第6話 紙切れのような女の話①

三浦加奈みうらかな......ああ、ガンガンのことか」

 休日の午前中のこと。目覚ましもかけずに、好きな時間までベッドに潜っていた三人の住民が居間に集結する。残りの一人であるソーチョーはというと、どうやら散歩に出かけたらしい。まあ、散歩という名のゴミ拾いなのだが。ポストから手紙を取り出したジジは、その手紙を彼女の目の前に置いた。


「俺もガンガンの本名知らなかったわ。ソーチョーのもうる覚えだな」

 朝ご飯だか昼ご飯だか分からない焼きそばパンを頬張っているギンガは、黒目だけを上に動かして、考えるような素振りを見せた。その隣で目を閉じているガンガンは「私もソーチョー知らない」とだけ言うと、考える素振りすら見せなかった。


「えっ? ギンガとソーチョーは仲良いから、てっきり小さい頃からの知り合いなのかと思ってた。だから、当然本名も知ってるものかと」

「いやいや、俺だって会ってから一年位だよ」

「ふーん。じゃあ、最初っからあだ名で呼んでたってこと?」

「いやー。あだ名はガンガンが付けたやつだから、こいつが来るまではあだ名なんて無かったよ」

「じゃあ、それまでは何て呼んでたの?」

「うーんと。お前とか、あんたとか......」

「うわー。不器用かよ......」


 ジジは、苦いものを噛んだようなそんな表情を浮かべた。


「むにゃむにゃ」

 噂されているとも知らず、女は未だに眠りから覚めてはいないようだ。


「本当に呑気な奴だな......」

 二人は、時折右側に倒れそうになっている彼女を眺めながら、呆れた様子でため息を吐く。


「あだ名を決めてくれたのは、結構助かった。それに関しては、ソーチョーでさえ、感謝してるんだぜ......」

 


***


それは、ギンガがこの屋敷に来て、半年ほど経った時のことだった。


「おい、こいつ何なんだよ」

 ソーチョーの隣にぴったりとくっついている女を見て、ギンガは目を丸くした。心配するほどに女っ気の無かった彼が、突然女を連れ込んだのだから、驚くのも無理は無い。


「勝手について来た」

 ソーチョーは眉毛を下げて、明らかに困っている様子だ。彼は、基本的に人見知りな性格をしている。そんな彼が、一体なぜこのような状態になってしまったのだろうか。


 

 それは、朝の6時頃。彼がいつも通りにゴミ拾いをしていた時のことだと言う。

「紙が落ちていたから、拾おうとしたら、それが俺の手から逃げるように宙を舞いだしたんだ」

「はあ」

「それで、逃げられないように直ぐに追いかけたら、その紙をこの人が先に拾ってたんだ」

 

 女は、”漫画喫茶”と書かれた小さな紙を、二人の前に得意げにちらつかせた。恐らく、ポケットティッシュにでも入っていたものであろう。


「それで、その紙を受け取ろうとしたら、『これが欲しいなら今晩泊めてくれって』頼まれたんだ」

 それを聞いたギンガは、口を半開きにして、しばらく何も話すことが出来なくなった。


「お前、こんな紙切れでたかるとか、頭大丈夫?」

 頭が追いついて来たのか、ギンガは一度咳払いをすると、人差し指を立てて、頭の横でクルクル回した。

「頭の心配してくれるとか、優しいねー」

 彼の精一杯の皮肉はなんの効果も発揮しなかったようで、爪を眺めている彼女は、意地でもこの優雅な時間を貫き通すつもりらしい。


「で、お前は、それを受け入れたのか?」

 この女は手強いとでも思ったのであろうか、女のことは諦めて、ターゲットを隣に移し変えた。

「もちろん断ったよ。そこまでしてまで欲しくないってね」

 女がくっついているせいか、ソーチョーは寒さで固まってしまったかのように、全く身動きを取らなかった。

「断られたけどついてきちゃった。だって今晩泊まるとこないし」

 女は彼の右手に両腕を絡めて、さらに密着度を高める。 

「一晩だけ、ね? お願い?」

 いきなり高くなった女の声に、ギンガは思わず言葉を挟みたくなるが、その気持ちをなんとか堪える。


「......じゃあ、一晩だけなら......」

「ありがとう!」

 女はまた一段と強く彼を抱きしめると、頬に数回キスを落とした。

「おい! ここは日本だぞ!」

 その間も、ソーチョーは瞬き一つしない石造のように固まっていた。

 

 

 ソーチョーが受け入れたのなら仕方ないと、ギンガは一応納得したようだが、すぐにそれを後悔する。

 女はとにかくよく喋る。マシーンのように一人で完結してくれれば良いものを、ところどころで同意を求めるものだから、耳を傾けておかなければならなかった。その間も、常にソーチョーは拘束されているため、ギンガも迂闊にそこを離れることは出来ない。とてつもなく長いアンケート用紙に応えさせられた二人は、肩が凝って仕方ないようだ。


「もしかして、男2人で住んでるの?  怪しいな」

 もう二人がぐったりしていた時に、女はそんなことを言った。


「おい、テメー。調子のんじゃねえぞ」

 そんなことを言うが、疲れ切っているせいか、言葉には覇気が感じられなかった。


「ギンガ君、言葉遣い悪いよー」

「誰がギンガ君だよ」

「その土星のネックレス似合っているからさ! いいあだ名でしょ?」

 

 ギンガは確かに土星の形をしたネックレスを身に着けていたが、「初対面の奴にあだ名なんてつけられてたまるか!」と異論を唱える。すると、二人の言い合いがとうとう始まってしまった。


 その些細な争いが終結した理由は、ソーチョーの意外な言葉であった。

「そのあだ名いいね」

 ギンガは口をパクパクしながら、彼の顔を覗き込んだ。


「でしょでしょ」

 ソーチョーの肩を叩きながら、はしゃぐ女を尻目に、ギンガは真顔でいつもより多く瞬きをする。


「呼び方困ってたから丁度いいじゃん」

 ソーチョーは、何でそんなとぼけたような表情をしているんだ? とでも言いたげな表情を浮かべて、首を傾げていた。


「もしかして、お互いのこと呼んだことないの?」

 そういえばそうだなと、ギンガがしぶしぶ頷いた。

「じゃあ、お兄さんのあだ名も決めるね」

 

 彼女はソーチョーの身体から手を離すと、人差し指と親指で軽く自分の顎に触れ、彼をまじまじと眺めた。その間もギンガは、「何でこいつが考えるんだよ」と不満をブツブツと呟いている。


「ひらめいた! ソーチョーにしよう」

「ソーチョー?」

 

 二人は頭にはてなを浮かべ、同時に言葉を発する。

「総長ね。なんか、ギンガ君がやけに丁寧に扱うからさ、この家のリーダーなのかなって思って」

「じゃあ、リーダーでいいじゃねえか」

 未だに、見知らぬ女にあだ名を決められることが気に入らないらしく、不機嫌そうに言った。


「それじゃ、普通すぎるもん」

「だからって、総長って」

 女とギンガ。二人は睨み合い、再び幼稚園児並みの喧嘩が始まろうとしていた。


「ガンガン」

 突然、ソーチョーは訳の分からない言葉を発した。


「ガン......えっ?」

 ギンガは不思議そうにソーチョーの顔を覗き込む。

「うるさくて君と一緒にいると頭がガンガンするから、あだ名はガンガンにしようかなと思って」

「それ、最高だよ! この女にぴったりだ」

 ギンガは大口を開けて笑い出した。


「ガンガンって……なんか可愛い! 気に入った」

 最初は眉間にしわを寄せていた彼女も、なぜだか、あだ名が気に入ったらしい。

見知らぬ女のせいで、この屋敷の住民は、お互いをあだ名で呼ぶようになったのである。


 

 一晩だけ泊まらせてくれという話をしたこの女。だからこそソーチョーは受け入れたわけである。しかしながら、もう一晩、一週間、仕事が見つかるまでと、次第に期限は伸びていく。


 家に帰れば彼女が居る。そんな生活に慣れてしまった頃、静かに新聞を読むソーチョーに対して、ギンガは暇つぶしのように話しかけた。

「あの女出て行く気無いよなー」

 ギンガは半ば諦め、彼女を既に受け入れているらしい。第一に、ソーチョーが追い出さない時点で、ギンガは受け入れるしかないのだが。


「そうかもな」

 彼は新聞を降ろして、膝の上へと置いた。ギンガはそのしぐさに導かれるように彼の顔に視線を移した。彼は彼女のことを気に入っているのだから、何も心配することは無い。ギンガのその考えが如何に安易だったかが、ソーチョーの表情を見て、思い知らされる。


「筋の通ってない奴は本当に嫌い」

 そう言うと彼はその新聞を、真っ二つに破り捨てた。床に散らばったそれを眺める表情は、狂気に満ち溢れている。

 彼は新聞を踏みつけ、居間から出て行ってしまったのだった。


 ギンガは無言でその新聞を片付け始める。しかし、床を見ることは無く、男が吸い込まれていったドアをじっと見つめていた。

「総長......本当にピッタリなあだ名を、つけてくれたじゃねえか」


 ゴミ屋敷には、不穏な空気が流れ始めていた。 

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