美加は反射的に微笑む
夕刻、仕事を終えた美加が会社のはいっているオフィスビルを出たところで、高橋が声をかけてきた。すごく息をきらしている彼は、五階から乗ったエレベーターにはいなかったことを考えると、どうやら階段を使って追いかけてきたらしい。それにスーツの上着を着ていないし、鞄ももっていないので、おそらくまだ仕事中なのだろう。格好づけでいつもテンションの低い彼が、こんなにも必死になって自分を追いかけてくるなど初めてのことだ。元彼とはいえ、美加は少し嬉しくなった。 しかし、そんな気分ではないので、顔には出さない。
「美加」高橋が苦しげにネクタイをゆるめる。「もう一度話し合おう」
美加は小さく首を振った。
「悪いけど、そんな気になれないわ」
「話もしたくないぐらい、嫌になったのか?」
「そうじゃなくて」
「じゃあ、なんだよ」
「仕事でちょっとミスをね……だから、あなたと話せる気分じゃないの」
憂鬱げに言って目を伏せると、「そうか」と納得したらしい高橋が、力強く両腕に手をかけた。
「それなら話は今度でいいから。元気出せよ、美加」
優しく励まし、「またな」と高橋がビルの中に戻って行く。いつもなら「ああ、そうか」で終わりなのに、別れ話をしただけでこうも反応が違うとは、と一瞬心が揺らいだ美加は、慌てて首を振ると駅に向かって歩き始めた。
十月にはいったばかりで、まだ風は冷たくないが、夏がすっかり過ぎ去ってしまったせいか、ビルが並び建つ景色がなんとなく寂しげにも見える。自分と同じように駅に向かう会社員達にまじって歩いていた美加は、なぜこんなにも浮かない気分なのか、考えてみた。
仕事をミスしたから? ──それもある。だが、そもそもミスしてしまった原因は、芳成のせいよ、と心中で呟く。彼がもっとちゃんとしていれば、別れ話をすることもなく、仕事にも集中できたのに。
本心では、別れたくはなかった。面倒くさい性格も、慣れればそれなりにやっていける。何より、この二年はわりと楽しかったし、思い出もあった。確かに理想的な見た目に惹かれて付き合いだしたが、それだけで二年も続くとは思えない。自分はそこまで愚かではないはずだ。
「でもねぇ……」と、我知らず声がもれる。
来月でとうとう二十七になる。『三十代まで、あと三年もあるじゃない』と五歳年上でまだ独身の先輩に言われたが、二十代のうちに結婚したい美加にとっては、もうカウントダウンは始まっているのだ。まわりの友人が次々に結婚していく現実も、焦りに拍車をかけていた。
二年も付き合った彼との結婚生活も、考えなかったわけじゃない。しかし、豊かな人生を歩めるかというと……。そこで美加の思考が切り替わってしまう。
人間が生きていくのに最も重要なのは金だ、と美加は思っている。
美加が育った家は、とてつもなく貧乏だった。そのせいか、両親は喧嘩が絶えず、みじめなうえに楽しいとは言い難い子供時代を送っていた。貧乏はだめだ。絶対に。
彼と結婚したら、貧乏になると決まっているわけではないが、あの社会不適合な性格を考えると、嫌な予感がしてならない。だったら、別れるしかない、と自分に言い聞かせる。
「だって、もう二十七だし……」
また呟いた美加は、いつしか繁華街にはいっていたことに気づき、連なる明かりをぼんやりと眺めた。行き交う人の数も増え、街は賑やかな雰囲気に包まれている。
別れた以上、早くいい男を捕まえなくては、と覚えず気持ちが焦っていた美加は、何気なく見た先にベージュ色のスーツをスマートに着こなした格好いい男性をみつけ、つい見とれてしまった。
「……えっ?」
するとなぜか男性と目が合い、おもむろに近づいて来られて、思わず美加も立ち止まる。
間近で見た彼は、高橋とはまた違ったインテリ風の男前で、「あの……」と声をかけられた美加は反射的に微笑んでしまった。
「なんでしょうか」
美加がやんわり応えると、男性がひどく弱ったように眉をしかめた。
「見ず知らずの方に、非常に厚かましいお願いで申し訳ないのですが……お金を貸していただけないでしょうか」
「えっ、お金……ですか」
「ええ、一万円ほど……実家の父が倒れて、一刻も早く向かいたいのですが、財布を会社に忘れてきてしまったことにさっき気づいて……とりに戻る時間もないし……──貸していただけたら、必ず倍にしてお返しします」
お願いしますっ、と深々と頭をさげられ、美加はとっさに躊躇する。しかし、わずかな時間であれこれと考え抜いた結果、最終的にこれも何かの縁だという結論に達した美加は、男性に向かってにっこりと笑いかけた。
「わかりました、お貸ししますので、名刺をいただけます?」
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