読み切り『憧憬の城』


 大学教育棟から新講堂へと続く渡り廊下。ふとその中央で立ち止まる。硝子張りの外に、夜のキャンパスを見下ろす。

 誰もいないのに外灯に照らされた空間は、とても綺麗で、静謐だった。

 右手にはレンガ調の瀟洒な建物が鎮座し、左手には無機質で近未来的な構造物が続いている。それらは、私にとってずっと「憧憬の城」だった。

 城の背後には、街の光が広がる。それがやけに遠くに見える。

 せわしい日常から孤立した、穏やかな一画。

 物理的な壁はないが、精神的に隔てられた空間。

 人生においては――社会という地上から浮いた雲。あるいはぽっかりと空いたモラトリアムの穴。それは、現実の狭間にある夢の場所だ。

 私はしばらく陶然とし、少し憂鬱な気分になった。

 ここはやはり、特別な世界だ。時間軸に見ても、空間座標として捉えても。私がここに託す思いも、特別だ。

 心象に浮遊する城の形影を、私の目は映し出していた。


 ここまで来るのに、どれだけかかっただろう。どれだけのものを失ってきたのだろう。


 寂寥感が、じわりとわき上がってきた。

 五年前の追憶が、灰色の情景となって蘇る。



 あてもなく街をふらついていた。

 意志のない足は重い。先には何も見えず、虚無感で崩れ落ちそうになる。後ろを振り返れば、激しい後悔で泣きたくなった。自分の価値と存在意義が見出せない。その心もとなさで、自分自身が霞んでしまいそうだった。

 しかし、それでも消え去ることはできないのだ。意味も分からずに存在し続けていることが、苦痛でしかたがない。

 交差点付近に差し掛かった。その手前で、道路工事が行われていた。

 警備員が旗を左右に振り、片側の通行車を止める。簡易に設置された柵を隔て、ヘルメットの作業員がスコップで穴を掘っている。時折、ショベルカーが土石を掘り起こす。傍らには、腕を組み、作業の進捗工程を観察する現場監督らしき人がいた。

 私は、そこに近寄った。しだいに足を速め、ほとんど駆け足になった。体当たりをするような勢いで、監督に声を掛けた。

「私を使ってくれませんか。何でもやります」

 監督は意表をつかれた顔つきをした。だがすぐに眉をひそめ、顎を上げて私を見下ろす格好になった。

 いきなりなんだ、という態度を露骨にぶつけてくる監督の圧迫に挫かれそうになりながら、ただ雇ってくれるよう愚直にお願いした。なりふり構わなかった。

 監督は呆れた表情で、小さく舌打ちした。傷ついたが、監督の態度は少し和らいでいた。

「でもなあ…」

 品定めするように、私の足元から上半身へと目を走らせた。そして首を横に振る。

「悪いけど、そんな細いガタイじゃ、無理だよ」

「何か、できることはありませんか」

 捨て鉢になって食い下がる私に、監督は、うーんと唸った。またしても、困った顔つきをしてみせてくる。だが、今度は首を振らなかった。それが人情によるものか、単に疎ましくなったからかは分からない。

「派遣ならいいかもしれんけど。うちの作業員の半分は、派遣労働なんだよ」

「派遣?」

「土方仕事の派遣労働者。今日ここに来てるやつに、聞いてみるか?」

 お願いします、と頭を下げた。労働形態にはこだわらない。欲しいのは、明日に必要なお金と、今日をやり過ごす意味のある行動だけだった。

 その日、作業を終えた派遣労働者について、派遣元の会社に行った。

 有限会社○○企画と看板が掛けられた事務所は、普通の住宅だった。自宅兼事務所の中に通された私が戸惑っていると、口ひげを生やしたジャージ姿の男が奥から出てきた。男は社長だと名乗った。

 簡単な書類を書かされた後、明日から来られるか、と訊かれた。大丈夫です、と答えた。

 翌日から、交差点の工事現場で働いた。



 私が夢想してやまなかった城は、虚構だったのだろうか。

 どこか実感がとらえにくく、浮遊する記憶と感情に歯がゆさを覚える。そしてなぜか焦燥感のような切迫した気持ちもあり、心の平静が乱される。

 ここに来て、本当に良かったのか。



 踏み外した原因は、嫌というほど自覚していた。自覚は、後になって取り返しがつかなくなってから覚えるものだ。時間を戻せたら、やり直せたらどんなにいいだろう。

 工事現場の仕事は、想像を超える重労働だった。半刻もたたないうちに、私の息はあがった。土埃が目に痛い。激しい眩暈と吐き気に耐えながら、ひたすら穴を掘り、泥をすくい出していった。

 やがて膝をつき、作業を止めた。ずいぶんと時間がたったように感じていたが、腕時計を見ると、まだ一時間も過ぎていなかった。穴の上にいる作業員から叱咤が飛ばされ、私は再び単調な作業に注力した。汗と疲労で視界がぼやけ、意識が薄れそうだった。

 こみ上げる涙を抑える。それでも、昨日よりはずっとましだ。



 後悔などない。あれ以来、二度と後悔はしないと誓った。

 後ろは見ない。前だけを見るために、私はここに来たはずだ。



 土方仕事は、半年ほど続けた。

 多少は慣れたが、肉体労働は相変わらずきつかったし、私の貧弱な心身にはこたえるものだった。手や足の皮はめくれ、肌は荒れてざらざらになっていた。

 そのわりに、給料は安い。労働賃金の何割かが、派遣元の会社に入るからだ。意外に私が長続きするからだろうか、監督が気を遣って話しかけてきたときがあった。

「がんばってるな。給料はいくらもらってるんだ?」

 日当を答えると、監督は眉を吊り上げた。

「そんなに安いのか? うちなら最低でも、その一.五倍は出すぞ」

 派遣で仕事を与えてもらっている立場なんだから仕方がない、とはいえ、相場の三分の二ではちょっとひどいかもしれない。現場から事務所に戻ったとき遠まわしに訊ねると、社長はやや虚をつかれた顔した。そして不機嫌な口調で言った。

「ピンハネしてるっていうのか。確かに他より手取りは低いかもしれんが、その分こっちで保険料を負担してるからだ。万が一、怪我とか事故とかあったときのためにな。他じゃ、そんなことまでしてくれねえぞ」

 保険か、それなら仕方がない。怪我をしてもほっといてくれていい、とは思わない。

 しかしその保険料というのは、日当から差し引かれるものなのだろうか。しかもその三分の一も。

 疑問はあったが、問いただすつもりはなかった。もとより給料の安さを承知の上で働いているのだ。余計なことを訊いてしまった。自分の無意味な欲が情けなかった。

 とにかく、私は作業に没頭した。そうしている間は、余計なことを考えずに済んだ。要は、現実逃避だった。



 ただ目の前の現実だけが、すべてだった。その先の本当の「現実」からは、目を背けていた。

 手放した「現実」。私はここで、それを取り戻せたのだろうか。



 半年経った頃、冬期間に入ったので工事現場の仕事は極端に減った。夏の時期は作業員が足りないのに、冬になると逆にあぶれてしまう。派遣に仕事がまわってくる余裕などない。派遣社員は、遠方に出稼ぎに行った。

 私にはそこまでする気力も自信もなかったので、仕事を辞めた。

 仕事がなくなると、とたんにまた空虚な思いに囚われる。見ないようにしていた「現実」が姿を現し、否応もなく私を押し潰そうとする。


 職業安定所に足を運んだ。

 中に入って、私は息を呑んだ。

 室内にひしめく人ごみ、相談窓口に並ぶ人の列。求職票の掲示板に群がる人たち。人、人、人。

 これが「現実」だ。

 私は耐えきれなくなり、背を向けた。



 「現実」と夢。どちらとも、向き合おうとしなかった。

 その二つを得るために、多くの持ち物と引き換えに、私はここにいる。 “時間 ”という失えば二度と手にすることができない、貴重な持ち物と引き換えに――。



 無料カウンセリングを行っているという広報を目にしたので、行ってみた。どこかにすがりたい気持ちがあった。

 出入り口で申し込みを済ませると、奥に案内された。相談室は衝立のような簡易な仕切りで区分けされていた。その一画に連れて行かれ、パイプ椅子に座って待つように指示された。

 しばらくして、カウンセラーとおぼしき人がやってきた。四十代ぐらいの背の高い女性だった。

 彼女は、小型のテーブルを挟んで私と向かい合って座った。簡単に自己紹介をすると、どのようなご相談? と問いかけてきた。

 私は、何から話したものか、と思案したが、にこにこと微笑むカウンセラーの顔を窺うと、何でもいいから素直に今思っていることから口にしていけばいい、という気持ちになった。こんなところまで来て、論理的に話をまとめることに気を遣う必要はない。

 私は訥々と語った。文脈のつながらない話にも彼女はまったく口を差し挟まず、聞き返したりもしなかった。時折メモ用紙に鉛筆を走らせる以外は、ただ黙って聞いていた。

 話し終えて私がほっと息をつくと、彼女はひとつ頷き、メモ用紙から顔を上げた。

「このこと、誰かに相談した?」

 私は首を振った。

「ご家族の方にも?」

「こんな状況、言えるわけがありません」

「お友達とかは…」

「そんな人は、いません」

 私は叫ぶように言い、彼女を睨みつけるように見上げた。

「ずっと、私だけです」

 声が震えた。こらえきれず、まぶたを閉じた。

「でも、こうしてわたしに相談に来てくれたじゃない」

 カウンセラーは穏やかに語りかけてきた。

「だから大丈夫。良い方に向かってるわ」

 私は彼女の言葉に応えられず、うつむいた。

「あなたは努力してきたのね。問題なんてない。自分の体験してきたことに、もっと自信をもっていい。だから…」

 彼女は身を乗り出してきた。

「だからほら、顔を上げて」

 私は戸惑いながら、顔を上げた。そして彼女からの答えを求めた。

「元に、戻れますか?」

「もちろん」

 大きく頷いてくれた。



 大学に行きたいんです、そう告白したときのことを思い起こす。ちゃんと大学で勉強しなおし、卒業したい。とっくに諦めていたはずの憧れと夢は、ここで叶えられる。

 しかしそれで、本当に戻って来ることができたのだろうか。一度手放した「現実」を、取り戻すことができたのだろうか。そのために失った時間だけは、確かなものなのに。

 ここは、大学教育棟から新講堂へと続く渡り廊下。渡り終えたとき、そこに私の探し求めた「現実」はあるだろうか。

 背後から、足音が聞こえた。

 振り返ると、よく知った大学の先生だった。

「あら、こんばんは」

 私は挨拶を返した。

 先生は私の傍らに立った。

「卒業後は、どちらに?」

 就職先の地名を答えると、先生はため息を漏らした。

「遠くに行っちゃうんですね」

「いえ、遠くはないですよ」

 私は硝子の向こう、街の光に目をやりながら、答えた。

「車だったら何時間もかかりません。すぐ帰って来られます。近いですよ」

 そう。もうすぐそこにある。手を伸ばせば届くところに。

 先生も同じ方向に視線を投じた。そうですね、近いかもしれませんね、と微笑むと、私の正面に向き直った。

「いよいよですね」

 先生の言葉が私の揺れを捉え、包み込んでくる。

「がんばってくださいね。楽しみにしています」

「はい」

 ただ一言、迷わず、はっきりと返事をしていた。

 先生が立ち去った後、あらためて硝子張りの外の世界を見渡した。

 右手にはレンガ調の瀟洒な建物が鎮座し、左手には無機質で近未来的な構造物が続いている。背後には、街の光が広がる。それがさっきよりも近くに見えた。

 浮遊していた世界は、ひとつづきの地上になっていた。

 虚構ではなかった。憧れの場所は揺るぎ無くここに存在し、私は確かにここにいる。憧憬の城は、今、私の足元を支える大地だった。


 私は踏み出した。渡り廊下の先へ向かって。

 私がかつて捨ててしまった、本当の「現実」が待つ場所へ。夢の先にある現実、 “将来 ”という方向へ。

 足に力が戻る。ほんのちょっと、立ち止まっただけだ。また、歩き出せばいい。

 少し早足になった。


(了)

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