Chapter0: 吉備津の釜



 吉備の井沢氏の放蕩息子正太郎は、吉備津(きびつ)神社の神主の娘、磯良(いそら)と結婚する。しかし正太郎は、貞淑で情の厚い磯良を手ひどく裏切って、

袖(そで)という遊女と出奔してしまう。磯良は恨みのあまり病に伏す。出奔

後、袖は物の怪が憑いたようになって死んでしまう。さらに、死して

亡者と化した磯良に遭遇するに至り、正太郎は陰陽師に助けを求める。

四十二日間の物忌(ものいみ)を命じられ、それを堅く守り、いよいよ物忌が明け

たと思い外へ出た途端、怨霊の手にかかり、もとどりと血のみを残し

て消えてしまう。 《石川淳『新釈雨月物語』「吉備津の釜」より抜粋》


 H市はずれに位置するくどじ倶渡寺山のふもとでバスを降り、私は山門の前に立った。そして、腕時計で約束の時間までまだ少し間があることを確認すると、寺の観音堂へと続く長い石段を見上げた。

しかし、鬱蒼と生い繁る厚い樹林に阻まれて、ここからではお堂の姿を窺うことはできない。

・・・結局、呼び寄せられるようにしてここへ来てしまった。

実のところまだ半信半疑だった。ここに来たからといって、現在自分の身に起こっている問題が本気で解決するとは思っていない。だが、倶渡寺のことが頭に浮かんだときから、なにかしら因縁めいたものを感じていたのも本当である。

私は、シャツの袖口で額の汗を拭ってから、苔むして深く緑がかった石段を登り始めた。

朝には梅雨の名残のような霧雨が降っていたが、正午前には上がり、道の両側に立ち並ぶ杉の木々の間からは、蒸し暑さがとれてさらりとした夏の微風が流れてくる。僅かに濡れた地面には、所々うすい木漏れ日が射していた。

近くから聞こえてくる子供たちの陽気なはしゃぎ声を背に受けながら、私は一段一段ゆっくりと足を進めた。

標高400メートルほどの倶渡寺山には、ハイキングコースやキャンプ場、アスレチック広場などのレジャー施設も整備されており、今日のような休日の日中はそちらの方を目的とした家族客が目立つ。

しかし、本来倶渡寺は、市内随一の霊所として知られる山だった。

とくに、きちんと供養してもらえなかった無縁仏や戦死者霊、水子霊の拠り所になっているといわれ、中腹に建つ寂れた古い佇まいの寺の裏手には、銘のない小さな墓石や卒塔婆が寄り添うようにして集まっている。

そろそろかな・・・。

一息ついて、私は顔を上げた。延々と続くかと感じられた石段も、残り数段で終わりを迎えるようだ。途切れた登り道の先には、濃厚な樹林の影に潜むように、薄黒く古ぼけた木造の建造物が建ち構えていた。

最後の石段を登りきった私は一旦立ち止まり、乱れた呼吸を整えた。

そして、目前の観音堂に向かって手を合わせようとしたとき、私はまたしても、はっきりと、あの異質な存在の気配を感じたのである。



「今日は暑いですね」

僧坊の廊下を先に立って進みながら、住職は話しかけてきた。

「あの長い石段を登っていらっしゃるのは、大変でしたでしょう」

「ええ…正直に申しますと」

私は素直に答えた。

「そうでしょうね。急な階段で歩きにくいですしね。私だって難儀しますよ」

そう言って高笑いすると、住職は立ち止まり、左手の襖を静かに開けた。

「お入りください」

私は軽く会釈をして、中へ足を踏み入れた。

案内された部屋は、僧坊の一室らしく地味だが綺麗な和室だった。6畳程のこじんまりした座敷部屋だが、中はよく手入れされており、隅に備えられた押し入れや鏡台にも埃ひとつ見当たらない。南側の窓からは、障子を通して外の日差しがほどよい明るさで射し込んでいた。

「どうぞ、お座り下さい」

住職は入口の襖を一杯に開ききると、私に座布団をすすめ、自分も差し向かいに座布団を敷いて対座した。

正座してから、私は軽く首を動かして周囲に意識をめぐらす。

静かだ。

さっきまで聞こえていたレジャー客の賑やかぶりもここまでは届かないようだ。

そして、いつのまにか汗もひいていた。

廊下の窓はすべて開け放たれているため、日差し除けである窓の障子を閉めたままでも、部屋の中には十分に心地よい風が舞い込んでくる。

「それでは早速ですが、本日の用件にはいりましょうか」

住職は落ち着いた面差しで、私の目をみつめた。

「電話でうかがったところでは、なにやら不可思議な事態に悩まされているとか」

「…ええ」

私は視線を畳の上に落とし、一呼吸おいて、住職にことの経緯を語った。  ―――私の生活には常に暗さが付き纏っていた。半年前にむかえた恋人との決定的な破綻が色濃く影を落としたまま、気分が晴れたことなど一度もなかった。  このままではいけない、と気持ちをあらため前向きに構えようとはしている。しかし実際、人間の感情というものはそう単純に割り切れるものではない。私は未練をひきずったままだった。  そんなおりである。私の夢にある女が現れるようになったのは。  それは最初、遠くぼやけた存在で、しかも後ろ姿だったのだが、体形と髪の長さからいって女性だろうということは分かった。

夢の中でとくに何かを呼びかけてくるわけではなかったが、以後その女は自分の存在を主張するように頻繁に現れた。しかも日がたつにつれ、だんだん私に向かって近づいてきているような気がし、その情景の記憶も鮮明になっていった。  夢は自分の深層心理を表す、とか、何かの予兆もしくは象徴である、というふうなことは聞いたことがあるが、今回のこれはそんな類の解釈ですまされるものではないかもしれないと思い始めたころ、さらに奇妙なことが私の身に起こった。  今度は現実の世界で、その女の姿を目にするようになったのである。  相変わらず後ろ姿のままで決して目立つわけではないが、時には人ごみにまぎれ、またある時には木陰や物陰から肩を覗かせるようにして、私の視界に入ってきた。

私はそういうとき、必ず不快な違和感を察知した。私の意識の中に異質なモノが侵入してきて、それに対し拒否反応がはたらくような感覚である。

さらに日がたつにつれ、女のほうから何がしかの濃厚な意思が感じられるようになった。依然として誰かは分からず、直接訴えかけられるわけではない。だが、少なくとも私に対しはっきりとした負の感情、つまり悪意のようなものを抱いていることはもはや明白だった。

・・・幽霊。

ようやくその言葉が私の頭をよぎった。

 これまで、世の不可解な現象や不都合な偶然を理論的に解釈できない際に用いられる安易な言葉として軽視していたのに、それがにわかに現実味を帯びてしまった。私の心に恐怖が芽生え、みるみる増幅していった。

 それ以来、女が現れる頻度が増えた。そして不気味な気配も濃く強くなった。だが、それでも一向にこちらを振り向かない。まるで、言葉にならない言葉を耳元で囁かれているように、おぞけばかりが私を捕えた。

私の心身は日に日に衰弱していった。

そんなとき、ふと倶渡寺のことが頭に浮かんだ。

H市外れの山の中腹に建つ倶渡寺は、密教宗派真言宗の流れをくみ、この地方における霊場巡りの第一の札所としても知られる由緒ある仏寺である。回向法要や護摩供養なども頻繁に行われ、とくに事故や病気などでこの世に未練を残したまま亡くなった霊を供養して成仏させたり、身元の分からない無縁仏を合祀したりするので有名なのだそうだ。そのせいか、怨霊や悪霊と呼ばれる類のものに関する相談もよく持ち込まれるらしい。

それでも最初は半信半疑で、本気で寺に相談してみようとは思わなかった。

とはいえ、そのまま平気でいられる状況ではもちろんなかったので、とりあえず市内の病院の心療科を訪れた。

精神科の医師はにこにこと柔和な表情を絶やさずに、やさしく対応してくれた。だが具体的な説明はほとんどなく、「とりあえずはこれを服用してみて、しばらく様子をみましょう」と、睡眠薬と抗不安剤の二つ三つを渡されただけだった。

結局、薬を飲み始めてからも、女は消えなかった。

そもそも、科学的に対処できるような性質の問題ではないのだ。本当は私にも分かっていたのだが、今までこのような不可解な状況に置かれたことがないために、なんとか異常現象からの逃避をはかりたかったのである。

こうして私は、なかば招き寄せられるようにして、ここ倶渡寺の山門をくぐることになった。

 

「・・・なるほど」

 一口お茶を飲んで唇を湿らせてから、住職は口を開いた。

「あなたの話を聞く限りでは、確かに不浄な者の存在を否定できないようです。

 そしてことさらに奇妙なのは、その女は頻出するわりに、未だにあなたに対してはっきりと意思を告げてはいないこと」

「そうなんです。はじめの頃はもどかしい気持ちもあって、早く顔を見せてなんとか言ってくれと思っていましたが、今では逆に振り向かれるのが怖くて仕方ありません。その瞬間が私の最期になるような気もして・・・」

 そう言ったとき背筋にすっと悪寒が走り、私は思わす身震いした。

「女にとり殺されるか・・・まるで雨月物語の『吉備津の釜』ですな」

 冗談でも言うような住職の口調に、私は多少気色ばんだ。

「架空の話じゃないんです。現実のこととして深刻に悩んでいるからこうして・・・」

「まあまあ、落ち着いて」

 住職は両手を広げて私をなだめにかかった。

「何もふざけて言っておるのではない・・・・・・ところで、『吉備津の釜』の話は知っていなさるか」

 住職の真剣な眼差しに見つめられ、私は渋々答えた。

「ええ。江戸時代の読本ですよね。以前読んだことがありますけど、それが何か?」

『吉備津の釜』は、江戸時代の読本作家、上田秋成によってつくられた怪異物語集『雨月物語』の一篇である。浮気者の夫に裏切られ、違う女と逃げられた主人公の磯良(いそら)という女性が、夫の正太郎を恨みぬいて死に、鬼となって正太郎を追い詰め取り殺すという話だ。

怪談好きだったかつての恋人のすすめで雨月物語を読んだのは、付き合ってすぐの頃だった。

最初は文語体の文章で読みづらかったが、読んでみるとこれが結構面白く、どの話もミステリー性にみちて余韻の残るものだった。中でも『吉備津の釜』の印象は際立っていて、怨霊となった磯良の凄まじい恨みと憎しみ、執拗で徹底的な復讐など、話の展開も過激だった。とくに、前半部で人間であったときの器量良く貞女の鑑といえる磯良と、後半醜くおぞましい鬼と化した磯良の極端な落差には、寒気をおぼえるほどの恐怖を感じた。その相反する性質の二面性に、私は現代のサイコホラー小説の原点をみたような気がし、嘆息したおぼえがある。

 住職は言う。

「磯良の復讐は、ただ正太郎の命を奪うことだけが目的ではなかったのです。それ以上に、正太郎に対し存分に恐怖を与え、呪い続けることにより、自分の恨みをとことん思い知らせることが必要だったようです」

磯良がその復讐の過程において、正太郎の前に姿をあらわしたときに、正太郎に対し「つらき報ひの程しらせまいらん」と、自分の復讐を正太郎に表明する場面がある―――住職はそう説明し、あえてここで命を奪わず復讐の告知にとどめた磯良の態度をあげた。

「現在あなたの身に起こっていることも、このケースと似たところがあると思われませんか」

 住職の不吉めいた言葉に、私は身を硬くした。しかしすぐに首を横に一振りした。

「いえ・・・そのような根深い恨みをかう覚えはありませんが」

「本当に思い当たるふしはないのですか」

 住職は探るような視線で私を見つめた。

「その死霊は、いや生魂かもしれませんが・・・すぐに直接的な行動にでずに、じわじわとあなたを苦しめているのでしょう。おそらく、あなたに気付かせたい何かを示唆しているはずですよ」

「私に・・・ですか?」

「ええ。ひとつ言えるのは、あなた自身が自主的にそれに気付かなければならないということです。そしてその上で、最終的にあなたが要求されることとは・・・」

 住職はここでいったん言葉を切り、ふっと息を吸い込んだ。

「 “後悔”と“謝罪”です」

 後悔と謝罪―――。つまり私はその女に対して、許しがたいほどの非を犯しているということか。

 しかし住職はさらに恐ろしいことを言った。

「後悔とは、その言葉どおりの意味です。すでに終わってしまい、もうどうしようもないことについて悔やみ、罪悪感に囚われつづけることです。そして、謝罪とは少なくとも・・・『死』以下ではありえません」

静かな住職の口調とは裏腹に、その宣告内容はあまりに重く、深かった。

私はやっとのことで、声を発した。

「・・・・・・やはり、殺される、と、いうのですか」

 全く予想していなかった、という答えではない。しかし、全く考えたくない結果だった。存分に苦しみ悩ませた上で、生命を奪う。そこまでして詫びねばならないほどのことを、私がしたというのだろうか。

住職が再び訊いてきた。

「本当に、身に覚えはないのですか」

私は思案した。

 思い浮かぶのはやはり恋人との破局だった。確かに、別れのきっかけとなった出来事については、私にも責任の一端はあった。だが、果たしてそれが怨念の原因になるだろうか。だいたい、交際の終焉を告げたのは私ではなく向こうだ。未練を断てず、恨みがましい思いを抱いているのは、むしろこちらの方である。

「・・・やっぱり、私には分かりません。無意識のうちに、人から重大な恨みをかうほどの過ちをしたのでしょうか」

 じっと私の顔を見つめていた住職は、やがてふうっと溜め息をついて、ゆるりと首を振った。

「私にも分かりませんな」

「では、どうすれば・・・」

 分からない、どうしようもない、で帰されては困る。私だって存分に悩んだのだ。

「お願いします。なんとかしていただけませんか」

 私は藁をもつかむ必死の思いで住職に頭を下げた。

「まあまあ、頭をお上げください」

 私の切羽詰った様子に、住職は少し慌てたようだった。

「とにかく、あなたに憑いている者の正体と、その意図を解明しなくては対処のしようがありません。供養法要はその後の話です」

「それでは・・・」

「とにかく、そうですね・・・よろしければ、本日はここにお泊りなさい。先ほどここへ来る途中でも、そのモノの気配を感じたとおっしゃっていましたね。ならば、今も近くにいる可能性が高い。今夜あたり、またあなたに接触してくるかもしれない」

 ようやく落ち着きを取り戻した私に対し、住職はゆっくり諭すように提案した。

「そのときに、見極めてみましょう」

「はい。どうぞよろしくお願いします」

 私は一も二もなく承諾した。とにかくもうここに縋るしか方法がないのだし、それに万が一のことが起きてもそばに寺の住職が控えているのなら安心できる。

「では、私は早速準備に取り掛かるとしましょう」

 そう言って住職は腰を上げた。

「あなたはこちらの用意が整うまで、しばらく適当にゆっくりしていてください」

 私は座したまま頭を下げて礼を言い、部屋から立ち去っていく住職の後ろ姿を見送った。



 夕方になると、外の暑さも若干和らいだようだ。

冷えてきた初夏の風が部屋に吹き込んできて頬をなで、髪をなびく。私のいる一室は窓が西向きで、強い西日をまともにあびてしまうため、そのわずかに刺のある風がとても心地よい。

 目を窓の外に向け、寺の周囲に鬱蒼と生い茂る木々のさざなみを耳にしていると、やがて廊下の方から静かな足音と衣擦れの音が聞こえてきた。

「用意が整いました」

 袈裟姿で現れた住職が声をかけてくる。

「これよりこの部屋を封します。ただし、あなたはこのまま中にいてください。私は隣室に控え、経を唱えます」

住職は真剣な面差しで私を見据えた。

「しかしその経はモノを呼び寄せる性質のものです。あなたは私が経を唱えている間、決してこの部屋から出てはなりません」

 私が了解すると、住職は頷いてから窓の方へ歩み寄った。

窓を閉めるとき、一陣の強い風が部屋に入り込んだ。その瞬間、わずかに夕日がかげったような気がして、私はにわかに不安な気分になった。

住職はさらに障子もひいた。

とたんに、霧がおりたようなおぼろげな暗さが部屋を覆う。

 なんだか急に心配になってきた私の様子を察知したのかしないのか、住職は一旦私を振り向いて、気遣わしげな表情を見せた。

 だが結局何も言わずに視線を外し、そのままゆっくりと入り口へ向かう。

 廊下に出てからも、住職は障子に手を添えて一言、

「では、はじめます」

 と言っただけだった。

 そしてすぐに入り口の障子戸も閉められた。


・・・・・・・・・

隣室から読経が聞こえてきた。

いよいよ住職が例の経を唱え始めたようだ。低いが時に朗々たる響きをともなうその声は、閉め切られ薄闇ただよう空間に粛々と染みわたっていく。

 霊を呼び寄せる経、と住職は言っていた。そんなお経があること自体なんだか奇妙な感じもする。そう思うと、なにやら秘めやかな陰の気配が込められているような気がして、ますます落ち着かない気分にさせられた。

 しかし一方で、妙に耳の奥に残るというか、じんわりと脳に浸透し馴染んでいくような深みも感じられる。

 私は矛盾した感覚に戸惑い、目を瞑った。

すると、不思議と心が静まってきた。そのまま意識を経の流れに乗せる。

やがて、徐々に落ち着きが取り戻されるとともに、現実感が少しずつ遠のいていった。



・・・・・・

・・・暗い。

漆黒の闇だ。

重い。

胸にのしかかる圧迫感。

息が苦しい。

見えない手で少しずつ喉を絞められているかのようだ。

 

ここはどこだ?

闇以外まったく何も存在しない世界―――。

いや、違う。この深い闇よりも濃く、強い存在感をあらわにしているものがいる。

それは、悪意だ。

息苦しいほどの負の感情がこの世界を支配している。怒り、憎しみ、妬み、恨み―――

それらが渦巻き強烈な波動となって、私に襲いかかる。そこには哀しみすら存在の余地はない。


では、なぜこれほどの憎悪を身に受けなければならない?

そんな悪意にさらされる私は誰だ?

意識が混乱する。


わたしは一体・・・

そう自問したとき、わたしはふと思い当たった。

より正確にいえば、無意識に抱いていた疑念が、突然、はっきりとしたかたちで意識の表層に浮上した、という感じだった。

―――そうか。

いた、わたしを憎むものが。わたしの存在を絶対に許さないものが。

あまりにも明白すぎることじゃないか。


おののきとともに、わたしはついに悟った。

なんと罪深いことを・・・・・・

・・・わたしは殺人者だ。それも、もっとも非情で残酷な。


突然、闇の奥に、一点のかす幽かな明かりがともった。

はかなく、ほのかな明かりだ。くらく、あわい明かりだ。

そして、漆黒の世界がわずかにおぼろげになった。

光は、徐々に大きく、いや、だんだんこちらに近づいているようだった。

また、どうやらそれは円のようだったが、輪郭はあいまいで闇に溶け込んでいるため、まるで蜃気楼のように揺らぐ不確かな存在に思われた。


だが、ひとつだけはっきりしていることがある。

それは、その光こそが、この世界に存在するあらゆる負の感情の源である、ということだ。


すさまじいほどの感情の波が迫ってくる中、わたしは静かに思い起こしていた・・・・・・


―――あのとき以来、わたしの気持ちが晴れたことなど一瞬たりともない。

わたしにとって極めて深刻な出来事だった。恋人と破局を迎えた後も、その重い出来事がかすむことなく胸にのしかかり、いつまでもわたしを悩み苦しませた。  しかしそれは、恋人に対する未練ではない。晴れる兆しのない沈鬱な気分の大部分を占めるのは、とりかえしのつかないことをしてしまった、という救い難い後悔の念だった。  わたしたちは、自分たちの間にできた新しい生命と、かけがえのない未来を身勝手に奪い去ってしまったのだ。

お互いの事情が絡み、まだ結婚して家庭を築く段階ではないと判断が一致したためとはいえ、あまりに無責任すぎる行為であり、非情な選択だった。

しかもそんな言い訳はとってつけた結果論でしかない。そもそも、命を呼び込み芽生えさせたのもわたしたちなのだ。

胎児に意思があったなら・・・と思うと胸が締め付けられた。一旦は喜びを与えられておきながらあっさりそれを取り返された悔しさ、無力ゆえに他者の意思に翻弄されるだけの一瞬の存在で終わった無念が、慟哭となって私に訴えかけてくるようだった。  堕胎のあとすぐ、わたしはその事実そのものを葬り去るかのように、ほとんど言葉をかわすこともなく恋人に別れを告げた。わたしたちに未来を語り愛を育む資格はない、あなたとの間にこれ以上いかなるものも生み出してはならない、という決心を背負いながら。腑に落ちない様子で交際の継続を望む恋人に対し、わたしは決然と背を向けた。

所詮彼にはわからないのだ。その確かな存在を身に感じたことがないのだから。

わたしにはわかる。ある一時期、その存在と一緒に生きていたのだから。

だからこそ、わたしの勝手な都合でそれを失ってしまった直後に、激しい悔やみと深い哀しみにおそわれたのである。

それ以来、失われたいのちに対する慙愧の思いは日々つのるばかりだった。


そう。わたしは自分の子供を失ったのだ。

それも事故や病気で偶然なくしたのではない。自分の意志で、まったく意図的に人為的な方法で消してしまったのだ。自分で生み出しておいて殺す――これ以上理不尽で残酷な行為があるだろうか―――。

おぼろげな光はゆっくり漂いながらも、着実に近づいてくる。  光は泣いている。嘆いている。そして、呪っている。 ・・・光の中に誰かいる。  茫洋な姿ながら、存在感は強い。  どうやら女のようだ。こちらに背を向けて立っている。  私はやっと気がついた。  あの女だ。私につきまとい、しかし決してそばに近寄ってこない者。  それが今、私に向かって接近してくる。  やがて光は私の視界いっぱいに広がった。だがそれでも相変わらずおぼろげで、不確かな明かりだった。  光の中、女は目の前に佇んでいる。  この女は誰だろう。本当はよく覚えているような気がするが、なんだか記憶の糸が鮮明につながらない。だが、それももうすぐ判明するだろう。

いよいよの瞬間を迎えていることだけは分かった。    女の肩が揺らいだ。ついにこちらを向こうとしている。  そしてゆっくりと肩をまわす。同時に、強烈な波動が私を呑み込んだ。 腕に何かを抱えているようだ。そこから圧倒的な存在が感じられる。    やがて女は、振り向いた。  その瞬間、私とわたしは一致した。  悲鳴があがった。




・・・・・・

悲鳴と同時に、私は目覚めた。

 心臓が激しく胸を打ち、呼吸も息苦しいほどだったが、体中にぐっしょりとかいている汗は冷たかった。

 私は息を整えつつ、周りを見渡した。

 いつの間にか日は落ち、周囲には夜の帳(とばり)が下りていた。淡い月明かりが差し込む部屋はおぼろげにかげり、視界全体が茫洋としていてなかなか現実感を取り戻せない。

 私は窓の方に視線を向けた。

 外からは吹きまどうような風の音とともに、草木のざわめきと山のうなりが聞こえてくる。

人の声は聞こえない。どうやら眠っている間に住職の読経は止んだようだ。

私は安堵の息を吐いた。

と、そのとき、不意に背中に鋭い寒気を感じた。

私は一瞬で凍りついた。

思い過ごしではない。確かにあの気配だ。

しかもすぐ後ろにいる。私が向いている窓の反対側、つまり部屋の入り口付近に、それは佇んでいる。

・・・どうしよう。逃げなければ。

 だが私は動くことができなかった。

住職はどうしたんだろう。まさか・・・。

嫌な予感が頭をよぎる。

 しかし、やがて私の不安が膨れ上がり恐怖が頂点に達するころ、また唐突にその気配は消えた。

その瞬間、私を捕えていた呪縛が解けた。

 今だ!

 私はすぐさま体を反転し、ぴっちりと閉められた入り口の障子戸に駆け寄った。そして勢いよく障子を左右に開いた。

 だがそこで私は、再び凍りついた。

 目の前に立つものを見て、私は声にならない叫びをあげた。途端に頭が激しく混乱する。

 そこに佇むのは、あの女、つまりわたしだった。

そして腕に抱えているものは、わたしたちの罪の証だった。

 

私の意識は遠のいた・・・・・・・・・


そしてわたしは、腹を抱え、崩れ落ちた・・・・・・・・・




「・・・これで、よろしゅうございましたかな」

 わたしの後ろから、住職が静かに声をかけてきた。

「ええ」

 目の前に倒れている男を見下ろし、わたしは息をついた。もう事切れている。

「これで、目的のひとつは達せられました」

 わたしは振り返って、住職を見つめた。

「あとは、わたしだけです」

 住職は黙って視線をはずし、わたしのそばを抜けて部屋にはいった。そして男の前でしゃがみこみ手を合わせる。

 一言何かつぶやいた後、住職は立ち上がって窓の方に視線を投じた。

「あなたがおっしゃっていたように、『吉備津の釜』の主人公磯良が凄まじい復讐の鬼と化した要因は、ただ女の嫉妬にあったわけではないでしょう」

 住職はおもむろに語りはじめた。

「彼女が最も欲したのは、自分の居場所と存在価値だったのかもしれません。復讐の場面は確かに凄惨なもので、そのせいかこの物語は恐ろしさばかりが際立っていますが、私はこれほど悲哀に満ちて悲劇的な話はないと思っております」

 わたしは黙って頷いた。

「正太郎と結婚するまで何不自由なく周囲の望むまま、世間に忠実に生きてきた彼女にとって、結婚後は夫婦生活こそが絶対だったのでしょう。そこにこそ彼女の存在できる居場所があったのであり、正太郎の妻という立場が彼女の世界のすべてだった。それが正太郎の裏切りによって破綻してしまったことで、彼女は自分の存在意義を見失ってしまった。精神的な秩序は崩壊し、夫とともに本来の在るべき自分を取り戻すべく、磯良は鬼と化した。彼女が望んだこと、それは、夫を取り返し、再び自分の世界を回復することだった。嫉妬に狂ったためというより、自分がかたくなに守ってきた信念と存在意義を確かなものにするために、必死に正太郎に訴えることによって復讐しようとしたのでしょう。それは、哀しいまでの自己主張です。」

 住職は振り向いた。その表情は沈み、瞳は哀しみに満ちていた。

「しかし、磯良の痛切な願いはついに達成されなかった。結局最後まで正太郎は磯良の本当の思いに気づかず、ただ恐怖にのみ捕われて命を奪われてしまった。磯良が必死に迫れば迫るほど、正太郎はますます拒絶するだけだった。あれほどの復讐を遂げても、磯良の心は救われることがなかったのです。結局磯良が得たのは、彼女を理解する精神を伴わない夫の亡骸と、永遠に埋められることのない喪失感だけだった」

静寂な空間に、住職の声が響いた。いつの間にか風は止んでいた。

「あなたは今、磯良と同じように恋人の命を奪った。彼が自分で罪を理解し、悔やみ、つぐなうことを望んで、生霊として彼の夢と現実に現れ、無言で訴えかけていたのに、結局あなたは自分の意思で彼を裁いた。彼は最後まであなたの思いに気づかずに、死んでしまった」

「いいえ」

わたしは強く首を振った。

「住職がおっしゃったように、彼は招き寄せられるようにして今日ここへやって来た。そしてさっき、読経にのって彼の意識の深層に入り込んだとき、この人は確かにわたしの訴えに応じた。彼が、心の底から悔やむのが私にも分かりました。それでこそ、この子もうかばれる…」

「それは違いますよ」

わたしの言葉を切り、住職は意外なほど冷たい口調で言った。

「彼自身は気づいていない。彼はあなたの意思と同化しただけだ。強すぎたあなたの念に侵されたあげく、自分をあなただと思って死んだのです。したがって、悔やんだのは彼の意思ではなくあなたの意思です。結局のところ、あなたは、自分自身の後悔と謝罪を彼の中に見ただけなのです。その証拠に、死ぬ瞬間、彼は自分の腹を抱えていた。それは、男である者には有り得ない行為です」

わたしは言葉を失った。そんなはずはない!それが本当なら、あの子は永遠に救われない。

「よろしいですか」

あまりの衝撃に呆然としているわたしにはばか憚ることなく、住職は続けた。その表情は、能面を彷彿させた。

「あなたは、かつて自分に宿し、中絶した胎児、命を与えてもらいながら世に生み出されることなく、水子の魂としてさまよい続ける運命を背負わせた子どもの供養のために、私のもとへやって来た。あなたにとって、胎児の存在は確かなものだった。そして生まれていない胎児にとって、世界の全ての空間はあなたの体であり、その世界を与えたのはあなたたち二人に他ならなかった。しかし、胎児の存在は夢で終わってしまった。あなたたちの手によって、無の空間に放り出された。あなたは、おそろしい後悔に苛まれた。胎児には、自分たち両親しか、運命を共有すべき者はいない。このままでは、我が子は永遠に無意味で孤独な存在としてさまよい続けることになる。それを救うには、自分たちも現世での存在を絶って、子どものもとへ行けばいい・・・再び世界と自分の存在の意味を与えてやればいい・・・。しかしそれには、水子となった子どもの存在とその無念を、彼にも気づいてもらい、罪の意識を自覚してもらわなければならない」

そうだ。そうでなければ意味がない。わたし独りでは決して為し得ない。

「そしてあなたは今夜、私の経によって、ついに彼の意識の深層まで入り込んだ。これまでのように浅い層である夢では彼の自覚を促すことはかなわないと考え、魂に直接訴えかける手段にでた。彼はもちろん反応した。ところが、そんなあなたの必死の思いを、彼は自分の意思として認識することができなかった。彼自身は最後まで、自分の子供の存在というものを受け入れなかったのです。

なんと皮肉なことか―――そもそも、両親の意思がそろわなければ子どもが生まれる道理はない。

あなたは、磯良と同じ過ちをおかしたのです。あなたが産むはずだった子どもの存在は、あなた自身の手による彼の最期によって、未来ばかりか過去においても、永遠に消されてしまったのです」

わたしは愕然として、床に膝をついた。

それでは、わたしこそが、あの子を抹殺したことになる。生命だけでなく、確かに存在したという事実さえも。

暗闇の中、住職はわたしを見下ろした。

「今、あなたの腕に抱えているものは、何ですか」

わたしははっとして自分の腕の中を見た。

そして、「…ああ」とうめいた。

腕にはもう、何の存在も感じられない。わたしは何も抱いていない。

住職の声が、しだいに遠くなっていく。

「胎児の夢と無念は、その存在とともに抹消されました。あとに残ったものは、結局何ひとつ分からずに無意味な死を課された男の亡骸と・・・」

住職の目の前で、女がどうっと崩れ落ちた。

「女の幻想です」



(Chapter 0 End)

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