第三章 あんなに楽しかったことさえ忘れてしまうのが、人の記憶力だ

 トロイメライに訪れてまだ数時間しか経っていないが、すでにいくつもの夢のような体験をした。が、それをゆうに上回る幻想的な光景が、ロバートの目の前に広がった。

 ドアの向こうには、半径50メートルくらいの円いスペースがあって、その先に美しい石造りの館があった。昔の小貴族の住居かな、とロバートは感じた。館以外には、その他の建物の壁しかない。要は、このスペースも先ほどのトンネルも、この建物のためだけに存在しているのだ。

 オレンジ色に薄くライトアップされた、館にしては小ぶりな建物の玄関。その上部の壁には、館の名称を象った銅色の板が張り付けられていた。

『HOTEL FANTASIA』

 ホテル……なのか。ロバートは、呼吸を整えるのも忘れて、ごくりと息を呑んだ。よろよろとした足取りで、玄関に近づいていく。

 ふと、玄関脇に看板が立てられているのに気が付いた。そこに記された文言は、館の美に見とれていたロバートの感動を、疲れとともに吹き飛ばした。



 ようこそ、ホテル・ファンタジアへ。

 ここは、とくべつ幻想的なホテルです。

 女神さまがもたらす運命か、もしくはお客さまが抱える強き信念か。

 そのどちらかに導かれた旅人だけが、このホテルにめぐりあいます。

 わたしくしどもは、心からのおもてなしで、お客さまの運命と信念を祝福します。

 ここで過ごす僅かな時が、生涯忘れることのない、大切な時間となりますように。

 どうぞ、妖精のベルをお鳴らしください。


                         館長 ロナルド・ベイカー




 不思議で、丁寧で、奇妙で、優しい雰囲気の『館長のあいさつ』。

 そこに記された一節が、館の外観以上に、ロバートの心を刺激した。

「『女神様のもたらす運命か、もしくはお客さまが抱える強き信念か。そのどちらかに導かれた旅人だけが、このホテルにめぐりあいます』……か」

 この言葉を信じるならば、ロバートは訪れるべくしてこのホテルに訪れたことになる。

 ここに、探し求めている『真実』があるのだろうか。予約してある別のホテルをキャンセルし、とくべつ幻想的だと銘打つこのホテルに泊まってみるべきだろうか。ロバートは少し考えた。

 くぐってきたトンネルの向こうから、柔らかな空気が追い風のようにやってきて、ロバートの白髪まじりの黒い髪をたなびかせる。 

 答えは明白だった。おそらく自分は、このホテルに泊まるために、ぼろぼろの身体を軋ませここまでやって来たのだろう。ロバートは、そう確信した。

 確信を支えるもう一つの記述が、『館長 ロナルド・ベイカー』である。琥珀店の店主に聞いた、女神の伝道師の名だ。

 木の看板に彫られた文字を見つめていると、ロバートは動悸が収まらなくなった。求めている真実のすべてが、魔力が、記憶がここにある。そんな期待と、興味と、恐れを抱きながら、ロバートは震える手で、併設された金色のベルに手を伸ばす。

 バスケットボール程の大きさがある金色の妖精のベルは、高いとも低いとも言えない、調和のとれた美しい音色を周囲一帯に響かせた。


 ベルを鳴らした後、一歩後ずさってしばらく待つと、木造の大きな両開きのドアがゆっくりと開いた。

 姿を現したのは、黒いタキシードを身に纏い、白い髭を携えた猫背の老紳士だった。老紳士は、円く小さな眼鏡の向こうから、優しい微笑を向けて、しわがれた声で言った。

「ようこそおいでくださいました。おひとりさま、ご宿泊でよろしかったでしょうか?」

 とても穏やかな声だった。なで肩の猫背で背が低いことも、威圧感の無さを補完している。

「あ、はい……。あの、ここはホテルですよね? 予約はしていないのですが、大丈夫ですか? ……それと、あなたがベイカーさんですか?」

 ロバートが戸惑った声で質問すると、老紳士はそのすべてをしっかり聞いたあと、一呼吸分の笑顔の後に、優しい声で答えた。

「ほほほ、ご質問ありがとうございます。その通り、ここはホテルで、幸い今晩は空き部屋がございます。それと、私はこのホテルの支配人を務めさせていただいております、ロナルド・ベイカーと申します。」

 ロバートは息を呑んだ。正直、分からないことだらけだ。だが今は、選択肢などない。看板の言葉通り、運命か信念による導きとしか思えない。街に訪れたその日に、ベイカーという街の核心に近いであろう存在に出会えた。それも、こんな神秘的なホテルで。入り組んだあの路地で、一つでも別方向に進んでいたら、ここにはいないのだ。

「分かりました。では、今日はここに泊まりたいと思います。いいですか?」

 ロバートは、固い決意とは裏腹に少し震えた自分の声を自覚する。

「もちろんでございます。心より歓迎し、お迎えいたします」

 ベイカーは、穏やかにお辞儀をし、腰についた4種類のハンドベルの内、オレンジ色のものを手に取ると、それを鳴らした。高く垢抜けたベルの音が鳴り響く。

「これ、ルビー、お客様じゃよ! ……では、こちらへどうぞ」

 ロバートは、振り返ってホテルの中に進むベイカーに続き、ロビーに足を踏み入れた。

 ホテルのロビーは、小ぶりな館の割には意外に広く、天井も非常に高かった。館の玄関側半分が吹き抜けロビーになっているため、四階分の高さがあるのだ。その吹き抜けに、頑丈そうな手すりを備えた廊下が三階分、露出している。四階建ての内、三階分が客室になっているのだということが分かる。ロビーの左側にある螺旋階段で上っていくのだろう。

 内装の壁紙はなく、赤茶色のレンガが露出していた。壁の随所には目線の高さにランプがあるが、高い天井から丁度三階部分にまで垂れ下がっている大きなクリスタルのシャンデリアが、ロビーの照明の大部分を担っているようだ。よく見るとそのシャンデリアの中心にも火が灯されている。橙色にゆらめく灯りが、ロビー全体の雰囲気を温かく、また中世的なものにしている。

 ロビーの一部にはラウンジのようなエリアがあって、ソファーやテーブルが並べてあるが、それほどの広さはない。ただでさえ狭そうなこの館の半分近くを吹き抜けにしているのだから、そんなに多くの客を泊める想定はもともとないのだろう。そもそも、あんな路地を通らねば出会えないこのホテルに、誰が辿り着くであろうか。ロバートは、ホテルとしての採算性も気になった。

 フロントデスクの向こう側にベイカーが回り込み、ロバートに受付用紙と羽ペンを手渡した。ロバートがそれに必要事項を記入し終わると、ベイカーは、手のひらサイズの機械を差し出してきた。小さなカメラが一つ、ついている。

「これはお客さまの目の虹彩を記録する機械です。トロイメライのホテルには、出入り口に虹彩認識型セキュリティを装備することが義務付けられております。お手数ですが、完全なセキュリティを保証させていただくために、ご協力いただけますか?」

 虹彩認識型セキュリティ。これは、ロバートの大学の研究室にも採用されていたセキュリティシステムだった。鍵やカードキーを必要とせず、消えたり傷ついたりする指紋ではなく、瞳の模様、つまり虹彩を照合して人間を判別するシステムだ。はじめに利用者の虹彩を記録する必要があるが、その後は強固でかつ道具を使わないセキュリティを張ることができる。初期の開発品には様々な脆弱性があったが、最先端の研究品レベルのものなら、家や金庫の鍵として問題なく活用できる。エレクトリック・スターダスト号と同じく、古都に混ざりこんだ最新のテクノロジーだ。ロバートは、特に不平もなく機械のカメラ部分に目を向けて、虹彩を記録した。

 記録が終わったちょうどその時、左手にある螺旋階段から、髪を二つ結びにした少女が駆け下りてきた。劇場区で見た魔法使いの少女と同じ、高校生くらいの年に見えるが、きびきびとしたその振る舞いから、客ではなくホテルマンのようだと分かる。

 オレンジがかった金色の髪は活発に揺れ、大きく円いブラウンの目は喜びの光に満ちている。客が来たことを、心底喜んでいるように見えた。

 服装はおそらく制服だろう。ホテルらしくもあり、中世的でもある。ひざ下まで伸びた厚手のジャケットは鮮やかな紫色で、大き目の木のボタンが3つ。腰の部分に巻いてある太めの布ベルトが、絞りを効かせた細身のシルエットを形成し、フォーマルさを醸し出している。ジャケットの胸元と袖からのぞくネイビーのシャツはとてもドレッシーで、ひらひらとしたレースつき。シャツと同じ色をした短めのキュロットからは黒のタイツが伸びていて、明るい茶色のブーツに続く。この靴のカラーは、薄手の手袋とウエストポーチにも使われている。

「いらっしゃいませ、お客様! わたしは、お客様の担当をさせていただくルビーと申します!」

 ロバートの前まで駆け寄ってきた彼女は、見かけに違わず明るい声であいさつをすると、丁寧にお辞儀をしてくれた。あのルビー街道と同じ名前なんだな、とロバートは思う。

「私はロバートだ。よろしくね」

 ロバートが言うと、ベイカーが彼女を紹介した。

「ルビーは、当ホテル自慢の従業員でして。必ずや、お客様のひとときを彩りますよ」

「へぇ、そうなんですか。それは運がいいですな」

 言いながらルビーを見ると、彼女は照れくさそうにしながらも、自信はある、というような笑みをこぼした。えへへ、という無邪気な声が漏れ出した。

「せいいっぱい、頑張ります!」

「よろしく頼むよ」

 ロバートは、このホテルで過ごす時間を、無意識に期待しはじめていた。

 死を前に記憶を求める人間が、この不思議な街の不思議なホテルにたどり着いた。文字どおり命を懸けた時間がこれから始まる。……それなのに、この街もルビーというこのホテルマンも、その闇を散らすかのような光をもたらす。その光に、ロバートはわくわくさせられてしまう。それどころではない、というのは分かっているのに。

 ルビーは、ロバートを階段の方へと丁寧に促す。

 螺旋階段は石でつくられた頑丈なもので、手すりには真鍮の鈍い金色装飾が施されている。

 登りながら、ルビーは礼儀正しく、かつ快活な言葉遣いでにこにこ笑う。

「トロイメライは初めてですか? では、明日にでも街をご案内しましょうか? わたし、この街には詳しいですよ! あ、当たり前ですか! あはは」

 その後も彼女の垢抜けた声はテンポのいいメロディを奏で続け、客室の前についたころにはすでに、ロバートは彼女のペースに飲まれていた。

 ホテル玄関と同じく虹彩認識カメラのついた客室のドアを開けると、客室の中に、もう一人制服を着た若いホテルマンがいた。その時、ロバートの胸がざわついた。このルビーと同じくらいの年齢の少年に、どこかで会ったことがあるような気がしたのだ。

 少年はお辞儀をすると、自己紹介をはじめた。

「いらっしゃいませ。ロビンと申します。ルビーと共に、お客様のお手伝いをさせていただきますので、よろしくお願いします」

 制服のキュロットの代わりにスラックスを履いたロビンは、ルビーよりも幾分落ち着いた様子で、よりホテルマンらしい口ぶりだった。また、その顔のつくりは爽やかで、とても感じがいい。ロバートと同じ真っ黒の髪と瞳を備えていることも、安心感を与えてくれる。

 ロバートは、二人のホテルマンに問いかける。

「というと、二人がかりで世話してくれるのかい?」

「はい。当ホテルでは、二人体制でお客様をおもてなしいたします」

 ロビンはそういうと、客室の説明を始めた。

「部屋の照明は全部で4つあり、点け方の組み合わせで部屋の雰囲気が大きく変わります。どれも落ち着いたトーンになりますが、お好みで調整してください。また、貴重品はこちらの丸い金庫へ。見た目は金庫らしくないですが、堅牢なつくりをしているので、ご安心ください。こちらが金庫の鍵になります。それと――」

 ロバートは、金庫と呼ばれた真ん丸の金属のボールから目が離せない。専用の座布団のようなものに乗せられた、バスケットボールほどの大きさの金庫と呼ばれた金属の球体。金庫には鍵穴がついていて、上下真っ二つに開きそうだ。装飾はなく豪華でもないため、確かに盗難されにくい代物には見えた。それに頑丈で、重そうだ。もっとも、このようなホテルで盗難が起きることなどないのだろうが。なんにせよ、こんな金庫は初めてだ。

 ルビーが、ロバートの顔を覗き込んでくる。

「お客さま、大丈夫ですか?」

「あ、あぁ大丈夫だ」

「では、夕食ができましたらまたご連絡いたしますね! あと、30分くらいでしょうか。ごゆっくりどうぞ!」

 ルビーはそう言って部屋を出ていき、ロビンもそれに続いた。

 ロバートはベッドに横になった。古い館だが、ベッドは清潔で柔らかい。

 横になってしばらくすると、どっと疲れが押し寄せてきた。無理もない。飛行機で欧州まで飛んできて、古い列車に揺られて街まで運ばれ、街の大通りと狭い路地を歩いてきたのだ。道中には珍しいものが多すぎて、精神的にも刺激が強い。老いたロバートの心も体も、いっぱいいっぱいになって当然だった。

 ……あと30分で夕食か。一体どんな食事が出されるのだろうか。きっと、普通のものではないのだろう。ロバートは、夕食のメニューについてぼんやりと考えながら、ゆっくりと目を閉じた。

 眠るつもりだったわけではないし、夕飯を逃すつもりもなかった。が、ロバートは気持ちよく眠りについた。薄く部屋を照らすランプの灯りも、邪魔にはならなかった。さまざまな興奮と疲れの中で、幸福な眠りに堕ちていく。



 気づけば、ロバートは深い森の中にいた。

白い霧が立ち込めていて、あまり遠くの木々が見えない。ロバートは、すぐにこれが夢であることを認識した。なにしろ、あたりの空気がやけにぼんやりとしていて、リアリティがまるでない。見たことのないフクロウのような鳥が、コロコロと不思議な声で鳴いているのもその証拠だ。

 ロバートは、木こりが木を切り倒す時に使うような斧を右手に持っている。そして無意識に、こんなことを口走る。

「さて、どの木を切ろうか」

 多くの夢見る人間がそうであるように、ロバートも、夢の中での自分の役割を自然に受け入れた。木こりかなにかは知らないが、とにかく木を切り倒していきたくなった。

 すると、目の前の木の幹がぼんやりと光り出した。まるでかぐや姫がその中にいるような、魅力的な白い光。

 それを見ていると、だんだん魅惑されてくる。ロバートは、無意識に斧を振り上げた。

 斧は、ざっくりと音を立てて木の幹に食い込み、一振りで木を真っ二つにしてしまった。現実の木とは違い、とても柔らかかった。

 その瞬間、白い光が大きく広がって、ロバートの全身を包みこんだ。

 すると、なんと、頭の中に映像が流れこんできた。

 

 幼稚園の砂場。プラスチックのスコップで、トラックのおもちゃに砂を積み込む二人の少年がいる。その内の片方は、幼いころのロバートだった。もう一人の少年は、小学校までは仲良くしていたが、徐々に疎遠になっていった幼馴染だ。中学校に上がってから、それぞれ違う性格のグループに所属し、そりが合わなくなっていったことを思い出す。あぁ、こんなこともあったかなという程度の思い出が、脳内で再現された。

 

 しばらくの間、ロバートは、二人が真剣にじゃれあうシーンを眺めていた。が、全身を包んでいた光は収束していき、やがてただの光の玉になって、ロバートの頭部に吸い込まれていった。同時に、記憶の再現も幕を引いた。

 夢の中のロバートは、物分かりよく、すぐにこの現象を理解した。間違いない。これは、記憶の光だ。昔体験したことを思い出させてくれる光だ。人間の脳は、何の意味もない、たわいもない出来事でさえ、ひそかに記録しているらしい。そうでなければ、夢であっても思い出せる道理がない。

 とすれば、ここは記憶の森、とでも言うべきだろうか。無数の木の中に、記憶の光が込められている。それをこの斧で切り倒せば、一つ一つ、記憶が蘇るというわけだ。

 ここまで理解した途端、ロバートの胸は激しく震えた。

 どうしても、思い出したい記憶がある。ロバートは、妻との離婚に関する記憶を求めて、はるばるこの街までやってきたのだ。この夢が偶然が必然かは分からないが、早速、記憶を取り戻す機会がやってきた。

 ロバートは森の中で光を求めた。霧のせいで遠くまで見えないし、足元の地面さえはっきりしない夢の中を歩き続けた。時折、光る木の幹が見つかる。ロバートは駆け寄って、すぐに切り倒す。記憶が蘇る。

 

 小学校の記憶。手作りのトランプを先生に取り上げられた。友達と一緒に、先生に対する愚痴に明け暮れている。

 

 中学校の記憶。やる気がないなりにも覚えた合唱コンクール課題曲の歌詞。当時はよく分からなかったが、今振り返ると胸に迫るものがある。

 

 高校の記憶。疲れた部活帰りに寄るコンビニで買った、まずいラクトアイスの新製品。身体からは、いい汗の臭いがした。大人になってからあふれ出る、無粋な汗とはどこか違う。

 

 すべてがどこか新鮮だった。記憶だというのに、新鮮に感じるとは不思議なものだ。

 しかし、どれも探している記憶とは違っている。この森の中にいられるタイムリミットが徐々に近づいてくる気配がした。夢が終わる、ということだろうか。

 焦りを感じたその瞬間、紫色の光の玉が目の前を過った。木の中の白い光とは違い、はっきりとした色がある。さらに、蝶のように宙を舞うその動きには、生命が感じられる。

 紫色の光は、ロバートの目の前を通り過ぎ、森の奥へと進んでいった。

 本能的に、ロバートはそれを追いかけた。

 数百メートルは走っただろうか。

 やがて、ひときわ眩しく光る木が見えた。

 途端に鼓動が早くなった。

 ロバートは、立ち止まり、ためらうことなく、すぐに輝く木を切り倒した。

 弾けるように広がる記憶の光が、優しく身体を包みこむ。

 

 脳裏に映し出された風景は、傾斜の強い墓地だった。墓石の隙間を縫うように狭い階段が登っている、よくあるタイプの集合墓地だ。

 そこに、一列になって階段を登る家族連れが見える。若かりし父親と母親、中学生の姉、小学生のロバートだった。自分だけがひどくつまらなそうな顔をしているのが分かる。

 4人は、父方の祖母の墓石にたどり着くと、ほとんどしゃべらずに花を生け、順番に祈りをささげた。父親の肩は小さく震えていたが、小さなロバートは大して気にしていないようだ。

 もう一度一列になって、階段を降りはじめた時、小さなロバートが口を開いた。

「ねぇ、これつまんないよ」

 優等生だった姉が、説教じみた声で言う。

「何言ってんのロバート! おばあちゃんのこと覚えてないの?」

 それが癇に障ったのか、小さなロバートは言い返す。

「そりゃあ覚えてるけどさ。僕はあんまり遊んでもらってないもん。こんな所に来るくらいなら、早く帰ってゲームの続きをしたいんだよ」

「あのね……!」

 目を吊り上げる姉を諌めたのは、父親だった。父親は、いつも穏やかだった。

「まぁまぁ。いいんだよ、仕方ないさ。……ロバートは、あんまりおばあちゃんと会ってないもんな。つまんなくて当然だよな。早く帰ってゲームやりたいよな」

「……うん」

「でもな。つまんなくてもいいから、ついてきてほしいんだ」

「どうして?」

「いつか、ロバートが大人になって、この日の意味が分かるときがくる。その時に、今日のことを思い出してくれれば、それでいい」

 釈然としない表情で、小さなロバートは黙って俯いた。

 姉は怒りが収まっていないようで、母親に文句を言っている。ロバートは彼女にいつも反抗したくなるが、父親には従順だった。

 

 ロバートは、未熟だった自分を恥じ、親の代わりに叱り飛ばしたくなる。だが、中学生になったころから、毎年欠かさなかった墓参りに自分だけ行かなくなり、今まですっかり祖母の存在すら忘れていた自分に、その権利があるだろうか。『大人になって、この日の意味を分かるとき』をこんな形で迎えてしまった自分が不甲斐ない。熱い涙がこぼれるのと同時に、記憶の映像は、光の玉となってロバートの頭に入っていった。

 直後、さっきまで光を灯していなかったはずの近くの木が、突然激しく光りはじめた。

 ロバートを導く紫の光の玉も、そちらの方へ飛んでいく。

 ロバートは、迷う余地なくそれに続き、涙を拭って斧を振り下ろす。記憶の光が辺りに飛び散り、身体を包む。

 

 この記憶では、さきほどと同じくらいの年齢のロバートが、父親と手を繋いで歩いている。仮面ライダーのお面をつけて、わたあめを食べて。父親に、すくった金魚の袋を持たせて。金魚をすくったはいいが、育てるのは意外と大変だぞと言われ、少し不安になっているようではあるが。実家の近所の商店街で毎年行われる夏祭りを、満面の笑顔で満喫している。


 あんなに楽しかったことさえ忘れてしまうのが、人の記憶力だ。ロバートは、しばらく懐かしい提灯の灯りに浸っていたが、やがてそれもまた光の玉に収束し、頭の中に吸い込まれていく。

 ……他にも、忘れるべきでない家族の記憶がたくさんあるんじゃないか。ロバートは、そう思った。

 その瞬間、森の中で静かに佇んでいた木々の半数近くが、一斉に光を灯した。薄暗かった森が、途端にまばゆい、柔らかな光の世界へと姿を変えた。

 数秒間、ロバートはまばゆい世界に目がくらみ、呆然と立ち尽くした。しかし、我に返ると、すぐに駆け出した。無心になって、輝く木々をあたり構わず切り倒す。それぞれが、小さな家族の思い出だった。初めて買ってもらったプラモデルやゲーム。母親にカーネーションをあげたりもした。

 涙が溢れだしてきた。

 一つの思い出を終えるたびに、輝く木は更に増えていく。

 まるで、想いが溢れて、世界に沁み渡っていくようだ。

 記憶が連鎖していく……。

 

 紫の光の玉は、ロバートが自由に木を切り倒すのを見守るように浮かんでいたが、やがて、再び意志を持った飛行を始めた。

 もはや、その導きを疑う余地はない。ロバートは、無言で後に続いた。導きの先には何があるのだろうかと、心が激しく鼓動する。


 しばらく走ったところで、少し開けた場所にたどり着く。

 その中心に、他に比べてひときわ眩しく輝く木がそびえ立つ。この辺り一帯を、明るく照らしている。

 そこには、オレンジ色の光の玉が寄り添っている。紫のそれと同じように、蝶のようにふわふわと浮いている。

 ロバートは、息を呑んだ。少し、怖い。

 ――一番大切な記憶が、ここにあるんだよ。

 そう言われている気がした。

 一番大切な記憶を思い出すことが、一番怖い。斧を握る掌に力が入る。

 ロバートは、思い切って、斧を振り上げた。

 すると、これまでふわふわと浮いていたオレンジの玉が、ものすごい勢いでロバートと木の間に割って入り、暴れ出した。慌てて斧を止めようとしているように見えた。

 ロバートが驚いて目を丸くしていると、オレンジの玉は紫の玉の方へと勢いよく飛んでいき、何かを主張しはじめた。オレンジはせわしなく揺れているが、紫は変わらず優雅に飛んでいる。

 その感情溢れる動きを見て、やはり生き物なのか? とロバートは思う。

 ふたつの光が織りなすコミュニケーションは見ていて美しかったが、ロバートは待っていられなくなった。一刻も早く木の光に触れたかった。

 しかし、この木を切り倒すには、相当な決意が必要だった。一度止められた、いや止めてもらった勇気をもう一度振り絞るのは、容易ではない。真実の記憶を突きつけられる恐怖。自分が知らない自分を見る恐怖。ロバートの手は冷たく冷え切り、脚は小刻みに震えていた。

 いつの間にか言い争いをやめてロバートの方を眺めていた二つの光のうち、オレンジ色の方が、ロバートの頭の中に言葉を投げかけた。口元が見えるわけでもないのに、オレンジの光がしゃべっているのだとすぐに分かった。明るく、優しい声だった。

――木の幹をそっと抱きしめるだけ。それだけで、いいんだよ。

 ロバートは、その言葉に従った。斧を手からそっと、放す。斧は曖昧な地面に吸い込まれるようにして消えていく。

 そして、ロバートは太い木の幹を、全身を使って抱きしめた。

 すると、ゆっくり、ゆっくりと拡散していく木の光が、ロバートの身体を包みこむ。

 記憶が、再生された。

 

 30代のロバートが、若かりし妻と病院のベッドで寄り添っている。

 ――妻は病を患っていたのか? いや、違う……。

 記憶の連鎖の先に、真実を見る。

 二人の腕の中で、生まれたての赤ん坊が笑っている。

 ――そうだ。私には、息子がいた……。


記憶の世界は渦を巻いて姿を消した。

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