第四章 やろうと思ったその時にやらないと、きっと一生できなくなっちゃうよ



 ~16代目女神の伝承『誕生』~


   女神は、トロイメライの守護者である。

   女神なくしては、この街の存続と繁栄はない。

   戦乱の時代、初代の女神はこの街を救った。

   戦禍に脅かされつつあったこの街で、女神は至高の剣を生み出したのだ。

   さらに、鍛冶の技術を民に伝え、育て、質の高い剣を量産しようと試みた。

   潤沢なベイカー川の水も幸いし、勤勉な民たちは、女神の期待に応えた。

   結果、大国小国問わず、覇権を争う国々は、トロイメライの剣を求めた。

   必然的に、トロイメライそのものを奪おうとする国も現れた。

   だが、一つの国が手を出せば、他の国に一斉に叩かれ、潰された。

   トロイメライの剣には、それほどの価値があった。

   こうして、トロイメライは平和と繁栄を手に入れた。

   女神が、街を救ったのだ。

   それから約500年後にあたる今日。

   16代目の女神となる赤子が産声をあげた。

   薄い黄色の金髪と青色の瞳は、女神の純血を証明している。

   歴代の女神たちは、各々多大な実績を残し、この街を正しく導いてきた。

   女神の力のすべてを、この子が継いでいることを切に願う。

   

                            ロナルド・ベイカー




 手のひらサイズまで縮んでいた妖精ルビーは、眠るロバートの頭から勢いよく飛び出した。その瞬間、客室はオレンジの光で満たされる。ルビーの背中についた羽も、身体を包む光の粉も消えていき、人間の姿に戻っていく。

 続いて紫の光が飛び出してきて、部屋を照らす。こちらは、ルビーのパートナーである妖精ロビンだ。

 二人は物音を立てないように、静かに客室を出ていく。ホテルでの仕事の中で、ルビーにとってはこれが一番緊張する時間だった。

 廊下に出ると、ルビーが小声でロビンに言った。

「今日も、なんとかうまくいったね! でも、斧で切り倒すっていうのはどうかなぁ。お客さんにとっては大切な記憶なんだよ?」

「別にいいだろ、壊れて消えるわけじゃないんだから。それに、いちいち全部の木に抱き付いてたら、朝になっても終わりゃしないよ」

 ロビンとの軽い口論は、いつものことだ。それより眠い。吹き抜けからロビーの大時計を見ると、朝の3時を回っていた。すぐに寝よう、とルビーは思う。

 ルビーは、口パクでロビンにお疲れ様を告げると、客室の隣に二つ並んだ個室のうち、手前の方へ入っていく。そこがルビーの部屋だ。決して広くないこのホテルでは、ホテルマンたちは客室の間近で生活している。ホテルと言っても規模が小さいため、民宿に近い形態をとっているのだ。

 ルビーはいつも通り、滑らかで重い布地の制服を雑に脱いでテーブルに置く。制服はもう一枚予備があるし、ホテルの『なんでも屋さん』であるバニーが毎日洗ってアイロンがけまでしてくれるから、いちいちハンガーにかけたりしない。

 『なんでも屋さん』とは、受付から掃除、調理から配膳まですべてをこなすバニーについた愛称だ。宿泊客だけでなく、従業員の世話もしてくれている。そもそも、このホテルにおいて、受付、客室の掃除、食事の用意といったいわゆるホテル業務に携わるのは、バニーと支配人のベイカーだけなのだ。

 ではルビーたちは何をしているのか? 多くの宿泊客が疑問に思うが、それに答えることは許されない。極秘の仕事をしているからだ。

 その仕事とは、宿泊客の夢の中に入り、物語に干渉し、幸福な結末に導くこと。

深夜、宿泊客が眠りにつくのを見届けると、ルビーたち4人の妖精は、妖精のかたちに姿を変える。小さくなって、羽を生やし、光の粉を纏う。特別な魔法などではなく、生まれつきそういう生き物なのだと聞かされている。

 その姿で客室に忍び込み、こっそりとベッドに近づく。そして眠る人間の頭に触れ、夢の中に侵入する。夢の中では、外の世界と同じように、明確な思考を持って行動できる。その特権を利用して、夢を幸福な結末に導く。こうして、最高の眠りを提供するのだ。

 これが妖精の役割であり、このホテルの最大の魅力である。

 ルビーは、宿泊客たちが安らかに眠る寝顔や、彼らが夢の余韻に浸りながら朝食を食べる姿を見ると、大きな喜びとやりがいを覚える。

 今日もうまくいってよかった。そういう幸福に包まれたまま、柔らかなベッドで昼まで眠る。毎日のこの時間が、ルビーの幸せだった。


 ルビーが目を覚ますと、昼の12時を回っていた。

 ベッドから起きたルビーは顔を洗って、クローゼットを覗く。よほど忙しい時でなければ、昨日の制服がすでにハンガーにかけてある。

「うん、さっすがバニーさん!」

 寝巻を脱いで、クラシカルな制服に腕を通す。ネイビーのヘアゴムでオレンジの金髪を二つに結ぶ。鏡の前に座り込んで、ホテルマンらしいメイクを施す。派手すぎず、ナチュラルすぎないメイクは、元々大きなルビーの目を、よりぱっちりと際立たせた。

 昼から夕方までは、妖精たちの自由時間だ。そのため、本来は、制服もメイクも夕方からでいい。しかしルビーはこの恰好が気に入っているから、いつも起きたらすぐに着替える。最後に、寝ぐせがないことをもう一度確認して、部屋を出た。

 ロビーに降りると、ラウンジでは3人の妖精たちがランチを食べていた。通常のホテルではありえないことだが、宿泊客が数人の民宿に近いこのホテルでは、こういうことも許されている。むしろ、業務外での宿泊客との接点を増やすべく、奨励されているほどだ。もちろん、ホテルマンらしい振る舞いは常に求められるのだが。

「おはようー」

 ルビーが明るく抜けた声で声をかけると、同僚たちも挨拶を返してくれた。

「ねぇルビー、今日のサンドイッチおいしいよ。特にこのサーモンとモッツァレラとトマトのサンドイッチがさー」

「えっほんと? じゃあそれからいただきまーす」

 まるっとした体格のパトリックが差し出した三角形のサンドイッチをそのまま受け取ると、ルビーはぱくりとかじりついた。味はばつぐん。ベイカー川の激流にもまれたサーモンと、山育ちのチーズの風味が、最高の目覚めを彩ってくれた。トマトの酸味も心地よい。

「うん、すごく美味しいね!」

 ミルクを飲んでパトリックに微笑むと、彼は何故か満足げな顔をした。朝食がおいしいのは彼ではなくバニーのおかげなのに、とルビーは笑う。少し抜けた感じのパトリックだが、そんな彼も夜になれば、緑色の粉を振りまく真ん丸な妖精に姿を変えて、夢を彩る。

 二人の様子を見ながらアールグレイの紅茶を飲んでいた赤毛のレイチェルが、冷めた口調で言う。

「なーんか機嫌がいいわね、ルビー。新しいお客さんの夢、うまくいったんだ?」

 彼女は赤くてきれいな光を纏う、吊り目な美人妖精で、パトリックのペアとして働いている。

「うん、なんとかうまくいったって感じかなぁ。『記憶探しパターン』なんだけどさ」

 ルビーが言うと、パトリックがサンドイッチを頬張ったまま相槌を打つ。

「あぁ、何かを思い出したがってるお客さんにありがちだよね」

「うん、でもちょっとシリアスな記憶を探してるみたいでさ、なかなか最後の木が見つからなくて。たぶん、無意識に心の奥の方にしまい込んでるんだと思う」

「あれは、ほんとギリギリだったよな。もう少し遅れてたら、ロバートさんが熟睡してノンレム睡眠状態になるところだった」

 ソファーに深く腰掛けていたロビンが小さく笑う。

 人間が夢を見るのは、レム睡眠という浅い眠りの間だけ。宿泊客の目が覚めたり、彼らが熟睡してしまうと、夢は強制的に終了となり、妖精も身体の外に弾き出されてしまうのだ。

「だけど、間に合ったでしょ?」

「まあね」

「相変わらず、いいコンビなんだねえ」

 ルビーとロビンのやり取りをみて、パトリックはほがらかに笑う。

 『記憶探しパターン』の夢を幸福に導くためには、夢の主が思い出したがっている記憶を、深層心理の中から見つける必要がある。フィールドは森であったり、海であったり、宇宙であったり、人によってさまざまだ。

 記憶を見つける方法は二つあり、ルビーとロビンはそれぞれ得意とする方法で本命の木を探していた。

 ルビーはいつも単純に、森中の木々を片っ端から調べ上げる。妖精が記憶の木に触れれば、中に込められた記憶を確認できる。つまり、ものすごいスピードで飛び回り、木々に次々とタッチして、記憶を確認して回るのだ。本命の木に触れれば、夢の主の心が反応し、世界が僅かに振動する。本命の木を見つけたら、あとは夢の主をそこまで連れていくだけだ。

 ロビンが使うのは、記憶の連鎖を辿るという方法だ。基本的に記憶というものは繋がっていて、一つを思い出せば関連する記憶を呼び起こすことができる。ルビーのようにあてずっぽうに探すのではなく、夢の主が求めている記憶の種類を絞り込み、本命の記憶に近づいていこうとする方法だ。ロバートの場合、『子供時代に墓参りをした記憶』に強く反応していたから、ロビンは家族にまつわる記憶を連鎖させていた。

 ロビンがテンポよくロバートの記憶の連鎖を導いているのが、森に満ちていく光で分かったから、負けたくないルビーは途中かなり焦っていた。それでも、なんとかロビンよりも早く最後の木を見つけることができたので、ロビンにロバートを連れて来てもらったのだった。

 思い出しながら、満足気にサンドイッチを口にしたルビーに対し、レイチェルは探るような声で聞く。周りにお客さんがいないことを確認したのだろう、瞳が色っぽく横に動く。

「ふーん、で、琥珀の出来はどうなの?」

 ルビーはサンドイッチを頬張る口を左手で隠しながら、あ、と声を漏らす。自分たちでつくった琥珀を、まだ確認していなかったことに気づいたのだ。

 レイチェルが聞いたのは、妖精の琥珀の出来栄えのことだ。トロイメライの名産品である妖精の琥珀は、3年前に現在の女神さまが発明したのだが、実はここホテル・ファンタジアで生産されている。

 枕の中に良質な、できるだけ透明な琥珀を入れた状態で、妖精が人の夢を幸福に導くと、妖精の纏う粉が琥珀の中に吸い込まれていく。インクルージョンとなった妖精の粉は光の粒となり、幻想的かつ華やかにきらめく。

 妖精の琥珀のクオリティは、夢の結末によって人間が得た幸福の大きさに比例する。

 妖精の琥珀という名は、伊達ではないということだ。

「まだ見てないよ。後で取りに行かなきゃ。ロバートさん、今部屋にいないかなぁ?」

 枕から琥珀を取り出すところを宿泊客に見られてはいけないので、ルビーはロバートの居所を確認しようとサンドイッチをお皿に戻す。

 が、パトリックが教えてくれた。

「ロバートさんなら、朝早くぼくが劇場区まで送っていったよ。……つまみ食いをしに起きたらばったり会っちゃってさ」

「そうなんだ! じゃあ、今のうちに取りに行ってくるね!」

 ルビーが立ち上がると、今度は、ロビンがそれを制止した。

「いや、僕がもう持ってきたよ。見る?」

 ロビンが、腰のポーチに手を伸ばして言った。

「え、そうなの? なんだ、早く言ってよ~。うん、見る見る」

 ルビーは気楽な声で言うが、琥珀を確認するときはいつも緊張してしまう。お客さんがどれだけ幸せになったのか、その指標になるからだ。

「あ! ちょっと待った! 今日は、ぼくたちの琥珀を先に見てもらいたいね!」

 ここで、珍しくパトリックが勢いのある声を出し、ロビンの手を止めた。昨晩の琥珀の出来に、余程自信があるのだろう。

 ロビンも、挑発的な声で応じる。

「へぇ、君たちの琥珀が僕たちの琥珀よりもクオリティがいいなんてこと、今まであったかな?」

「なんですって!?」

 パトリックのペアであるレイチェルの頬がぴくりと動き、ロビンを睨む。本気でいらついているようだ。

 ルビーも、ロビンの発言に驚いた。

「ちょっとロビン、そんな言い方ないでしょ?」

「本当のことだろ? 僕たちのペアは、いつでも最高の琥珀をつくってきたんだ」

 しかしロビンは爽やかに笑う。棘のある発言を覆い隠すような笑顔だ。

 確かに、ルビーとロビンがつくってきた琥珀の市場価格は、パトリックとレイチェルのものよりも高くつくことがほとんどだった。それでも、こんな言い方はない、とルビーは思う。

 ロビンに非難を浴びせようとするルビーとレイチェルを抑えたのは、パトリックだった。

「まぁ、今まではそうだったかもしれないけどさ。今日の琥珀はまだ分からないじゃないか。とにかく見てよ、この琥珀。綺麗じゃない?」

 パトリックが、手のひらにのせた琥珀を三人に見せた。

 ビー玉サイズの薄い黄色の琥珀の中で、赤と緑の粉がそれぞれ直線をつくり、十字にクロスしている。補色関係が生み出すシャープな美しさに、ルビーはしばらく見入ってしまった。

「わぁ、すごい……。きれいな十字だね。今晩は、わたしたちの負けかも……」

 ルビーが素直に認めると、ペアのレイチェルは満足そうに頬をゆるめた。

 ルビーは、レイチェルにライバル意識を持たれていることを日々感じていた。だから、彼女は余計に嬉しいのだろうと思う。

 ルビーは、十字インクルージョンの琥珀を手に取って、じっくり眺めてみる。作り物のような正確なクロスが、逆に神秘的だ。くやしいけれど、とてもきれいだと思う。

「へぇ……これなら、5百万円はいきそうだね」

 ロビンも、この琥珀を認めたようだ。これは中々珍しいことだ。

 が、琥珀を窓から射し込む光にかざした時、ルビーはその透明感を阻害する、ほんの少しの淀みを見つけてしまった。淀みの少なさは、夢の幸福感を示す。つまり、パトリックたちが導いた夢は、お客さんに完全な幸福を与えてはいない、ということだ。もちろん、平均レベルに比べれば十分な透明度を持ってはいるから、それなりに幸せな夢を見せたのだろう。しかしルビーは、自分なら満足できない淀みかな、とひそかに思った。

 ルビーの評価などつゆ知らず、パトリックは勝ち誇った笑みでロビンを見ている。

「どうだい? さっきは、ぼくたちの琥珀じゃ君たちの琥珀に勝てっこないって言っていたけど?」

 ルビーはロビンの表情を窺う。こちらの琥珀の出来はどうだったのだろう。いつものクオリティならば、いい勝負か、若干見劣りするくらいかと思うが、今回は少し自信がある。

 すると、ロビンは冷静で爽やかな笑みを浮かべた。

あぁ、このパターンか、とルビーは察知し、少しだけほっとした。

「僕とルビーの琥珀を見てみるかい?」

「うん、見せてみなよ」

「ほら、これさ」

 ロビンが皮のポーチから取り出して、ハンカチの上に乗せた琥珀は、パトリックとレイチェルの表情を一変させた。

 ルビーでさえ、そのきらめきに驚いた。オレンジの粉が、球の中心から勢いよく放射状に飛び散っている。まるで、太陽が生まれたその瞬間を固形化したかのようなエネルギーを感じる。放射の隙間には、紫の粉が蒼い星のように散りばめられていて、上品なスパイスになっている。先ほどのような淀みも一切ない。

「な……なによこれ!」

 レイチェルがルビーたちの琥珀を手に取ると、悔しさと感嘆を混ぜ込んだ声を出す。

「こんなの、今まで見たことないわ……」

「一体、夢でなにがあったんだい?」

 目を丸くしたパトリックの質問に、ルビーは少し戸惑った。確かに、ロバートが求めていたであろう記憶を探し当てはした。が、おそらくあれは、彼の子供が生まれた時の記憶だろう。まさに人生において最重要と言えるシーンのことを、完全に忘れることなんてないはずだ。だから、夢の中で自分たちがしたことは、日常に埋もれがちだった大切な記憶に光を当てた、それだけのことだと思っていた。もちろんそれも価値あることだとは思うが、こんな琥珀を生み出すほどの感動を与えたとは思えない。とにかく、今までつくっていた琥珀の中でもとくべつ美しいと言えるこの琥珀には、感情の爆発を感じる。あれは、それほどの記憶だったのだろうか。

「うーん、そんなに特別な夢だったとも思えないんだけど……」

 ルビーが声を落として答えると、レイチェルはそっぽを向いて溜息を吐いた。

「はいはい、ルビーにしてみればこれくらい普通にできるってことね」

「そ、そういう意味じゃないよ!」

「すごいなぁ、ルビー」

 パトリックも、無邪気な尊敬の表情を向けてくる。

ルビーは嬉しくも複雑な気持ちだった。そして、琥珀を手に取ってじっと見つめた。もしかしたら、ホテルの仕事を始めて以来、最高の琥珀かもしれない。でも、どうしてそんなものができたのか、分からない。ロバートという人物について、もっと知りたい、そう思った。今すぐにでも、話したい。

 ルビーは、突然立ち上がる。

「ちょっと、散歩してくる!」

 ホテルでロバートの帰りを待つよりも、観光中の彼を見つけて話す方が早い。この街の観光客は、レイチェル街道かルビー街道のどこかにいるだろうから、見つけるのはそんなに大変なことではない。

 ルビーの自由な行動力には慣れっこの三人は、驚くことなく彼女を見送った。そして再び、彼らの視線は琥珀に戻る。まるで意識が吸い込まれているかのように、オレンジの光に囚われ続けた。


 ルビーはホテルを出て、狭い路地とトンネルを行く。途中には何度も分かれ道があるが、記憶を辿るまでもなく、足が道を覚えている。

 小さな木の扉からレイチェル街道の劇場区に出ると、ルビーはようやく外出した気分になる。トランペットの音が全身を包み込んでくれるし、太陽の光が直接金色の髪を照らしてくれる。

 活気があって、おしゃれで、古風で、独特な空気のトロイメライ。大好きなこの街に一歩踏み出すこの瞬間もまた、ルビーの至福の瞬間だった。

 正面にある月の劇団の劇場は、『マジックナイト』という話題のイベントを終えて、祭りの翌日のような余韻を残して閉まっているが、それを除けばいつも通りの劇場区だ。ルビーは、顔なじみの呼び込みピエロたちと挨拶をかわしながら、ロバートを探しにレイチェル街道を上っていく。

「やぁルビー、今日も眩しく瞬いてるねぇ!」

「おはようジョージ、あなたもね!」

 ひときわ馴れ馴れしく語り掛けてきたのは、『稲妻の劇団』の呼び込みピエロであるジョージだ。ルビーも、明るい声でお世辞を返す。吹き替えのアメリカ映画のようにわざとらしい言い回しがばかばかしくて、互いに噴き出す。

 閃光や雷鳴を演出に多用する彼らのショーは、雷が苦手なルビーにとってはとても受け入れ難いものなのだが、観光客からの人気は上々らしい。

「今日はどこに行くんだ? もしよければ、うちのショーを見ていかないか? ルビーなら、そうだな……半額でいいぜ!」

「いや、そこは無料でしょ! それに、何度も言うけど、雷は苦手だし……」

「今日は、マジックナイトの翌日で月の劇団が休みだから、客の入りがいいんだよ。だから、無料で席は出せないなぁ。それより、雷の良さが分からないなんてまだまだ子供だな」

「それはもう聞き飽きたって! 怖いものは怖いんだから、仕方ないでしょ。それより、60歳くらいの優しそうなおじさん見なかった? 背はそんなに高くなくて、少し猫背なんだけど、なんとなく頭の良さそうな……」

 いつも通りのやりとりを簡単に終えた後、ルビーはロバートを見ていないか、聞いてみた。人通りの多いこの道で、この程度の情報で人探しなどできるわけがないのだが、一応だ。

「賢そうなおじいさんなんて、今日だけでもたくさん見たぜ。だけど、たぶん、ルビーが探してるおじいさんは、教会区の方に上っていったよ」

「え、どうして分かるの?」

「あの小さなドアから出てくるのを見たからさ。あんな路地から出てくるのって、お前のホテルの従業員か、お客さんくらいだろ?」

 なるほど、と頷きながら、ルビーはジョージに感謝を告げると、街の北西部にある教会区に向かって坂を登り始めた。後ろから、いつか雷克服しろよ、と茶化す声が飛んできた。


 劇場区と教会区の境目、丁度街の北あたりを歩いている時、金管楽器の大きな単音がルビーの後ろで鳴り響いた。車のクラクションをもう少しおしゃれにしたようなこの音は、エレクトリック・スターダスト号のクラクションだ。振り向くと、ゆっくり坂を登ってくる車両が見えた。

 レイチェル街道とルビー街道のど真ん中を走るこの乗り物は、とても穏やかなスピードで、女神の宮殿とロビンの門の間を上り下りする。この速度とクラクションのおかげで、稼働を開始した昨年以来、事故は一度も起こっていない。

 しかし、それでもキライだな、とルビーは思う。車窓から見える観光客の楽しそうな顔が無ければ、良い所なんて一つもないと思えるほどだ。

 ルビーは街道の脇に寄って車両が通り過ぎるのを眺めた後で、道を真っ二つに切り裂く金属のレールを見つめた。バスケットボールが二つ、すっぽり入るくらいの太さがある。石畳で整えられたきれいな道に、どうしてこんな目立つものをひいてしまったのだろう。トロイメライの古い情緒が好きなルビーには、それが理解できなかった。スターダスト号の発案者は女神さまだというが、もしも自分が宮殿に勤めていたのなら、必死で女神さまを諌めたのに、といつも思う。

 確かに、便利な側面もある。きつい傾斜のついたこの街を、観光客が気軽に楽しめるようになるし、排気ガスを出さない電気駆動車であるため、環境に優しいと世界中で評判を呼んでいるらしい。結果、世界中の雑誌やテレビで話題になり、観光客が増えてきたことは、ルビーも実感している。

 しかし、ルビーはそういうメディアで紹介される、トロイメライの新しいキャッチコピーが大嫌いだった。

『眠りの街が、ついに目覚めた』

 目覚めた? 眠っているからいいんじゃん! と思うルビーは、このフレーズをテレビで聞くたびにチャンネルを勝手に替えて、他の妖精たちにブーイングを受けるのだった。

 この街の古き美しさを守り続けたい。ルビーは最近、エレクトリック・スターダスト号のこともあり、この想いを強めていた。

 しかしそれは、ホテルにいながらでは限界のある活動だ。この街の魅力をガイドすることはできるが、街そのものをつくったり守ったりすることはできない。それができるのは、行政機関である女神の宮殿の役人たちだけなのだ。

「お嬢さん、どうしたんだい?」

 その時、ぼうっと立ち尽くしていたルビーに、観光客らしきおばあさんが声をかけてきた。ルビーは少し驚いて、返事をする。

「あ、いえ。少しぼーっとしてただけです」

 するとおばあさんは、優しく微笑んで、同時に申し訳なさそうな表情を浮かべて聞いてきた。

「お嬢さん、どこかの劇団の女優さんかい? その格好、観光客じゃないんだろう?」

「いえいえ、私は近くのホテルで働いているホテルマンです」

「あら、女優さんじゃないのかい。あんまりにもべっぴんさんだから間違えちゃった」

 ここまで率直に褒められると照れてしまう。ルビーは頭を掻いて、えへへ、と笑う。

「わたしに女優は無理ですよ。演技とかできませんしね」

「そうかい、でもホテルマンさんなんだね? じゃあ丁度良かった、道に迷っちゃってね」

「あぁ、そういうことならお任せください! ホテルマンの得意分野ですからね!」

 先ほどまで真剣な目で立ち尽くしていたルビーが、人懐っこい笑顔で胸を張ると、おばあさんは嬉しそうに笑ってくれた。

「あのね、『命の教会』に行きたいんだよ。この道を登っていけば着くって聞いたんだけど、地図に載ってなくて不安でね」

 おばあさんが開く地図は、ロビンの門に置かれたパンフレットに記されたものだった。ルビーはそれを覗きこむと、一点を指差して言った。

「あぁ、ごめんなさい、分かりづらいですよね。命の教会は、正式にはセイント・バニー教会っていうんですよ。地図にはそっちの名前が書いてあるんです。なので、ここになります。このままレイチェル街道を進んで教会区に入り、南西の居住区との境目付近まで歩きます。その辺りにある、シンプルな白い建物が命の教会です」

 てきぱきと説明するルビーの顔を、おばあさんは感心した表情で見つめてきた。

「ありがとう。やっぱりこの道でいいんだよね。助かったよ」

「わたし、教会までご案内しますよ。丁度わたしもそっちの方に用がありますし、命の教会は意外とコンパクトで見逃しやすいんです。そのひっそりとした情緒が魅力なんですけど」

 ルビーが微笑んで提案すると、おばあさんはパンフレットを閉じながら胸をなでおろした。

「ええ、いいのかい? 実は、まだ不安だったんだよ。あんまり探し回れる程、体力もないから」

「もちろんです! よろしければ、教会までの道のりにある見どころもご紹介しますよ!」

 ルビーは、おばあさんの歩幅に合わせ、ゆっくりと街の案内を始めた。

 ロバートを見つけるのが遅くなってしまうだろうが、焦ることでもない。もし今日が駄目なら、明日以降話せばいいだけのことだ。


 教会区には、商業区や劇場区とはまた異なる風情がある。建物や道の色そのものはオレンジと石の色を基調にしていて、街全体と調和しているのだが、教会や修道院、学校や図書館といった、娯楽とは離れた目的を持つ建築物が多い。それらは、派手な装飾を施されておらず、繊細で大人しいディテールを備える。もちろん、劇場区のような騒がしいピエロもいない。

 とはいえ、ドイツやフランスにある教会のような、厳かな雰囲気があるかといえばそうではない。それらと比べれば、コテコテとした明るさがある。なにしろ、デザインが繊細とはいえ建物の色遣いは派手だし、相変わらずバックミュージックはトランペットだ。讃えているのもどこかの神様ではなくこの街の女神さまだから、厳格なルールも特にない。

「例えばこのハート教会は、3代目女神さまの側近だった資産家の男性が建てたものなんですよ」

 ルビーは、おばあさんに目ぼしい建物を説明して歩く。左手に見えるハート教会は観光一つのポイントで、特に女性に受けがいい。

「側近が、こんなに大きな教会を建てたのかい?」

 おばあさんも、興味を示す。

「はい! ちょっと、屋根の辺りをよく見てください」

「なんだい?」

 ルビーは立ち止まり、ポーチから双眼鏡を出しておばあさんに差し出す。そして、とても細かい装飾が施され、石のレースのようになった屋根のヘリ部分を指差した。

「あっ! これはすごい! 全部ハートの形じゃないか」

 その部分は、遠くから見れば細かなレースなのだが、実は小さなハート模様が組み合わさっているのだった。

「そうなんです。ここは、側近が女神さまに寄せていた恋慕を込めて建てた教会なのだと言われています」

「その恋は実ったのかい?」

「いいえ。女神さまは街の者とは婚約しないという決まりがありますからね」

「そんな決まりがあるのかい。切ない話だねぇ……。でも、このハートのセンスは、個性的で……ちょっと、いただけないね」

 いくつになっても、女性は恋愛話が好きなものだ。二人は少しだけ感傷に浸って、その後笑うと、また歩き始めた。


「ここが、命の教会です」

 ルビーは、ホテル・ファンタジアの半分ほどしかない建物の前で足を止め、おばあさんに告げた。オレンジの屋根にグレーの石壁で、一般的な教会の形をしている。特に目立った特徴はない。

「これがかい? 思っていたよりも小さいね……」

「一人じゃ見逃しそうな教会でしょう?」

 ルビーが言うと、おばあさんは頷く。

 しかし、がっかりした様子ではない。それはそうだろう、とルビーは思う。

 命の教会に訪れる人たちの大半は、美しいもの、珍しいものを見ることを目的にしていないからだ。

 過去に亡くした大切な人の魂と、一度だけ会話をすることができる。それが、この教会の言い伝え。怪しいおまじないや宗教的な気休めにありがちな逸話だと、ルビーも思う。……しかし実際は、言い伝えなどというあやふやなものではない。トロイメライの命の教会は、本物の魔法がかかっているのだ。

 魔法が死者の魂を黄泉の世界から呼び出して、一度だけ、実際に言葉を交わすことができてしまう。特に魔力の強かった5代目の女神さまが、この非現実的な教会を建てたという。

 トロイメライで魔法がかかった建物を3つ挙げろと言われれば、ルビーは女神の宮殿と、ホテル・ファンタジアと、ここ命の教会を挙げるだろう。少なくともこの3つだけは、一般には信じがたい魔法がかかっている。

 おばあさんはしばらく黙って教会を見つめていたが、ふとルビーの方を振り向くと、先ほどまでの笑顔とはどこか違う、浅く儚い笑顔を見せた。

「なんだか怖くなってきちゃった。やっぱり、入るのやめとこうかしら」

 ルビーは、その笑顔がつくりものだと分かったし、怖くなるのも仕方がないと思った。おばあさんは、きっと長年連れ添った旦那さんか、早くして亡くなってしまった子供に会いに来たのだろう、と推測できる。死者と会えるといっても、まちがいなく迷信だと分かっているだろうに、すがるような気持ではるばるトロイメライまで来たのだろう。教会に入って、やっぱり会えなかったとなれば、心が傷つくかもしれない。会えたとしても、愛していれば愛しているほど、何を話せばいいのか分からなくなるし、一度振り切ったはずの未練が蘇ってしまうかもしれない。怖くなって当然なのだ。

 しかし、こういう時、ルビーが取る行動は決まっている。

「さぁ、行きましょう!」

「あっ、ルビーちゃん、ちょっと……」

 にっこりと笑って、おばあさんの手を優しく引く。

「なんですか?」

「だから、やっぱりやめようかなと思って。……怖いの。あなたはまだ若いから、分からないかもしれないけど」

「分かりますよ。わたしも、一度ここに来たことがありますから」

「え?」

 怪訝そうに顔を傾けるおばあさん。ルビーは、6年前の自分の体験を、できるだけ優しい語り口で、おばあさんに伝えることにした。

 

 妖精たちは、親を知らない。

 ロビンも、レイチェルも、パトリックも、もちろんルビーも知らない。

 物心ついたころにはベイカーが親代わりになっていて、ホテルで暮らしていて、生まれた時の記憶はない。しかもベイカーは、4人の出生についてまったく教えてくれない。その理由さえ、教えてくれない。

 だからルビーたちは、本能が求める親についての真実を、勝手に想像することしかできない。両親は妖精なのか、それとも、普通の人間なのか。トロイメライの住民なのか、それとも、違うのか。どうして、自分たちは、親元を離れてホテルで育てられているのか。

 4人のうちのだれか一人が不安になるたび、みんなでラウンジに集まって想像を巡らせた。それを、何回も何回も繰り返した。

 ルビーが10歳になった年のある日、一番頭のいいロビンが、恐るべき提案をした。

「僕たちの親が生きているかどうか、それだけでも知りたくないか……? 命の教会に、行ってみようよ」

 命の教会に行き、親の魂との会話を願う。もし会話が叶わなければ、まだどこかで生きているということになる。もし会話が叶えば、親はすでにこの世にいないということになるが、その時は実の親と話ができる。そういう提案だった。

 パトリックはすぐさま反対した。怖いからだ。どこかにいると願ってきた親が死んでいると分かることも怖いし、生きていたとして会話すること自体が怖い。それは、真っ当な意見だった。

 しかし、パトリックが反対意見を言い終える前に、ルビーは駆けだしていた。そのころすでに、ルビーにライバル意識を抱いていたレイチェルも後に続いた。言い出しっぺのロビンも、もちろんついてきた。

 数分後、3人は教会の扉の前に立っていた。

 だが結局、教会を目の前にして一歩踏み出せたのは、ルビーだけだった。他の二人は、パトリックと同じ恐怖と、未だ格闘していたのだ。

 ルビーは、白い木のドアを押し開けて、教会の中に入った。入った一階には何もなく、ただの空洞になっていた。真っ白の壁、床、天井。窓から射し込む光が、余計にその白さを際立たせていた。二階につづく階段も、白く小さく存在感がない。

六角形の部屋の中心に近づくと、どこからか神父らしき人物の声が聞こえてきた。驚いて見渡すが、誰もいない。

「貴方は、誰と話したいのだ?」

 低く、それでいて厳かな声。さすがのルビーも、足が震えた。部屋全体に魔法がかかっているみたいで、外よりも空気が冷たかった。

「お母さんか、お父さんとお話ししたいんです」

 ルビーはなんとか声を絞り出したが、自分でも語尾が震えているのが分かった。しかし、もう後戻りはできない。これで、両親が生きているのか、何者なのか、それが分かる。

 ……沈黙の時が流れる。じれったい。まるで、神さまが死者の魂を検索しているみたいに思えた。

 やがて、神父の声が再び舞い降りてくる。

「そなたの両親は、未だ魂を空に放っていない。よって、魂をつなぐことはできない」

 そして、ぷつりと声が途切れた。怪しい魔力の気配も消えた。

 瞬間、ルビーの足腰は緊張を解き、冷たい床に、へたりと崩れてしまった。その直後、涙が溢れだしてきた。心が勝手に身体を支配して、ルビーはわんわんと泣き出した。

 ロビンとレイチェルが、扉を押し開けてルビーに駆け寄ってきた。勇気を振り絞って、助けに来てくれたのだろう。二人に抱き付いたルビーは、うるさく泣いたままで、呟いた。

「わたしのお母さんとお父さん、生きてるんだって」

 その後、ルビーに勇気づけられた2人も、後日連れてきたパトリックも、ルビー同様に親との会話を試みたが、すべて会話には至らなかった。


「おばあちゃん、やろうと思ったその時にやらないと、きっと一生できなくなっちゃうよ」

 ルビーは、自分の経験を、妖精の秘密に触れない範囲でおばあさんに伝えた後で、優しく言った。

「……あなた、すごい子なんだね」

 おばあさんは、少しの間目を瞑っていたが、ついに部屋へと入っていった。

そして、30分後に部屋から出てきた。

 おそらく、会話ができたのだろうとルビーは思う。おばあさんの顔が、涙で晴れやかに輝いていたからだ。その会話が魔法による真実なのか、心の中で創られた思い込みなのか、判断はついていないと思う。だがそんなことは、当事者にとっては関係ないのだ。

「ありがとうね、ルビーちゃん。いいえ、親切なホテルマンさん」

 ルビーは、やっぱりホテルマンの仕事を続けていたいな、と心から思った。


 おばあさんと別れた後、ルビーは一人で居住区へと足を進める。

 劇場区にも宗教区にもロバートがいないということは、彼は女神の宮殿にいるのだろうか。なにしろ、居住区には観光ポイントはほとんどなく、ホテルと民家が林立しているだけだ。ホテルと言っても、古い建物をそのまま改装したものばかりだから、決してつまらないことはない。レイチェル街道の道沿いは、らせん状に高度を増してきたため比較的景色もいい。それでも、ここまでの3つの区域に比べれば見どころは少ないし、景色が観たいなら、もう少し歩いて、宮殿から見た方がよっぽどいい。

 だが、ロバートはそんな居住区の終わりあたりで見つかった。

「ロバートさん?」

 ルビーは、あるホテルを見上げて立っているロバートに話しかけた。

 ロバートは、少し驚いた様子でルビーに応えた。

「あぁ、君はホテルの……」

「何してるんですか? こんなところで」

「何してるも何も、見ればわかるだろう? ホテル・ファンタジアがどうしてこんなところにあるのか、考えていたんだよ」

「あはは……気づいちゃいましたか?」

 ルビーを置いて、再びホテルを見上げるロバート。彼が見つめているのは、ホテル・ファンタジアの裏側だった。

 当然ながら、ほとんどすべてのホテルはレイチェル街道沿いにエントランスを構えている。その中で、ホテル・ファンタジアだけは、レンガの塀を街道側に張り巡らしていて、出入り口を設けていない。しかも、建物自体も背を向けている。よって、通行人からすれば、ただの集合住宅か大きめの館にしか見えないのだ。

 このホテルに入る唯一のルートは、劇場区の小さなドアからつながる、狭い路地だけだった。

「ホテルの場所はとっても分かりづらいし、入りづらいですよね。泊ってくださるお客さんでさえ、どこにあるのかよく分からないままお帰りになる方ばかりです」

「どうしてそんなことを? 大通りにエントランスを構えた方が、客が集まるに決まっているのに」

「だって、この方が、わくわくしません?」

 真面目に聞くロバートに、ルビーは笑って答える。だが実は、ルビーも、どうしてこんなに分かりづらくしているのか、理解している訳ではない。ベイカーが教えてくれないから、勝手に理由づけしているだけだ。

「おかしいと思ったんだ。今朝ベランダから街を見てみたら、ホテルがやけに高い位置にあるから。劇場区にあったドアのあたりは、そんなに高くないはずなのに。あのトンネルが長い間登り坂だったのは、こういうことだったんだな。北東の劇場区から南西の宿泊区まで、丘の中を登りのトンネルが貫いているというわけだ」

「やっぱり頭良いんですね、ロバートさん」

「ほう?」

「第一印象から、クレバーなおじさまだなって思ってたんです」

 ルビーが正直に言うと、ロバートは笑ってくれた。

「ははは、変な子だな。君は。それにしても、こっち側から見ると、いたって普通の館にしか見えないね。正面から見ると、あんなにも美しいホテルなのに」

 どうやらロバートは、このホテルの奇妙さを随分気にしているようだ。

「そうですね。そもそも、多くのお客さまをお迎えするだけの人員がないので、これくらいが丁度いいんですけどね。……じゃあ人を増やせばいいじゃんって話なんですけど」

「どうしてそうしないんだい? それに、見たところ君たちは全員若いし、ベテランさんはいないのかい?」

「うーん。昔はいたんですけどね。それこそ、私たちが子供の頃は。でも、みんな卒業してしまいました」

「卒業って?」

「わたしたちホテルマンは、20歳になると宮殿の役人になるんです」

「どうして?」

「昔からのしきたりというか、ルールみたいなもので」

 本当のことだった。命の教会に赴いたあの時などは、まだホテルマンではなかったルビーたちの先輩として、20歳手前の妖精ホテルマンが6人もいた。彼らは現在宮殿に勤めている。が、彼らの時代には、夢に入り込み琥珀をつくるという妖精の魔法はまだ存在しておらず、普通のホテルとして運営していた。ルビーたちが引き継いでしばらくしたころ、今の16代目女神さまが妖精の魔法を発明したと認識している。

「卒業してしまったなら、その分人を雇えばいいじゃないか」

「まぁ、そうなんですけどね」

 新しく人を増やせばいい、というのは多くの宿泊客から出てくる意見なのだが、今のシステム上、妖精でなければ務まらないのだからそれは不可能だ。そして、そんな理由は説明できない。

 この時も、ルビーははっきりとした答えの代わりに、曖昧な笑顔を返すだけにとどめておいた。

 対してロバートは、呆れたように首を振ると、まっすぐにルビーを見つめてきた。

「やれやれ。君は、あまり詳しく話してくれないんだね。だけどね、私は決めたよ」

 その目が刺さるような鋭さを持っていて、ルビーは少し戸惑った。

「何をですか?」

「私は、このホテルの、いやこの街全体を包んでいる不思議な空気の正体を解き明かしたい。もし君が何かを隠していようと、もしくは本当に知らなかろうと、すべて明らかにしてみせる」

 その口調からは尋常ではない意志の強さが感じられ、老いた身体とは不釣り合いな熱量がほとばしる。

 ルビーはその突然の剣幕に驚き、しばらく言葉を失って彼を見つめた。

 数秒の後、どうして自分がロバートを探していたのかを思い出し、ようやく口を開く。

「じゃあ、わたしも一つ決めました」

「なんだい?」

 怪訝そうな顔を見せるロバートに、ルビーは真面目な顔をつくって言う。

「わたしは、ロバートさんに心を開いていただきたいと思います。ロバートさんも、何か大事なものを抱えてこの街に来たのでしょう?」

 瞬間、ロバートの表情に狼狽が浮かんだ。が、すぐにそれは引っ込んでいった。

「ほう、何故そう思う?」

 あんなにも美しい琥珀ができた理由が、そこにあるはずだから。あの夢にどんな意味があって、どんな幸せを生み出したのか、知りたいから。そう言いたかったが、言えるはずもない。

「ロバートさんがそこまでしてホテルとトロイメライの秘密を知りたがっているのだから、何か目的があるんじゃないかって考えるのは自然なことですよ!」

 ロバートは、きょとんとした顔を見せた後で、小さく笑ってホテルを見上げた。

「これから、女神の宮殿へ行かれるんですか?」

 ルビーが聞くと、ロバートは、ルビーの目を見つめて笑った。

「はは。それは、秘密だよ」

 そう言い残してレイチェル街道を上っていくロバートを、ルビーは追いかけはしなかった。なんとなく、それが野暮なずるい行為に思えたからだ。

 ルビーは、ロバートの心境に想いを巡らしながら、レイチェル街道を下っていった。


 ロバートがホテルに帰って来たのは、夜の18時ごろだった。彼は部屋で夕食を食べる旨をバニーに伝えると、階段を上がっていった。

 ロビーのソファーで彼の帰りを待っていたルビーは、それを見て、夕食を運ぶ係を譲ってもらうためにバニーに話しかけた。

バニーはルビーたちと同じ制服を着ているが、一人だけ首に日替わりカラーのスカーフを巻いている。今日は、深緑だ。年齢は不詳だが、さっぱりとしたタイプの美人で肌もきれいなので、ルビーは20代、もしくは30代前半だと推測している。

「ねぇバニーさん、今日の夜ご飯はなに?」

 バニーは、楽しそうに両手を合わせて言う。

「ミートボールのトマトシチューよ。今朝のトマト、美味しかったでしょう? あれをぐつぐつ煮込むの」

「おいしそう! わたし、今日はお客さんと一緒に食べようかなぁ」

「ロバートさんと?」

「そうそう! 今日街で偶然会って、だいぶ仲良くなったから」

 ルビーは少しだけ誇張した。

「へぇ、さすがルビーちゃんね。一日で友達になれるなんてすごい。だけどロバートさんは、今日は部屋で食べるみたいよ?」

「じゃあ、わたしが配膳するよ! 部屋に配膳する時に、一緒に食べてもいいか聞く!」

 必死に食い下がるルビーを見て、バニーはくすくす笑う。

「部屋で一緒に食べるってこと? そんなの有り? 相変わらず、お客さんのことが大好きね」

 ルビーは、バニーの許可をもらったと判断し、にっこりと笑顔を返す。

「じゃあ、シチューができたころにまた来るね!」

 ルビーは上機嫌で自分の部屋に戻り、ベッドに横になって時間が過ぎるのを待った。頭では、ロバートとどんなことを話そうかと考えていた。彼のことを、もっと知りたい。


「失礼します。夕食をお持ちしましたー」

「どうぞ」

 ルビーはお盆を持っていない方の手でノックをし、返事を確認してから客室に入っていった。

「こんばんは、ロバートさん。本日のご夕食は、ミートボールのトマトシチューです。パンは柔らかめのバゲットでよろしかったですか?」

「うん、ありがとう」

 ロバートの声は穏やかだ。

 ルビーは、客室にある木の丸テーブルにお盆を置くと、ソファーに腰掛けるロバートに、おずおずと聞いてみる。

「あの、わたしも一緒にここで食べてもいいですか?」

「え? 君が?」

「はい、もしよろしければ、ですけど」

「私は構わないが……ホテルマンと夕食を共にするなんて、初めてだよ。……さて、何を聞き出すつもりかな」

「ありがとうございます!」

 にやりと笑ったロバートに礼を述べると、ルビーはすぐに自分の料理を取りに部屋を出た。

 階段を降りてバニーにウィンクをすると、バニーは、すでに用意していたルビーの分の夕食を渡してくれた。

 ルビーはついでに、とっておきのグレープフルーツジュースの瓶も持ってきて、再びロバートの部屋のドアをノックした。

「すみません、開けてもらえますかー?」

 はいはい、という声と足音がして、ドアが開く。両手を瓶とお盆にふさがれたルビーを見て、ロバートは驚きと好奇の表情を見せた。

「なんだ、ホームパーティーでもするつもり?」

「いいですね! 二人ホームパーティーで語り合いましょう!」

「まったく、陽気なホテルマンだな、君は」

 馴れ馴れしくロバートの隣に座ったルビーは、グラスにジュースを注ぎ、二人で乾杯をした。濁りの入ったジュースの薄い黄色が、オレンジのランプに照らされて、少しだけ色を変えて揺れている。

 互いに一口飲んだ後、銀のスプーンを手渡しながら、ルビーは聞く。

「今日は、街を見てきたんですよね?」

「うん。昨日は街に着いたのが夕方で、あまり観光できなかったから」

「へぇ、そうだったんですか! でも、よくそんな短い時間でうちのホテルを見つけましたね? こんな辺鄙なところにあるのに」

 ルビーが聞くと、ロバートは少し表情を変えた。

「私も不思議だよ。でも、あの看板を見た時には、これは泊るしかないって思ったね」

「あはは、そうですよね。意味深な文章ですよね~」

「運命か信念がこのホテルへと導く……。本当に、人を選んでここへと導いているようだと思ったよ。実際のところ、どうなんだい?」

 ロバートは、シチューのミートボールをすくいながら聞いてくる。何の気なしを装っているが、ルビーには、ホテルの秘密を探っているようにしか聞こえない。

「うーん、あるかもしれないですけど、わたしには分からないですね。でも、あの看板について、一つだけ分かることがありますよ」

「なんだい?」

 ロバートのスプーンが止まり、彼の目がルビーを捉える。やはり、看板の文言が気になっているようだ。その疑念には答えられそうにもないが、悪戯っぽい笑顔でルビーは言う。

「『心からのおもてなしで、生涯忘れることのない夢の時間を提供します』っていう部分は、少なくとも真実だってことです」

 一瞬きょとんとした表情を浮かべたロバートは、頬を緩ませてミートボールを口に入れた。

「どうやら、一筋縄ではいかないようだ」

「わたしもバカじゃあないですからねぇ」

 ルビーも笑って、スプーンを手に取ってシチューを食べはじめた。

「ところで、今日はどこを見てきたんですか?」

「まずは劇場区だね。早朝に月の劇団ってところに行ってみたけど、有名なのかい?」

「あぁ、マスター・ピエールの? でも今日はお休みじゃなかったですか?」

 昼に見た時、ゲートに休みの看板が掛けられていたのを覚えている。

「いや、朝方に行ったらまだ昨晩の『マジックナイト』というイベントが続いていて、最後の演劇だけ見られたんだ。あれは面白かったよ。中でも、私はプリムさんの演技が好きだった。昨日も客寄せをしている姿を見たんだけど、派手な魔法使いみたいな格好が印象的でね。でも、劇で見たら、あの時以上の存在感があった。声も良く通るしね」

「え、プリムですか? 彼女、わたしの友達なんですよ!」

「へぇ、そりゃあ羨ましい!」

 ルビーは、友人であるプリムが褒められているのを聞いて嬉しくなった。

 月の劇団は、女神さまの歴史、つまり女神伝説を題材にした脚本を扱う、トロイメライを代表する劇団だ。マスター・ピエールはそこの支配人で、プリムは専属女優。女神にあだなす魔法使い役を担当することが多く、道化のプリムと呼ばれている。本来は邪悪な役回りなのだが、茶目っ気のある彼女が演じることで、月の劇団特有の明るい雰囲気を演出している。

「今日の演目はなんでした?」

「『鍛冶屋の恋』。切なくて、いい感じだったよ」

「あっすごい! 運がいいですね!」

「それはまた、どういうことだい?」

「あの劇は、昔からトロイメライに伝わる定番で、女神伝説の序章を元にしているんです。だから、この街を初めて訪れた人にはぴったりですよ!」

「女神伝説の序章?」

「はい。その劇がどんなストーリーだったか、覚えてます?」

 ルビーが聞くと、興味を惹かれた様子のロバートは、ぶ厚いメモ帳をさっと開いた。

 数ページにわたってびっしりと書き込まれた文字を見て、ルビーは驚いた。ロバートの、この街の神秘を解き明かそうとする意志は本物のようだ。一体、何が彼を動かしているのだろうかと、ルビーは余計に気になった。

 メモには、次のように記されていた。



 とある鍛冶屋の息子が、近所の少女に恋をして、親に秘密で彼女に鍛冶を教えていた。すると、少女の鍛冶の腕はぐんぐん成長し、少年どころか、やがて父親さえも凌駕する技術を身に着けてしまった。少年は心底驚いたが、勝手に鍛冶道具を他人に使わせていたことを隠すため、父親には何も伝えなかった。

 そんな隠し事が長く続くわけがない。少年の父親は、少年の日課だった日記を見つけ、少女の存在に気づいた。しかし、少年の予想に反して父親は大層喜んで、一流の技術を持った彼女を追い出したりはせず、むしろ鍛冶の世界に歓迎した。

 数年後、トロイメライが戦争に巻き込まれた時、この少女が才能を開花させ、国を守った。他の国にはつくれない、強く美しい刀剣の製造方法を発明するんだ。それによって、トロイメライは他国から侵攻されることがなくなった。

 彼女は街中に救世主として奉られ、宮殿に連れていかれた。少年と少女の間には小さな恋が芽生え始めていたが、権力によりその仲は裂かれてしまった。

 それ以来、少年は毎晩、鍛冶屋の屋根によじ登って、宮殿を見つめて想いを馳せることしかできなくなった。月と星に包まれながら、叶わない恋に苦しんでいた。そんな夜が、何年も続いた。その間も、少女の方は目覚ましい活躍で国を発展させていく。やがて、『女神さま』と呼ばれるようになった。

 数年後のある日、少年は、突然宮殿に呼び出された。そこには、成長した『女神さま』と、彼女の子供がいた。女の子だった。

 この宮殿で、彼は大きな傷を心に追う代わりに、一つの生きがいを与えられる。それは、女神さまの娘の成長を記録すること。少年が昔書いた日記が役人の目に触れ、女神さまの生き様を子細に記していたことが評価され、歴史の伝道師としての役割を与えられたのだ。生まれたての赤ちゃんと少年は、別の施設へと移され、親子のような絆を築いていく……。



 ロバートはメモを読み終えた後、グラスを傾けて喉を潤す。

「つまり、この少女が初代の女神で、生まれた女の子が二代目の女神ということだよね。そして、鍛冶屋の少年が二人の女神の生き様を記録する役割を担った。それが、伝道師……。そうすると、もしかして……」

 ルビーは、自慢げに胸を張り、目を丸くするロバートに言う。

「そうです! 当代の伝道師であるベイカーさんは、その少年の何世代も後の跡継ぎです! ベイカーさんは、定期的に宮殿に通って女神さまと会っているという噂があります。まぁ、人目を忍んで通っているようなので、同じホテルで暮らしている私でも、ベイカーさんが宮殿に入っていくのを見たことはないんですが……」

「じゃああの劇は実話だったのか」

「実話も実話、むしろこの街の歴史そのものです!」

「やはり、女神という存在もただの伝説ではなく、実在するんだね?」

 ロバートの言葉を聞いて、変なことを言う、とルビーは思う。トロイメライへ観光に来る者が、女神さまの存在を知らないなんて。

「女神さまは実在しますよ。当たり前じゃないですか。宮殿で、トロイメライの行政を司っています」

 ロバートはグラスを置くと、考え込むように目線をテーブルに落とした。

 そして、意味深に呟いた。

「……本当に魔法がかかっているみたいだな。この街は」 

「ふふ、そうですよね。ガイドブックでも、眠りの街、とか、魔法の街、とか、そういう書かれ方をしていますしね。知らずに来たんですか?」

「あぁ、特に何も調べずに、この街に来たからね」

「どうして?」

「急いでいたのと、第一印象を自分の目でつくりたかったからかな」

「それじゃあ、びっくりすることだらけじゃないですか?」

 ルビーは、期待を込めて聞いてみた。これまでたくさんの観光客と話してきたが、そのほとんどがトロイメライの不思議な魅力を褒め、讃えてくれる。

「君の言う通り、トロイメライには驚かされっぱなしだよ。まだ二日目だというのに、挙げればきりがない程の発見があったよ。それらはすべて独特でスペシャルなものだが、全体としてまとまっているようにも思える。本当に素晴らしい街だと思うよ」

「本当ですか? 嬉しいです! わたし、この街が大好きなので」

 トロイメライで生まれ育ったルビーは、この街のことを誇りに思っている。だから、観光客に街のことを褒められると、この上ない喜びを感じる。ルビーは目を輝かせ、全身で喜びを表現すると、立ち上がって、ロバートを客室のベランダの方へ導いた。

「ロバートさん、こっちに来てください。いいものを見せてあげますよ」

「なんだい?」

「それは、見てのお楽しみです!」

 疑念というよりは期待の表情を浮かべ、ロバートもゆっくりと腰を上げた。

 時刻は19時少し過ぎ。太陽はすでに沈んでいるが、ベランダへ続くガラスのドアを開けると、まだトランペットの音が聞こえる。

 ロバートを連れてベランダに出ると、ルビーは手すりに乗り出した。

 小さな中庭にはいくつかの木々や芝生があって、レイチェル街道とは高さ3メートルの塀で区切られている。塀には、庭の木々を整えるときに使う脚立が立てかけられている。今日の昼、ルビーとロバートは、その塀の向こうからホテルを眺めていたわけだ。

「なるほど、美しいね……」

「昨日は早くお休みになったようなので、まだ見ていなかったでしょう? こんなにもきれいな、トロイメライの夜景を」

 ホテル・ファンタジアは、トロイメライの丘の中でも比較的高い場所に立っているため、ここ2階であっても、街を上から眺めることができるのだ。街のそこかしこに灯されたオレンジ色の街灯が、街全体を温かくぼんやりとした光で包んでいる。

「これもまた幻想的だね……。私が住んでいる都会のような、白く鋭い光はひとつもない」

 ロバートは、ベランダの手すりに腕を置き、揺れる瞳できらめく夜景に見とれている。

 ルビーは、その様子を見て嬉しくなった。同時に、心に芽生え始めていた想いが、自然とあふれ出してきた。

「そう、本当にきれいなんです。……だから、わたしはこの美しさを守り続けたいんです。自分で行ったことはないんですけど、都会になんてなってほしくないですね。雑誌やテレビで都会の様子を見ることがあっても、絶対こっちの方がきれいだと思うんです」

「確かに、そうかもしれないね」

「眠りの街だなんて呼ばれてますが、的確な表現ですよね。気持ちがいい眠りの中で、いつまでも夢を見ている。進化や競争に巻き込まれないまま、自分たちが大好きなかたちを保っているんです。……それは悪いことでしょうか?」

 ロバートは、ルビーの方を振り向いて答えた。

「悪いことなんかじゃないよ。……何か、気がかりでもあるのかい?」

 図星を突かれて、ルビーは少し躊躇した。が、素直に答えることにした。

「……最近、街が変わり始めているんです。昔ながらのものばかりで構成されていた街に、新しい科学が混ざってきていて。それが、少し嫌なんですよね」

「それは、エレクトリック・スターダスト号のことかな? 確かにあれは、最先端の技術だよね」

「……その通りです。あんなもの、この街には似合いません。あそこにもレールが見えるでしょう? わたし、あれが好きになれなくて」

 ルビーは、ホテルの中庭を囲む塀の向こうを指差した。そこは、昼間二人が立ち話をしていたレイチェル街道で、真ん中にはエネルギーを伝達するレールが引かれている。その金属が放つ異質な光が、ルビーはどうしても好きになれない。

 ロバートは、否定も肯定もせず、しばらくルビーを見つめていた。

 ルビーは彼の感情が読めなくて、大人げない発言をしてしまった自分が恥ずかしくなってきた。

「すみません、ホテルマンがするような話じゃないですよね」

 ルビーが謝ると、ロバートは視線を夜景に戻して言った。

「いや。いいんだ。そういう気持ちは大切だからね」

「……」

 ルビーも、彼にならって夜景に目を戻す。

 数十秒の沈黙が流れた。トランペットのBGMは、意外と耳に心地よく、邪魔にはならない。

 この時、なんとなくだが、今なら聞ける、と思った。

「ロバートさんは、どうしてトロイメライに来たんですか? 予備知識がないってことは、元々興味があったというわけではないのでしょう?」

 ダメ元で探りをかけてみたが、意外にもロバートはすぐに返事を返してくれた。

「今の君の感情と、似たような感情が、私がここにきた理由かな」

「わたしの感情?」

「大切なものを守りたいから、というか、私の場合、大切なものを取り戻したいから……というか」

「大切なもの、ですか」

 ルビーは身を乗り出した。

 ロバートは、夜景からルビーに視線を移し、暗い声でこう言った。

「私の妻が、一年前に死んだんだ。それに関して、知りたいことがあってね。そのヒントがこの街にあるのだと、知人に教えてもらったんだ」

 彼は目を逸らさず、ルビーの反応を観察しているようだった。

 しかし、ルビーは瞬きを止めることしかできず、すぐに反応できなかった。そして、何の気なしに言葉を漏らす。

「わたしたちには親……家族がいませんから、家族を失うつらさは分かりません。でも、想像することはできます。やっぱり、悲しいですよね」

 ロバートは、ぴくりと肩を揺らした。

「親がいない?」

 しまった、と思い、ルビーは慌ててごまかす。

「あ、いえ、ホテルマンには親がいないんです。事情は、まぁ深い理由があって」

 ロバートはしばらくルビーを見つめていたが、ルビーは目を背けて黙り込む。妖精の秘密に少しでも関わることを話すわけにはいかない。

 意外にも、ロバートはそれ以上追及することはなく、質問を変えた。

「今、このホテルには、私の他にどんな人が泊っているんだい?」

 ロバートの本音にもう少しでたどり着けそうだったのに、と惜しい気持ちもありながら、軽々しく深掘りできる内容ではないと思い、ルビーは素直に答えることにした。

「他にお二方いらっしゃいます。それがこのホテルの定員で」

「二人だけ? 三つしか客室がないのかい?」

「いえ、親子なので、二名一室です。部屋は他にもありますが、今使っている客室は二つだけですよ」

 この類の話は、昼間の会話と同様、妖精が少ないから使う客室も増やせないというホテルの秘密に結びつく。ロバートはそれを見越した上で、この話題を持ちだしたのだろう。

 だがルビーはひるまずに、悪戯な声でごまかした。

「どうして使っている客室が二つしかないのか? そこも、このホテルの不思議ということで。お客さん自ら調べてみてくださいね!」

「はは、手厳しいな」

 ロバートは笑い声を漏らして頭を掻くが、目は笑っていない。

「お客さんは、リリーさんとカレンちゃんって言うんですけど」

 ルビーが補足をすると、ロバートは身を乗り出して驚いた。ルビーの方が驚かされた。

「えっ? カレンって言ったかい?」

「知ってるんですか?」

「この街に来たばかりの時に少し話しただけだが。母親と二人だったし、同じ子かもしれないな」

「へえ、偶然ですねぇ……」

 カレンは、母親のリリーと共にこのホテルに宿泊しているませた小学生だ。ロバートがここを訪れたのよりも1週間ほど前から滞在し続けている。

 ロバートもしばらくの間宿泊を続けるようだから、当分の間、このホテルは満室だ。これは珍しいことではなく、一ヶ月以上の滞在者はたまにいる。このホテルは宿泊の予約を受け付けず、空いている時に偶然訪れた客を泊めるだけなので、彼らを追い出す理由もない。

 そのことも、ルビーはロバートに伝えておいた。

 ロバートは、真剣な顔で聞いていた。

「ふふ、ありがとう。君のおかげで、楽しくて、しかも有意義な夜を過ごせたよ」

 ロバートは思い立ったように話を切ると、感謝を述べた。

 ルビーは、とても嬉しい気分になった。秘密の探り合いという心理戦を兼ねた兼ねた会話を、純粋に楽しむことができた。

 だが、この日を境に、ロバートは自らの秘密を明かすまいとする姿勢をさらに強めた。そのせいで、ルビーは彼についてそれ以上のことを知ることができなくなった。

 また、ロバートの夢はしばらく記憶の森のままで、大きな変化はなかった。

 ルビーは、ロバートがまだ何かを探し求めているのだなという推測を巡らすことくらいしかできなかった。

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