Final Chapter: Recipient



 ・・・・・・ガタン・・・ゴトン・・・ガタンゴトン・・・

 ゆっくりと重い振動が生まれ、地を這っていくのがわかる。やがてそれは、放物線を駆け上るように加速し、轟音となって響きわたる。

 どこかに停車していた列車が走り出したのを機に、わたしは目が覚めた。やわらかい春の日和に照らされて、車内はあたたかな空気に包まれている。さらに列車の単調なリズムが心地よさを誘い、わたしはしばらく眠りに落ちていたようだ。

 右方のまぶたに光を感じ、うすく目を開く。すると、青と緑のコントラストが視界一面を覆った。

車窓を彩る明るい田園風景に、わたしはわずかに顔をしかめた。目をつくまぶしさがうるさかった。

両腕を上げて大きく伸びをしたとき、左手の先が何かに触れた。だがその感触はすぐに離れた。

「――あ、どうもすみません」

 わたしは腕を引っ込め、隣の座席に坐っていた人物に頭を下げた。その人は、わずかに身をひいた姿勢のまま首を振って微笑した。

「いいえ。僕もちょうど目が覚めたところなので」

 年のころは高校生ぐらいだろうか。やや長めのやわらかそうな前髪にかすむ二重まぶたが印象的な少年だった。大きな瞳には愛嬌が感じられる。

「どちらからおいでなのですか。僕が乗ったときにはすでに眠っていたようですので、近くではないですよね」

 少年は微笑んだまま、愛想よく話し掛けてきた。

「ええ、まあ」

 わたしは曖昧に答えた。

しかし、ここで無愛想に応じてしまうのも少し気まずい気がしたので、わたしは自分の出身地の名前を言った。

「へえ、ずいぶん遠いところですね! ずっと電車ですか?」

「ええ・・・」

 これは話がとぎれそうにないな、とわずらわしい気もしないではなかったが、一方でその少年らしい遠慮のない態度が爽やかでもあった。

「電車でのんびり旅をしてるんです。時間はたっぷりとあるから」

「・・・それは、いいなあ」

 少年はなぜか、遠くを見る目つきをした。

一瞬、その表情の中に寂しさが過ぎったような気がした。

「退屈なだけよ。何のめあても行き先もなく、ただだらだらと旅をしてるの」

「ふうん」

 少年はわずかに表情を曇らせたようだ。わたしの会話の中に、何か気に障る言葉でもあったのだろうか。

 少年はそれきり口をつぐみ、わたしは再び窓の方を向いた。少し気詰まりな雰囲気になった。

 ぼーっと過ぎゆく景色を眺めていると、おのずと自分の身の上のことに思いがおよぶ。

退屈で意味の感じられない人生だった。

ただ時を浪費し、漫然と過ごすだけの人生。これからもずっとそうなのだろう。

その空虚さと無意味さに自分の存在価値を見出せずにいたとき、父から旅に出ることをすすめられた。さしあたり何もやることがなかったので、すすめられるままに郷里を発ってもう一週間。しかし、状況はいささかも変化していない。いまだに旅をしている意味すら分からず、目的もあてもなく彷徨っている状況は、これまでの自分の生き方となんら変わるところがなかった。

「――あのう、もうちょっと話をしてもいいですか」

 おずおずとした少年の声が聞こえてきた。

 振り返ると、大きな目を上目遣いにしてわたしを見つめていた。

「話といっても、わたしには何も」

「じゃあ、僕の話を聞いてくれませんか」

 私は苦笑した。そして、わたしと話をしたってつまらないわよ、という意味で手を振ろうとしたが、結局そうしなかった。

少年の目は、真剣だった。

「あなたにはつまらない話かもしれないし、電車で乗り合わせた見知らぬ人に対して、ずうずうしいことかもしれませんけど」

 それでもどうしてもわたしに話したいことがあるらしい。それこそ見知らぬ他人――それも皮肉にも『ストレンジャー』であるわたしに、いきなり真剣になって何を言いたいというのだろうか。無論わたしにそのわけが分かりようはずもないのだが、彼のその印象的な瞳にはなぜかしら、とても切実な、どこか差し迫った思いが込められているように思われた。

 わたしはなんだか少し気圧されて、仕方なく頷いた。

「よかった。あなたと違って、僕には時間がないので」

 わたしと違って長旅ではなく、もうすぐ電車を降りるということだろう。そういう思い違いを、このときわたしはしていた。

 少年はまた遠い目をして、おもむろに語りだした。

「僕、心臓が悪いんですよ」



 少年は生まれつき心臓に異常があり、これまで大きな手術を二度施された。

はじめは三歳のときで、「心房中隔欠損症」という先天性の心疾患の治療のためだった。手術は無事に済み、その後十年ぐらいはほとんど何事もなく過ごした。

次に異常が発覚したのは、中学三年にあがる直前の十四歳のときだった。その日起きたときは別になんともなかった。しかし登校中、ふいに胸を圧迫するような息苦しさと動悸をおぼえ、道端にかがみこんだ。ただそれほど苦しくはなく、そのときは少し休んだだけでおさまった。

ところが学校の授業の最中に、今度は激しい胸の痛みが少年を襲った。体の内側から思い切り殴られたような衝撃だった。同時に息苦しさが増し、おそろしい眩暈に襲われた。そのあと視界が反転して真っ白になり、意識が遠のいた。

病院で目覚めたとき、ベッドのそばで、少年の両親が心配そうな面持ちで見下ろしていた。少年の意識が戻ると、両親はぱっと喜色をうかべ、やさしく呼びかけてきた。しかしその表情に、とくに母親の表情にはりつめた緊張の気配を見て取り、少年は漠然と自分の病状の深刻さを察した。

「拡張型心筋症」という病気だった。余命数年といわれる原因不明の心臓難病で、有効な治療法は心臓移植しかないということだった。両親の落ち込みようは見るに耐えないほどだった。少年は自分を襲ったその非情な現実をなかなか受け入れることができず、ひどいうつ状態に陥った。病状が安定して退院してからも、とても学校に通える心身状態ではなく、家に閉じこもりがちになった。

悶々として過ごす日々の中で、いつしか少年は、生きる意味について考えるようになった。今度はいつ発作に見舞われるのだろうか、そのときこそ自分の命は奪われるのではないか、とびくびくしつつも、一方でただ怯えたまま何もせずに生き続けることに悔しさと恐ろしさを覚えた。

――もし自分がもっとずっと長く生きられる人間だったら。

自らの身にてらし、少年はまずそう仮定することで、人間の未来を夢想してみた。

もし人生が無限であれば、人はどのように過ごすだろう。永遠の時間を得て、人は何をするのだろうか。もしかしたら、終わることがなければ何を始めてもしょうがないと思うかもしれない。時間は価値と意味を失い、人生の意義などないに等しくなるのではないだろうか。人生を無為に過ごしている人は、それがまるで永遠に続くものであるかのように錯覚している人なのではないか。そういう人は、末期を迎えたころになってようやく激しく後悔するのではないか。限られているからこそ、それをどこかで分かっているからこそ、人は一生懸命になれるのではないだろうか。

――まだ自分にだって与えられた時間はある。無駄にしてはいけない。

死を身近に捉え、それを直視することで、少年は人生の有限性を自覚し、その価値を悟った。

それ以来、少年は外に出て行動することが多くなり、比較的体調が良好なときには学校に行くこともあった。クラスメートとの付き合いには、さすがに以前のような馴れ馴れしさはなくなった。しかし少年には、その関係が以前よりずっと貴重で大切なものに感じられた。

もちろん、それで病気自体が改善されたわけではない。薬物による対症療法で病状をおさえつつ、その身に命に直結する危険を常に抱えつつ、ひたすら心臓提供者があらわれるのを待ち望む、という絶望的な現実は変わらない。恐怖と不安が消えたわけでもなく、焦りが高じて躁鬱状態を繰り返す日々もあった。

だがそうやって過ごすうちに、あたりまえのことを、とても貴いものだと思えるようになった。一方では、不治に近い病気を患ってはじめて、毎日が有意義なものになった気もし、また有意義でなくてはならないと思った。



「これから、田舎の祖母の家に行くんです」

 窓の外の緑景に目をやりながら、少年は嬉しそうに言った。

「今まで一度も一人で電車に乗ったことがないんです。もう高校生なのに」

 どうしても行動に制約を受けてしまう少年は、以前から外で旅をすることに憧れていたそうだ。近頃は体の状態がかなり安定しているので、両親を説得して一人で祖母のところへ行くのを許してもらったのだという。

「最初は反対されたんですけどね。でも祖母のところならそんなに遠くないし、ということで。ついてくるというのを何度も断って、やっと念願がかなったというわけです」

「・・・そう」

 ときおり外の景色に声をあげて感動をあらわす少年の様子に、わたしの心は不思議とざわついた。なぜだろう。

「すごいな。木や草が波打ってる。都市部とは明らかに違う。来てよかった」

 ――そうか。

わたしは気づいた。自分と正反対の気持ちと考えを持つ人間を前にしているからだ。この少年は、わたしに足りないもの、欠けているものを持っている。同じ風景を見てもわたしの場合、少年のように感動をわかせることはない。

「ねえ」

 わたしはうららかな日差しをさえぎるようにして、少年に向き直った。

「わたしの話もきいてくれる?」

 わたしのことを知ったら、この少年はどんな反応を示すだろう。どんなに驚くだろう。もしかしたら、またひどく落ち込むかもしれない。

 だが、わたしは話した。ひとつには、わたしにしては珍しいことに、少年への興味があったからだ。わたしはほとんど他人に対して関心を持たない。自分に対してさえ。そしてもうひとつには、これもまたさらに珍しいことに、この少年に対してなにやら畏怖めいた感覚をおぼえていたからだった。「おそれ」という感情の動きをほとんど味わったことのないわたしにとって、それはきわめて新鮮な感覚だった。

 いずれにせよ、わたしもまた少年との会話を続けたかったのである。



 わたしには生まれつき、明らかに人と変わっているところが二つあった。

 ひとつは、普通の人にはない特別な能力が備わっていたことだった。それは、自分の意思を他人の意識内に直接伝達する能力である。わたしは、言葉という論理的思考による理性のガードを透過して、相手の意識領域に自分の意思を侵入させることができる。

侵入したわたしの意思は、相手の意思に直にはたらく。その意味するところは、単に言葉を介せずして意思伝達が可能だというレベルにとどまらない。この場合のはたらきかけというのは、一方的に命じるということである。つまり、相手を強制的に自分の意思の下におくことが可能になるのだ。こちらの意思による他人の意思の支配、それがわたしの持つ「悟らせる」力である。ちなみに、他人の思考をよみとる「悟る」力とは逆のものだ。悟る力を持つ能力者も存在するということだが、わたしは会ったことがない。

ただ、この能力の行使にはいくつか難点がある。精神的な消耗が大きいために効果は一時にならざるをえないことと、相手にも自分の正体が知られてしまうことがそれだ。だから、決して無制限に使えるわけではない。乱用すれば、自分の身が危険になる。

しかしそれでも非常に強力なものであることには違いない。だが今のところ、その力がわたしにとっていったい何の意味があるのかわからないでいる。

なぜかというと、それがふたつめの点である。人にはない特別な能力のかわりなのか、他方でわたしには人間として著しく欠ける部分がある。それは人間性の最も主要な要素であり、個性の根本であり、生の活力であり、生きる衝動や行動の理由でもある。

それは「情」。わたしには、精神的な情緒や情動というものがほとんどない。欲望すらない。だから、何ために自分に特別な能力があるのか、それをどう使いたいかすら、さっぱりわからない。さらに、生きているのが楽しくも辛くも何ともない。そういった心の振幅や気分の動揺がないのだ。

加えて、極力人との関わりを敬遠する習性があった。情や縁故でつながる人間関係に煩わしさをおぼえるからだった。かといってこの社会に属しているかぎり、人間関係を拒絶して生きていくわけにもいかない。だからわたしは、他人とは常に一定の距離をおきつつ、決して深入りせず、干渉を受けない程度に過ごしてきた。表面ではときに愛想をもってあたりさわりのない付き合いをするが、実際は相容れず、精神的な一線をひいて踏み込まず、踏み込ませない。社会生活をするうえで最低限必要な関わり以外はもたないという無難な生き方が、わたしの唯一の信条だった。

だが、結局何のためにそんな無難な生活を送っているのかはわからない。心を満たすものはなく、あるのはいつも無限の虚無感だけだったが、それをおそろしいと感じたり、絶望にうちのめされたりすることもなかった。虚しさをおぼえるぐらいなら、まだしも救いがある。自分の人生に意味や望みを求めているからそう思えるのだ。わたしは自分の存在や人生に何の執着もないので、そんな気持ちにならない。

そして、心境に動きがなければ、自分を取り巻く世界も基本的に変化しない。自分から何かに関与しようとする気が起きないからだ。無感動であるということは、つまりそういうことだ。変化がない。だから自分には常に、内にも外にも、ほとんど動きのない、無機質で灰色の情景しかなかった。

外見は普通の人間であるが、本質部分でどこか普通の人間とは異なる。そのような者を、わたしたちは『ストレンジャー』と呼んでいる。人間社会にまぎれる異質なもの、見知らぬもの、という存在だ。わけのわからない能力が異質というのではない。ストレンジャーはその性格ゆえに、他者と打ち解けず、馴れ合うことができないのだ。

それでも、社会の片隅で、日陰に身を潜めてただ生き続ける。永遠とも思える無意味な時間をもてあまして、ただ漫然と刻の経過と世界の流転に運命の行く末をまかせる。

父もわたしと同じストレンジャーだ。彼は現在寺の住職で、山で隠居に近い生活を送っている。すでに人間社会からも離脱してしまった父に、寂寥感はうかがわれない。

無関係と孤独の中で生きる存在――そんな存在に何の意味や価値があるというのだろうか。

その疑問だけは常につきまとった。何のために生まれ、何を拠り所に生きるのか。それがわからなければ死ぬこともできないだろう。

だが、後ろを顧みても前を見通しても、あるのは単調な時間の流ればかり。何も見つけられない。何の足跡も残さず、何の萌(きざ)しももたらさない自分の歩み。

すぐそばでは、様々な足跡が交じり合い、入り乱れつつも束となり、一本の太い道をつくりあげている。その道の傍らに沿いながら、しかし決して交じりこむことのない自分。

要らないのではないか。

じゃあなぜここにいるのか。

答えは出ない。それこそ意味のない、自問の堂々巡りだった。

 ならば考えても仕方がない。

結局のところ、考えることもひまつぶしにしかすぎなかった。

それで全然かまわなかった。これまでは。

 ところが、今。


「だからわたしは、必要のない人間なの。人とかかわりをもつのを厭うから、人に必要とされることもない」

 いつしかわたしの口調は、熱を帯びていた。

 ――いったい、どうしたのだろう。こんな少年に。

 はじめておぼえる感覚だった。

この少年を前にすると、不思議と自分の内側からこみ上げてくるものがある。空虚だと思っていた自分のなかが、何か得体の知れない衝動で満たされようとしていた。

「わたしには、生きている意味なんてない。なんのために生きているのかわからない」

 目の奥に鈍く痺れるような感覚が生まれ、まぶたの裏に熱を感じた。視界がぼやけ、わたしはうろたえて目を閉じた。

 ――わたしが? なぜ・・・。

 閉じられた睫毛の合間から零れ落ちたものが、わたしの頬に軌跡を描いた。わたしは生まれてはじめて、泣いていた。

「そんなことはないよ」

 少年の声が遠くに聞こえた。

「あなたは恵まれた、必要とされる人間です。少なくとも僕にとっては」

 少年の声がすぐそばで聞こえた。

「だってあなたは、僕にないもの、僕が一番ほしいものをすべて持っている。だから僕には、あなたが必要です」

「・・・でも」

 それならこれを、と言って、少年は座席の足元に手を伸ばした。置いてあった自分のリュックを持ち上げ、そのサイドポケットを開けた。

 ポケットの中から取り出してみせたのは、手のひらサイズの黄色いカードだった。

「これは?」

 紙製のもので、プリペイドカードの類にしては簡素なつくりだ。

よく見ると、中央に手書きデザインされた天使の絵がプリントされており、その上に “臓器提供意思表示カード ”と字がうたれている。

「あなたが自分を要らないなら、僕がもらいます。いや、そういう意味では、あなたを必要とする人は世界にごまんといる。あなたが手にしているものがどれほど貴重なものか、僕たちにとってどれだけの意味をもつものなのか、それさえわかってもらえたら、少なくとも自分の存在を無価値なものとは思えないはずです」

 わたしはカードを手にとって、裏返した。

 裏面には、脳死や心臓死後に、自分が臓器を提供してもよいかどうか、そしてどの臓器を提供したいか、などをマークする項目と、署名欄があった。

「もしあなたが不慮の事故にあって、不幸にも脳死状態になり回復が見込めないとき、このカードを持っていると、僕のような心臓病患者などへの臓器移植が検討されるのです」

 少年は顔を伏せた。

「さっき僕は、自分に残された時間を大切にしなければならないと言いました。そう思うことで、日々が充実したものに感じられたとも。しかしそれでも、いつ訪れるともしれない死への恐怖は消えません。常につきまとっている不安のせいで落ち着かなくなったり、夜眠れなくなったりもします。やっぱり、どうしても「命」がほしい。生きる時間と確かな保証がほしいんです。だから、僕たちは移植提供者が現れるのを切実に待ち望んでいます。臓器提供されることで、僕たちは運命の呪縛から解放されます。でもそれは、他人から命をもらうことです。誰か健康な人の死によって僕たちは救われる。僕たちは、人の死を期待しているんです」

 少年はふたたび顔を上げ、わたしを見据えた。

「脳死がはたして人の生命の終わりといえるのかどうかですら、僕にはわかりません。脳死が人の死でないなら、その臓器を提供された人たちは生きている人を殺して助かっているのではないか、ともいえるかもしれません。でも、それでも自分のために生きたい。生きることそのものが、僕たちにとっての最大の夢であり、願いなんです。心臓受容者(レシピエント)になる人は、一生そのジレンマに苛まれることになる。「命」をもらうということは、それと同じ大きさの「罪」を背負うということなのかもしれません」

 わたしを見つめながら話す少年の目は、わずかに濡れて光っていた。その瞳は、車窓から差し込んでくる春の陽光を射し返し、強く輝いてみえた。

「命にはそれほどの重さがあり、生きるという行為自体にそれだけ重大な意味があると、僕は思います。今を生き、未来を生きるあなたは、僕にとっての夢なんですよ」

 夢――わたしが。

わたしはいよいよ落ち着かなくなり、少年から目をそらした。

 窓を見て、わたしは目を見張った。

 遠くに霞んでいく空の青の下、降り注ぐ日ざしに草木の緑が映える。光のきらめきがさざなみとなって広がり、わたしを包む。

景色が変わっていた。

 少年の言葉と、春の色が心に染みわたる。今まで灰色だった情景が、鮮やかな色をともなっていた。

 わたしの中に、何かが生まれたのだ。



 徐々に日が傾き、木々のつくる影がその背丈を伸ばしていく。

 それにともなって、外の景色が淡い緋のベールで覆われていく。

 だが列車は相変わらず、ほとんど変わらないリズムを道に刻み、無表情で地を走る。

 わたしは臓器提供意思表示カードに必要事項を記入すると、札入れに収めた。

そういえば、と思ってわたしは少年に問うた。

「どうしてわたしに、自分のことについて話そうと思ったの?」

 すると、少年は少し申しわけなさそうな顔をした。

「それはあなたが…」と言いかけて、首を横に振った。

「実は僕、人の心が読めるんです。ある程度ですけど」

 少年は冗談でも口にしたように笑ったが、わたしは笑えなかった。

 「悟る」力。これは冗談でも、話をはぐらかしたのでもない。たぶん、もっとも直接的な答えだ。

 そして、はじめに少年に対しておそれを抱いた理由がわかった。妙に惹きつけられ、昂(たかぶ)ったのもわかった。

 彼は本当に、何もかもわたしと正反対の人間だったのだ。


 わたしの呆然とした顔つきがよほどおかしかったのだろうか、少年はぷっとふき出して笑った。

 わたしのほうはといえば、ひたすら戸惑うしかなかった。そのように笑われたのも、こんなに驚いたのもはじめてだ。どんな顔をしてよいかわからなくなったのも、すべてはじめてのことだった。

 少年の快活な笑いはなかなかおさまらなかった。

そのうち、彼の笑い声がひきつるような感じになった。

 わたしは、おやと思った。

 少年は腰を折ってかがむような姿勢になり、手で胸元をぎゅっとおさえるようにしている。声はひきつる感じから、喘ぐような息遣いに変わった。

 様子がおかしい、と思ったとき、少年は突然、坐っていた座席から床に転げ落ちた。

 細かく痙攣を繰り返す少年の様子に、わたしは相変わらず呆然としていた。

 さらにそのとき――

 ドンッ、ガゴンッ

 と地面が鳴り、強烈な衝撃が突き上げてきた。

 視界が縦に大きく振動し、すぐに世界が横転した。

 わたしの身体は勢いよく横に投げ出され、なすすべもなく通路向かいの座席の背に叩きつけられた。後頭部と背中のあたりに鋭い刺激を感じたのを最後に、わたしの意識は途切れた。




 気づいたら、暗闇の中にいた。

 一切の光の介入を許さず、視覚的な質感が失われた完全な闇。

 すべてが茫洋とした無限の闇。

 いつ覚醒したのかのかも、定かではない。空間的な境目ばかりか、時間的な境界すら、闇にのみ込まれてしまったようだ。

 自分の置かれた状況を把握しようと試みるが、この世界にはそのためのなんの手がかりも見当たらない。

 結局わたしは、自分自身に問うしかなかった。

 だが、自分の中も同じようなものだった。濃い灰色の霧で閉ざされ、何も見つからない。

 いや、何もないはずはない。今やここには何かがあるはずなのだ。なぜか、そんな気がした。

 いったい何が起きたのか、わたしは懸命になって思い起こそうとした。

 深い水底から砂を掬いあげるように、意識の深層から記憶を手繰り寄せる。

 やがて、灰色の霧の中から、緑と青で彩られた風景が浮かんだ。

 一筋、光が生まれた。

 ようやく思い出した。

 いなかの田園風景の緑と、晴れ渡った空の青。

 わたしは電車に乗っていた。

 そこで乗り合わせた少年と会話をしていた。

 わたしはそのとき、色を得た。モノクロームだった情景に、色が落とされた。

 唐突に、異変が襲った。

少年が突然苦しみだした。その直後に強い衝撃がして地面が飛び上がり、横転した。文字通り、足元がひっくり返ったのだ。わたしは横にふき飛ばされ、何が起こったのか理解する間もなく、気を失った。

いまや、記憶は完全に取り戻していた。

 今度は、あのとき生じた突発的な出来事について推考してみる。

 最初にあった突き上げるような振動から、まず地震が考えられた。そのあとはおそらく、電車が脱線して車体が横転したのだろう。列車事故なら、あの強烈な衝撃もうなずける。そして、あの瞬間身に受けた鋭く重い痛みから、深刻な怪我に見舞われた可能性も考えられた。

 しかし、今のこの状態はいったいどういうことなのか。

気を失う以前のことはすべて思い出し、もはや意識もかなりはっきりしているのだが、依然として目の前の暗闇は晴れる兆しがない。

 実はまだ覚醒しておらず、眠っているのだろうか。夢から覚めたらまだ夢の中だった、ということは珍しくない。あるいは、事故の影響による何らかの障害かもしれない。

 これ以上は考えてもわからない。とりあえず、じっとしているしかないか。

 そう思ってしばらくすると、わたしの意識は再び遠のいていった。


 耳にかすかな風の動きを感じて、わたしは気がついた。

 額や頬に触れる冷たい感触があった。それがまぶたに移り、わずかに上に引かれた。しばらくはそのままだった。

やがてまぶたから離れたそれは、次に手首に移り、左腕が持ち上げられた。間接部分に何かが巻かれ、腕が締めつけられた。

 締めつけはほどなく解かれた。

 そこで、溜め息をつくような声が聞こえてきた。

「・・・血圧は正常だが、まだ意識は戻らないようだな」

 もう一人の声が、少し離れたところから聞こえた。

「呼吸もずっと安定しているようです。容態に変化は見られないようですが・・・」

「ああ。しかし、やはり頭を強く打っているし、瞳孔にも動きが見られない。意識が戻らないうちは依然として危険な状態だし、覚醒したとしても安心はできまい。脳か視神経に障害が生じている疑いがある」

 わたしは再び空気の動きを耳に受けた。

「では、あとはよろしく」

「はい」

 バタン、と扉の閉まる音がし、人の気配がなくなった。

わたしの周りは静寂に包まれた。

 しかし、わたしにはひとつ疑問が残った。

 意識が戻っていない?

 そんなことはない。

 さきほどの会話が医師と看護師のものであることは、容易に察せられる。状況からして、わたしは事故に遭ったあと病院に運ばれ、治療を受けたのだろう。それは当然の成り行きだとして。

 納得いかないのは、なぜわたしがいまだに意識喪失状態と診断されたのか、ということだ。今わたしの意識がはっきりしていることは、よく自覚している。肌に受けた感触や、耳に聞こえた音の質からして、これがよもや夢とも思われない。

彼は、「瞳孔に動きが見られない」と言った。瞳孔とは、眼球の中央部分にある孔のことである。それは外から入ってきた光量を調節する働きをする。光ばかりでなく、感情の変化によっても瞳孔は変化するといわれる。

 おそらく医師は、わたしのまぶたを開いて、瞳に光を当てたのだろう。そこで瞳孔に収縮の動きがなかったということは、光を認識する自律的な働きが損なわれた状態であることを示している。脳や視神経といった神経系に障害が生じている可能性がある、と彼は言っていた。

 つまり、それが答えなのだろう。医師はわたしのまぶたが閉じたままであることを根拠に、単純に目覚めていないと判断したようだが、実際はそうではない。ということは、おそらく事故の影響で、目がやられてしまったのだ。

 その証に、他の感覚器官は正常に働いている。

 ――視力が失われた。

 その事態に、わたしはかつてないほど落胆していた。というより、生まれて初めて、失望感に打ちのめされていた。

 せっかく色を得たのに。

 せっかく生きる意味をつかんだと思ったのに。

 だが一方で、嬉しくもあった。

失って嘆くほど大事なものが、わたしにもあったのだ。失うものがあれば、得るものもある。失望できるなら、救いがある。普通の人と同じだ。ならば少なくとも、自分は砂漠にはいない。生きていくための道筋が、自分にも必ずあるということだ。


そういえば、あの少年のほうはどうなったのだろう。

 自分の状態について把握できると、にわかに彼のことが気になりだした。

 列車事故の直前に彼の身を襲ったのは、明らかに心臓発作だ。その時点でかなり苦しそうだったので、事故が致命的なショックになっていなければいいが。

 そのとき、扉の開閉する音がし、人が入ってくる気配がした。

 肩のあたりを軽くたたかれる。

「**さん。**さん」

 耳元で声がかけられた。

「**さん。わかりませんか」

 看護師が意識を確認しているのだろう。

 意識はあるのだから応えていいのだが、わたしはなぜかそうしなかった。あとで思えは、このとき漠然と抱いていたある予感が、わたしにそうさせたということができる。

「・・・まだ、だめみたいね」

 看護師は小さく息をもらした。

「かわいそうに。列車の脱線事故に見舞われるなんて」

「隣室の高校生は、ほとんど助かる見込みがないって、さっき先生が言ってたわ」

 もう一人の看護師の声が聞こえた。

「もともと重度の心臓病を患っていたのに、それに事故のショックが加わって――。もう心臓移植しかないって。あの状態も長く保ってはいられないそうよ」

「移植か」

 看護師は、わたしの肩に掛けていた手をはずした。

「それこそ、望みは薄いわね」

 ベッドの毛布を整えると、二人の看護師は病室を出ていった。

 

どうやら、わたしの悪い予感は的中したようだ。

少年はほとんど危篤状態にあるらしい。助かる方法は、心臓移植しかない。

わたしは思わず笑い出しそうになった。

なんという偶然だろう。いや、これはもう運命といわざるをえない。

わたしは彼によって虚無の砂漠から救われた。生きていることの意味と重さを教えられた。そのわたしがまさか、今彼を救うことのできる最適の、おそらく唯一の人間であるとは。神のめぐり合わせとしか思えない。

わたしのもつ特別な能力、「悟らせる力」の特性を生かせば、それが可能なのだ。わたしは自分の意思を外にとばせる。これまでは主として、それを他者の意識内に侵入させて何らかの作用を及ぼすのに利用してきたが、要は、自分の意思を自在に取り出せるということだ。言い換えれば、わたしの意思は自由に動けるのである。からだから離れ、わたしの意のままに、どこへでも。

ただ、ひとつ懸念があった。

からだという物理的な拠りどころを失った思念というのはどうなるのだろう。たぶん、間もなく消えてしまうのかもしれない。さすがに、意思だけでは生きつづけられないだろう。だが、それでもかまわない。

すでに決心はついている。いささかの迷いもなかった。

幸い、医師や看護師は、わたしの意識がまだ戻らないままだと思っている。このまま実行すれば、妙な疑いをもたれることもあるまい。臓器提供意思表示カードは札入れに入っているはずだから、すぐにわかるだろう。

わたしは胸に両手をあてて、深呼吸した。

必要とし、必要とされる。そういうつながりが、人が生きている証なのだろう。生まれたときから、人は誰かを必要とする。必要とされる人がいなければ、生きていけない。自分独りで保てるほど、命は軽くないのだ。必ず誰かの肩を借りて重い命を背負っている。

「僕にはあなたが必要です」と言われたとき、わたしは震える思いがした。たったひとりであっても、心から自分を必要としてくれたら、生きている価値はある。無意味な存在などありえない。人は、完全に孤独ではいられないのだから。

わたしは、これまでにないほど真剣に、意識を集中させた。

看護師は、少年の病室は隣室だと言っていた。どうせなら、少年の心にとんでから消滅したいと思う。彼はきっと、わたしを受け入れてくれるだろう。

思えば、彼もまた『ストレンジャー』なのかもしれない。わたしとすべて反対の人間。能力も、性格も、考え方も。そしてそれらは、他の普通の人々とも異なっている。普通のからだを持ち、普通に生きることのできている恵まれた人々の中に、彼のように考えて日々を過ごしている人間はほとんどいないであろう。わたしのように無意味の砂漠で生きてきたのはもちろん、少年のように一日一日に「命」という重い意味を込めて生きるのもまた、特殊なのかもしれない。

わたしはそんな彼の瞳に、自分の隠れた願望を映し見たのだ。

彼はそんなわたしの心に、希望を見出してくれた。

少年は、生きなければならない。もっと、人と出会わなければならない。この空虚で揺らぎやすい世において、彼の存在はひとつの道しるべとなるだろう。わたしにとって、そうであったように。

 わたしは、胸の上で両手を組み合わせ、力強くにぎりしめた。

 自分の中にあるすべての意思と意識、そして生まれたばかりの「情」をひとつにする。何も残してはならない。空っぽにしてしまわなければならない。

 あなたは僕の夢だ、と言った少年の言葉がこだまする。

 わたしは、祈りをこめて、叫んだ。

 ――とべ。



 木の葉の影が窓に映され、風に揺れる。

光の帯が尾をひいて、部屋に差し込んでくる。

 さらさらと控え目な音を奏でる草木に混じって、時折響く鳥のさえずりが耳に心地よい。

 僕は上体を起こして、二階の窓から外の様子を眺めていた。

 ベッドの傍らでは、看護師が僕の腕をとっていた。

「――はい、いいですよ」

 看護師は、採血し終えたばかりの注射器にキャップを締めてケースにおさめた。

「血圧も安定しているし、食欲も戻ってきているみたいですね。このまま順調にいけば、あと二週間ほどで退院できそうだと、先生が言ってました」

「そうですか。どうもありがとう」

 僕が頭を下げると、看護師は微笑した。

「本当によかったですね。心臓提供者(ドナー)の方に感謝しなければね」

「ええ」

 僕は再び、窓の景色に目を向けた。

 目前で揺れ動く木々の緑と、上空一面に広がる青。

初夏の日光が、その彩りの調和を鮮麗に照らしあげている。

「ドナーの人に――」

「はじめに言ったけど」

 僕の言葉をさえぎって、看護師は言った。

「ドナーのことは、レシピエントには知らされないきまりになっているの。レシピエントからのコンタクトも一切――」

「いえ」

 僕は首を振った。

「ドナーになった方にも、この景色を見せたかったなと思ったんです。今度はきっと、喜んだだろうなあ」

 看護師は怪訝そうな顔をした。

「ドナーがどんな人かは、聞かなくてもわかります。もう僕の体の一部なんですから」

 そうね、と看護師は相槌をうった。もちろん、本気にした様子はない。

 僕は苦笑した。本当に、自分に心臓をくれた人が誰だか僕にはわかるんだけどな。

 電車で隣の席に座っていた若い女の人。

 寂しげな目をした人だった。

 電車の中で交わした会話から、彼女がどういう人間なのか、知った。彼女の心の訴えを、聞いた。

 彼女が自分のことを『ストレンジャー』といい、特別な力のことを語ったとき、僕は、やっぱりと思った。

 最初目にしたときから、なぜかしら妙に惹かれるものを感じた。それはたぶん、僕のほうも特殊な能力をもっていたことと無関係ではないだろう。人の心を読むという「悟る力」がそれだ。彼女の「悟らせる力」とは反対のものだが、それゆえに逆に引き合ったのかもしれない。

 わずかであっても、他人の心が見えてしまうというのは、恐ろしいものだ。僕の場合、とくに人の強い感情に敏感に反応してしまうため、それが苛立ちや悪意だったときは、たとえ自分に向けられたものでなくてもいたたまれなくなる。人間の裸の心は、そのままでは傷つきやすく、傷つけやすい。理性の蓋が外れた剥き出しの感情が、どれだけ繊細で危険なものか、僕は誰よりも理解しているつもりだった。

 ところが彼女の心を読もうとして、僕は少なからず戸惑いをおぼえた。

 彼女の心からは、何の感情の動きも感じられなかった。まるで、荒涼とした砂漠のような精神だと思った。

だが、まったく何もないというわけでもなかった。わずかに存在感があった。奥深く、おそらく心の深層部分に何かがあるように感じた。たぶん、それが彼女の本当の精神部分なのではないか、それがこれまで頑丈な殻に覆われたまま砂に埋もれてきたのではないか、そんな気がした。なんとなく、彼女がその殻を脱したがっているように、その戒めから解かれることを願っているように、僕には思われた。

おそらく彼女は僕と反対の性質を持つ人間だ、ということを、僕は漠然ながら「悟る力」で感知していた。そして彼女は、どこかで僕のような人間、ある意味においては自分と同じ側の特殊な人間を求めている。そんな無言の声が、彼女から聞こえたのだ。本能的な呼応のようなものかもしれない。だから、僕は彼女に自分のことを語った。

 僕は、窓から地面を見下ろした。

 病院の裏側にあたる眼下はちょうど駐車場になっており、数十台の車が停まっていた。

 一台の車から、一人の女性が出てきた。二十代後半ぐらいに見える女性で、手に花束を持っている。お見舞いのついでに、病室の花を換えに来たのだろう。

 あの人と似ているな、と思い、胸が痛んだ。

 彼女の「悟らせる力」の欠点に、能力の行使によって、その対象に自分の正体をも悟られてしまうというのがある。意思は理性と違い、個々の人間固有の性質そのものである。それをとばされた相手は、言葉で言われるよりもずっと明確に能力者のことを察知するのだという。意思同士のコミュニケーションは、互いの裸をさらし合うようなものだ、と彼女は苦笑いしていた。

 だがその欠点のおかげで、僕は、自分の中にあるのが彼女の命であることをはっきり自覚して生きていくことができる。これは僕にとって、とても大事なことだ。

誰の心臓かわからずに自分だけ生きるなんて、ドナーに対してあまりに無慈悲でやりきれない。レシピエントは間違いなく、その体にドナーの命を宿している。だから僕たちには、一生、ドナーのことを想って懸命に生きる責務がある。

僕は左胸に手をあてた。

 僕が助かったのは、脳死状態に陥った彼女から心臓を移植されたときではない。

 彼女が僕のために、自らのからだを捨ててその意思のすべてをなげうったときに、僕は死の淵から救われていた。僕の中に響いた彼女の声によって、僕の意識は覚醒した。

 彼女の最期のメッセージは、心臓とともに胸に埋め込まれている。

『ありがとう。がんばって』


「重いな」

「え?」

「人の心臓が、こんなにも重いなんて。僕ははじめて実感しました」

 二度目の人生、二人分の命――その重さが、心強かった。

 僕は胸を強くおさえ、目を瞑った。

 彼女の最期の声が、胸によみがえった。

「こちらこそありがとう。これからもよろしく」

 やや戸惑った様子で見守る看護師の前で、僕は感謝のことばを返した。






『私達はいわば二回この世に生まれる。

一回目は存在するために、二回目は生きるために』 ルソー


( End )

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