1-4 「その他にも膝が曲がらない等の諸症状があります」


 恵流の端末バングルが着信を訴え続けていた。中空のネームタグには菖蒲と表示されている。

 恵流は寝ぼけ眼を擦りながら、学習机の引き出しからチョコレートを取り出して、口に含んだ。

 ベッドから身体を起こして、カーテンを開ける。土曜日の午前九時。天気は快晴。目を眇めて、たっぷりボーっとしてから。


「なに」


 二十分ほど前から自室のドアが執拗に叩かれている事を把握していた恵流は、観念して通話要請に応答した。


「あっ、ようやく出た! 『なに』じゃないだろ! 七色が鬼気迫る様子で俺の部屋に――」


「あたしは理性的に事情を聞きに馳せ参じただけですが?」


「――背景に吹雪が見えてるんだけど! お前の部屋の前で待ってるから、とにかくすぐに出て来てくれ」


 接続が切れた。いずれにせよ午後には対面する相手。早い内に和解しておくに越したことはない。

 弥縫策で籠城して惰眠を貪るという選択肢は魅力的だったが、恵流は簡単に身支度を整えて部屋を出る。


「おはよう。朝から仙姿玉質な美人さんが見れて、嬉しいなぁ。今日はきっといい日になるよ」


 しーん。自分で撒いた種ながら、難儀しそうだなぁと恵流は後頭部を掻く。青い顔をした菖蒲と冷たい目をした七色が待ち構えていた。


「平野恵流。一時間前にエントリー表が公示されたのですが、手違いでなければ、これによると貴方は午後一時の部に参加する事になっています」


「手違いじゃないよ。菖蒲にも聞いたんでしょ?」


「嘘を吐いたんですか」


「違うよ。気が変わったんだ。あの『執行部』が僕を標的に設定する気配がなければ、最初に教えた時間にエントリーする予定だったよ」


「あたしはまた、無様にも言葉遊びに騙されたのですね。今回の件、その意図を貴方は解っていなかったのですか?」


「あの晩に執行部の顔に泥を塗った僕を倒せば、執行部の名誉は保たれて、溜飲も下がる。それでこの対立は沈着する筈だった。こんな所かな?」


「理解した上で逆を行ったのですか……貴方の悪癖に菖蒲を巻き込む事に、貴方は何も感じないのですか?」


 七色は弄ばれた事に憤慨してるのではない。菖蒲の執行部移籍を提案した原理は、菖蒲の生活の向上にあった。


「僕と菖蒲の関係は利害の一致で成り立ってる。それだけだよ」


 少しでも非を認めるような素振りが恵流にあれば、七色にも歩み寄りの用意があったのに、無駄になってしまった。


「やはり、あたしは貴方の在り方を好きません。どうして菖蒲はこんな男と行動を共にしているのか、甚だ疑問です」


 直球の軽蔑をぶつけられても、恵流は泰然と構えたままだった。自分を理解しようとされるよりも、嫌味を言われる方が慣れている。


「それで例の契約の事なんだけど、バナナさんの方から来てくれて手間が省けたよ」


「のえる! お前、少しは遠慮って言葉を覚えろよ!」


「僕の辞書に遠慮って言葉はない。そんなのがあるから、人間関係が煩わしくなるんだ」


「俺と一緒に謝るぞ。フラグナの話はそれからだっ!」


「えー? 勝手に執行部の内部事情を持ち出されて困ってるのは僕の方なんだけどなぁ」


 恵流の手口こそ卑怯極まりなくても、問題を生み出したのは七色の側である。恵流の主張に間違いはない。


「菖蒲、その気持だけで結構です。契約の件と執行部の心情は別物ですから、あたしがそこの男を嫌悪していても、よっぽどの無理難題を要求されない限りは果たすつもりです」


「だ、そうだよ?」と菖蒲にしたり顔を向ける恵流の耳に、何処からかぷっちーんという音が聞こえた。あ、これ駄目な奴だと恵流は直感する。


「菖蒲、落ち着いて。僕も被害者だからね? 実質的に痛み分けだよね、これ」


「いいから、謝れ! 二度も面目を潰された七色の立場を考えろ。協力者だろ。義理はある」


 菖蒲が恵流に掴みかかる。身体捌きにはそれなりの覚えがある恵流でも、一撃すらも致命傷に繋がる近接戦闘で慣らした菖蒲相手では分が悪い。


「謝って何か変わるものでもないでしょ。それに、僕の腰は曲がるようには出来てないんだ!」


「あ、のえるのポケットに入っていたチョコレートが落ちた」


「えっ、何処?」


 床を見ようと恵流の腰が曲がった。菖蒲は恵流の頭を片手で掴んで強引に深く下げて、固定する。そして。


「「ごめんなさい」」


 声が重なる。菖蒲は頭を下げたまま、感動のあまり鳥肌を立てながら恵流の横顔を見る。恵流はそっぽを向いた。


「菖蒲の癇癪は、謝ればどうにかなるものだと思ったから」


 謝意は欠片もないと暗に言う恵流。菖蒲はそれが憎たらしくて、恵流の髪をぐりぐりとこねくり回した。


「ふふ」


 一部始終を見ていた七色の鉄面皮が崩れる。びっくりして恵流が見上げる頃には、七色は元の無表情に戻っていた。


「謝罪は受け取りました。おかげで多少は気持ちよく手を貸せそうです」


「ふーん。それは何よりだよ」


 合流場所と時刻を告げる恵流の話を聞きながら、七色は二人の関係性を見誤っていたのかも知れないと思った。

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