳の会社員とわかったところで南條は立ちあがり、「現在、何か病気にかかってますか?」と質問する。

「いえ」

「過去に大きな病気にかかられたことは」

「ありません」

「それでしたら、カウンセリングに移りましょうか」

『只今カウンセリング中につき しばらくお待ちください』と書かれたプレートを出して台の上に置いた南條が、カウンセリングルームのドアを開けたちょうどそのとき、受付の電話が鳴った。

「すみません、すぐ行きますので、あそこの椅子にかけてお待ちください」

「はい」と竹上が中にはいる。

 そして南條はすばやく電話をとったが、受話器の向こうからは何も聞こえてこない。

「もしもし?」呼びかけても無音のままだ。

 首を軽く捻って受話器を置いた南條は、竹上の許に行くと、「お待たせしました」といつものように向かいに座った。

「眠れなくて困っているという相談内容ですが、何か不安なことでも?」

「とくにこれといって思い浮かばないんですが」

「家族間や仕事場でのトラブルとかは?」

「ありません」

「では、不満は?」

「それは、いろいろありますよ」竹上が背もたれに背を預ける。

「なんでも聞くので、話してください」

 南條が促すと、竹上が体を前に傾けて、顔をぐっと近づけた。

「それよりここって、どんな悩みをもった人が来るんですか?」

 その顔には、興味がありありと浮かんでいる。

 自分の悩みでいっぱいいっぱいになっている相談者達が、初っ端にそんな質問をするのは珍しく、一瞬戸惑ったが、南條は率直に答えることにした。雑談でリラックスできる場合もあるからだ。

「まあ、人間関係に悩んでる方が多いですね」

「ほかには?」

「そうですね……事故や犯罪に巻きこまれて、心労がひどい方とか──」

「犯罪と言うと、例えば」

「多いのは詐欺にあわれた方が……って、あなたの悩みを話されたほうがいいと思いますが」

 やんわりと本題に戻そうとすると、「すみません」と竹上が小さく笑いながら頭をかいた。

「気になったことがあると、よけいに眠れなさそうなので」

「そうですか」南條は納得する。カウンセリングするうえで、本人の気持ちが大事なのは言うまでもない。

 なおも竹上が問いかける。

「で、最近では、どんな詐欺にあわれた人がいたんですか?」

「詐欺にあったという方は、最近は来られてないですね」

 言ってから、南條の脳裏に、先ほど来た主婦の姿が思い浮かんだ。

「……ああ、悩みの原因が、実は詐欺にあったせいだったらしい方はいましたが」

「どんな詐欺ですか?」

「たぶん、催眠術をかけられて、お金を騙しとられたようです」

「そんな詐欺があるんですか。それで、警察に通報は?」

「被害にあった方がわけあって拒否してるので、まだしてません」

「わけ、とは?」

「詳しいことは、まだわからないんです。当事者の方とはお会いしてないので」

「そうなんですか……」竹上が同情するように眉をしかめた。

「なんだかたいへんそうで、お気の毒ですね」

「では、そろそろあなたの話を」

 南條が言うなり、竹上が表情をかえた。

「あー、なんか、自分より不幸な人の話を聞いていたら、ささいな不満や眠れないことなんてどうでもよくなりました」やけにすっきりした顔つきで、「なんで、もういいです」と相談を打ち切った。これには南條も戸惑いを隠せない。

「いいんですか? 本当に?」自己解決できればそれが一番だが、こんなパターンは初めてだった。

「はい、ありがとうございました。あ、相談料は、ちゃんと払いますから」

 さっと立ちあがり、竹上がカウンセリングルームを出ていく。彼とは反対に、どこかすっきりしない面持ちで、南條はそのあとに続いた。



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