第二章 やはり、あるのだ。何か、重要なものが

 三日後、ロバートは欧州の小国の、その中でも小さな空港に到着した。空港からトロイメライまでは、さらにバスで2時間かかるらしい。

 かなりの長旅に肉体は疲れているようだが、異国に到着し、辺境に行けば行くほど、自らが囚われている怪奇な現状を解き明かすための何かが潜んでいるような気がして、ロバートの精神は強さを保っていた。

 空港のバスターミナルには10台のバスが並んでいたが、一番奥の1台だけ、一般的なバスとはまるで違う外観をしていた。案内板を見ると、どうやらそれがトロイメライ行のバスらしい。

 近くに寄って眺めてみると、それはまるで蒸気機関車のようなかたちをしており、なおかつ車体の大部分が木でできている。バスの名は、オールド・スターダスト号。乗り込み口付近にぺたりと貼られた木のプレートにそう彫られていた。

 ロバートが落ち着かない気持ちで乗り込んでみると、古めかしい外観の割に、意外と快適だった。座席はふわりと柔らかい皮のソファーになっており、都会を走る市バスに比べて、足元に広いスペースが確保されていた。

 バスの中は観光客で一杯で、期待の歓談で満たされていた。

 あまりに行楽的な雰囲気に包まれると、逆にロバートは段々不安になってくる。ただの観光地じゃ困るんだぞ、と周りに聞こえない程度に呟く。

 出発の際には、サイドミラー付近に付けられた二つのトランペットの音がパッパラパーと鳴り響き、観光客たちを包む空気をさらに高揚させた。まるでテーマパークへ向かう夢のバスのようだと思い、ロバートは頭を抱えた。


 窓の外に広がっていた空港近辺の市街地は、やがて牧場や畑に姿を変えていく。チーズやバター、ミルクのための乳牛や、ワイン用のぶどうの木がちらほら見える。

 しばらくすると、それすらも段々と減っていき、なにもない、真緑の草原や森に変わっていった。道路の舗装も程度が落ちて、砂利や土の起伏でバスは楽しそうにに揺れている。180度開けた緑の道が長々と続き、それに飽きたころには欧州らしい針葉樹林の山道に入っていく。

 オールド・スターダスト号は、陽気なトランペットを奏でながら、多様な自然の道を走り抜ける。

 1時間と30分が過ぎたころ、ロバートの隣の席でそれまで眠そうにしていた子供が、窓の外を見て歓声を挙げ、父親の腕を引っ張った。

「あ、これ、ベイカー川じゃない!?」

「おっ。本当だな。じゃああと少しで着くな!」

「やったぁ!」

 窓の外に目をやると、茶色く濁った水が勢いよく流れる川が見えた。荒々しくて、お世辞にも美しいとは言えないこの川は、ベイカー川というらしい。ロバートは、前の座席の後ろポケットに入れてあるマップを取り出し、それを広げた。

 マップによると、ベイカー川はかなり幅が広く、そして長い。トロイメライの街を掠めてその先の海まで伸びているらしい。

 川の途中にあるトロイメライは小高い丘につくられた街で、東西、そして北の三方を、湾曲したベイカー川に囲まれている。しかも唯一陸続きになっている南側には巨大な堀が掘られているので、完全に陸の孤島の体を成している。南の堀に架かるキャメロン大橋というものが、ただ一つの街のエントランスになっているようだ。

 どうにも、女子供に人気なメルヘンな観光地のように思えて、ロバートは不安になる。それこそむしろお伽噺のように、本当に魔法がかかっていてくれればいいのだが、と顔をしかめる。

 

 30分後、今度は誰よりも早くロバートがそれを発見し、不意にだが、おっ、と小さな声を出した。

 それにつられたようにして、周りの観光客がにわかに色めきだした。

 ベイカー川が伸びていく遠くの地平に、ぽっこりとした丘が浮かんでいる。その表面はデコボコしていて、石造りの建造物が丘の表面を形成しているのだと分かる。フランスのモンサンミッシェルやスペインのトレドに近い地形のようだ。

 そしてその頂点に、ひときわ高くそびえる城のようなものがある。

 あれが、有名な『女神の宮殿』だろう。街のことを調べる暇がないままにやってきたロバートでも、一度はテレビで見たことがある建造物だ。

 段々とその姿かたちが見えてくる中で、客の声は一層厚みを増していき、トランペットの音もトーンを上げた。

 ロバートは、その陽気な雰囲気と近づいてくる美しき古都の情景にすっかり呑まれていた。

呑まれると言っても、その心理は他の同乗者たちとは違っている。

 医者の言う通り、あそこには何かがある。そんな予感が生まれ始めたのだ。


 キャメロン大橋の前にはちょっとした広場があって、そこが観光用の駐車場になっている。車でトロイメライの中に入ることはできないらしい。

 オールド・スターダスト号も広場に留まり、トランペットの音を止めた。

 その代わり、トロイメライの街そのものが、色んな音楽を混ぜ合わせ、明るく騒がしい音色を奏でているのが聴こえてきた。ロバートは高校時代を思いだす。下校時に吹奏楽部が吹き鳴らす意味不明で、それでいて趣に溢れたあの響き。あれと同じようなものが、絶えずここでは響き渡っているようだ。

 バスから降りたロバートは、キャメロン大橋の正面からトロイメライを見た。見上げたと言っても良いくらい、傾斜の強い丘である。

 正面にある南の堀は深く、掘の向こうに張り巡らされた城壁は、他三方を取り囲むベイカー川の方まで回り込み、丘全体を円く包み込んでいるようだ。しかしその高い石壁を以てしても、内側に立ち並ぶ建物の屋根は覆い隠せていない。それ程に、丘には角度がついている。

 ここから見る限りでも、15世紀で歩みを止めた街という異名に違わず、すべての建物が中世に建造されたもののようだと分かる。ゴシックからルネサンスにわたる建築様式でつくられた家や教会、その壁面に見え隠れする石の汚れ、欠け具合が美しい。色彩の統一感も素晴らしく、殆どの屋根がトーンを落としたオレンジ色に染められている。

 そんな絵画のような丘の、中心かつ頂点に君臨する女神の宮殿は、ひときわ眩しく陽光を反射し、輝いている。

 ごくり、と唾をのみ込むロバート。

 オレンジ色主体のコテコテとした建造美に、漏れ出す陽気なトランペットの音色。医者がどうしてこんなところに自分を向かわせたのか。さっぱり理解できない。しかし同時に、不本意ながらも興味と興奮を、ロバートは感じてしまった。

 

 ロバートは、深い堀に架けられた石造りのキャメロン大橋に足を踏み入れた。街には車が入れないらしいが、もしこの橋をバスが通行できるなら、2台が容易に通りすがれる程の幅がある。大きな直方体の石を積み上げてつくられているため、かなり頑丈そうだ。長さは100メートル近くある。

「あ、この下、川になってるよ!」

 小学生低学年くらいの女の子が身を乗り出して、橋の下を指差している。橋の壁に一定の距離間で配置されたグリフォンの石像よりも、一回り小さな女の子。母親と同じ、白い肌と青い瞳、金色の髪を携えている。

 ロバートは堀を見下ろしてみる。ベイカー川の濁った水とは違う、澄んだ水が貯まっていた。

 母親らしき女性が女の子に説明する。

「ここは川じゃないのよ、カレン。雨水を貯めておく場所なの。ほら、あっちの方を見て」

 母親の人差し指は、ベイカー川と堀の境界近くを指していた。そこには、なにやら近代的な設備があった。

「あそこにあるのが、パトリック浄水場。元々川の水よりきれいな雨水を、あそこでもっときれいにして飲み水に変えるのよ」

「そうなんだぁ。でも雨くらいじゃ、お堀はこんなに一杯にならないんじゃないの? 飲み水足りなくなっちゃうよ」

「さぁ……。どうなのかしらね」

 カレンと呼ばれた女の子は、その金色の髪を揺らしながら、利発的な発言をした。母親は、無邪気な問いに対する答えを出せないようだ。

「ここの水は、たぶん足りなくなったりしないよ」

 母親に助け舟を出したのは、ロバートだった。

 すると、カレンが首を傾げ、ブルーの瞳をロバートに向けた。

「どうして?」

「街の城壁を見てごらん」

 ロバートが街全体を覆う石の壁を示すと、母親もカレンに続いて目線を向けた。

 橋と同じ種類の石を積み上げてつくられている高い壁の所々に小さな穴が開いていて、そこから金属のパイプの先端が少し突き出している。

「あれは何?」

 カレンがロバートの方を振り向いて、怪訝そうに眉をひそめる。

 ロバートは、今日が雨なら分かりやすいんだが、とつぶやきながら説明する。

「街中に降った雨水を、側溝や屋根の雨受けを通して、あのパイプに流しているんじゃないかな。そうすれば、街中に降ったすべての雨水が、堀の中に集まるだろう?」

「あ、そういうことかぁ! だからこんなに水があるんだね!」

 パァ、と明るくなるカレンの顔を見て、ロバートは何故だか胸が締め付けられた。気持ちが和らぐ、というよりは、とても切ない気持ちになった。

「この街は丘の上につくられているから、それだけ強い傾斜がついているんだ。重力という、最大のエコエネルギーだね」

 カレンは、ロバートの言ったことの半分くらいは理解したようで、うんうん、と頷いている。そのとき、カレンの胸元でオレンジ色の光がきらりと瞬いた。そのペンダントトップには美しい石がはめられていた。

 ロバートは、それがただのプラスチックのおもちゃではないとすぐに分かった。

「そのきれいな石は……琥珀かい?」

 ロバートが聞くと、カレンの表情はさらに輝きを増す。

「そうだよ! さっき買ってもらったの! いいでしょ?」

「うん、すごくいい。それにしても、琥珀のペンダントとはセンスがいいね」

 ロバートの発言を聞いて、親のリリーが怪訝な顔をした。

「でも、トロイメライと言えば、琥珀でしょう?」

 知らないんですか、という表情のリリーを見ると、一般常識のようなものなのか、とロバートは思う。

 リリーは少し笑って、説明してくれた。

「トロイメライには、人気のお土産が二つあるんですよ。その一つが、琥珀です。昔から、近くでたくさん採掘されるみたいですよ。琥珀だなんて、眠りの街というキャッチコピーとよく合っていますよね」

「ほぉ……。確かに、粋な名産品ですね」

 ロバートは正直な感想を言う。

 琥珀とは、古代の木の樹脂が地中に埋没し、長い年月をかけて固化した宝石だ。透明感のある黄褐色や、黄色寄りの深いオレンジ色が怪しく煌めくその様は、見る者に時の重みを感じさせる。この古い街のお土産品としてはうってつけだと、ロバートは思った。

「ちなみに、もう一つの名産品は?」

「ふふ、本当に何もご存知ないんですね。もう一つは、刀剣ですよ。鍛冶には大量の水が必要なので、川に近いここではつくりやすいんでしょうね」

 リリーが言うと、カレンが付け加える。

「おじいちゃんも商店街に入れば、すぐに分かるよ! 剣と琥珀ばっかりだから!」

 天真爛漫にしゃべるカレンは、胸の琥珀を揺らしている。

 ロバートは二人に笑顔で頷きながら、自然に心が穏やかになっていくのを感じた。なんと久しぶりな感情だろうか。

「じゃあ、これから見てくるよ。なにぶん、この街は初めてでね。では、私はこれで」

 ありがとうございます、と言う母親と、元気よく手を振るカレンに一瞥すると、ロバートはキャメロン大橋を進んだ。


 街を包む外壁に開いた唯一の門が、橋の終着点にある。城壁の2倍以上の高さがあり、キャメロン大橋と同じ幅を持つ巨大な石の門だ。ロバートがこれまでの人生で見てきたあらゆる門よりも大きく、小ぶりなこの街には不釣合いにさえ思える。だがおそらく、そういう大胆な設計が、この街の独特な、コテコテとした美を形作っているのだろう。

 ロバートは、門の真下に立ち止まる。門の下部には、『ロビンの門』と記された銀のプレートが埋め込まれていた。この門をくぐるだけで、何かが変わるかもしれない。そんな予感を抱かせた。

 街に入ると、オレンジと、赤茶と、深緑と、白と、石のグレーが、網膜に飛びんできた。それがこの街の色。あらゆる建築物の壁と屋根、石畳の街道、不思議な乗り物。すべてのデザインと色彩が一貫している。

 目の前には、橋と同じ幅のメインストリートがそのまま丘の頂点までまっすぐ伸びていて、1キロ先の終着点には荘厳で輝かしい女神の宮殿が見える。やはり傾斜はかなり強く、15度くらいはあるようだ。道の脇に立つ案内板によると、ここは女神に続く道、『ルビー街道』というらしい。

 ルビー街道には石畳が敷かれているが、その中央に金属の溝が引かれていた。レールのような溝は、バスケットボール2個が収まるくらいの太さがある。これは何だろうかとロバートは考えたが、その正体はすぐに分かった。レールに前後2輪のタイヤをすっぽりと納めた乗り物が、ゆっくりと坂を下って来たのだ。路面電車のようなものだろう。この急な坂道を上り下りするのには、非常に便利だと思う。その外観はオールド・スターダスト号に似てとてもクラシックで、焦げ茶色の木に金色の飾りが施してある。高級な汽車のような車体には、『エレクトリック・スターダスト号』というプレートが貼られていた。

 街道の両脇には、にぎやかな雰囲気の建物がまっすぐ絶え間なく並んでいる。ルビー街道の入り口から10メートル進んだ地点から、東側に伸びる広い道が分岐しているが、その他に大きな道はなく、すべて建物に埋められている。

 バスから持ってきたマップの裏側をロバートは見る。そこには、街の簡単な地図が描いてある。

 ほぼ正円状の丘につくられたこの街は、大きく4つの区画に切り分けられている。円を十字に4等分して、南東が商業区、北東が劇場区、北西が教会区、南西が居住区。ルビー街道は商業区と居住区の間を割って、真っ直ぐ女神の宮殿まで引かれている。

 地図によると、大きなメインストリートは、ルビー街道の他にもう一つある。それは、『レイチェル街道』といって、ルビー街道の東にある商業区側を発端に、らせん状に4区画を一周しルビー街道の終着地付近に合流する、女神の宮殿前の広場へと至る大通りだ。10メートル先に見える分岐がそれであろう。つまり、街の全体をまんべんなく見て回るにはレイチェル街道を通るのが良く、女神の宮殿に急ぐ時にはルビー街道を通るのが良いようだ。

 街の俯瞰図を把握したロバートがマップを畳もうとした時、ふと、気になる注意書きが目についた。

『2本のメインストリート以外の道は狭く入り組んでいるので、なるべく入らないことをおすすめします』

 たしかに、このマップには細かい道の記載がないため、他の道に少しでも入れば、住民や常連観光客でなければ迷ってしまうかもしれない。ただ、ロバートは、自分が探しているものが大通りに目立つように配置してあるとも思えなかった。何を探せばいいのかも分からないが、いずれは小道まで入っていくことになるだろうと覚悟した。なんにせよ、まずは、どちらかのメインストリートを歩いてみて、街の全体を把握するべきだ。腕時計によると、時刻は夕方16時。とても町中を歩き回るほどの時間はない。今日は、ルビー街道をまっすぐ登り、女神の宮殿だけでも見ておこうかとも思ったが、レイチェル街道を歩いて周ってていく方が全体が見えるだろうと考えた。日が沈んだら予約してあるホテルに向かい、続きはまた翌日に持ち越せばいい。

 こうしてロバートは、ルビー街道から分岐するレイチェル街道へ足を進めた。こちらはルビー街道に比べて緩やかな傾斜だったため、幾分楽だ。この道を選んでよかったな、と彼は思った。


 ルビー街道と同じくらいの広さで、同じようにレールが曳かれたレイチェル街道。通り沿いにある商店は殆どがお土産屋で、観光客の活気に満ち溢れていた。店の前に小さな台を出して客を呼び込む店舗や、逆にそういう気配の全くない、高級感と威厳を醸し出す店舗。様々な個性を持った商店が、らせん状の一部を成すカーブの両脇を埋め尽くしている。

 そしてなるほど、とロバートは思う。それらの店の半数が、刀剣を店頭に飾っている。例えば今通り過ぎた店の前に置かれた樽には、西洋の刀剣が十数本、無造作に突っ込まれている。対してはす向かいの高級そうな刀剣屋は、強化ガラスのショーウィンドウの中に、宝石の埋まった美しいレイピアを並べている。こちらの店は、『ポール鍛冶店』という渋い看板をかけていた。

 おそらく、これらの店のほとんどは中世からの老舗で、軍に出荷する刀剣をつくっていたのだろう。今ではそれが、観賞のための存在となっている。鍛冶屋としてはどういう気持ちなのだろう? ロバートはなんとなく気になった。

 また、刀剣の店と同じくらいに、装飾品の店も目に入る。特に、琥珀の品ぞろえが豊富なようだ。ロバートは、琥珀の派手すぎない深い色合いが好きだったから、一番雰囲気のある古そうな琥珀の店に入ってみた。

 暗い店内には、ランプの灯りをゆらりと反射する琥珀のアクセサリーが並べられている。真鍮の輪にはめ込まれた琥珀のピアスや、銀の台座に収められた琥珀の指輪など、どれも繊細で美しい。

 店の奥の方では、店主らしき人物が椅子に腰かけていた。ロバートと近い年齢に見える、不精髭の男だ。にぎやかな街道とは対照的に、客は他に一人もおらず、店内は異世界に移動したかのように静かだった。確かに、この店には入りにくい雰囲気がある。ロバートはむしろ、その雰囲気に釣られたのだが。

 店主らしき人物は、久しぶりに客が来たか、という目つきで、ロバートに話しかけてきた。

「あんた、この街ははじめてかい?」

「あ、はい。店主さんですか?」

 静かに琥珀を鑑賞できると踏んでいたロバートは、意外にも気さくに話しかけてきた店主に戸惑いを覚え、間抜けな声を出してしまった。

「あぁ、わしが店主だ。さて、あんたは、トロイメライが『眠りの街』と呼ばれる所以を知っているか?」

「あぁ、はい。15世紀の町並みを、ほとんど崩さずに維持しているからですよね」

 突然の質問に、これは売り文句なのだろうな、という予感を覚えた。

「それもある。だが、それだけじゃない。もう一つの理由が、この琥珀だ。眠りの街という呼び名は、先々代の女神さまが、街の古さと名産物である琥珀から連想し、名づけたものなのだ」

 確かにセンスがある、とロバートは思う。この地の文化に紐づく異名というわけだ。が、それよりも、『女神さま』という言葉にロバートは興味を持った。丘の頂上にある城も女神の宮殿と言うし、何かこの街特有の宗教でもあるのだろうか。

「ところで、女神さまとは、一体どういう存在なのですか?」

 店主は、そんなことも知らないのか? とでも言うような怪訝な顔をしてみせる。

「あぁ、いえ。すみません……実は、何も知らないのです」

「おかしな観光客もいたものだ。その歳で気儘なバックパックをしているわけでもなかろうに。ま、女神さまについては、詳しい人間が別にいるからに聞いてくれ。代わりに私からは、この店の中でも特に素晴らしい琥珀について説明してあげよう」

 店主らしき人物は琥珀の売り文句を並べようとしたが、ロバートはそれを遮って食い下がる。

「詳しい人間とは、どういう方ですか? どこに行けば会えますか?」

 店主らしき人物は、営業トークの鼻を折られて、面倒くさそうに答える。そんなに興味があるなら、調べてから来ればいいものを、とでも言いたげだ。

「名前は、ロナルド・ベイカー。あやつには、『伝道師』という肩書が付いている。それほどこの街の歴史と女神さまに詳しいというわけだな。ま、見た目は、ただのみずぼらしい爺だよ。住んでいる場所や仕事場はよく分からんが、宮殿にでもいるんじゃないか?」

「ロナルド・ベイカー……伝道師、ですか」

 異国の人間や後世にキリスト教を伝えるために働く、精力的な教徒のような存在だろうか。それとも、村の子供たちに歴史を教えてくれる長老のような存在だろうか。どちらにしても、ロバートは自身の目的との親和性を感じ取る。

 しかし、店主はロバートの思考を遮るように、再び営業トークを始める。

「そんなことより、この琥珀だが……。もしあんたがこの街に興味があって、何かを調べているのなら、これを外すわけにはいくまいよ」

「なんですか?」

「『妖精の琥珀』じゃ」

 琥珀には興味があるが、伝道師という存在を知った今、売り文句に付き合っている暇はない。そもそも、ここで買い物をする気など元々ない。ロバートは、渋々、差し出された宝玉を見た。

 しかし、この瞬間、ロバートは呼吸を忘れるほどに、その美しさ、神秘さに心を奪われた。

 これは、普通の琥珀ではない。

 黄色く透き通ったビー玉サイズの琥珀。その中に、オレンジ色に煌めく光の粒が込められている。琥珀に内包される混合物はインクルージョンと呼ばれ、モノによっては琥珀の価値を何倍にも高める。例えば古代にのみ生息していた稀有な昆虫が樹脂と共に固まっていたりすれば、ダイヤモンド並の値段が付くこともある。

 しかし、この琥珀には、見たことも聞いたこともないインクルージョンが込められている。形容すれば星屑とも言える光の粒たち。それは、自ら光を放っている。何をエネルギーとして? 分からない。だがそれは人工的な光には見えず、ただただ神秘的だ。

「な……なんですか、このインクルージョンは」

 顔色を変えて感嘆の声で聞くロバートに、店主らしき人物は得意げな笑みを浮かべた。

「この光の粒は、妖精の粉と言われておる。だが、実際に何が込められているのか、私も知らない。きっと、誰も知らないだろう」

「誰も知らないとはどういうことですか? 透明な琥珀に後から何かを注入したのですか? それなら、生産工場などがあるのでは?」

 ロバートは正直な見解を述べた。この粒が、自然に生まれたものには見えない。とはいえ、傷跡をつけずに琥珀に何かを埋め込む技術など、聞いたこともない。それにやはり、この光る物質の正体が分からない……。

「さあな。それも分からない。仮に人工物だとして製造方法があるにしても、それを知るのは……」

「誰ですか?」

「そうだな、ベイカーは知っているだろう」

 またしても、ベイカーだ。ロバートは、その伝道師なる人物への興味をさらに強めた。

「というのも、毎月末日の夜になると、ランプを手に提げたベイカーが、妖精の琥珀を商業区の商人たちに売り歩く。わしら商人には出元や詳細はまったく知らされないが、今ではトロイメライ最大の名物となっているこいつを仕入れない手はない」

「いくらくらいするのですか?」

「品質が良いものならば、ひとつ三百万円はくだらない。特にこれは一級品でな。一千万円だ。こういうオレンジ色の粉を含むものが、一番高くつくんだよ」

「一千万……ですか。とても買えないな」

 店主らしき人物は、ロバートの表情を見て、意地悪な笑みを見せた。

「そうかね? あんた、金は持っていそうだがね」

「はは……無理ですよ、私には」

 ロバートは、そう言うと、引き留められないうちにそそくさと店を出た。店主の舌打ちが微かに聞こえた。よほどのことが無ければ、この店で何かを買うことはないだろう。

 だが、ロバートの心は、未だに妖精の琥珀の煌めきに囚われていた。あんなにも幻想的な宝石を見たことがない。確かに人の手が加わっているようには見えないが、果たして自然物なのだろうか。女神、伝道師、妖精……。魔力を感じさせる言葉の数々が、ロバートの冷静さを奪っていった。

 

 商業区の終わり、街の東辺りに差し掛かったころ、エレクトリック・スターダスト号が登ってきて、ロバートを追い越して行った。名前からしても分かるのだが、ロバートはその静かな動作音から、完全な電気駆動車だと推測した。おそらく、レールの表面に、タイヤだけに反応する電気を流してあり、それを動力源にして坂を登っているのだろう。タイヤがゴム製ではなく、上部に電線もないことが、その理論を裏付ける。

 妖精の琥珀とは違い、こちらは技術的に可能なものだ。しかし、それでも相当に先進的な技術が必要だろう。道の中心を走っている以上、人がレールに触れても、感電しない工夫が凝らされているはずだ。

 ロバートは、歩を進めるたびに、トロイメライに困惑させられていく。古い文化を保つ趣ある古都だと思いきや、垢抜けたトランペットに出迎えられて、妖精の琥珀なる非現実的なものを見せられ、女神や伝道師と言ったお伽話に巻き込まれ、さらには電気駆動車という先進的な技術まである。

 つかみどころがなく破綻しかねない組み合わせだが、トロイメライにはどこか統一感がある。電気駆動車のボディは中世の街に溶け込む木製だし、科学を感じさせる邪魔な電線は排除されている。夢の国のテーマパークのように、綿密にコーディネートされているのだ。


 スターダスト号に続いてそのまま坂を登り、街の北東部に入ると、この街ではずっと鳴り響いているらしいトランペットの音が、さらに大きくなってくる。商業区を抜ければ、次は劇場区。主に、このエリアで音楽が奏でられているようだ。

 やがて、ロバートの視界には、まるでお祭りの最中のような、サーカスのような、華々しい世界が広がった。路上で赤い大玉に乗って客を呼び込むピエロを見た瞬間、ロバートはまた新たなトロイメライの一面を知り、苦笑いをした。

 劇場区の名の通り、この一帯には劇場や小さなホール、人気演者のグッズ売り場など、派手な建物が林立しているようだ。いくつかの建物は、色とりどりの旗を街道に突き出し掲げている。劇団のエンブレムが刺繍された旗だったりするのだろう。商業区とはまた違った賑わいが、ここにはある。

 観劇か、と興味を惹かれたことを自覚したロバートは、おかしくなってしまったんじゃないかと小さく笑う。寿命が短い中で記憶を求めてここまできたのに、ずいぶん気楽になったものだ、と。これもトロイメライの魔力だろうか。

 劇場区の中間地点くらいに達した時、道幅いっぱいを塞ぐ程の人だかりが見えてきた。ほとんどが観光客のようだが、やけに色めきだっている。

 彼らの視線の先には、奇抜な恰好で笑顔を振りまく高校生くらいの少女が、高い台座に乗って客を寄せているのが見えた。その背後には、これまで見た中で最も大きな、円錐状の屋根を持った劇場が建っている。

 彼女は、魔法使いのような姿をしていた。大きな丸いつばのついたとんがり帽子をかぶり、細身だが全身をすっぽりと包んだローブを羽織っている。その両方が、赤とグレーの縦縞ストライプというド派手な柄であるために、ピエロのようにも見えてくる。右手には、大きな琥珀色の石をつけた茶色い杖を持ち、皮のブーツを履いた両足は、台座の上で余裕気にバランスを取っている。

 ロバートも、妙に気を惹く彼女の容姿と声に興味を惹かれ、人だかりの中に入って彼女を見上げた。

「本日は、我ら『月の劇団』のマジックナイト! 女神さま御用達、トロイメライナンバーワンの劇団が、今晩無料開放です! 歌劇はもちろん、サーカスからディナーショーまで、一晩中我らの魔法に酔いしれましょう! まもなく入場開始します! 当日券は、先着500名様にお配りします!」

 垢抜けたよく通るその声を聞きながら、どう見積もってもこの人だかりは500人ではおさまらないだろう、とロバートは笑う。入場開始した途端に、これだけの人並みが彼女の後ろにあるゲートに押し寄せるだろう。

 しかし、女神さま御用達とはどういうことか。女神という存在はやはり実在し、キリストの神というよりは、王家や天皇家のような存在であるということだろうか。

 いや、それを考えている場合ではない。道がこれ以上混雑する前、つまり入場が開始される前に、この人だかりを抜けた方がよさそうだ。そう考えたロバートは、周囲の人を謝りながら押し分けて進みはじめた。

 が、そのとき、魔法使いピエロの彼女が、ひときわ大きな声を響かせた。

「それでは、受付を開始しまーす!」

 しまった、と思ったときにはすでに遅い。ロバートの周囲の人間たちが、歓声を挙げてゲートの方に押し寄せていく。老いた身体で違う方向に進むロバートにとっては、激しい抵抗力になった。このままでは、人波にのまれて劇場に吸い込まれてしまいそうだ。

 人をかき分け、なんとか列を抜けようと前へと進む。押し寄せる人波は、あまり広くない劇場ゲートのせいで、中々その数を減らしてくれない。

 溺れていた人間が、水面から顔を出した時のような感覚で、ロバートはなんとか列を抜けた。が、列の向こう側ではなくて、最後尾に流されてしまっただけだった。しかし、最後尾にもまだまだ人が集まってくる。これ以上並んでも定員オーバーだろう、と悪態をついてもがきながらも、列の向こう側に抜けることは叶わない。

 その時だった。ロバートは、目の前に、古ぼけた小さな木のドアを見つけた。そのドアは、劇場の向かいに立つ建物と建物の隙間についていて、ドアの上部に壁はない。どうやら路地に抜ける入り口のようだ。小さく目立たないため、こんなときでなければ存在にも気づかないだろう。ふと、パンフレットに記された注意書きを思い出す。

『メインストリート以外の道は狭く入り組んでいるので、なるべく入らないことをおすすめします』

 だが、今はそれどころではない。とりあえずこの騒ぎから避難したい。ロバートは、そういう軽い気持ちで、錆びた金属のドアノブを回した。


 後ろ手にドアを閉めたロバートは、雰囲気がガラリと変わったのを感じた。裏路地には、大通りとはまるで違う情緒があった。まず、道が狭い。人が二人すれ違えるほどしかない。そして暗い。建物に囲まれているせいで、日光が遮断されている。石畳の道には緑の苔が生えており、奥の方では猫が通り過ぎるのが見えた。

 ロバートは、道の奥へ歩き始めた。騒ぎが収まるまで待って、レイチェル街道に戻るという選択肢は消えていた。この吸引力の正体を、ロバートは知らない。こういう裏路地でこそ、街の真の姿が見られるのではないかと思ったのかもしれない。

 50メートルほど歩き、先ほど猫がいた地点に着くと、そこは分かれ道になっていた。ロバートは、さらなる街の裏側を求めて、狭い方の道を選んだ。そう、猫が進んだのと同じ道を。

 選んだ道はうねうねと曲がりくねっていたので、段々と方角が分からなくなってきた。それが、5分ほど続いたであろうか。またもや、分かれ道に至った。ロバートは、僅かだが暗い方の道を選んだ。その後も、進んでは道を選ぶことを3回ほど繰り返した。

 20分が経過したころ、すでに大通りに戻る自信はなくなっていた。老いた足腰も疲弊していた。だが、気にならなかった。何かに憑りつかれていた。子供の頃に抱いた冒険心が顔を出したか、研究者としての探求心に火が付いたか、記憶を求める亡者の根性が露出したか、それは分からない。しかし、この道が間違っていないという確信が、どこかにあった。

 途中から、下り坂になっていることに気が付いた。さらに歩くと、トンネルのような穴の中に入っていった。トンネルは赤味を帯びたレンガでできているようだ。トンネルの中には日の光が届かないが、代わりに壁に取り付けられたランプの灯りが周囲を照らしている。ランプの中には、電球ではなく本物の火が灯されていおり、ゆらゆらと揺れるほのおの影がちらついている。石畳は掃き掃除が為されているようで、荒れてはいない。

 この道には、人の気配がある。もちろん、この先に地元住民の住宅街があるだけかもしれない。しかし、魔力めいたものの正体が、この先にある気がしてならない。ロバートは、そう感じていた。

 トンネルは曲がりくねることなく、一直線に長々と伸びていた。薄暗い下りのトンネルを数百メートルくらい歩いたころ、道は再び登り坂に変わった。地図のどのあたりを歩いているのか、もはや分かるはずもない。トランペットの音さえ、ほとんど聴こえなくなっていた。

 さらに数百メートルほど歩き、その道のりと傾斜に足腰が限界を迎えたかと思ったその時、目線の先にドアが見えてきた。トンネルにすっぽりとはまったその木のドアは、彫刻と金で装飾された立派なものだった。

 やはり、あるのだ。何か、重要なものが。

 ロバートは、駆け出していた。足がもつれたが、止まらなかった。

 そして、金のドアノブを回し、勢いよく開け放った。


 

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