Chapter2: Religionist



――「人間がもし寿命にしたがえば、他の動物のように本能的な自然死をとげ、死の恐怖にとらわれないため宗教もいらない」

 そう言ったのは、帝政ロシア出身の免疫学者である、E.メチニコフだ。ノーベル生理学・医学賞という栄誉の頂点を極めた彼は、その発言によって神を否定し、反宗教論を唱えた。宗教を拒否することによって、人間は生物として真の自由を獲得するということだ。たしかに、信仰や崇拝は人間を束縛する。

 だが一方で、人は信仰によって自信と平穏を獲得する。束縛されることによって自分自身を確立する。

 そして、信仰の究極の対象は「神」だ。だから、神というものほど、信仰するものにとって絶対的で好都合な存在はない。だが、そうでない人にとっては、これほど不確定でこころもとない存在もないであろう。

 自分にも神様はいるだろうか、と幼いころは自問したものだ。たとえ自分のための神ではなくても、世の中にはそのようなあらゆるものを超越した絶対者が存在していなければ、この世界は成り立たないと思っていた。

 だが今の私は、この世に万人にとっての神など実存しないことをよく知っている。その存在がフィクションであることを、明確に自覚している。メチニコフのように宗教が不要だと思っているわけではなく、神を信じたくないのでもない。ただ自らの手で現実を知ってしまったために、そういう形而上のものに本気になれないのだ。

 そう確信しているのは、私以外にもいるだろう。たとえば、私のような新興の宗教団体のトップにいる者だ。私を含め、神の存在を伝道する彼らのほとんどは、現代に合った、理想的で特殊な幻想をつくりあげ、それを特殊な人々に提供しているにすぎない。すべてつくられたシナリオであり、欺瞞と矛盾だらけのばかばかしい茶番であることは、教祖とか教主とかいわれてまつりあげられている提唱者張本人が、もっとも冷静に理解している。自分の手によって、人為的かつ意図的に創造したまぎれもない “創作 ”であるのだから、その当人にとって信仰の対象とはなりえない。ただし、中にはどこかで自覚を喪失して自身の妄想にとらわれてしまった狂人もいるが。

 したがって、世の人々には世俗を超えた次元の世界観や教義を提唱してはいても、実際のところは当人にとってのなんらかの個人的な都合――たとえば私利や権威、地位や名声といったきわめて世俗的な欲望と目的のための行為であるといっていい。

 どんな人間であろうと、現世に確かに生きている者が、世俗のしがらみから逃れられるわけがない。死以外の我々人間の行動はすべて、とどのつまり、現実の中で自らが自分のために生き抜く手段なのだ。

 また、あらゆる動物の中で最も脳が発達し、理性とともに思考力の備わった人間の高度な精神は、複雑で深い反面、もろくて弱い。ゆえに考え続ければ必ず、迷いや悩みが生じる。そのようなときに心のどこかに堅く信じられるもの――信条、信念、信頼、信仰――といったものがなければ、人は簡単に潰れてしまう。その人間ゆえの弱点、心の隙につけ込み、創りあげた張子の神を住まわせるのが、我々の役目というわけだ。

 フィクションだろうと妄想だろうと、与えられる方がそれを受け入れるなら、それは超現実的な神となる。絶対的な存在として君臨し、信者に自信と安心を与える。迷える人間は、救われた、と勘違いする。はたで見る限り、滑稽極まりないただの現実逃避なのだが。

 人間の精神の隙をつくことなど、私にとっては造作もないことだ。私には、普通の人にはない特別な能力が備わっている。そういう意味では、私は神に準じる者なのかもしれない。

 ただし、たとえかりそめであっても、現代の人間にとって私のような者が神であるのならば、世の中とはなんと不公平で無慈悲な世界なのだろうと思う。それは公平な世を創る神ではなく、公平な世界や人々の上に超然と立つ不公平な存在であり、迷いを抱く者や弱者を救う聖者ではなく、そういった人々の弱みにつけ入る卑劣漢だ。私はそれを十分に自覚したうえで、ただ自分自身の欲望のためだけに行動している。それはある意味において、人間以上に人間らしいのかもしれない。

 良くも悪くも、人間を超えた人間――それを、『ストレンジャー』と呼ぶ。もっともその呼称は、かつて、ある人物がそう言っていたのをそのまま自分に当てはめただけなのだが。



 私は子どものころから、地味で冴えない人間だった。うれしいことや楽しいことがあっても、それを子どもらしく率直に態度やしぐさであらわすことができなかった。そのせいで周囲とのコミュニケーションがうまくいかず、友だちもほとんどできなかった。だからよく「根暗」と呼ばれ、いじめられたり敬遠されたりした。

 しかし、私は決して “根が暗い ”わけではない。みんなと同じように同じようなことで喜んだり悲しんだりしたし、人並みに欲も望みもあった。むしろひょっとしたら、そういった感情は普通の人より強かったかもしれない。

 だが、私はそれをうまく表出することができなかった。外部からの影響を受け止める感覚は十分なものでも、それを出力する精神機能に欠陥があったのか、あるいは情動を抑制する機能が必要以上に強すぎたのか、詳しいことは自分にもよくわからない。とにかく、その性質だけは何度改めようとしても直らず、どうしようもなかった。だから私は、成長過程におけるかなり早い段階で、自分の不利な性格を矯正することをあきらめていた。

 その反動なのか、それとも反面なのか、私の内部のほうの神経は非常に敏感だった。具体的には、人の行為や態度から相手の感情を推し量ったり、なんとなく察知したりすることが得意だったのだ。

ただ、そのように唯一長じていた性質も、前向きなことに役にたったときはなかった。もっぱら、人の気持ちから逃げるという消極的な目的のためだけに活用された。なぜなら、「根暗」な私にわずかでも良い感情を抱く人など、皆無だったから。私は臆病なウサギのように、びくびくと落ち着きなく人の顔色ばかりうかがって暮らしていた。

ひたすら逃げていてばかりの人生の虚しさと、余計な精神的疲労感に苛まれ、いつしか私はそのまま生き続けることに意義を見出せなくなっていた。

そんな鬱々とした陰気な日常に変化が起きたのは、高校も半ばを過ぎたころだった。


“神山君とお話ししたいなあ ”

 退屈な日本史の授業中、眠りに入る前にふと窓際に座る彼女に目を向けたとき、突然そんな言葉が頭に響いてきた。私は驚いて、二列ほど離れた左斜め前方に座る彼女を注意深く見つめた。しかし彼女はこちらに背を見せたまま身じろぎせず、ただじっと前方の黒板に顔を向けていた。

 戸惑いつつも、幻聴か妄想の類だろうと軽く頭を振って、再び眠るために机に伏してまぶたを閉じる。すると、また聞こえてきた。

“神山君は、わたしのことをどう思っているのだろうか ”

 まぎれもなく、彼女の声だ。

 私は頭を上げた。眠気など完全に払拭されていた。

 彼女を見る。だが相変わらず彼女はそのままで、声を発したどころか、わずかでも動いた様子すらうかがわれない。

 私は額に手をあてた。手のひらが汗でぬるりと滑った。

 幻聴などでは決してない。確かにはっきりと聞こえた。まるで耳元で囁かれたように。いやむしろ、そんな声や音以上に明瞭に、直に頭の中に伝わったという感じだ。

 彼女の両肩がわずかに上下した。小さくため息をついたようだ。そしてその言葉は、私の意識の中に直接入り込んできた。

“神山君 ”

 

「ちょっと、いい?」

 私はホームルームのあと、帰りを急ぐ生徒であわただしい教室内で、彼女に声をかけた。自分から誰かに声をかけたのはいつ以来だろうか。だが、このときは自信が後押しした。

「・・・なに?」

 鞄を手に持って席を立とうとしたところを背後から呼び止められた彼女は、私の顔を見てやや意表をつかれたように、あごを引いた。

「このあと、時間ある? ちょっと話をしたいんだけどさ」

 ぶしつけな誘い方でも、拒絶されない確信があった。

「・・・・・・」

 彼女は眉を上げ、目を見開いた。口も開いていたが、それはことばを継ぐための状態ではないようだ。

「放課後、大丈夫?」

 私はもう一度訊いた。

 彼女は目を伏せ、頷いた。


 私は彼女に、先刻の授業のときの奇妙な体験を語った。彼女はさすがにうろたえながらも、あのとき私に聞こえてきたことを授業中考えていたと答えた。そしてもちろん、口に出して言ってなどいない、とも。彼女の話と私の身に生じた出来事を考え合わせると、どうやら私のほうが彼女の思考を感じ取ったということになるらしい。

 いかにも不思議な現象だったが、私はとにかく現実に起きたこととして納得してしまうことにした。なぜなら、私は以前から彼女を意識しており、これは私にとって願ってもない事態だったから、たとえ超常的で説明不可能な現象でもとりあえず受け入れておきたかったのだ。

 その日から私たちは交際をはじめた。以前の私であればとても考えられないことだったが、気持ちが私を前に動かした。抑え込まれてきた感情のたがが外れ、せき止められた水が堰を破って溢れ出すがごとく、私は自分の思いを積極的に行動に表した。思いがけない僥倖がきっかけとなって、自分が変わりつつあるということを信じて疑わなかった。

 また、さらにその後も、彼女の思っていることや考えていることが、耳を介さず意識内に直に伝わってくることが何度もあった。そしてそういうときは、決まって刺激的な衝撃を感じた。脳内の神経繊維を超高速度で伝わるインパルスが外部から直接与えられているような、違和感がありながらも心地よい刺激だった。

 一方彼女のほうといえば、はじめのうちは、たびたび私の身に起きる現象に戸惑いを隠せずにいた。しかもそれがすべて自分の思考や意識に関係したことばかりなのだから、無理もない。

 だが、そんな不思議な体験を重ねていくにつれ、私と彼女の仲は次第に親密になっていった。私はもちろんのこと、やがて彼女の方もこの普通でない意思の疎通を好むようになったのだ。彼女が言うには、想いを口に出すのは恥ずかしいし、思ったことをつくった言葉で完全に言い表すことはできないから、ということだった。彼女が無音で語るとき、私の中にはいつも、情熱的な言葉が響いた。


「神山君は、みんなにとって、そしてわたしにとっても『ストレンジャー』ね」

 ある日唐突に、彼女が言った。何のことかわけがわからずに言葉を返せずにいると、彼女は瞳をきらきらさせながら僕を見つめた。心なしか、少し攻撃的な視線のように感じた。

「 “見知らぬ人 ”という意味。神山君は特殊な能力を持っていて、普通の人間にとっては理解できない不思議な存在だけど、神山君のほうはわたしや、みんなの気持ちを理解できてしまう」

「いや、ほとんどは君の思ったことだけだ。それにいつもじゃないし」

「いいえ、それはわたしの神山君への気持ちが特別だから、とくに強く感じるだけだと思う。わたしがいなければ他の人の「声」もきこえるようになるし、もっとその能力が伸びていくと思う」

 そうなんだろうか、と私は少し考え込んだ。そして、あることに気がついて思わず声をあげた。

「そういえば、いまさらおかしなことを訊くけど、どうして僕なんかのことを・・・つまり、僕のどこを気に入ってくれたの?」

 心を満たす快い感情のうねりに身をゆだねっぱなしで、これまで一番肝心なことを確かめるのを忘れていた。だいたい、そんな核心的なことに限って能力による感知がはたらいていないのも皮肉なことだった。

 しかし彼女は笑って首を振った。

「さあ・・・どうして好きになったのって言われて、きちんと答えられるぐらいなら、かえって程度が知れるものだと思うけど」

 そして彼女はまた、私の目をじっとみつめた。私はその濡れて黒光りする瞳の奥に吸い込まれそうな錯覚をおぼえた。

 彼女は言った。

「私の心を、読んでみて」

 その瞬間、私は軽い眩暈(めまい)に襲われた。

 視界がぼやけ、彼女の両眼だけが宙に浮かんでいた。


 それから一ヶ月もたたないうちに、彼女は私の前から姿を消した。彼女は最後まで何も言わなかったが、私は彼女が転校することを既に知っていた。「ほんとう、知られたくないことまで、わかっちゃうんだね」と少し淋しそうに微笑みながら、彼女は立ち去り際、こう言った。

「まるであなたは、神様ね」



 きっかけはささいなもので、ごくありきたりな恋愛感情だったかもしれない。しかし、私の特別な力がいつ身についたかといえば、もともと生来備わっていたものが、あのときを契機に発現したということになるだろう。

「わたしだけじゃなく、神山君のわたしへの感情もあったのかもね。無条件ではなく、波長が合うっていうか、互いの感情レベルで性質が一致したときに、 “読める ”ってことかなあ」

と、彼女ははにかみながら分析していた。

 さらに言えば、彼女の最後の一言が、私の意識の奥深いところに潜んでいた何かを刺激し、その後の人生を劇的に変えるスイッチを入れたのは間違いない。『神』という単語に、私の心は激しく揺さぶられた。劣等感が自信へと大きく転換され、それとともに臨界ぎりぎりまで抑圧された攻撃的な感情エネルギー――欲望、欲求、欲心、そして欲情といったものが、はっきりした形となって私の心を占めた。押し寄せる感情の波動――これほどに強く激しい感情がどこに潜んでいたのかと、自分自身でも戸惑うほどだった。

私の表の性格も一変した。私のにわかな変貌ぶりに周囲はいぶかしみ、彼女以外は私を敬遠するまでになったが、私自身は新たな精神エネルギーでみなぎる新鮮な感覚を爽快に感じていた。

 またそれに伴い、能力のほうも飛躍的に発達した。周囲の様々な人間の思考や気持ちを、意識を集中させるなどして察知することが可能となった。

 ただ、誰のものでも読み取れるというわけではなく、人によって適用できる場合とできない場合があるので完全とはいえないのだが、少なくとも自分と「波長の合う」人間ならば、黙っていても相手の思考や感情が私の中に伝わってくるぐらい感度は鋭敏だった。

 やがて、私は決心した。

 今までは人から遠ざかってきたが、これからはむしろ自分から接近していこう。逃げや守りから転じて、それまで周囲の人たちとの意思の交感に存在していた隔たりを、目覚めた能力によって解消していこう。

 だが気持ちが積極的になるのに比例して、新たな欲望の芽も生まれては、どんどん成長していった。私の中で膨らみきって具体的な姿となった欲の照準は、能力と同様、他の人間の内部へと向けられた。

 ――人の心の内を読むことは、普通の人間にはできない。自分は普通の人間にはない力を備えた、特別な存在だ。この力を生かせば、これまでずっと劣等感を抱きつづけてきた普通の人々に対して、神にも悪魔にもなれるだろう――。

 普通への憧れと、そうでないことへの引け目が、完全に消えた瞬間だった。

 熱にうかされたような高揚感で舞い上がる意識の中で、「あなたはまるで、神様ね・・・」という彼女の言葉が、新たな人生の門出を祝福する鐘の音となって繰り返しこだました。


 今にして思えば、あのときの “鐘の音 ”は福音ではなく、欲望の自制を促す警報だったのかもしれない。それからというもの、私は際限なく膨らむ欲望に追い立てられるかのように、能力をいかんなく行使した。他者への介入は、他者の人間性の支配につながるということを承知しながら、良心のとがめもなく、欲望の刃は一層鋭く攻撃的になっていった。

 さらに、自分が人間を超越した者であるという自尊心が強くなる反面、普通の人間であればいちいち感じるささやかな喜びであるとか、楽しみといったものでは、一時ですら充足を得られなくなってしまっていた。日常の感動などとるにたらないものでしかなくなり、欲望の乾きは底なしに深くなった。

 私はどんどん非人間的になっていくようであった。自分がどこまで上り詰めるのか、ある程度は予測がつきながらも、その未来(さき)に不安や恐怖を感じる理性さえ、もはや失われていた。

 そんな私が結果として、ある宗教団体の教祖という世間的にはいかにも胡散臭い、怪しげで煙たがられる立場であるにもかかわらず、一方ではある種の人間に対し絶対的な権威と権力を持つ地位におさまったことは、現代の風潮からいっても当然の帰結といえよう。

 人を超え、普通の人々にとって「見知らぬ人」となった私は擬似神だ。人々は、自分の狭い了見や世間一般の常識では計りきれない未知の存在に出遭ったとき、畏怖と畏敬の念を抱く。そしてそれが信仰に変わる。絶対的で盲目的な信仰にするには、たいてい、予知や占いといった超常的手段がとられるが、私の力はそんなあやふやなものより直接的でわかりやすいものだ。ただ平凡な人間との違いを示してやればいいのだから。

 要はその存在だけでいい。教義や教理など、都合よくでっちあげて後付けすればいい。宗教とは、経験的・合理的に理解し制御することのできないような現象や存在に対し、都合よく勝手に解釈し、積極的な意味と価値を “人為的に ”与えようとするものである。与える側の動機や目的がどうであれ、それを受ける側にとって都合のいい教えであれば立派な信仰対象になる。

 真実か偽りかは、私が決めることではない。信者が解釈することだ。彼ら自身の解釈がどう利用されようと、それは私の責任ではなく、私のこしらえた創作を自分の中に受け入れた彼らの責任だ。

 私はといえば、ただ自分の内面にある欲をどこまでも深く追求することで、私という人間の真の姿を見極めたいだけだ。底の見えない欲望と、暴走する力の限界を思い知り、裸になりたいだけだ。

 そう、神とはすなわち、裸になった人間なのだ。悟りの境地とはそういうものではないか。

 だが結局、私はそんなものにすらなりきれないようだ。人間の欲はどこまでいっても尽きない。満足をおぼえることなく、常に飢えを感じている。

 畢竟(ひっきょう)、人は自分で自分を計ることなどできないのだ。他者によって自己を認識し、社会原則に従った理性によって内面の秩序が形成される。私は、他者にとって絶対的な他者となりえても、自分自身にとっての絶対者とはなりえなかった中途半端な神様というわけだ。

 ――今は世紀末。

 神を気取った史上最大のペテン師が吹聴した世界の終末まであと数年。しかし、その壮大な妄想に現実の期待をかける者が以外に少なくないのは、それだけ世界が空虚なものとなった証であろう。生きる意義にゆらぎを感じ、不安定になった人々は「フィクション」を夢想する。そして、虚構がもやをかけ現実がぼやけた世の中だからこそ、我々のような欲心を起こした「聖人きどり」がにわかに湧き出してくる。聖人どころか、俗人の極致だ。なるほど、確かに終末は近いかもしれない。

 私は立ち上がり、扉の前に立った。大きく息を吸い込み、内側からゆっくりと、扉を左右に開いていく。

重厚で豪奢な扉が完全に開ききったとき、その中心に立つ私は全身で、強烈な光の雨をあびた。



「神山容疑者は、宗教団体○○教団代表で、ここ一連の爆発物事件や誘拐事件に関与しているとみられ――」

 扉を開けて中から男が出てきた瞬間、カメラのフラッシュがはげしく明滅した。ニュースのVTRにうつるその姿に、わたしはどこかで見たような、既視感のようなひっかかりを感じた。いつのことだっただろう、そんなに昔のことではないような気がする。

 わたしは、かすかな記憶の糸をたどり、十年ほど遡ったところで、その人物と出会った。

 ――ああ、彼か。

 懐かしささえおぼえないつまらない記憶だったが、思い出されると同時に、あのときの出来事が今の彼の状態を生み出すきっかけであったことと、そのきっかけは自分が与えたものであることを理解し、わずかに思考が波立つような意識の刺激をおぼえた。

 この感覚が「興味」というものだろうか、そういえばあのとき彼に対して起こした気まぐれも、今にして思えば一種の興味だったのかもしれない、と思いながら、彼の身に生じたことを考えてみる。

 彼もまた、奇妙な人間だった。

 表面的には人と馴染もうとしないが、そのくせ内面では人への関心が大きく、根の部分では人との接触を人一倍欲求していることが、ありありと見て取れた。表面的には周囲のどんな人間とも馴染んで明るく振舞うが、内面では決して相容れないわたしとはまるで正反対だ。

 わたしにそんな彼の性格が把握できたのは、なにも彼の心を直接読み取ったからではない。そんなことは私の知る限り、誰にもできない。単に、彼の関心がことさらにわたしに向いていたから自ずと察せられたわけで、わたしでなくてもよほど感覚の鈍い人間でない限りは推察可能な状況だったろう。

 正直、彼の態度は煩わしかった。彼は行動上では他人とのコミュニケーションを拒んでいたから、直接わたしに接してくることはなかったが、時折周囲のどこかからただ見つめてくるその視線が、かえってわたしへの関心をあからさまに露呈しているように思われた。

 わたしはといえば、客観視すれば確かに容姿は整っているほうだし、外目には人あたりが良くて親しみやすい人間を演じていたから、そんなわたしに一方的な関心を寄せてくる異性はそれまでも何人かいた。もちろん、自分には誰かと付き合う気などないので、告げられれば相手が傷つかないよう――つまりしこりが残って後々双方が余計な気遣いをしなければならないような煩わしい人間関係とならないために、おだやかに、かつさりげなく、しかしはっきりと “特別関係 ”の断絶を宣告していた。

 だが、彼のように具体的な行動を起こしてこないのであれば、こちらとして何の対処のしようもない。無視し続けてもいいのだが、やはりどうも居心地がよくないと感じていたとき、ごくささいなきっかけで、ふと思いついたことがあった。

 それは、自宅で何気なくテレビを見ているときだった。ほとんどつけっぱなしにしてたれ流していたテレビのバラエティ番組で、異常連続殺人犯の心理についての特集をやっていた。番組のコメンテーターとして出演していた心理分析家は、連続殺人犯が殺人を繰り返すのは、決して衝動的な情動からではなく、気持ちはあくまで冷静のままだが、自身の中に潜むある種の欲望を抑制する精神的機能が損なわれているからだと指摘した。そして欲望とは、その人の「裸の個性」だとも言った。

 このとき、わたしの頭に彼のことが浮かんだ。普段態度や行動として外へ出力されずに、たまりにたまって濃縮された彼の内なる欲望はどんなものであるか、そしてその欲望の抑止力がはたらかなくなったとき、彼はどんな人間になるのか――。わたしは、自分の無味な人生の暇つぶしにそれを実験してみようかと、気まぐれを起こした。

 翌日、まずわたしは、わたしの能力を使って、わたしの偽りの意思を彼にとばした。敏感な彼は即座に反応した。これをやると普通、相手はすぐにこの能力の本質を察知してしまうのだが、あいにく彼は普通の精神状態にはなかった。わたしに対する好意で浮かされていた彼は、すべての不都合を自分の好都合に変換してしまう “現実的問題意識の麻痺状態 ”にあった。案の定彼は、わずかな疑問を生じさせたぐらいで、その不自然な事態を自分のために至極楽観的に曲解して、安直に受け入れた。

 第二段階は、彼の欲望――すなわち裸の個性というものをいかにして開放するかだが、その方法は、最初にわたしが能力を行使した時点ですでに決まっていた。

 人間は普通、自らの力のレベルに応じて欲望を達成しようとするものだ。どんな立場になろうと、そのたびに新たな状況の中で相応の欲望が生まれる。だから欲というものは、どこまでいってもつきることはない。良くも悪くも、それは人間の歴史が証明している。

 ただ通常は、力にそぐわない分不相応な欲が外部へ向かって発生しないよう理性が抑制している。ということは、その抑制装置を外すには、欲望を行使させられるだけの力を与えてしまえばいい。人とのあたりまえの交流もできず、人としての自信を喪失している様子の彼にそれを与えてやれば、効果は絶大だろう。

 それでわたしは、彼と交際することにしてから、何度かわたしの意思を彼の意識内にとばして、あたかもそれが彼特有の能力であるかのように錯覚させた。彼は、自分には他人の心が読める特殊な力があると思い込んだ。そんなことはもちろん、彼の思い違いだ。

 そう。わたしの能力とは、自分の思考や意思を相手に悟らせ、相手の意識に直接的に働きかけることである。わたしたち能力者はそれを「とばす」という。つまり、わたしは自分の意思を他人の意識内に伝達することができるわけだが、彼は逆にそれを自分がわたしの意思を読み取っていると勘違いしてしまったというわけだ。

 わたしの実験によって、彼の性格は一変した。彼の中に潜んでいた欲望は、わたしに向かって出力された。それなりの成果だったが、わたしはまだ満足することができなかった。なぜなら、彼はわたしに対してしかその力が働かないと思っていたからだ。それも、わたしが彼に強く伝えたいと思うようなことしか認識できないと感じているようだった。まだまだ、理性のガードがかたい。

 だが、そもそもわたしの声しか聞こえていない時点で、自分の人の意思を読む能力ではなく、わたしの人に意思を伝える能力のほうを疑われても仕方がなかったのだ。その程度の判断すらできないほど、彼の精神状態は隙だらけだった。異性への好意が、自らの理性的な感性と常識的な判断力を鈍らせたわけだ。

 彼にさらなる力の存在を確信させるためにはどうしようかと考えていた矢先、わたしは突如、家の都合で転校することになった。母子家庭で、一緒に暮らしていた母親が急死したため、ずっと以前に離婚していた父のところへ引き取られることになったのだ。わたしと違って普通の人間である母の死よりも、彼への実験が中途半端に終わることに心残りを感じながら、わたしは彼に最後の仕掛けをほどこした。

 口頭では、わたしが転校することを彼には言わなかった。心の中からその意思をとばすことによって、わたしが隠しておきたいことすらも察知してしまう力が彼にはある、と思い込ませることがそのねらいだった。

 はたして彼は、自分の力の成長を認めたようだった。そして、わたしが別れ際に告げた一言がとどめとなった。『神』という魅惑的で危険な言葉によって、彼は自分の強力な力を完全に自覚したに違いない。どうやら、あのときわたしは、彼に与えた架空の力を決定的なものとし、彼の欲望制御機能を解除する最後のスイッチを押してしまったようだ。明らかに、彼の瞳の輝きが増していた。

 わたしは、この時点で自分の実験が成功したことを確信した。わたしはひとりの人間を覚醒させた。人一倍強い欲求であるがために抑え込まれていた彼の「裸の個性」を開放し、隠れた本性を暴いた。彼はもう、他人に対する欲求を隠さないだろう。以前までの彼の極度の暗さは、理性のはたらきによる厚いベールだったのだ。

 彼と別れたあと、わたしはほっと息をついた。わたし自身の中には何の感慨もなく、変化も起きなかった。ただ、肩の荷が下りただけだ。しかし彼のその後を見届けられないのは唯一残念だった。

 あのときからもう十数年。

 今になってまさかこのような結末になっていようとは、想像だにしなかった。さらに、そんな彼の思い込みと妄想に同調する人間がこれほどいようとは――。

 ニュースによって彼の劇的な変貌を知ったわたしは、はじめ、予想を超える実験成果に驚きを禁じえなかった。だが、よくよく考えてみれば、そう極めて不思議なことでもない。

 今から少し前に、某カルト教団の非合法行為が発覚した。都内某所で人体に有害な薬物を撒き散らし、多数の死傷者を出した事件で、当時はあらゆるメディアでセンセーショナルに報道され、大きな社会問題になった。その教団の教祖たる人物について、専門家やマスコミ関係者らによる様々な分析がなされたのであるが、そのときに、宗教団体の教祖や教主となりうる人物に必要な資質として、いくつかの主要な条件があげられた。その中のひとつに、「洞察力」というものがあった。

 洞察力とは、物事の本質を見抜く鋭い観察力のことである。彼に当てはめると、その洞察力が人並み以上に優れていたといえる。もともと人の顔色を窺い、常に他人の心中を推し量って生きていた人間なのだから、それが高じれば、ある程度人の性格や性質を見抜くことぐらいできたのかもしれない。

 また、かつてはなかった絶対の自信が、彼をカリスマ的な存在に仕立て上げてもいたのだろう。彼の個人的な欲望の形が世間を騒がすほどの規模の宗教団体になった背景には、現代のうつろな社会の有りようがある。躊躇や迷いのない彼の言動に感銘を受けた “迷い人 ”が、世の中には少なくなかったということだ。他者に依存せざるをえない人間の精神的な脆弱さ、不完全さをおぼえずにはいられない。

 しかし、テロまがいの気ちがいじみた事件を起こしたということは、結局彼自身の願望も危険なだけの妄想にすぎなかったということだろうか。いや、きっとそうではないだろう。わたしが与えた偽りの力はあくまできっかけに過ぎず、彼が本来持っていた性質と能力を呼び覚ましただけだ。理性の枷によって彼の奥深くで眠らされていた欲望が、具体的な形をもち、力を伴った結果として、今の彼の姿があるのだ。力を伴わない妄想の一人走りならば、こうなるずっと以前に、とっくに犯罪者か精神異常者として拘束される身となっていたはずだ。

 力によって欲望が正当化されるのは世の常だ。現実世界で欲望を実現する力が、彼には確かにあったということだ。きっと彼は、自分の欲と力の際限のなさにある種の不安と恐怖を感じ、その限界を知って自我を確定するために、行きつくところまで行かねばならなかったのだろう。彼は、自分が無限の力を持つ得体の知れない存在ではなく、どこかに “限界 ”という明白な個性を持つ者であることを確かめることで、曖昧模糊とした人間からの脱却をはかりたかったのかもしれない。

 もうひとつ、わたしが彼に言った嘘がある。それは、彼に、自分が他者よりすぐれた特殊な人間であるということを認識させるために言った、『ストレンジャー』という言葉の意味だ。

 『ストレンジャー』とは、きわめて特殊な人間のことをいう。その特殊性ゆえに、普通の人間にとっては「見知らぬ人」であるのもたしかである。しかし、それはあのときわたしが彼に言ったような、特別な力を持った超能力者と同義なのではない。むしろまったく逆である。

 そのような付加的資質を備えた人間ではなく、人間として本来持ち得ているはずのものがない「欠陥者」を意味するのだ。人間として必ずあるべきもの、それは “情 ”。個々の人間性を決める主軸である感情の熱が、自己の内なる世界にほとんどみとめられない空っぽの「ニンゲン」がストレンジャーだ。

 だから、情が欠落したわたしからみれば、むしろ彼は『ストレンジャー』と対極にいる存在である。欲望という心的エネルギーで満たされた彼は、きわめて人間らしい人間といえる。

 「人間」と同じ姿かたちをしているにもかかわらず、どこか肝心な一部が欠けていてただ思考するだけのこの生きものは、他の人間とは一定の精神的距離をおく。それでも、この人間社会で生存し続けるためには、必要最低限のコミュニケーションは避けられない。だからわたしたちは、内面と外面との意識のギャップを是正して彼らと自然に付き合っていくために、常に「仮面」を身につけている。

 本来仮面は、その内にあるものを覆うために使用されるが、わたしの仮面の内側には隠す対象になるもの自体がない。ないことを隠す、という奇妙な仮面だ。そして同時に、相対者の姿を反射する鏡でもある。わたしの仮面が映し出す表情やしぐさは、実は多くの場合、どこかの誰かのそれなのだ。

 だから、わたしが彼に好意を寄せる少女であるかのように演じてみせることなど、造作もないことだった。


 テレビ画面の方から、騒々しい笑い声と拍手が聞こえた。

 いつの間にか、テレビの番組がニュースから、近頃流行りのコント番組に変わっていた。何がどう面白いのかわたしには理解できず、テレビを消すと、居間に父が入ってきた。

 父は法衣姿だった。わたしが住む家は『倶(く)渡寺(どじ)』というさびれきった仏寺で、父はその住職だった。

「依頼主の女が死んだ。相手の男もな。亡骸を片付けなければならないから、手伝ってくれ」

 抑揚のない平坦な口調で言うと、父は肩からかけた袈裟をはずして、床に無造作に投げ捨てた。

 わたしは頷き、腰を上げた。そういえば今日、水子の霊を供養するために、水子を連れた女と相手の男を寺に呼び寄せて供養を行うということだった。二人とも死んだということは、父の予想通りの結果となって、水子供養が済んだということだろう。(*Chapter0 参照)

 ちなみに、父も『ストレンジャー』で、わたしと同様の能力と性質を持っている。以前父から、大学生の頃、父の「悟らせる力」がきっかけで自分の拠り所を見失い、自己の存在意義を喪失して廃人と化した学生活動家の女の話を聞いたことがあった。(*Chapter1 参照) 父は自分の特殊な力を、不自然でなく効果的に活用して生きていける立場として今の身分を選んだ、と言っていた。

 ――さて、わたしはどうしようか。父のような人を捨てた住持でもなく、彼のような人を極めようとした神でもなく、いまだ身の置きどころが定まらず、欲も目的もないまま漫然と時に身をゆだねている無味な存在のわたしは。

 かつて、生き続けることの意味が見出せずに自ら死をこころみたこともあったが、すぐにやめた。ためらいがあったのは、死ぬのが怖かったからではなく、単に死ななければならない切迫感がまったくなかったからだ。要は、死ぬ意味もなかったのだ。死ぬ必要性も、生きる必要性もなく存在するわたしは、一体何者なのだろう。そして、おそらくこれは深刻な自問のはずだが、そこにわずかな悲哀や落胆も感じられないのは、やはりわたしが「見知らぬ人」で、 はじめから孤独を好む特殊な人間だからだろうか。わたしの頭にはただ、深い霧で閉ざされた先行きの見えない未来に対する戸惑いがあるだけだった。

 ユングは、ラテン語で強い欲望を意味する「リビドー」という語を、人間のあらゆる行動の根底にある心的エネルギーと捉えている。信条、信念、信頼、信仰といったものに頼り、他者に依存しなければ決して生きていけず、いつも欲にとらわれていて不安や悩みを抱いている弱い人たちこそ、人として生きていく意義と目的を獲得している完璧な「人間」だと思った。彼らは、それぞれが流転し、惑いながらも同じ旋律を奏でることで、充足を得ている。逆に、欲望という「エネルギー」や情という「弱さ」がなければ、内部はほとんど空洞化し、寂寥と孤独にみまわれるだろう。

 しかし、彼らはそんな自分たちの人間らしさに気づいているのだろうか。彼らとは違う者であるわたしの方がそれをよく認識しているのだとすれば、皮肉なことだ。

 二人の遺体を処分したあと、洗面所で手を洗うわたしが鏡を見ると、肩越しに父がうつっていた。

 鏡の中で父は幽鬼のように佇み、わたしをじっと見つめた。

「退屈なら、旅に出てみたらいいだろう」

 わたしの前での父は相変わらず無表情で、腹話術の人形のように口元だけが単調な動きをみせていた。ただ、目だけはわたしの心中を深く見通すように、冥く澄んでいた。

 わたしは父から目をそらした。

 旅をして何が得られるのだろうか。

 だが、さしあたりやることもないわたしに、父の気まぐれな提案を拒む理由などなかった。



 (Chapter2 End)

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