ホテル・ファンタジア
犬山 ホタル
第一部 魔法のホテル
第一章 死にゆく時、私達は一生の記憶を振り返る
暗いトンネルに取り付けられた、ランプのほのおがゆらゆら揺れる。魔法の世界に通じているかのような穴を抜けると、そこには中世風の館があった。館の玄関脇には、古ぼけた看板が立てかけられている。
ようこそ、ホテル・ファンタジアへ。
ここは、とくべつ幻想的なホテルです。
女神さまがもたらす運命か、もしくはお客さまが抱える強き信念か。
そのどちらかに導かれた旅人だけが、このホテルにめぐりあいます。
わたしくしどもは、心からのおもてなしで、お客さまの運命と信念を祝福します。
ここで過ごす僅かな時が、生涯忘れることのない、大切な時間となりますように。
どうぞ、妖精のベルをお鳴らしください。
館長 ロナルド・ベイカー
還暦を迎えたばかりのロバートは、ヨーロッパの小さな古都で、小貴族の居城のような館に出会った。
夕闇の中で幻想的に佇む石造りの館は、壁の所々に取り付けられたオレンジのランプで薄く照らされている。分類すれば、ルネサンス様式だろうか。赤茶色の壁に、濃い深緑の屋根というコテコテの配色でありながら、屋根や窓の形、それに細かな装飾が、派手すぎない調和を館全体にもたらしている。4階建ての上に三角形の屋根が付いたくらいの背丈で、幅はそんなに広くはない。
「うつくしい……」
ロバートの黒い瞳は、館に釘づけになった。しかし、この感慨は長くは続かなかった。古ぼけた看板の文言を見た途端に、それどころではなくなった。
不思議で、丁寧で、奇妙で、優しい雰囲気の『館長のあいさつ』。
そこに記された一節が、館の外観以上に、ロバートの心を刺激した。
「『女神様のもたらす運命か、もしくはお客さまが抱える強き信念か。そのどちらかに導かれた旅人だけが、このホテルにめぐりあいます』……か」
この言葉を信じるならば、ロバートは訪れるべくしてこのホテルに訪れたことになる。
ここに、探し求めている『真実』があるのだろうか。予約してある別のホテルをキャンセルし、とくべつ幻想的だと銘打つこのホテルに泊まってみるべきだろうか。ロバートは少し考えた。
くぐってきたトンネルの向こうから、柔らかな空気が追い風のようにやってきて、ロバートの白髪まじりの黒い髪をたなびかせる。
答えは明白だった。おそらく自分は、このホテルに泊まるために、ぼろぼろの身体を軋ませここまでやって来たのだろう。ロバートは、そう確信した。
三日前、ロバートは地元の大学病院で死の宣告を受けた。身体は不自由なく動くというのに、余命一ヶ月と告げられた。
宣告に際し、これまでずっと優しかった白髪の医者の表情は、今までになく力強く、かつ残酷な影を帯びた。
「最善を尽くしますが、持ってあと一ヶ月でしょう」
ロバートはほんの一瞬だけ驚いて、その後すぐに我に返った。死を嘆くほど大切なものを持っていない自分に気づいたからだ。
「そう……なんですか」
死そのものよりも、いよいよ死ぬとなった今この時に、こんな考えを抱いたことが、言葉を詰まらせた。
ロバートの表情からどのような心情を読み取ったのかは不明だが、医者はただ黙って頷く。
「ロバートさん、これからどうしますか? このまま入院を続けて最後まで延命を図るか、それとも自宅へ戻られますか」
ロバートは、とくに深く考えることなく淡々と応じる。
「このまま入院していてもいいですか。ただ、延命措置はいりません。とくにやり残したこともないですから、自宅に戻っても、まぁ、ね」
「そうですか……分かりました」
悲しむ人はいない。16年前に離婚した妻は、昨年他界したらしい。両親もすでにこの世におらず、友人と言えるほどの知り合いもいない。
仕事についても未練はない。ロバートは大学の工学博士だったが、若いころに持ち合わせていた発想と好奇心は、すでに失っていた。大学は、彼の過去の実績を誇ることはあっても、現在の彼には何も期待していない。
ロバートは、自分の存在のことを過去の遺物だと認識している。愛も夢も情熱もない。そういう生きがいの源となる要素はすべて、すでに霧散したのだ。人間とは、自分自身を見つめて生きるのではなく、自分の周囲と未来のことを見つめて生きる生き物だから、その双方を持たない自分には生きる理由がない、と。
ロバートがそんなことを考えている間、医者は慰めの言葉をかけつづけ、それが無意味だと、いやむしろ必要とされていないのだと悟り、今後の手続きについて話しはじめた。
「どなたか、連絡しておく方はいますか?」
「いません。一人で、死んでいきたいと思います。……病室に戻ります」
「あっ、はい」
ロバートが急に席を立つ。
医者は少し驚いた声を出したが、その後呟くように言った。
「お大事に」
ロバートの足が止まった。医者の言葉に、反感を覚えたのだった。大人げないが、死んでもいいという人間にかける言葉ではないだろう、と思った。
ドアノブに手をかけたその時、医者が独り言のように言葉を続けた。
「人は、一生を終えるその時に、自分の過去を見つめます」
ロバートは振り向いた。
「え?」
「興味、あります?」
「いや、べつに」
医者は構わず続ける。その目は、まっすぐロバートの目を見つめている。
「例えば高校の卒業式や結婚式でも、私達は同じような作業をします。死にゆく時も、同じです。普段は将来のことばかり考えている人でも、必ず一生の記憶を振り返る時が来るんです。どうしてだと思いますか?」
「さぁ……」
興味のない素振りをしつつも、ロバートは少し考えた。
が、医者は、ロバートの思考を待たずに言う。
「私達は、自分の人生を確かめたいのです。自分の人生が何だったのか、どんな意味があったのか、つまりは幸せだったのか」
医者がゆっくりと頷くのを見て、ロバートはつまらない、と思った。自分の過去に、自信もなければ興味もない。皮肉の意を込めて、ロバートは聞く。
「私も確かめるべきなのでしょうかね? 死を前にして、50年を振り返る……そんな大層な作業をする欲求が、はたして私にあるでしょうか」
「それは分かりません。医者はカウンセラーではありませんからね」
「……そうですか」
「では……お大事に」
「ありがとうございます」
ロバートは表面的なお礼を述べて診察室を出ると、自分の病室に向かった。
悲しくはない。辛くもない。だが何故か、『お大事に』という言葉が、なかなか頭から離れなかった。
翌日の深夜、ロバートはとても不機嫌だった。
病室のベッドという不毛な時間をもたらす場所には慣れているから、暇が過ぎて耐え切れなくなることはない。どうしても落ち着かない時は、頭の中で難解な計算式を解いたり、ニュートンやガリレオの物理運動を再現したりして、気を紛らわすことにしている。
しかし昨日からずっと、それができない。
何故か。
過去がまとわりつくからだ。自分の過去なんてどうだっていいと思っているはずなのに、過去が思考の邪魔をしてくる。そのせいで、昨日から一睡もできていない。病に生気を奪われているはずの目は疲れて血走っているのに、覚醒しきっている。悪夢のような時間だ。
ロバートは、これがあの医者の狙いか、と悪態をつく。
不本意だったが、睡眠のためだと割り切って、ロバートは記憶の採掘作業をはじめた。50年分の過去を掘り返すことを考えると気が滅入ったが、仕方がなかった。
人生を一本の線として思い描き、線上に人生の節目を点として配置する。
小学校、中学、高校、大学、大学院……。点を置きながら、少しずつその時代に想いを馳せようと試みる。だが、実際に思い出したのは、二十歳を過ぎ、大学院に進学するころからだった。子供時代の記憶、家族の記憶は、眩しすぎて直視することを避けてしまった。ロバートがここに存在しているということは、両親がいて、育ててくれたということだ。思い出してしまえば、そんな一般的な幸福さえも手にできなかった自分自身を、再認識してしまう。
大学院の研究所選びは、研究者にとって人生を賭すテーマを決める重要なもの。その時に出会った恩師のことを思い出すと、今の自分が不甲斐なく感じた。
次は結婚。大学時代からの付き合いだった妻にプロポーズする前夜のロバートは、『どうしてこの女性を選ぶのか?』という問いに対する明確な答えを、心の糸で紡いでいた。
その後も、助教授、教授と立場を上げていく自分、学会で論文が予想以上に高く評価されて驚き喜ぶ自分が見えてくる。物語の主人公である、才能と活気に溢れた寡黙な人物がそこにいた。
しかしやがて、最も思い出したくない記憶へと辿り着く。
妻との離婚だ。
思い出したくない? いや、違う。思い出せないのだ。記憶が、無いのだ。
何故離婚したのか分からない。
もちろん、これまで何度も、どうして最愛の妻と別れてしまったのかを考えた。しかし、そのたびに脳と胸が抉られるように痛み、病院に搬送され、精神療法を受けた。あまりにも精神的負担が強すぎるから、思い出すことを止めましょうという療法を受けた。正確には、精神科医は、『これはもう魔法のようなものですから、ゆっくり時間をかけて思い出していきましょう』と言っていた。
そして、そのまま、死が先にやってきた。
ロバートは、ベッドの傍らにある棚の天板を、力を込めて右手で叩く。木の鈍い音がして、激痛が走る。小指の付け根に青いあざができた。
このまま死ぬわけにはいかないだろう。悔しいが、医者の言う通りだ。人生を確かめなければ、私達は死ねないのだろう。ロバートは痛みを生の証として感じ、心を決めた。
ロバートは、目を閉じて恐怖に耐えた。これまで、この記憶には触れずに生きてきた。爆発しそうな、形のない物体に、ゆっくりと手を伸ばす。
そして、ついにその手が記憶に触れた。
……が、何も思い出せなかった。
これまでのような発作も起きない。
不思議だった。
心から愛していた妻を失った記憶。それは、あれ程貪欲だった研究者が気力を無くした転機でもあった。思い出すだけで心が痛く、脳を焼く記憶が、そこにあるはずだ。
しかし、見つからない。
しばらく時間が止まったかのような気分になって、宙を見つめた。
次の瞬間、ロバートは言いようのない不安に襲われた。
ベッドを飛び降り、病室を飛び出して診察室に駆けだす。看護師が制止する叫び声も、病が蝕む衰えた足の悲鳴も、何も聴こえない。
自分に何が起こっているのか。記憶喪失の一種なのか。分からない。どうして思い出せないのか。自分の人生を転落させた離婚の記憶が見つからない。見つけなくてはならない。知らなくてはならない。
このまま死ぬだなんて、ありえない。まるで自分が自分でないみたいではないか。
深夜にもかかわらず、医者は診察室にいた。一人で書類を読んでいたが、勢いよくドアを開け放って悲壮な表情を浮かべるロバートを見るや否や、短く言った。
「ロバートさん。トロイメライの街に、行きなさい」
ロバートは、部屋に一歩踏み入れた。息が切れているが、それどころではない。
「トロイメライ? どこですかそれは。それより、大事な話があります。私は、あなたの言う通りに過去を辿った」
「そうですか」
淡白な口調だが、医者の目には憐れみの色がかかっているようにロバートは思えた。
「しかし……記憶が……記憶の一部が、無いんです」
医者は、ゆっくりとした動作で立ち上がると、いつもの優しい表情で応える。
「あなたの記憶の一部が欠けている……。そのことは分かっていました。しかし、私の口から詳しいことは言えません。」
「どういうことですか? どうして教えてくれないのですか?」
「それも言えません。それより、やはりロバートさんも、一生の記憶を振り返らずにはいられなかったでしょう?」
ロバートは口ごもった。昨日、そんなものに興味はないという態度を取った自分を思い出す。記憶を遡り始めたきっかけは、ただ頭がうずくから、それだけだった。が、今やこれは抑えようのない欲求にまで肥大化していた。
医者は続ける。
「トロイメライは、ヨーロッパにある古都です。今では観光地となっているので、聞いたことくらいはあるのではないですか?」
ヨーロッパの古都、トロイメライ。ここ数年で有名になった小さな観光地だ。ロバートも、名前を聞いたことはある。だが、医者がどうしてそんなことを話しているのかが分からない。
「大きなテーマパークくらいの敷地しかない小さな街です。15世紀、いわゆる中世ですね。その時期に興隆した古都ですが、それから何の発展もせず、世界の進化に取り残されているのです。結果、15世紀で歩みを止めたその町並みが観光地になったのだから、いいことなのかもしれませんが。こういう歴史に愛を込めて、『眠りの街』とも呼ばれています」
「そんなことはどうでもいいでしょう!」
医者の説明を遮って、ロバートは苛立ちを露わにする。知りたいのは、何故記憶がないのか、どうすれば取り戻せるのか、それだけだ。
医者は臆することなくロバートの目を見つめた後で、月が見える窓の外へと視線を移した。
「……トロイメライに行けば、あなたの記憶が蘇る……。あの地には、魔力がありますから」
「は、魔力? それは、記憶障害の専門医や最新の設備があるということですか」
「いえ、魔力です」
ロバートは、医者の目をしかと見つめた。この優しく生真面目な医者が、大病患者に対して、病院を離れろと言っている。それも、確固たる根拠があるとしか思えない表情で。入院していたこの一年間、この医者がふざけている所など見たことがない。彼が真摯に言うせいで、魔力という医者らしからぬ単語にさえ、根拠があるように感じてしまう。
「一体、どういう……。」
「お願いですから、私を信じてくださいませんか」
「そんな無茶な……」
何一つ理解も納得もできない。しかし、他に手立ては何一つとして存在しないようだ。
「私の記憶がない理由は、どうしても教えてくれないんですね?」
「申し訳ありません」
この医者とは長い付き合いだ。頑固で、患者のわがままには耳を貸さない。これは、患者の治療を第一に考えていることの裏返しだった。
「分かりました」
これ以上問い詰めても無駄だろう。ロバートは溜息を吐くと、反転して部屋から出た。
正直、不明瞭なことだらけだ。しかし、一つだけ確かなことがある。この医者は、今のロバートが唯一信頼できる男なのだった。
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