第六章 彼を愛する記憶がめぐり、まためぐる

 16代目女神の伝承「婚約」


   14歳にしてトロイメライの統治者に即位した16代目女神。

   類を見ないほどに幼い、車椅子の女神。それを見て、民は不安を覚えただろう。

   為されるがままの人生に、女神は諦めの念を抱いているようにさえ見えた。

   数週間後、そんな女神に追い打ちをかけるように、重要な公務を迫られる。

   婚約の儀である。

   女神は突然連れてこられた高貴な男性と面会させられた。

   そして、その男性が自分の夫になるのだと一方的に伝えられた。

   たった一人となった女神の純潔を絶やさぬために、早急に決められた結婚だ。

   宮殿の役人たちは、14歳の女神に婚約を迫り、早急に出産することを求めた。

   女神はわずかに残っていた精神力で反抗したが、無駄だった。

   そして、一つのことを悟った。

   自分は、役人たちの傀儡に過ぎないのだと。

   女神は説き伏せられるというよりは、世の理を受け入れ、男性と契りを結んだ。

   そして一年後、17代目の女神となるであろう娘を出産した。




 夢の中、ただただ真っ暗闇の空間。そこで泣き続ける自分を、ルビーは上空から見つめていた。どうして泣いているのだろう? そうか、ベイカーさんが死んだんだ。親同然で、教師同然だったベイカーさんが、死んだんだ……。


 気が付くと、ルビーはホテルの自室のベッドにいた。慌てて時計を見ると、13時半だった。事件を知ったのが12時過ぎ、金庫を見つけたのがおそらく12時半すぎくらいだろう。良かった、あまり寝ていない。

 ベッドから飛び起きると、ズキン、と頭が強く痛んだ。ショックを受けて、頭痛が悪化しているようだ。

 ふらふらと部屋を出て、人の気配がしない廊下に出た。1階の方から、誰かの声がする。真鍮の手すりをしっかりと掴みながら、階段を降りていく。

 階段を降りるたびに、そのステップとともに心が沈んでいくようだった。衝撃が恐怖に変わり、さらに悲しみに変わっていく。

「ベイカーさん……」

 これからホテルはどうなるのだろう? 女神さまの伝道師は誰が引き継ぐのだろう? いや、そんなことはどうでもいい。

 ただ、大好きな人が、かけがえのない人が、亡くなった。


 1階ロビーのフロント周りには、役人が三人と、ホテルの従業員と宿泊客が全員そろっていた。

「あ、ルビー……大丈夫?」

 パトリックが眉を垂らして心配してくれている。その優しさがひしひしと伝わってくる。だが、他の全員は険しい表情をしている。

「うん、ありがとう。わたしは大丈夫。それより、何か分かったの?」

「まぁ……ね」

 言いづらそうにするパトリックに代わって、スターリッジが前に出る。

「君は具合が悪そうだ。今は落ち着いた方がいいんじゃないか」

「はい……辛いです」

 ルビーは正直に答えた。

「そうだろう。もう少し休んでいなさい」

 ルビーは、首を振った。

「いいえ。辛いですけど、それでも首は突っ込みます。自分にとって、今が大事な時だって分かるんです。こういう時に、逃げるわけにはいきません」

 再び正直に答えた。

 スターリッジは一瞬止まって、口角を上げて笑いそうになったが、すぐに抑えて言った。

「分かった。では、心して聞いてくれ」

「はい」

 スターリッジが、身体ごと、支配人室の方を向く。

「……ベイカー氏の遺体が、彼の自室で見つかったんだ。鍵は開いていた」

「遺体……」

 ルビーの思考はひりひりと麻痺しており、正常に機能しない。

 スターリッジが続ける。

「……首のない身体とそこから噴き出した血が、この部屋が殺害現場だと証明している」

 ガン、と頭を叩かれたようなショックがルビーを襲う。レイチェルやバニーも、目を背けて顔をしかめている。

 分かっていたことだ。首だけが見つかったということは、どこかに無残に切り離された胴体があるということ。しかし、それがまさかこのホテルだったとは。ルビーは、息を呑んで確認した。

「このホテルが、殺害現場だってことですか」

 それに答えたのは、スターリッジではなくロビンだった。他の妖精たちが暗い現実に潰されそうな表情をしている中、彼だけ様子が違った。まっすぐに背筋を伸ばし、目は鋭い。悲しみよりも、怒りを帯びているようだった。

「そういうことになるね。……犯人は、ベイカーさんの部屋で首を切り、ロバートさんの部屋の金庫を持ちだして、そこに首を入れたんだ。その後、わざわざキャメロン大橋まで行って、首の入った金庫を使ってグリフォン像を砕き、堀に落とした……」

 そこまで言うと、ロビンは言葉を切った。そして、ルビーの方を真っ直ぐに見た。

 この時、ルビーは微かだが自分の身体が震えるのを感じた。まるで、ロビンの怒りが自分に向けられているような気がした。

「ルビー、さっき逃げるわけにはいかないっていったよな」

「……うん、言ったよ」

 ロビンの急な質問に、ルビーは答える。彼の意図は分からない。

「じゃあ、見るか?」

「何を?」

「ベイカーさんの無残な姿をさ」

 ルビーは、言葉を失って身体を硬直させた。ロビンが肘を伸ばして指さす先には、閉ざされたベイカーの部屋のドアがあり、一人の役人がその脇に立っている。

 しかし、怯むわけにはいかなかった。

「見るよ。見て、お別れを言わなきゃ」

 ルビーが、自分でも意外なほど毅然とした声を出すと、ロビンの肩がピクリと揺れた。この時、ルビーは理解した。ロビンは、自分に対して意地を張っている。レイチェルに言われたことを根に持って、挑発しているのかもしれない。

 そう思った瞬間、ルビーは彼を軽蔑した。今は、ベイカーの死にすべての意識を注ぎ込むべき時ではないのか、と思う。

 ルビーはスターリッジに目配せをして、ベイカーの部屋へ入る許可を得ると、ゆっくりと歩き始めた。

 ランプの炎が燃える音しかしないロビーに、ルビーのブーツの音が鳴り響く。

 ルビーは、ドアの前で立ち止まり、深呼吸をした。自分を沈めようとする時間に反比例して、鼓動は激しさを増していく。

 ベイカーさん、ベイカーさん、ベイカーさん。

 ドアノブを握る手に力が入っているのに、手首を回せない。真鍮製の銅色のドアノブが、ルビーの手の中で温度を増す。

 ベイカーの下で、ルビーたち妖精は育てられた。ホテルマンとして教育してもらった。言葉の読み書きや算数も、トロイメライの知識も、女神さまの伝説も、そのほとんどを彼からもらった。それがあって、ルビーはこの街のことが大好きになった。

 妖精のみんなで遊ぶ時も、一番うるさくお転婆なルビーを、いつも笑って見守ってくれて、本当に危ないことをしたときには身体を張って守ってくれた。

 月の劇団の一輪車を勝手に使って、レイチェル街道の坂道で止まれなくなってしまったルビーを、ベイカーは正面から抱きとめてくれた。幼きルビーはわんわん泣いて、たくさんの涙を彼のシャツに沁み込ませた。

 彼を愛する記憶がめぐり、まためぐる。

 ルビーは、記憶の回転に合わせて、優しくドアノブを回した。

 厚手のカーテンが日光を遮り、ベイカーが好んだオレンジ色の照明が部屋を美しく照らす。

 てらてらと飴色に光る古木の床に、濃厚な赤ワインに似た血液が沁み込んでいる。それは、ベイカーのベッドから滴り落ちている。

 少しぶかぶかな制服を纏う可愛らしい老紳士の人形が、ベッドに仰向けになっている。ベッドに体重を委ね、足を延ばし、くったりとしている。

 ただし、首がない。レースがついた白いはずのシャツも、元からそうであったかのように、鮮やかなワインレッドに染まっている。

 首の切断箇所にあたるベッドのマットレスは大きく裂かれており、眠っている間に殺されたのは間違いなさそうだ。凶器であろう血塗られた大きな剣は、元々この部屋に飾ってあったもので、今は床に転がっている。

 ルビーは、抱き付きたくなる衝動に駆られながら、よろよろとその身体に近づいた。手を伸ばせば触れられるくらいの距離、血だまりの前までくると、膝をついてしまった。

 そうすると、涙が溢れだしてきた。

「あはは……。ベイカーさん……どこいっちゃったの? これがベイカーさんだって言うんなら、そう証言してよ。……こんなの見せられたって、信じられるわけないでしょ……?」

 ロビーの方から気丈なレイチェルの泣き声が聞こえてきたと思ったら、彼女はルビーの背中に抱き付いてきた。パトリックとバニーも、耐え切れなくなったようで、二人により添ってすすり泣いた。

 ロビンは、玄関の方へ行ってしまった。

 いいのかい、と声をかけるロバートの影が、ルビーに見えた。


 しばらくの現場調査の後、役人たちはベイカーの身体を棺桶に入れた。

 宮殿で行われる葬式に、ベイカーの亡骸を運んでいくらしい。

 縦長の五角形をした群青色の棺桶は、ホテルを出て小道を抜けるまでは役人の手で運ばれたが、レイチェル街道に出た後は、これまた群青色の馬車に積み込まれた。室内ではあまりにも暗く見えた棺桶の色は、太陽に当たると、より鮮やかな青になった。

 棺桶を載せた青の馬車は、栗色の大きな馬2頭に曳かれ、2枚の大きな車輪を回して進む。馬の蹄と車輪が、無機質な音を奏でながら石畳の上を進む。

 ルビーを含むその場にいた全員が、重たく緩やかな足取りで、その馬車の後に続く。最後尾には、ロビンもついてきている。

 誰も何も語らない。

 ルビーは、悲しみの中にいながらも、ベイカーの亡骸に相応しい古風な馬車に、多少ながらも慰められた。愛していたホテルの部屋に溶け込むようにして死に、トロイメライの美しき馬車によって女神の宮殿に運ばれていくベイカーは、その人生を冒涜されてはいないようにさえ感じた。

 さらに、葬式では、女神さまによる『祝福』が行われるらしい。これは、ベイカーが望んでいたものだとルビーは思う。トロイメライに尽くした義人だけが受けられる、最上級の弔いである『祝福』は、女神さまが姿を現し、直々に肌に触れて魂を癒してくれる。役人がベイカーの死を宮殿に報告してすぐにこの待遇が決まったということは、女神さまにとってもベイカーは特別な存在だったということを示している。

「君は、女神さまに会ったことがあるか?」

 沈黙の中、スターリッジがルビーだけに聞こえるような声で話しかけてきた。

「いえ……演説を聞いたことがあるくらいです」

 虚ろな心で、ルビーは答える。女神さまは、年に一度の感謝祭の折、民の前に姿を現す。鍛冶に必要な水を運んでくれる川と琥珀を生み出す大地に感謝する、古来より伝わる祭りだ。感謝祭では、宮殿の中庭にかなり多くの民が集まる。1000人程度がすっぽり入る大きな中庭だ。そこから見上げる位置に、廊下から出っ張ったバルコニーのような祭壇がある。女神さまは、そこから演説を行うのだ。その他では、民が女神さまを見る機会はほとんどない。

 しかし、そのような距離でしか見たことのないルビーにも、女神さまの姿は印象的だった。遠目から見ただけでも、若く美しい人なのだと分かった。

「そうか。では、今日が最も女神さまのお近くに寄る日になる」

 スターリッジの言葉に、ルビーは首を傾げる。

「え? と、いうと?」。

 スターリッジの表情が少し強張った。

「女神さま直々のご指名で、君には祝福の補佐をしてもらう」

「えっ?」

 ルビーは驚いて目を開く。しかし、まだ彼の言う意味が飲み込めていない。

「祝福の補佐?」

「あぁ。女神さまと共に祭壇に立ち、共に死者を祝福するのだ」

 女神さまと共に……? どうして自分が? ルビーは一瞬だけそう考えたが、すぐに思考が切り替わり、喜びを感じた。 

「え、じゃあ、ベイカーさんの近くにいられるってことですか」

 ルビーの発想に、ベイカーは小さく笑った。

「女神さまとお近づきになることより、ベイカー氏のそばにいれることが嬉しいか。君らしいな。頼むから泣かないでくれよ。厳粛な場なのだから」

 そう言い残すと、スターリッジは列の先頭へと早足で歩いて行ってしまった。

 ルビーは、ベイカーとの最期の時をより明確に認識し、唇を噛みしめた。

 もうすぐ、女神の宮殿に着くようだ。


 ベイカーの遺体を乗せた馬車は、レイチェル街道を登りきり、ルビー街道に入ってすぐに、女神の宮殿の前に出る。

 ルビーは、この小さな街に不釣合いな、あまりに大きな宮殿を見上げる。

 中世の風靡を纏う、歴史ある建造物でありながら、その壁面は他の建物に比べて清く磨かれていて美しい。昨晩の雨の余韻が水の粒となってちりばめられているからか、いつもよりも太陽の輝きを眩しく反射している。

 ルビーは宮殿にくると、いつもこの建造物の壮大さに圧倒される。見た目は白く清潔で美しい城のようなのに、歴史のせいか、権威のせいか、強い魔法がかけられているかのような重みを感じる。

 建物全体が広い中庭を囲うタイプの宮殿で、東西南北に角があるひし形になっている。南の一角に玄関となる門があり、北の角には女神が住まう塔がそびえる。塔は、街中のほとんどの位置からその先端が見える程、高くそびえ立っている。

 女神さまが姿を現すバルコニーは、この塔の四階部分から中庭に向けてせり出しており、巨大な旗が垂れ下げられている。女神の紋章が大きく描かれたその旗は、帆船の帆と同じ、帆布という頑丈な布でつくられている。

 四方を高く白い宮殿の壁に囲まれた中庭は、観光客が自由に出入りできる観光スポットとなっており、中庭に続く南の門は、深夜を除いて常時開放されている。今日も例外ではなく、門の手前にはたくさんの観光客がいる。彼らは道を開けながら、青い馬車とそれに続くルビーたちを好奇の目で見つめていた。

 ルビーたちは、馬車に続いて門をくぐって中庭に入る。

 広い中庭の中心には、2メートルくらいの女神像が置かれている。白っぽいが、灰色、藍色、銀色を含む不思議な石の彫刻だ。右手はレイピアのような細い剣を天に掲げており、全身に軽装の鎧を身に着けている。頭部を流れる長い髪は、色もなければ線が細かいわけでもないのに、美しい髪をしているのだということが分かる。ルビーの胸の高さに差し出された左の掌は、女神さまの慈愛を示していると言われている。

 先頭のスターリッジが、馬車とルビーたちを南西の壁の方へ誘導していく。ルビーたちは、何も言わずにそれに従う。

そこには馬車を収めておく納屋があった。納屋と言っても、藁ぶき屋根のよくあるものとは違い、しっかりと磨かれた石造り。高貴な馬の住居だった。

 皆がそこに入ったのを確認すると、スターリッジは納屋の門を閉めた。

「見ての通り、まだ観光客も多く、葬式の準備ができていません。葬式は夜に行うので、それまでは各自休んでいていただきたい。すでに、皆さんの部屋は確保してありますので」

「ちょっと待ってください。夜までホテルに帰れないということですか? あまりに急すぎて、休業の札もかけていないのですが……」

 不安そうに言ったのは、バニーだった。ベイカーなき今、自分がホテルを守らなければならないという自負があるのだろう。

 レイチェルが、感心したように言う。

「さすがバニーさん。ベイカーさんが見ていたら、きっと安心するわ……。私たちも、弱ってばっかりじゃいけないんだけど……」

 ルビーも、その気持ちには共感できる。ベイカーは、その死を悼むあまりにホテルをないがしろにすることなど望んでいないだろう。むしろ、穏やかな声そのままに、怒るだろう。それを想像すると、また涙が込み上げてくる。

「一度ホテルに戻ってもらっても構いません。『死者と親しき者が、蒼天の棺桶馬車に続いて宮殿の門をくぐる』……というここまでのプロセスも儀式の一部でしたが、それはもう終わりましたから」

 スターリッジの返答に、バニーはほっと胸をなでおろした。

 カレンと手をつないでいたロバートが、続いて質問する。

「私たちも、自由にして構わないね?」

「もちろんです。夜までに戻ってきていただければ」

 スターリッジは、ここまで沈黙に耐え抜いたカレンに微笑んだ。

 すると、疲れた様子のリリーがカレンの前に屈んで言った。

「でも、ちょっとだけ休憩しない?」

 カレンはゆっくりと頷いた。

「では一度、皆さんを部屋に案内させていただきますね。その後は自由ですが、17時頃に各お部屋までお迎えに上がりますので、それまでに戻っていてください」

 スターリッジはそう言うと、中庭に出ていった。

 入れ替わりに入ってきた役人が、ルビーたちを納屋の奥からつながる宮殿内部へ誘導した。

 廊下のつくりも、ホテルのものとは大違いだった。レンガとランプを基調とした古めかしいホテルとは違い、白い大理石の床には規則正しい直線を組み合わせた模様が描かれ、壁面にはそれと対をなすような、曲線の模様が描かれている。等間隔で飾られた刀剣もまた美しい。天井には、すべて琥珀でできているかのようなシャンデリアが吊るされており、ランプのそれとは異なる暖色で空間を照らしている。

「なんてきれいなんだ」

 ロビンがそう呟くのを聞いたルビーは、大人気ないと思いつつも反論してみた。

「わたしは、ホテルのほうが好きだけどな。ここは、ちょっときれいすぎるよ。新しい感じがする」

「それがいいんじゃないか。古いものに囚われていなくてさ」

 こちらを振り向かずに答えるロビンに、ルビーも何も言い返さなかった。


 案内された個室は、廊下と同じように優雅だった。

 ベッドには天蓋がついている。

 ルビーは、天界の雲のようなベッドに身を委ねると、すぐに意識が遠くなった。 同時に、悲しみで麻痺していた頭痛が再び襲い掛かってきた。

「わたしも、バニーさんを手伝いにホテルに戻らなきゃ……」

 そう呟きながらも、ルビーは無意識に目を閉じた。頭痛はどんどん強くなる。半ば気を失うような感覚で、ルビーは眠りに堕ちていった。


 やがて、ドアを叩く音が夢の中で鳴り響く。

 現実世界で耳にしている音が、夢に反映されているのだろう。夢に慣れたルビーは、眠りながらも理解する。

 さらにもう一つ、これまでの経験を通してルビーが知っていることがある。

 夢の中に出現するドアは、大体の場合特別な意味合いを持っている……。

 ルビーは覚悟を決めて、目を覚ました。

 ルビーが部屋のドアを開けると、そこにはノックを続けていたスターリッジがいた。

「すみません、寝込んじゃってました」

 彼は腕時計に目をやると、困ったように溜息を吐いた。

「すでに、葬儀の参列者は中庭に集まっている。君は女神さまの補佐だと言っておいたのに」

「す、すみません! まだ間に合いますか?」

「なんとか、辛うじて、だが」

 早足で歩くスターリッジに、ルビーは若干駆け足になってついていく。

 おそらく、着替えや儀式の流れの説明などの準備があるのだろう。それなのにギリギリまで眠ってしまうなんて、どうかしているとルビーは反省する。 

 かなり長い廊下を歩き、ところどころで曲がって、一段一段が大きな階段を、三階分も登っていく。

 そして5分程歩いた後、二人は大きな両開きの赤いドアの前に立った。

「このドアを開けて、静かに中に入りなさい」

「へ?」

「では、私はこれで」

「え、ちょっと。あそこで何をすればいいんですか?」

 しかしスターリッジは答えずに、無言で去ってしまった。

 この赤いドアの向こうに何があるのかは分からない。ここで葬儀の準備をするのだろうか。

 ルビーは、金のドアノブに手をかけた。その時だった。

「ルビー? 何してるんだ?」

 後ろからロビンの声がした。その向こうには、早歩きで去っていく役人が見えた。

「ロビン? どうしてここに? わたしは、女神さまのお手伝いをしにいくところなんだけど」

 ルビーは素直に答えた後で、ロビンの怪訝な表情に気づく。

「ロビンは、何しにきたの?」

 ロビンはルビーを軽く押しのけて、ドアの正面に立つ。

「……僕も同じだよ」

 つまり、ロビンも祝福の手伝いを頼まれたのだろうか。

「じゃあ、二人でお手伝いするんだね」

 ルビーが言うと、それを無視したロビンは、赤いドアを見つめながら呟いた。

「何か事前説明とか準備があると思っていたけど、どうやらいきなり葬儀みたいだな」

「え?」

「このドアの向こうは、もう女神さまのバルコニーだと思う。ここまで歩きながら宮殿の地図を思い浮かべていれば、それくらい分かるだろう?」

「え!? そうなの!?」

 ロビンの言葉を聞いて、ルビーは飛び上がった。地図を思い浮かべながら歩いてきたという彼にも驚くが、それよりもいきなり本番と言われたことに驚く。

 対して、ロビンは至って冷静だ。

「ここに近づくにつれて、まさかとは思いはじめていたけど、このドアを示されて覚悟したよ。ドアを開ければ、きっと中庭に集まったみんなを見下ろすことになる」

 どうやら、間違いないようだ。ロビンがここまで言うのなら、ルビーに疑う余地はない。

「まさかホテルの制服でやるなんて……いいのかな?」

「ルビー、さっきまで寝てただろ。ジャケットにしわがついてるぞ」

 ルビーは慌てて制服の腰のあたりをチェックしたが、特にしわや汚れはなかった。

「ないじゃん!」

 ルビーは、ロビンにからかわれただけだということに気が付いた。

「服なんかよりも、僕は説明も練習もないってことが不安だな」

 ロビンは小さく笑いながら、不安を漏らした。

 確かに、手伝いと言われても何をすればいいのか聞いていない。女神さまの目の前で、何か失敗でもしたら大ごとだ。

「でも、早くベイカーさんを祝福してあげたいし……まあいっか」

 ルビーは、そう言って金のドアノブに手をかけた。そして、呆れるロビンの溜息を聞きながら、勝手にドアを押し開けた。


 バルコニーに出ると、夜空に浮かぶ大きな月が二人を出迎えた。

 そして、目の前には、青い棺桶が置かれていた。

「ベイカーさん!」

 ルビーは叫び、月夜に光る棺桶に飛びつく。蓋が閉まっていて姿は見えないが、久しぶりにベイカーの身体に触れたように思えて、涙が溢れだしそうになった。

「おい、ルビー! なにしてるんだ!」

 ロビンの小声ではっと我に返るルビー。感傷の世界から抜け出して、だんだん周囲が見えてきた。胸ほどの高さがある白い石の手すりから見下ろすと、たくさんの人が中庭にいるのが見える。レイチェルやパトリックやバニー、ロバートにカレン、そしてリリーはもちろん、ベイカーと親交が深かったトロイメライの住人達がこちらを見上げている。突然ルビーが出てきてベイカーの名を叫んだせいで、彼らは驚きの表情を浮かべている。

 ルビーが姿勢を正して立ち上がったその時、背後の赤いドアがゆっくりと開いた。

 姿を現したのは、真っ白な肌に、輝くレモン色のドレスを纏った女性。二十代とも言えるほど若々しい顔立ちに、人一倍大きく優しげなブルーの目。薄い黄色の金髪は、光を具現化したかのようにきらめく。不自由な脚の代わりを果たすピンクゴールドの車椅子が、優雅にそして軽やかにその身体を運んでいる。

 これが、16代目の女神さま。

 ルビーは、初めて間近で見るその美しさに目を奪われた。自分のオレンジがかった金髪とはまるで違う、高貴な輝きに魅入ってしまう。

 女神さまは、中庭から見上げる民たちに微笑みかけながら、車椅子をスライドさせてバルコニーの中心辺りまでやってきた。

 すべての人が言葉を失い、女神さまを見つめていた。風の音だけが微かに鳴って、月明かりの夜を優しく包む。

 女神さまは、中庭に集まった一人一人の顔を見つめるようにした後で、腰に括り付けてあった銀のフルートを手に取った。そして、純銀の楽器に唇をつけ、高く滑らかな、それでいて芯のある音楽を奏で始めた。

 世界を撫でる風と優しい音色が一緒になって、悲愴に暮れる宮殿に響きわたる。

 女神さまの祝福に言葉はない。言葉の代わりに奏でられる音楽は、トロイメライに伝わる古い旋律。それがまるで文学のようにベイカーの人生と人柄を表現し、聴く人間を感傷の海に沈めていく。

 誰も、何もしゃべらない。参列者全員が、音楽に乗せて、それぞれの思いを馳せているのが分かる。そんな時間だった。


 やがて曲は終わり、フルートの最後の音が、夜空に吸い込まれるようにして消えていく。

 ルビーは、自分の頬に静かな涙が流れていることに気が付いた。見ると、ロビンの頬にも同じものが見えた。

 すると、女神さまがルビーとロビンに目配せをして、二人だけに聞こえる小さな声で言った。親しみやすい、明るく澄んだ声だった。

「橙と紫の妖精さん。棺桶の蓋を開けられる?」

 妖精と呼ばれ、ルビーは少し驚いた。しかし、女神さまなら知っていて当然か、と思い直す。それから棺桶の蓋を見つめると、身体が小さく震えはじめた。

「大丈夫よ。ベイカーの身体は、もうきれいになっているから」

 ふたを開けるのを躊躇っていると思ったのか、女神さまは優しい声で付け加えてくれた。切り離された首は、もう縫合されているということだろう。

「はい、大丈夫です。任せてください」

 ルビーが言うと、ロビンも小さく頷いた。

 女神さまは、ありがとう、と微笑むと、再び前を向き、両手を広げて目を閉じた。ドレスの広い袖がひらひら揺れて、レモン色のオーロラとなって光を放つ。

 ルビーとロビンは女神さまの前に出て、棺桶の蓋に手をかけた。

 腕が震える。ルビーはロビンの顔を見る。その顔も、強張っていた。

 ルビーは、思い切って蓋を持ち上げた。

 蓋を持ち上げた後に見えたベイカーの姿は、ルビーの緊張を掻き消した。

 傷跡こそあるが、首はすでに縫合されていて、昼に見た無残な姿とはまるで違う。しかし、金庫と共に水に沈んだ頭部は若干膨れてしまっているし、白く塗られた身体には生気が感じられない。

 深い悲しみが、犯人に対する怒りへと変容を始めた。……許せない。

 そんなルビーの脇で、女神さまがベイカーの身体を覗きこむ。そして、口を開いて、小さな声でささやいた。

 中庭から見れば、ベイカーに最後の言葉を述べているように見えただろう。しかし、実際は違った。

 なんと、女神さまはルビーとロビンに話しかけたのだ。

「妖精さんたち。重要なことを伝えるわ。直接話せる機会なんてそうないから、聞き逃さないでね。……そのために、あなたたちをここへ呼んだのだから」

 ルビーの目線は、途端にベイカーから女神さまに移り変わる。女神さまの表情は無表情に近く厳かだったが、深い悲しみと微かな怒りが垣間見える。

 ルビーの身体が不意に震えた。ロビンも同じ感覚を覚えたようで、小さく息を呑む音がした。

「……どういうことですか?」

 おそるおそるルビーが聞くと、女神さまの表情が若干固くなったのが分かった。が、それは微々たる変化で、中庭の人々には分からない程度のものだ。

 女神さまは、あくまでロバートに言葉を投げかけているような素振りで、質問に答える。

 その言葉は、ルビーとロビンに大きな衝撃を与えた。

「……あなたたち二人に、ベイカーを殺した犯人を突き止めてほしいの」

 ふたを持つルビーの手が、びくりと揺れる。ロビンも目を見開いている。

 女神さまは、二人の反応を見越していたようで、そのまま続ける。

「……あなたたちも分かっているだろうけど、今回の事件は普通じゃない。強い悪意に満ちているわ。ベイカーは恨みを買うような人ではなかったし、あんな殺された方をするなんておかしい。絶対に何か、裏がある。それに、彼は女神の伝道師よ。犯行動機によっては、トロイメライの一大事になりかねない」

 ここで言葉を切って、さらに小さな声で付け加えるように言う。

「……それに、私にとって、彼が唯一の理解者だった」

 精悍な表情を保ちながらも、人間らしい口調と震える声で訴える女神さま。その感情を帯びた言葉は、事態の深刻さと異常さを浮き彫りにする。

 ルビーの鼓動が速くなる。同時に、自分の貧弱さを反省する。ショックで気絶したり、ただただ悲しみに暮れたり、そんな場合ではないだろう。砕け散ったグリフォン像に、ベイカーの首を収めたホテルの金庫。ホテルで見つかった首のない死体。異常だ。そして残酷だ。大好きな人が死んだとはいえ、大好きな人が死んだからこそ、燃やすべき心があるはずだ。ただただ泣いている場合ではない。

 あらためてベイカーの亡骸を見つめると、蓋を持つルビーの手に力が入る。

「でも、どうして僕たちに捜査を頼むんですか? スターリッジさんたちが調査しているのでは?」

 ロビンが小さな声で聞き、女神さまがそれに答える。

「あなたたち妖精の存在、つまりホテル・ファンタジアの魔法のことは、宮殿の役人でさえ知り得ない極秘事項なの。だけど今回の事件には、ホテルが強く関係している。残念だけど、金庫とベイカーの部屋がそれを示しているわ。だから、あなたたちにお願いしているの。ホテルの秘密を知りながら事件を調べられるのは、内部の人間だけだから」

 ホテル・ファンタジアの魔法、つまり妖精の存在と特別な琥珀のつくり方。スターリッジのような上級役人でさえそれらを知り得ないということは、例外なく、ホテルの従業員と女神さましか知らないのだと想像できる。

 ルビーは、自分の置かれた立場を理解した。ベイカーに育てられ、ホテルの秘密を知る自分たちが、事件の当事者なのだ。これは、自分たちにしか解決できないか問題だ。

「……そろそろ、時間ね」

 女神さまはそう言って顔を上げると、二人に蓋を閉めるよう促した。

 静寂の中、女神さまは深く一礼し、赤いドアの方に車椅子を回転させて、バルコニーから出ていこうとする。

 この時、ルビーが大きな声で女神さまを呼び止めた。

「女神さま!」

 中庭の人々の視線がバルコニーに集中する。

 ロビンは目を見開き、微かな声でルビーを止める。

「バカ、せっかく女神さまが隠密に会話してくれたのに、台無しにする気か!」

 しかしルビーは、それを無視し、さらに大きな声で言う。

「ありがとうございました!」

 そして深々と頭を下げて、今度は女神さまとロビンにだけ聞こえる小さな声で、こう付け加えた。

「必ず、犯人を見つけてやります」

 心に満ちた負の感情をまっすぐ前に向けるために、言わずにはいられなかった。ルビーの手は、強く握りしめられている。

 女神さまは振り返って微笑むと、ドアの前まで車椅子を動かした。そして最後に、小さな声でこう言った。

「よろしくね。犯人が分かったら、私に会いに来て。役人たちは通してくれないだろうけど、なんとかしてね。……お願いよ」

 微笑む女神さまの目は真剣で、かつ温かくきらめいていた。


 ルビーとロビンが赤いドアを開けて廊下に入ると、さっきは気づかなかったが、ドアの前の壁に美しいレイピアが飾られているのに気が付いた。レイピアの割には少し太い銀の刀身に、お椀形状のオレンジがかった金のつば。剣の下に貼られたプレートには、『女神のピアス-Q-』と書かれている。

 その美しさにルビーが魅入られたその瞬間、目の前にスターリッジが現れて視界を遮る。

「神聖な儀式であんな大声を出すとは、常識がないのか?」

 バルコニーでのルビーの立ち振る舞いに苦言を呈すスターリッジ。それを傍目に、ルビーはドアから見て左側に進んでいく女神さまを見た。

 スターリッジはそれに気づき、釘を刺す。

「話したりないか? だが駄目だ。女神さまの部屋には、女神さまにしか開けられない鍵がかけられている。ついていこうとしても無駄だぞ」

 ここまで忠実で厳格な役人がいるのなら、女神さまが二人と話す機会を設けるために、わざわざあの場を利用したことも納得できる。ルビーは、事件を解決した後、どうやって女神さまと会えばいいのか、不安になった。

「君たちの帰り道はこっちだ。ついてきなさい」

 スターリッジの強引な誘導で、女神さまと反対方向へ進む二人。

 ルビーは俯いて、事件のことを考えていた。女神さまに会う方法は、後で考えればいい。それよりも、早急に紐解くべき謎がある。

 ……一体、誰がベイカーを殺したのだろうか?


 宮殿からの帰り道。ロビンはルビーの隣に来ると、小さな声で言った。

「どう思う?」

「だめ、全然分からないよ」

 ルビーは、痛む頭を右手でこつこつ叩きながら、前を歩くロバートを見た。カレンにねだられて手を繋ぐ彼も、明晰な頭脳をフル回転させて、事件のことを考えているのだろうか。その先を歩くレイチェルとパトリックは、小さな声で何か話している。

 情けない表情を見せるルビーに、ロビンは溜息を吐いて言う。

「しっかりしてくれよ。女神さまに言われただろ。僕たちは、真相を明らかにしないといけないんだ。……ベイカーさんのためにも」

 その言葉はルビーの胸に刺さった。空を見上げると、先ほどまでそこに在ったはずの黄色い月は、厚い雲に覆われていた。

「うん、そうだね。しっかりしなきゃ」

「それでいい。……だけど、本当に分かってるのか?」

「なにが?」

「ベイカーさんを殺すことができたのは……、ホテルの従業員か、お客さんだけだ」

 無感情なロビンの言葉を受けて、ルビーの瞳は光を失う。……ロビンの言うことが正しいと、認めざるを得ないからだ。

 ホテル内部の犯行だと裏付けるのは、強固なホテルのセキュリティ。虹彩を登録してある者だけが玄関を出入りできるのだから、外部からの侵入は考えられない。役人の調査でも、セキュリテイに異常は見つからなかったらしい。レイチェル街道に面する中庭の塀は高く、無理に侵入すれば痕跡が残るはずだが、それもない。

 他に侵入経路はない。疑うべきは内部だと、ルビーにだってすぐに分かる。

 が、ルビーは首を振る。

「でもやっぱり、いきなり仲間やお客さんを疑うことなんてできないよ。みんなベイカーさんのこと大好きだったし……。とにかく、ホテルに戻ったらいろいろ話を聞いてみよう」

 ルビーはそう言って顔を上げる。

 しかし、そうは言いつつも、ついさっきとはまるで違う心持で、前を歩く面々を見つめてしまった。

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