第32話 老いぼれ田沼④

 田沼利一。41歳。結婚もせずに、仕事だけに没頭する人生を送っている。仕事一筋でこの年齢といえば、さぞ良い役職についていることであろうと思うのだが、彼はそう言ったものには一切興味が無い。いつも自分勝手に行動することから、職場では一匹狼扱い。しかし、今ほどでは無かったらしい。事件かも立証されていない案件だけに、朝から晩まで頭をつっこむ彼の姿は、もはや異常な存在として捉えられていた。


 一体どうして、一人の若者の失踪が、彼の心をこんなにも揺さぶったのであろうか。


***


「俺はいつだってのけ者扱いだ」


 行きつけであるスナックで、彼は酔いつぶれていた。ママと呼ばれる女性が後頭部の先で声を掛けているが、それも朦朧とし始める。


「おじさん、一人ぼっちなの?」

「あっ?」


 ママのハスキーとは違う、心地の良い声が彼の耳をくすぐった。それに惹かれて顔を上げてみれば、綺麗な顔のが、隣に座っているではないか。


「なんだ。男か」

「えー? ちょっと、女かと思ったの? 酷くない?」


 再び顔を伏せてしまうが、青年が激しく揺するため、泣く泣く顔を上げる。


「そんな揺すられると吐く」

「こうでもしないと、顔上げてくんないでしょ」


 男は左の肘をカウンターにつけて、そこに頭を乗せた。


「おじさんに何か用ですか? この寂しいおじさんに何か用ですか?」

 男は目の前のグラスに残っていた氷を、二つほど流し込むと、「水、頂戴」と斜め前にいるママに言い放った。それに続き、「俺も」と青年も手を上げる


「いつも一人で寂しそうだなと思って。声掛けてみた」

「お前もここよく来るのか。知らねえ顔だな。というかお前20歳過ぎてんのか?」

「おじさんが、周りを見なさすぎるだけだよ。話しかけるなオーラ出しすぎ。未成年に見られるのは日常茶飯事」

「俺は一人でも楽しいからな。お子様には分からないだろうが」

「また子ども扱いしてー!」


 その青年は頬を分かりやすく膨らまして、弱い力で男の腕を何度か叩いた。その反応が愉快だったのか、男はしばらくからかうことを止めなかった。

 それから二人は、そのスナックで頻繁に話すようになっていた。聞けばその青年。借金があって金がろくに無く、他の客におごってもらうことを頼りにここに来ているらしいのだ。確かにここの客は、気さくで気前がいい者が多い。そうなのだが、それにしたって一円もお金を出さずに通い詰めるとは、相当な勇者であろう。


「俺は上手いように使われてるってことか」


 しかし、青年はいつも酒を一杯しか呑まないため、そんなお金は男にとっては些細なものであった。

 寂しい男が些細な金を払って、青年に相手をしてもらう。惨めなような気もするが、男にとっては、それがフェアな関係なように感じていた。もしかしたら、青年もまた、そうであったのかもしれない。


「どうしてこんなところに来るんだ? ホストクラブのお友達に遊んでもらわないのか」

「あのテリトリーにずっと居たら、流石に疲れるよ。誰にも知られない場所で、干渉されずに過ごしたい時もあるでしょ?」

「でも、俺と関わっちまっているじゃないか」

「おじさんはいいんだよ。だって、おじさんは俺なんてどうでもいいでしょ?」

「まあな......」

「フフフ。正直だなー。でも、そういうところが良いんだよ」


 協調と、人と関わることが苦手な男であるが、青年とは適度な位置関係で関わり続けていた。きっと青年が感じているものと同じような気持ちなのだろう。


「借金は順調に返してるのか」

「うーん......」

「一体どれくらい、残っているんだ」

「......」

「ああ、ごめん。少し踏み込みすぎたか」


 しかしながら、男の頭には、借金という文字がいつまでもこびりついていた。会うたびに痩せていくことも、不安を増徴させる一要因である。


「いや、いいんだ。実は、また増えちゃって......」


  へらへらと笑いながら言う青年に、男は目を丸くしていた。


「一体何してるんだ。ギャンブルでもしてるのか」

「そういうのじゃないんだ。ただ、友達が困ってたからさ」


 青年は目を逸らして、頭を掻いた。


「もしかして、その借金、全部友達に背負わされたのか」

「ハハハ。そんな感じ。でも困ってたからほっとけないし」

「そのせいで、お前が困っているじゃないか」

「やっぱり俺、馬鹿だよね」


 しゅんと音が聞こえてきそうなほどに、青年は身体を小さく縮めてしまった。


「俺、馬鹿で何も取り柄が無いんだ」

「......」

「だけど、借金を肩代わりした時は、凄く喜んでくれた。こんな俺でも、人を喜ばせられると思ったら、嬉しくてつい......」


 それは、恐ろしいほどに悲しい理由であった。男はショックを受けたのか、しばらく何も言葉を発しない。それを見かねたように、青年は静かにその場を立ち去ってしまったのだった。


「焼酎、頂戴」

「あら、まだ呑むのね。珍しい」


 差し出されるそれを取り上げるように掴むと、一瞬にしてコップを空にしてしまい、男はカウンターに突っ伏す。


「もう。そんなに一気に呑んだらそうなるに決まってるでしょ」


 男前な声に耳を傾けながらも、聞こえないふりを貫き通し、一人残される。


「あいつの良い所なんてゴロゴロある。次会った時には、伝えてやらないと」


 寝てはならないと分かっていても、体勢の楽さには抵抗できず、男はそのまま眠りについてしまったのであった。


 男はそれから、毎日のようにその店に通うようになっていた。それは、一日でも早く、青年に会いたかったからである。しかし、男が言うが来ることは無かったのだ。かなりの頻度で現れていたはずの彼が、全く姿を現さなくなったのだ。

 所詮、二人は親密な関係とは言い難い。だから、嫌気がさして会わなくなることなど、あり得る話なのである。いや、男はむしろ、その結論を望んでいた。無事でいてくれたならなんでもいい。生きてさえいるのならば、何でもいいのだと。

 念のために行方不明届けも調べたが、該当するようなものは見当たらなかった。きっと親元や親戚の家などに帰ったのだろうと、軽い気持ちで考えていた。

 青年が居ない店はもはや物足りず、次第に店に行く足も遠のき、彼のことも忘れ欠けていた頃のことだ。


 仕事中にたまたま通りかかった交番で、丁度青年と同い年くらいの男が口論しているではないか。耳をそばだててみると、聞き覚えのある名前が連呼されたため、田沼はその場で固まったように立ち尽くした。


「利佳は勝手に居なくなるような奴じゃないんだ。利佳を探してくれよ」


 かなり体格のいい男が、警官をゆさゆさと揺すって、まるでかつあげでもしようとしているかのような光景である。しかし、その男の目は、今にも泣き出しそうな弱々しいものであった。


「どうして、あの時、良い所を伝えなかったんだろう」


 無意識に出ていた涙を自然のままに流させて、田沼は後悔の念を浮かべる。そして、この時、男は確信したのだ。利佳の身に何かが起こったのだということを。






 



 

 

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