Chapter1: Student activist
1
神谷恭子という人物がいた。
彼女を最初に知ったのは、英語の授業のときだった。
僕のいる大学では英語は必修科目で、受講クラスは、その学生の実力に応じて指定される仕組みになっている。一学年ごと、だいたい一〇クラスに分けられ、数が上位にいくほど英語の習得レベルが高い学生対象となる。
進学高校のクラス分けみたいだ、と受験を終えたばかりの新入生などはぼやくが、全然違う。大学がそうするのは、あくまで授業の効率を考えたためだ。それぞれ決められた入試をこなしてきたのだから、どの学生も一定の学力レベルに達しているとはいえ、一学年三〇〇人も集まれば、個人で得意不得意の違いや、能力の差がどうしてもでてきてしまう。なるべく個々の学力に応じた授業を設け、勉強面で学生に不満や物足りなさを生じさせずに適切な指導を行うという趣旨が名目だが、当の学生にとっては、それ相応の勉強を強いられるので楽ができず、逆にありがた迷惑の感さえある。したがって実際上は、多くの学生たちに必修教科をなんとか習得させなければならない指導者側の手間を、軽減するための措置といえなくもない。
不満の高じた学生の中には、大学の授業で学生に選択権がないのはおかしい、そんな強制的な授業のやり方では学ぶ気が失せる、と言って授業をボイコットする人もいる。だが、そんなことをしても後で単位がもらえなくて再履修するはめになるだけだ。必修なのだから文句を言ってもはじまらない。というより、学生が自分から勉強したがらないから、大学側としてもそういった措置をとらざるをえないのだろう。
受身で勉強させられるのは嫌だ、と憤る学生の勉学に対する意欲も、はなはだ疑わしいものだ。彼らの大半は、単に押し付けられたものに反抗したいだけにちがいない。今はそういう時代なのだ。
まあ、いずれにせよ、僕には関係のないことだ。
僕はいわゆる最近はやりの大学生のひとりで、つまり何の目的もなく大学にきた典型的なモラトリアム人間だったから、むしろ大学の方で色々決めてくれるのは非常に助かる。僕はただ、決められたことに従うだけだ。自分から何かやろうとは思わない。
ただし同じ立場でも他の多くの学生は、過酷な受験期を終えて燃えつき、気力にぽっかりと穴が空いたところに、新たな、かつ一過性の情熱を大学生活の中に求めていた。それはそれで、人によっては有意義なことなのかもしれない。僕にはまったく無益だが。
僕の所属する英語クラスは、7クラスだった。実力としては中の上といったところだ。神谷恭子も同じクラスなのだが、彼女のことは三回目の授業のときまで、その名前すら知らなかった。
この日、英語の授業にはいる前に、憂鬱そうな表情でうつむく学生たちに向かって英語教師が言った。
「みなさんは英語を難しく考えすぎます。本当は、英語なんてとても簡単なものです。だって、アメリカ人は誰だって、どんな馬鹿だって、子供のころから英語がペラペラなんですよ」
詭弁もはなはだしい。
生まれが英語圏なんだから、英語が自然に話せて当然だ。その論理が成り立つには、アメリカ人が外国語を、例えば日本語を簡単に習得できることが証明される必要がある。つまりこの教師の理屈は、必要条件を満たしていない。そうでなければ、自分たち日本の学生は馬鹿なアメリカ人の子供よりも馬鹿だということになる。
だが、たとえどのような矛盾や不合理性を含んでいたとしても、僕はいちいち人の言葉尻をついてやり返したり、つっかかったりするようなまねはしない。そんなことをすれば教師の心証を悪くするばかりで、なんの得もない。おとなしくして、つつがなく単位をもらっておけばいいのだ。
それに英語教師は、なにも理屈を説明しようとしてそんなことを言ったわけではない。勉強嫌いな子どもを諭し、英語に対する警戒心を解こうとして励ましただけだ。みんなもそれがわかっているから、そのわざとらしいアドヴァイスに誰も感銘を受けた様子を示さない――と思っていた。
一人、異議をとなえた学生がいた。
それが、神谷恭子だった。
「先生」
「なんですか、えーと・・・神谷さん」
僕は嫌な予感がした。
「その論理は間違っています」
あろうことか、彼女は僕が思ったようなことを、遠慮なく率直に述べた。案の定、英語教師は嫌な顔をした。
「しかしあなた、言語というのはある一定の地域では老若男女をとわず普遍的に使われているのであって、何も特別な人にしか理解できないものではないのですよ。そういう意味で、私はあなたたちにもっと気楽に考えてほしいと思っただけです」
「それがいけません」
僕は心中で、やめてくれ、と叫んだ。それ以上の発言は無意味であるばかりでなく、有害だ。
だが彼女はやめなかった。
「教師がそんなことを言うから、学生が勉強をしなくなるのです。そんな簡単に英語がマスターできたら、最初から誰も苦労しません。学問はどんなものでも難しいものです。無責任なことをいわないでください」
明らかに言い過ぎだった。しかも彼女は、純粋に疑問や意見を口にしたわけではない。教師のあげ足をとって、ただ悪意のある議論をふっかけただけにすぎない。
その証拠に、彼女の口元にはうすく笑みが浮かび、瞳には底意地の悪いきらめきがやどっていた。
「私は、なにも・・・」
英語教師は困惑していた。無理もない。教師の方は、純粋に善意から言ったことなのだから。
神谷は再び、目で笑った。まだ何か言うつもりらしい。これ以上は本当にいけない。教室もざわつきはじめている。
やむを得ない。僕は彼女の心に訴えかけることにした。久しぶりだが、仕方がない。このままだと、僕の環境にも影響する。
僕は意識を彼女に集中させた。
――だまれ。
一瞬、神谷の背筋が、びくんと伸びた。そしてそのままの姿勢で硬直した。
もう大丈夫だろう。
僕は力を解いた。
英語教師は、神谷のわずかな異変を不審に感じたようだが、とにかく彼女が黙ってくれたので安心したのか、やがていつもどおりの授業を開始した。
「ねえ」
教室から出るとき、僕は神谷から声をかけられた。
僕は無視した。
「ちょっと、待ってよ」
神谷は僕の前に回り込んで、行き手をさえぎった。
僕は立ち止まり、彼女を見た。その表情から、彼女が僕にあまり好意的な感情を抱いていないらしいことが見て取れた。
「さっきの、あなた?」
僕は応えず、再び歩き出そうとした。
「待ってって言ってるでしょ」
彼女の声が一段大きくなった。周囲にいた何人かの視線がこちらを向いたのを、僕は背中で感じた。
僕はしかたなく、彼女と向き合った。目立ちたくはない。
「なに?」
「さっき邪魔をしたの、あなたでしょう?」
僕は頷いた。
「どうやったのかは知らないけど、不思議とあなたがやったんだってことは、はっきりわかったわ」
それはそうだ。僕はさっき、彼女に自分の意識をとばしたのだ。意識はその人間の本性で、言葉などよりもずっと明確だ。嘘もつけないし、ごまかしもきかない。
そしてそれこそが、僕の力の最大の欠点だ。僕がこの能力を頻繁に使わないのは、そういう都合があるからだった。
「用件はそれだけ?」
僕は、声の調子で会話の打ち切りを訴えたつもりだったが、今度は彼女がそれを無視した。
「よく話をききたいわ。いいわよね、もちろん」
僕はとりあえず、従うしかなかった。彼女のような人間は、自分の思い通りにいかないと騒ぎだす。さっきの授業のときのように。
「――不思議な力ね。超能力ってやつか」
僕の話を聞いて、神谷は半信半疑という顔をしたが、それが理屈屋である彼女なりの納得の表情なのかもしれない。
「私も自分のことをけっこう変わってるって思うけど、あなたも相当変わってるのね」
神谷は、珍しい動物でも観賞するような目付きで僕を見た。その視線は別に気にならなかったが、彼女の言葉に僕は反発を覚えた。
確かに、僕は相当変わっている。
それは必ずしも特殊な能力のせいだけではなく、人間としての性質や欲求自体が他の普通の若者たちとは違うのだ。例えば、彼らは一様に「熱」や「動」を求めるが、僕が欲しいのは「冷」と「静」だ。彼らは何らかの「関係」の中にいないと不安に陥るが、僕はその「関係」にこそ危険を感じる。
僕は自分のような異質な人間を、 “Stranger(ストレンジャー) ”と呼んでいる。その僕からみれば、神谷恭子はごく普通の人だ。もてあます自分の精神的な欲望を、相手を一方的に攻撃することで満たしている、ありふれた一般的な人間だ。明らかに、僕とは対極に位置する。
だが彼女のような性格の人は、周囲に及ぼす影響が小さくない。僕が一番避けたいと思うタイプである。
しかしどうやら彼女は、僕に少なからぬ関心を抱いたようだ。それなら、神谷恭子が僕の環境にとって有害か無害か、見極めなければならない。
2
それから一週間後の英語の授業に、神谷恭子の姿はなかった。さらにその一週間後も、彼女は欠席だった。英語教師はいぶかしみながらも、心なしかほっとしたような様子を態度ににじませていた。
僕は普段通り、ただおとなしくノートをとり、たまにあてられれば必要最小限の答えを返す、という不可のない姿勢で授業にのぞんでいた。
神谷はこれからもずっと授業に来ることはないだろうが、もう僕には関係ないことだ。彼女は自身の存在意義を喪失し、ただの抜け殻になってしまったのだから。
僕が自分の特殊な能力に気づいたのは、小学校に入ってすぐの頃だった。友達と二人で、田んぼのそばで水遊びをしているときに、ささいな諍いから喧嘩になったことがあった。
友人は僕を暗いやつだと言って、罵った。僕は、ああ、自分のような人間を暗いというのか、と妙な得心がいったほかには、とくに頭にきたわけでもなかったので、友人の幼稚な罵倒に一切反応を示さないでいた。友人はそれを無視されたのだと思ったのだろう、ますます興奮して僕に詰め寄ってきた。「無視」という行為が、ときに直接的な言葉や暴力よりも反抗的な意思と受け止められるということを、僕はこのとき知った。
友人は僕に掴みかかった。僕は鬱陶しかったので、その手を払って身を引いた。それも逆効果だった。友人はさらに逆上した。今の僕なら、大人しく殴られていただろう。
とにかく、頭に血が上りきってしまった友人を鎮めることなど、できそうもなかった。そばには水田の用水路が通って、浅く水がはっていた。このままでは落ちてしまう、と思った僕は、とっさに友人に向かって “落ちろ! ”と叫んだ。友人は一瞬きょとんとした表情をした後、僕の襟から手を離して、そのまま側溝に倒れこんだ。
用水路に落ちた友人はすぐにからだを起こしたが、しばらく呆然としていてその場を動こうとしなかったので、僕が上から手をとって彼を引っ張り上げた。体中泥だらけになった友人は、地面にへたりこんでぜいぜいと息をつきながら、僕を睨んだ。だがその眼差しは、わずかに揺らいでいた。怯えと戸惑い、そのような感情の揺らぎを彼の瞳の中に見た。
「おまえがやったんだな・・・」彼はそうつぶやいただけだったが、そのまま僕に背を向けると、よろよろと立ち去っていった。一度も僕の方を振りかえらなかった。そして翌日から、僕を避けるようになった。
『さとるの化け物』というものがいる。もちろん、想像上の妖怪である。その化け物の能力は、人の思考を読むことだ。人が心の中で考えていることを悟ることから、そう呼ばれる。
僕にそなわっているのは、これとは逆の能力だ。つまり、自分の思考や意思を積極的に相手に悟らせ、相手の意識に直接的に作用することができるのである。言い換えれば、僕の意識がその人間の中枢部分に入り込めるということで、それにより 一時的に相手そのものを自分の意のままに操ることが可能となる。これは、生物としては非常に強大で魅力的な力だ。
ところが、この能力には大きな欠点が二つある。
ひとつは、相手の意識の中に入り込むとき(僕はそれを「とばす」という)、そして自分の意思を相手の中枢に働きかけるときに、かなりの精神力を要するという点だ。したがって、あまり頻繁にやると心身が消耗してしまう。また、持続的に相手の意識を掌握しておくことも不可能だ。効力はほんの一瞬である。
致命的なのはもうひとつの欠点だ。
意識というのはいわばその人の本性で、物質的には肉体をまとわず、精神的には理性をともなわない、人間の根本的な個性そのものである。思考や性質の本能的部分ともいえる。僕は自分の意思を他人の意識内にとばすことができるわけだが、同時に僕の意識、つまり正体も相手にはっきりと悟られてしまうことになるのだ。
脳の論理回路を介さない意識同士のコミュニケーションは、言葉などよりもはるかに直接的だ。たとえほんの一瞬のコンタクトであっても、たちどころに互いの存在と正体を察知してしまう。意識というのは、丸裸なのだ。そして正体を知られるということは、場合によっては命取りにもなりかねない。僕が日ごろ、この力の行使を控えているのはそのためだ。
しかし、幼い頃はその力の制御がうまくできず、ときに無意識に意思を開放して人を戸惑わせたり、怖がらせたりすることもあったので、僕は次第に他人と距離をおくようになっていった。だがそれは、誰かに自分の能力や正体について悟られるのを恐れるからではない。他人の反応が、いちいちわずらわしいからだ。
僕が欲しいのは、ただ平穏なのだ。それが、僕が維持したい環境だ。自分の環境さえ侵されなければ、それでいい。人間関係には刺激が多すぎる。
神谷恭子は、その僕の環境を乱す要素を持った人間だった。
僕は念のため、彼女に訊いてみた。
「君が今目指しているものは、何だい?」
神谷は僕の唐突な質問にきょとんとしながらも、堂々と答えた。
「活動家よ」
やはりだ。彼女は他人や社会に力づくで関与し、人との関係を強要するような人間だ。つまり僕にとって、非常に好ましくない人物ということだ。
さらに彼女は言った。
「あなたも一緒にどう? もしあなたの能力があれば、近頃うちの大学でも幅をきかせはじめているK派の連中を、しずめることも可能かもしれないわ」
決定的だ。そこまで僕に関わりたいのなら、やむを得ない。
僕は意識を集中し、彼女の心の芯に吹き込んだ。
『その革命は、実現しない』
窓の外から見おろすと、ヘルメットとタオルで顔を覆い、手にゲバ棒を持った連中がたむろしていた。ときどきメガホンで「日米安保粉砕――」と叫んでいる。全国の主要大学を巻き込んだ七十年安保闘争のあおりを受け、彼らは熱に浮かされたように叫びつづける。
たしかこの大学は、同じ共産系革新派でもK派とは袂(たもと)を分かつC派が主流だったな、と思い、神谷恭子のことが思考の片隅をよぎったが、それも一瞬のことだった。彼女はもう、僕の知るところではない。そしてもちろん、あの過激な集団の中にも神谷の姿はない。
神谷だけではない。
今外で騒いでいる彼らから、「革命」や「運動」という狂熱をとったら後には何も残らない。なぜならその点では彼らも僕と同じ、本性はモラトリアム人間だからだ。ただ一心に大学に入るためだけに、厳しい受験戦争を乗り越えてきた彼らの心の中は、空っぽだ。その空っぽの心を、興奮と情熱が満たす。それは時代によって、また社会や環境によっても違うのだろうが、いずれのものにせよ、目的を持たない空虚な心に一時的な充足を与えるにすぎない。だから、僕のようにただ漫然と時に流されて生きているのと本質的には同じだ。
その証拠に、表面上は自信と確信に満たされていたように思えた神谷恭子の意識の奥に、直接真実をぶつけたとたん、彼女はあえなく崩れた。
本当は誰もがわかっているのだ。革命が成功しないということを。だがそれを認めてしまえば、彼らが今生きる拠り所としている運動の意義が失われる。そしてそれは、彼らの存在価値をも揺るがしてしまう。
だから僕はただ、神谷に厳然たる真実を告げただけなのだ。それによって、虚構の理想に捕らわれていた彼女の心は開放され、霧散してしまった。
結局みんな、同じだ。大学という、人生においてはそれほど実質的必要性のない、よくわからないところへ無目的でやって来たために、根本の意志というものが希薄なのだ。そしてそういう不安定な時期にいるから、彼らはたちまち大衆の熱にあてられ、流感の渦に巻き込まれてしまう。
だがしかし、それはそれで人によっては有意義なことなのかもしれない。僕にはまったく無益だが。
僕は窓から目を戻した。英語教師が僕の名前を呼んでいる。僕は教師の質問に対し、過不足なく答えた。
一九七二年、春のことだった。
(Chapter1 End)
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