4 彷徨
木から落ちた痛みが意識を混濁させたのか、おれはしばらくぼうっとしていた。病は木からというがごとく、風邪でもひくと大変だということに気がついて、おれはよろよろと立ち上がった。本当に寒いのかそれとも落下による疼痛か、おれは寒気を振り払って歩き始めた。
どこへ向かうべきか。
歩き出す前に考えるべきことだったが、考えなしに歩き始めてしまった以上、歩きながら考えるしかない。
右手から川の音がする。右には行けない。ラオの所在はわからない。街に戻る道もわからない。ラオに連れられてこの地に来てからというもの、方向が覚束ない。町の中にいるのなら方向くらいはなんとなくわかるものだが。それはこの地が真っ暗なのと無関係ではなかろう。暗闇は人を惑わせるというのは本当だ。
ラオとの待ち合わせの場所に戻ろう。おれは思った。
川の音はあの場にいたときから聞こえていたのだ。川の水音に沿って戻れば戻れるに違いない。おれは水音に沿って歩き始めた。
水音は、意識して聞くと、思ったよりも大きく、川の流れはそれなりのものなのかもしれない。名もなき川のくせになまいきである。だがどっちに行けばよいのかわからない身としては好都合だ。
しばらく歩いて、もしかしたらもう行き過ぎてしまったかもしれないと思い出したころ、なんとなく見覚えのあるような気がする景色に出くわした。もちろん暗闇に見覚えもなにもないんだが、外灯や民家の灯りが微かに見えてきたのだ。おれはラオと別れた場所から外灯や民家の灯りが微かに見えていたことを思い出した。そう、目指す場所はこの辺りに違いないぞ。
おれは歩を緩めた。目指していた場所はここだ。そう信じることにした。ラオだって、少しくらいずれていても許してくれるだろう。
茶運び人形どもは、いなかった。もうひとりのやつも、いなかった。それは今おれがいる場所がラオとの待ち合わせの場所ではないことを示すのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。おれはここがラオに指示された場所であると決めた。決めてしまえばこっちのものだ。そう思ったそのとき、微かに声が聞こえてきた。
「うしとらのかたよりもうづ」
「いぬいのかたにまいりでて」
「たつみのかたへいでしあり」
「それではもとにもどるだけ」
「いつになったらつくのやら」
「かたたかへ、たかへたかた」
いやな予感がする。
「おや、そこにみしらぬおひとが」
「ほんとにしらぬか、みしらぬか」
「しらぬしりぬは、もうひとこえ」
「もし、そこのかた」
「もし、そこのかた」
おれは身構えた。
***
茶運び人形どもはぐるんと首を回した。
「あれ、おかしやな」
「おかしやな」
「われらの声が」
「聞こえぬか」
「さあればも少し大きなお声で」
「さすればも少し大きなお声で」
ここで、茶運び人形どもは跳び上がった。跳び上がってちょうどおれの視界の真ん中に入ったときに、
「もし、そこのかた」
「もし、そこのかた」
おれは目をそらせた。関わり合いになってなるものか。だが茶運び人形どもも引き下がらなかった。おれの視線に合わせて位置を変え、おれの視界に入るように動いてから、おれの目を見据えて(今度は跳び上がらなかった)、再度同じことばを発した。
「もし、そこのかた」
「もし、そこのかた」
おれは再度目をそらせた。関わり合いになりたくないというおれの思いが暗黙のうちに伝わることはなさそうだ。あるいは、伝わっていたとしても、おれの思いが聞きとげられることはなさそうだ。
茶運び人形どもは、再々度位置を変え、おれの視界に入るようにしたようだ。ようだ、というのは、おれはこいつらを視界に入れないように努力していたからだ。だが、どんな魔法を使ったのか、茶運び人形は常におれの目の前に居続けた。
「もし、そこのかた」
「もし、そこのかた」
茶運び人形どもが再会してから四度めとなる言葉を発し、おれは四度めの無視を決め込んだ。
「聞こえておるのであろうかな」
「聞こえておるのであろうのう」
「されど返事をいただけぬ」
「さてはて、いかがしようかのう」
「しようがないとはこれのこと」
「言葉の通じぬ人なれば」
「言葉をかけるも詮なきかな」
「では」
「では」
かたかたかた。
「われときてあそべやおやのないすずめ」
「すすむすすまぬゆうすずみ」
あっと思う間もなくおれは茶運び人形どもに袖を掴まれていた。油断したわけではない。充分に気を配っていた。それなのに捕まったということは、おれが茶運び人形どもから逃げるという選択肢は初めからなかったということなのか。
「ほれ、参りますぞ」
「ゆきますぞ」
引っ張られるままに引きずられて行くおれ。今まであがいていたのもしょせん時間の浪費だったのだろう。
「はーいはいはーい」
「はーいはいはーい」
茶運び人形どもは妙な節をつけておれを引きずっていった。おれはたまらず声をあげた。
「まてまてまて、自分で歩く」
茶運び人形どもは足を止めた。
「さてはて、いま、人の声がしたぞ」
「さてはて、いま、人の声がした」
「うえのほうから声がした」
「したのほうからはしなかった」
「上には誰かおるのかな」
「下には誰もおらぬかな」
お前らが引っ張ってる相手がおるのじゃよ。おれは内心で毒づいた。
***
「われらの旅もそろそろ終わりの刻じゃ」
「この御仁を連れてくれば」
「長きにわたる旅も終焉」
「宴もたけなわにござろうが」
「はたまた御仁の宴は続こうが」
「われらの旅は終わりにござる」
「じゃが」
「じゃが」
「家に帰るまでが宴則」
「宴の規則にございましょう」
「そこな御仁」
「そこな御仁」
「御仁にとってはまだ終わっていないのかもしれぬ」
「御仁にとってはまだ始まっていないのかもしれぬ」
「じゃが、わしらにとってはこれにて」
「終幕~」
「終幕~」
声を合わせて最後のせりふを言うと同時に、茶運び人形どもはおれを洞穴に向って蹴りこんだ。
蹴りこんだ!
おれは不意を付かれて洞穴に蹴りこまれた!
なんてことを!なんてことを!
あの小さい体でどうやったのかわからないが、蹴られた!
勢いがついて前のめりになっていたので天井に頭をぶつけなかったのは運が良かったというしかないだろう。
おれは前のめりに倒れて、無様に転がった。
すぐさま横転して立ち上がろうと考えた。
右回りに横転した。
一回転と半分ほど回って、止まった。これ以上回ると目が回る。
おれの目の前に革靴を履いた二つの足とそれにつながる二本の脚があった。
おれは立ち上がるのを少し遅らせて首を上げ、脚の主を見た。いや、見ようとした。
角度が悪く、顔は見えなかった。この角度から人を見たことはないので確実なことは言えないが、脚の長さからすると、かなり背の高い男のようだった。
二本の脚のうち、おれの額のあたりに位置しているほうの脚である右脚が彼から見て後ろつまりおれから遠ざかるほうに移動した。こいつが一歩退こうとしているのかとも思ったが体重は左足に残したままだ。
唐突におれは理解した。こいつ、あろうことか、右脚で思い切りおれを蹴飛ばそうとしていやがる。
飛び起きた。
とたんに頭頂部に衝撃を受けた。
天井が低いのを忘れていた。
おれはその場にうずくまった。そのすぐ横を、右脚が通り過ぎていった。危ないところであった。だが、もしかしたら、蹴られていたほうがダメージが少なかったかもしれぬ。それくらい頭頂部の痛みは肉体的精神的に被害を被るものであった。
「立て」
頭を抱えてしゃがみこみうーうーうなっているおれに頭上から命令口調の声が降りかかった。おれは立たなかった。ひとつには、おれは命令される立場にないはずだからであり、もうひとつは、考えなしに立ち上がるとまた頭をぶつけるからだ。
「聞こえなかったのか。立て」
おれはゆっくりと顔を上げて声の主を見上げた。
異形の物が屹立しておった。
***
おれはおれを見下ろしているものをよく見ようと目を凝らした。
異形のものという第一印象であったが、よく見ると異形なところは何もない。背の高い男だということは分った。
背の高い男だと?
おれより高いのか?
おれはこの疑問の答えを得るためにそろそろと立ち上がりかけた。慎重に、慎重にだ。そうしないとまた頭の天辺頂をしこたまぶつける破目になる。さきほどぶつけた天辺頂、再度ぶつければ目も眩む痛さに違いない。失神してしまうかもしれない。さらにもしかしたら、失禁してしまうかもしれない。それだけは避けねばと叫ばねば。ねば、ねば。
おれは足腰を屈めた状態でおれに立てと命じたやつに相対した。
おれより背が高かった。
おれは安心して勢いよく足腰を伸ばした。とたんに天辺頂がぶつかった。
「それだけは避けねば!」
おれは叫んだ。おかげで失禁は免れた。大きなものを失う代償に目の前の背の高い男の怪訝そうな眼差しを得た。
「立てとは言ったが頭をぶつけろとは言ってない」
目の前にいるやつが口を開いた。声が上から降ってきた。そいつは体をクエスチョンマークのように丸めていた。
いつものおれなら言わせておかないところだが、今のおれは頭の天辺頂の痛みと格闘している最中で、反論の余裕がなかった。
「あんたを待ってたんだ。来い」
おれは痛みと格闘中だったがその言葉に従った。
反論する元気がなかったのだ。
おれたちは二人して体をクエスチョンマークのように丸めながら進んだ。
少し進むと、開けたところに出て、天井はおれの頭より上になった。おれとおれを先導したやつは背を伸ばした。やはりかがんでいるより背を伸ばしたほうが気持ちいい。そこにはおれを先導したやつと同じくらいの背のやつが待っていた。つまりおれも含め背が高いやつが三人並んだことになる。
「オウ」
そこで待っていたやつは言葉を発した。
「キジマサンデハナイヒト」
おれは驚いてそいつの顔を見た。記憶は曖昧だが、おれに拳銃を突きつけたやつに似てる気がした。
「エリヤハミツカタカ」
間違いないだろう。おれに拳銃を突きつけたやつに違いない。こんなところで出会うとは。ところで、こんなところとはどんなところだ?
「残念ながら、見つけていない」
おれは相手がしゃべり出す前に急いで続けた。こいつに先にしゃべらせるとなんだか悪いことが起こる予感がするのだ。
「いくつか、聞きたいことがある。ここはどこだ。あの人形どもはお前らの仲間か。お前がおれを呼んだのか。なんの理由があってのことだ。お前には見覚えがあるが、駅で遊ばれたのはなぜだ」
おれは一息で言い切って相手の顔を見つめた。
***
その異国の大男は大きな眼をぱちくりさせた。
「ワタシ、ニホンゴ、ヨクワカリマセーン」
うそつけ。ばっちり喋ってたじゃないか。
「わからんはずがないだろう。答えろ」
「モチット、ユクリシャベル、クジュー?」
クジュー?苦渋?九重?久住?九重と久住は同じだ。
ああ、CouldYouか。
おれはユクリシャベることにして言い直した。
「おれは、ちっちゃな、二体の、人形に、連れられて、ここに、来た。おれを、呼んだのは、お前か?」
がきんちょに喋ってるがごとしだ。念のため英語でもう一度質問しておこう。Couldyouと言ったからにはイングリッシュスピーカーに違いない。
「トゥ・リルル・ダルズ・フォスト・ミ・ビィア」
「ワタシ、イターリアン、ワカラナイ。ニホンゴデ、シャベル」
イタリア語じゃないんだが、なあ。
「お前が、おれを、呼んだのか」
「ソカモシレナイ、ソジャナイカモシレナイ」
「どういう、ことだ」
「アナタ、ヨブ、ワタシ、チガウ。ワタシ、ヨブ、アナタ、ソウ」
なにがなんやら。こいつ、もっとまともな文法で喋っていたぞ?
「ワタシ、サガス、キジマサン。アナタ、キジマサン、デスカ」
「おれはキジマサンではないが、お前がキジマサンを探していたことは知っている」
「アナタガ、キジマサン、ナノカ」
「違うと言っている」
「デハ、キジマサンヲ、シッテルノカ」
「しらん。キジマサンとは何者だ」
「ソレハエイエンノナゾ」
「では知るわけがないだろう」
「キジマサン、シラナイ、アナタ、ニワ、コレ、ギフト」
おれは身構えた。いやな記憶が蘇ったからだ。しかし目の前にいる異邦の大男が内ポケットから出したものは拳銃ではなく、葉書大の紙だった。
「マヨネルコヒツジワコフクデアル、タダシミチヲミケルコトガデキルカラデアル」
異邦の大男が怪しげな呪文を唱えておれに紙を渡した。
「ソコノゲイトノガードニコレワタス、アナタナカハイル、アナタノサガシテルモノ、キトミツカル」
あやしい。
「トラストミ」
信じられるか!
「そんな言葉を臆面なく吐き出せるのはハトだけだ」
「ハトハ、パンノミミニ、イキルニアラズ」
そりゃそうだ。パンの耳に生きてるやつはいない。だが、ハト・・・なら・・・。パンの耳で生きていける・・・かも。
「サア、ソコノゲイト、ククルガイイ。ナンジノ、リンジヲ、アニョハセヨ」
おれはおれらしくないことだが、(混乱していたのだろう)、素直にその言葉に従ってソコノゲイトをくぐった。
***
HD-057
門の向こうに仁王が立っていた。
そう思った。
もちろん、仁王なんかじゃないのだろうが、仁王を連想させる禿頭に、仁王を連想させる大きな眼、そして、仁王を連想させる大口で、右の掌を少し曲げて前に出したポーズを取っており、それがより一層仁王を連想させた。仁王を見たことはないが、仁王像は見たことがある。仁王と仁王像が似ているのかどうか知らないが、一般的には混同しても間違いではあるまい。
ただ、一点、大きく仁王つまり仁王像と異なる点があって、この仁王を連想させる御仁は小さかった。どれくらい小さいかというと。
なんか、ここ一時間で出会ったやつらはみな大きいか小さいかどちらかだな。
おれの臍のあたりにちび仁王の右の掌があって、同じくらいの高さにちび仁王の肩がある、それくらいの大きさだ。
「待たれい」
ちび仁王はその体のサイズからは想像しにくい低い威厳の籠った声でおれを渙止した。前に突き出した右手はおれを止めるためらしい。
「ここから先に征くには、通行料が必要である」
「そうか。いくらだ」
おれは払う気はなかったが聞いてみた。
「支払い方法は二つだ。一括か、分割だ」
「そうか。で、いくらだ」
「一括で支払うと分割手数料が免除される」
「わかった。それで、いくらなんだ」
「分割にした場合は、二回払いだ」
おれは苛立った。
「いくらなんだ」
ちび仁王は左の掌を前に出し、同時に右手右足を引きつつ、やや腰を落として半身の構えを取った。攻撃的な構えのように見えたので、おれはいつでも後ろに飛び退けるよう準備した。
「通行料はお主の命だ」
答えと同時に右の掌底が飛んできた。おれは後ろに飛び退いた。ちび仁王の攻撃は腕の短さが災いして、おれにとっては幸いして、かすりもしなかった。
「命の分割払いとはなんだ」
余裕があったので聞いてみた。
「特別な事情がある場合に限り減免される。分割は減免のときだけだ。お主には関係あるまい」
ひどい言われようだ。
「特別な事情とはなんだ」
「死に値しないと認められたるもの」
「誰が認めるんだ」
「天が認めるのだ」
さて、遊びすぎた。切り札を出すとしよう。
「あんたが、この門の守衛か」
「そうだ」
「こんなものを預かっているのだが」
おれはさきほど渡された紙を出した。
「あんたに渡せと言われた」
渡そうとして、面にかいてある文字が目に入った。
「ハタシジョー」
そう書いてあった。まじかよ。
ちび仁王がおれから紙を渡されるのを待っているのを利用して、おれは見られないよう注意しながらひっくり返して他になにが書いてあるのかを把握しようとした。
「ネノコク三ツ、モンゼンニテマツ」
いま、何時だ。子の刻三つはちょうど今くらいか。門前というのはここか。だいたい誰が誰に出した果し状だ。宛名も署名もない。なぜおれがこれを持っているのだ。まさかとは思うが、おれが果たすのか。
***
切り札だと思っていたものは切られ札だった。あのガイジンめ。なんてことをしやがる。おれは罠にかけられたことに気づいてわなわなと震えたわな。
ちび仁王が飛びかかっておれから紙を奪い取った。油断した。もっと高く掲げておけば背が届かなかっただろう、油断としか言い様がない。
ちび仁王が紙を見ている。今の隙に逃げるという手もある。攻撃する手もある。おれは昔から仮面ライダーが変身し終わる前に怪人が攻撃しないのが不思議だったのだ。自然界の節足動物は脱皮の際に慎重に場所を選ぶ。選択を誤ると死に直結する。そういうことだ。だから蛇の抜け殻を財布に入れておくのだ。あれ?関係ないか?
おれは声なくちび仁王に飛びかかろうとした。しかし、ちび仁王はすでに読み終っておれの方を向いていた。
「ここに書いてあることからすると、お主を連れていかねばならんようだな」
どこへだ。地獄の三丁目か。
「さて、どうしたものか」
ちび仁王は何かを悩んでいた。
「お主は、どう思う?」
「何をだ」
「お主を連れていかねばならぬ」
「どこへだ」
「謁見の間」
「誰と謁見するんだ」
「誰とって」ちび仁王は呆れた表情を見せた。「謁見の間で謁見するのは一人だけだろう」
「誰なんだ」
「ご存知ござらんのか」
「ご存知ござらん、あ、違う、存じ奉らん」
勢いで誤った敬語を使ったおれは言い直した。
「ならば教えて進ぜよう、この地の支配者だ」
「この地の支配人がおれになんの用だ」
「お主が謁見を求めておるのであろう」
「おれはその紙を渡せとことづかっただけだ」
事実ではあろうが、ニュアンスは異なる言葉でおれは説明した。
「そうであっても謁見の間にはゆかねばならぬのだ」
「なぜだ」
「そう決まっておる」
「囚われていくのか」
「客人としてだ。いまのところは」
おれはしばし考えた。ここのところ、おれはなにひとつ自由意思で動いていない。すべての行動が、何者かに強制されたものだ。いまこの時期はそういう星の下にあるのかもしれぬ。おれは運命論者だったことは一度もないが、やつを追い始めてからというもの、運命論者になってもおかしくないようなことばかりだ。その続きとなればいまこのシチュエーションも従容と受け入れることも難くないような気がする。というよりは、抗っても無駄なような気がものすごく強く感じられる。どちらにせよ連れていかれるのなら、客人として連れていかれるほうがよいだろう。
「わかった。行こうか」
おれは首肯した。
***
おれはちび仁王についていった。ちび仁王はなかなか話し好きなやつで、おれを詮索しようといろいろな質問を投げかけた。おれはすべての質問をはぐらかした。ちび仁王のおつむのできはそれほどよくないらしく、はぐらかされていることに気づいていなかった。おれはちび仁王をはぐらさかれいようたと呼ぶことにしようかどうか迷うほどであった。漢字では羽倉坂、怜蓉太と書くことに決めたが、どちらにせよ本当の名前ではないのだから、羽倉坂なんて長ったらしい名前で呼ぶよりちび仁王と呼んでおけばよいと思い直した。
「ここに」ちび仁王は立派な門構えの建物に着いて、こう言った。「ここにて待たれよ」
「こことは建物の中か外か」
「中に待合所がござる」
「この建物が謁見の間なのか」
「この御殿の中に待合所がござる」
「待合所で何をすればいいんだ」
「待合室では待っておるのだ」
「どれくらいだ」
「知らぬ。中のことは中の者に聞くがよい」
「お茶くらいは出るのか」
「知らぬ。中のことは中の者に聞くがよい」
「なぜ待たされるんだ」
「すぐに会えるものではないのだ」
「おれが会いたいわけじゃない」
「お主が会いたいと言っておるのだぞ」
「言った憶えはない」
「お主が会いたいと言ったのだ」
並行線だ。おれは諦めた。
「中のやつに取り付いでくれるんだろうな?」
「そうだな、そこまではやってやるとしよう。待っておれ」
ちび仁王は建物の中に入った。なかなか出てこなかった。しびれを切らそうかどうしようか迷いに迷ったころにやっと出てきた。
「来られよ」
おれは諾として従った。
ちび仁王は一人だった。てっきり誰かといると思っていたおれは拍子抜けした。
「困ったことになった」
「そうか。だがおれは困らない」
「お主も困るべきであろう」
「なぜだ。おれが困らなければならない理由はなにもない」
「お主のせいでわしが困っておるのだ。お主も困るべきではござらんか」
「困ってくれと頼んだ覚えはない」
「頼まれても理由がなければ困らぬ」
「おれもそう言っている。おれが困る理由がないと」
「だがわしが困っているのはお主のせいなのだ。なぜお主は困っておらぬのだ」
「言ってるだろう、おれは困らないと」
「困るつもりがないと申すか」
「困る理由がないと言っているんだ」
「お主に理由がなくとも、わしが困っているのはお主のせいなのじゃ、お主も困る理由があるではないか」
「なぜそれが理由になるんだ。おれにわけもわからず困れと言っているのか」
「わけは話し申した」
「おれが困るほどの理由ではないぞ」
***
そのときがらがらと目の前の引戸が開いて、またもちっちゃいやつが出てきた。ちび仁王よりさらに小さく、あごひげを生やしていた。
「お困りですかな、ご両人」
「そうじゃ。お困りじゃ」
ちび仁王が即座に反応した。
「して、なにがお困りなのですかな」
「わしが困っておるというのに、こやつが困らんのじゃ」
「それはよくない」
あごひげは断定した。おれのほうを向いた。
「そなた、困るべきであろう」
「そうは思わないが」
おれは答えた。
「なぜ、困らんのだ」
「なぜ、困らなければならないんだ」
あごひげは目をくるくると回した。
「まずは答えよ。問うのはそのあとだ」
「困る理由がないからだ。なぜ、困らなければならないんだ」
おれは答えてから問うた。あごひげはまた目をくるくると回した。
そして、ちび仁王のほうを向いて、言った。
「なぜこいつが困らねばならぬのだ」
「こやつのせいでわしが困っているというのじゃぞ。こやつが困らん道理があるまい」
「それもそうだ」
おいおい、そんな道理はしらん。
あごひげはまたおれのほうを向いた。
「このお方は、困っておる。それなのにそなたは困っておらぬ。このお方が困っておるのはそなたに由あってのことと聞く。そなた、己の責務において、困るべきではないのか」
「そうは思わん。困る理由がない。こいつが困っているのはこいつの裁量だ。おれに係累が及ぶべきではない」
おれはうんざりし出していた。
「双方、歩み寄る気はないようだな」
歩み寄るも何も。
「こういうときに有効な方法を知っているぞ」
おれにはまったく見当たらないが。
「花占いだ」
あごひげは一輪の菊の花を取り出した。菊の花だと?
「背の高いほうが、困る、困らない、困る、困らない」
あごひげは菊の花から一枚ずつ花弁を引き抜き始めた。もっと花弁の少ない花でやれ。いったいどれだけ時間がかかるんだ。おれのおすすめはチューリップか鈴蘭だ。実際に花弁を引き抜かなくても、数えるだけで事足りるぞ。
「困る、困らない、困る、困らない、困る、困らない、困る、困らない」
おれはあごひげを観察するのをやめ、ちび仁王に話しかけた。
「なあ。あんた、どうして困っているんだ」
「知れたことよ」
おれは次の言葉を待ったが、ちび仁王から次の言葉は出てこなかった。めんどくさいなあ。
「おれには知れてない。あんたが困っている理由を教えてくれ」
「困らない、困る、困らない、困る、困らない」
***
「わしが困っている理由はお主が困っていないことじゃ」
「それはおかしいだろう。おれに困れと言ったときにあんたは困っていたじゃないか」
「困る、困らない、困る、困らない、困る、困らない」
「そうなんだが、いまわしが困っている理由はお主が困っていないことじゃ」
「だからそれはおかしい。困らなければならない理由を教えてくれ」
「困る、困らない、困る、困らない、困る、困らない」
「もうひとつ困ったことがある。わしがどうして困っておったのか、忘れてしまったことじゃ」
「なんだって?それじゃあんた、文字通り理由なくおれを困らせようとしてるのか」
「一人で困っておるのは悲しいからのう」
「困る、困らない、困る、困らない、困る、あっしまった、まいいか、困る、困らない」
「そんな理由で」
「旅は道連れというではないか」
「旅じゃないし、道連れにされたくもない」
「とにかくわしが困っている理由はわしが困っておった理由がわからぬからじゃ。その理由にお主も関係しておったのだから、お主も困らねばならんのじゃ」
「困る、いやまてよ、ええと、これでよし、困る、困らない、困る、困らない」
「話にならんな」
「だが、間違ってはおるまい」
間違っておるよ。
「困る、困らない、困る、あと少しじゃ、ぎひゃふひゃ、困る、困らない」
「おれは、あんたが、困り始めた理由を言うまでは困らない。断じて、だ」
ちょっと強い口調で言ってみた。
「わしは、お主が、困らない限り、困り始めた理由を思い出すことはない。断じて、じゃ」
こいつ。己の無能を威張ってやがる。なんなんだ。
「困る、困らない、困る!」
あごひげが大声をあげた。妙に嬉しそうだ。
「おい、そなた、困れ」
あごひげはおれに命じた。冗談じゃない。
「何度も言わせるな。おれは困らない」
「いいから、困れ」
「困らない」
「悪いことは言わん。困れ」
「却下だ」
「困っておけばいいことがあるぞよ」
あるわけがないだろう。おれは黙っていた。
「理由なぞなんでもよいのじゃ。ただ困ればよい」
おれは黙っていた。
「困らんと、とんでもないことになる」
ならねえよ。
「現にお主、実は困っておるのではないか」
困ってない。
「理不尽に困れ困れと言われて困っておるのであろう」
意地でも困らんぞ。
「ほうら、困ってきた、困ってきた」
うるさいぞこいつ。
「困れ、困れ、こまーる、困ゎる」
うるさいっ、うるさいぞこいつ。
「死刑!」
声に合わせて、あごひげがこまわりのポーズをとった。
***
不覚にも、笑ってしまった。あまりに似ていたのだ。ちっちゃいやつはこういうとき得だ。
「おう、一発で成功じゃ」
ちくしょう。
「困ネチも用意しておったんじゃが、困わりを選んで正解じゃった」
ち、ちくしょう。
「さて、そなたは笑うべきではない状況で笑うてしもうた。これは、困った状況じゃ」
ち、ち、ちくしょう。めちゃくちゃくやしい。
「そなたは困ったのじゃ!」
あごひげは高らかに勝鬨をあげた。
「心中お察し申しますぞ」
ちび仁王がにぱあと笑って言った。ものすごく嬉しそうだ。笑う仁王とは珍しいものだが、人が困っているのを見て嬉しがるとはいやなやつだ。ちび仁王は息をついて、続けた。
「察するに、お主、困っておろう。いや、言わぬでよい。ようくわかっており申す。言うだけ野暮というものじゃ。しからばわしもようやくやっと、困っておった理由が思い出せるというものじゃ。ところが、じゃ。困っておった理由を思い出したれば、困っておった原因も雲散霧消、融通無碍と消えてしもうた。困らんでもようなったのじゃ。なんのことかわからんと、そう言うのじゃな。まあ、そう急かんでもよかろう。急いては事をし損じる、今夜は熱いなめこ汁、天知る地知る人が知る、天網恢々疎にして漏らさずというではないか。疎にして漏らすは破れたざるじゃ。見ざる言わざる聞かざると言うわけにはいかんのじゃ。どんなに綺麗なおべべを買うても着飾るわけにはいかんのじゃよ」
ちび仁王は一息で言い切っておれをにまあとした目で見た。あれ?終わりか?何も説明していないじゃないか。
「で、困っていた理由はなんだ」
おれは聞いた。
「その言葉が出るということは、お主、困っておったことを認めるのじゃな」
認めたくない。だが、もう、どっちでもいい。
「ああ、認めるよ。おれは困っていたことにしていい」
「正直なのはよいことじゃ。こんな話を知っておるか。むかし正直で通っておるじじいがおった。ポチと言う名の犬を連れて裏の畑を掘ったのじゃ。そしたらそこから大判小判がざくざくと出てきたのじゃ!」
「そこは隣のじじいの畑だったんだろ。妬んだ隣のじじいはポチを殺して、その灰を殿さまにぶっかけて、打ち首になったんだろう。首は千里丘を飛び回ったそうだな。悪事千里を走るの語源だ。これを抑えるためには太陽の塔の完成を待たねばならなかった。爆発した芸術は諸悪の根源をも超絶するものなんだ」
おれも悪ノリしてみた。
「うむ、そこまでわかっておるとは。お主に教えることは何もないな」
「いや、あんたが困っていた理由をまだ教えてもらっていない」
「そこまでわかっておるのなら、聞かんでもよかろう」
「関係ないじゃないか」
「関係おおありじゃ。ところでオオアリクイはオオアリを食うからオオアリクイなのか、アリクイのでかいタイプだからオオアリクイなのか、どっちだと思う」
「そんなものどっちでもいいだろう」
「そうじゃな。わしが困っていた理由もそんな具合じゃ」
「オオアリクイで困っていたとでもいうのか」
***
「オオアリクイなんかじゃ困らんよ。だが、わしが困っていてお主は困っておらんかった。お主が困ったらわしは困らんでもようなった」
「何を言っているんだ」
「さながらオオ、アリクイなのかオオアリ、クイなのかのごとし、じゃ」
「何か違いがあるのか」
「ある。オオアリ、クイなら悔いを残す」
「なら、オオ、アリクイにすればよいだろう」
「そうじゃろう、そうじゃろうとも。お主もそう言ってくれると思うとったよ」
「なにが言いたいんだ」
「つまりな。お主が困ってくれたので、わしが困らんでもようなったのじゃ」
「だが、あんたが困っていた理由を聞いてない」
「わからんやつじゃな。わしが困っていた理由はお主が困っておらんかったからじゃ」
「なんだと」
「ここに、困る、というひとつの事象がある。この事象は困ったことに、空気感染する。人から人へと飛び移るのじゃ。困りごとはなんの前触れもなくとつぜん飛来し、人を困らせる。前触れがないから対策のたてようもない。ただ、己の困るを知るのみ。己の困るを知る、これが困るということじゃ。人が困っておっても理由なぞわからぬ。あるいは、自分にすらわかっておらぬのかもしれぬ。困るというのはただの感情にすぎん」
「お困りのようですなあ」
あごひげがにまにまと笑いをこらえつつ口を出した。しばらく発言していなかったから存在すら忘れかけていた。こいつはもう、にまにま野郎と呼ぶことにしよう。
「こいつが正しい在り方じゃ。人の困るを見て喜ぶ。あまり表に出すと反感を買うがね」
「おれは困るべきではなかったと?」
「そうは言っておらんよ。人の困るを見て困る、立派な行為じゃの。じゃが、わしら二人はお主ほど立派ではなかったと、それだけのことじゃ」
「誉めても何も出ないぞ」
「別に誉めておるわけじゃないし、誉めるべきことでもない。ただ、お主のありようはこいつとは違うと言うておるだけじゃ」
「そんなものは言われなくてもわかっている。だがあんた、さっきと発言が食い違うぞ」
「なにがじゃ」
「いろいろだ。例えば」
おれは今までの話を頭の中で整理した。おれはちび仁王にいいようにはぐらかされていることにやっと気づいた。羽倉坂怜蓉太にはぐらかされようとは。
「おれに困れと言った理由を思い出してみろ」
「お主が困っておらぬから、困れと言った」
「違うだろう。あんたが困っているのにおれが困っていないという理由で、おれを困らそうとしたな」
「そりゃそうじゃ。あんたが困ればわしは困らんでもよい」
「かなり身勝手じゃないのか」
「はて」
ちび仁王はとぼけたふりをしてみせた。
「わしが身勝手かどうかはこいつが知っておるぞ。おい、わしは身勝手か?どうじゃ?」
にまにま野郎はちび仁王を見た。
***
「もちろん」
にまにま野郎はにまにましながら答えた。
「この方は、身勝手なんかじゃござんせん」
「そうじゃろうとも。わしは身勝手なんかじゃなかろう」
「あんたらの言うことなんか信じられるか」
「では、どうすればよいというのじゃ」
「おれの気が晴れない」
「お主の気が晴れているのかどうかは、わしらには関係ない」
「そういうことを平気で言い切る、それが気に食わないと言っている」
「そう言われてもなあ」
ちび仁王はあごひげことにまにま野郎を見た。
「おお、そうか、お主、気晴らしが必要なのじゃな」
「おれに必要なのは気晴らしじゃない。ただ、あんたが」指をちび仁王に突きつけた。「あんたが困っていた理由を教えろと言っているんだ」
「教えたではないか」
「そんなタワゴトはいい。あんたの言葉には嘘がある。おれが断言できてしまうほど明白な嘘だ」
「嘘は言っておらぬが」
「そう信じるのはあんただけだ。嘘で塗り固めた中にたまたま本当のことが混じっていたからと言って、嘘をついていないことにはならない」
「嘘は言っておらん」
「あんたが困っていたとき、おれを困らせようとしたな」
「もちろん」
「そのとき困っていた理由はなんだ」
「お主が困らぬことじゃ」
「それがすでに嘘だ」
「なぜじゃな」
「おれを困らせようとする前にあんたは困っていたのではないか」
「そういうこともあったかもしれん」
「あんた、初めにこう言った。困ったことになった、と」
「そうじゃったかな」
「そのときの困っていた理由を教えろ」
「そりゃ、あれじゃろう」
「どれだ」
「今となってはどうでもいいことじゃろう」
「ことの発端をどうでもいいとぬかすか」
「そう、どうでもいいことじゃ。なぜなら」
ちび仁王は空を見上げた。月が出ていた。
「月下に門があるかぎり、推すか敲くか引っこ抜くか、いつまでたっても結論は出ぬものなのじゃ」
「月と門にどういう関係があるというのだ」
「月は、無慈悲じゃからの」
「なんだって」
「もう、済んだことじゃ」
「なにがだ」
「お主は謁見の間に行くのじゃろう?」
そうだった。
「謁見の間に行くには手続きが必要なのじゃ」
そう言ってたな。
「今からの手続きはこいつが担当する」
ちび仁王はにまにま野郎を指差した。
「では、任せた」
「お任せくだされ」
にまにま野郎はにまにまして返答した。
「さて、行きますぞ」
にまにま野郎はおれを向いて言った。
***
にまにま野郎がにまにまするのはこの世の常なのかもしれないが、目の前にいるやつがおれに向かって意味もなくにまにましているのを眺めているというのはなかなかに気味の悪いもので、それがあごひげを蓄えた妙に小さなおっさんだと殊更だ。謁見の間に行く必要はおれにはないので、このままにまにま野郎を放っておいてどこかへ行ってしまうという選択肢も視野に捉えつつ次の行動を選ばなければならない。選ばなければならないということはないのかもしれないが、行動に選択肢がないという状況は囚人と同じで、おれは鳥のように自由でありたいと常日頃考えているのだから、ここにあってもやはり翼の手入れを怠ってはならない。鳥は飛べるから鳥なのであって、飛べない鳥というのもいるが、飛べない鳥は鳥ではない。後期の恐竜は羽毛を持ち嘴があり前脚が退化して今の飛べない鳥に近かったらしく、恐竜は絶滅したのではなくドードーやミューが恐竜であると言う説もあり、その伝で言えば進化の過程の産物としては飛べない鳥も歴とした鳥であり、それどころか飛べない鳥こそが正統派の鳥であるともいう話は知ってはいるが、やはり翼を持ち空を飛ぶ生き物こそが鳥なのだ。聖書にもそう書いてあることだし、おれはクリスチャンではないがこの部分の言説は信じる。
にまにま野郎はしばらくおれの顔を眺めていたが、ゆっくりと踵を返し、歩き始めた。おれが黙ってついて来ることを確信しているかのような仕草であった。
おれはにまにま野郎の後をついて建屋の中庭を歩いた。にまにま野郎は小さいのでおれより歩幅が小さく、追い抜かないようについて行くのに少し手間取った。
にまにま野郎は本人は普通に歩いているのだろうがおれから見るとかなり遅い歩き方で歩き、ときどき立ち止まり、空を眺め、庭に植わった樹を見つめ、視線を足元に落とし、あごひげを引っ張り、おれの方を振り返り、ついて来いという身振りをし、おれを先導した。建屋の造りに従い道筋は右に左に折れ、おれには遠回りしているように感じられた。その間にまにま野郎は身振りでついて来いと知らせはするものの、一言も言葉を発せずにまにましているだけで、このたびは幣もとりあへず手向山もみぢの錦神のにまにま、まさかこの道は天神さまへゆく道ではあるまいが、天神つまり道真公の歌が想起されてしまうのは単なる駄洒落であればよいのだが、行きはよいよい帰りは怖い、怖いながらも通りやんせ、通ってやるとも。
なぜだか見覚えのあるところのような風景が続き、もしやにまにま野郎は同じところをぐるぐると巡っているのではないかという思いが確信に変わった。先導してくれているのではないのか。船頭多くして船山にのぼる、という諺が脳裡をよぎり、おれはついににまにま野郎に声をかけた。
***
「さっきから同じところを何回も廻っているように思うのだが、この道で合っているのか?」
にまにま野郎はにまにまをさらに強化させた。
「その言葉を待っておった」
待っておったとはどういうことだろうか。
「このままそなたを案内しても待合所で待たせるだけでな、それじゃつまらぬだろうと趣向を凝らしたのだ」
おれは呆気にとられた。
「そういうわけでな、中庭を三周半ほど廻ったのだ。そなたが指摘せなんだらまだまだ廻れたのだ」
おれは言葉を探した。うまい言葉は見つからなかった。
「われらの間では有名な方法でな、名前がついておる。松の木ばかりが松じゃないあなた待つのも幕の内ちょんちょちょん、という。拍子木の音も作戦名のうちでな、これがないと幕の内の調子が出ぬのよ」
おれが探していた言葉は見つからなかったが黙っているわけにはいかない。
「なぜ歩き回らなければならなかったのだ」
「おやおや」にまにま野郎は一層癇に障るにまにまを見せた。「お気に召しませぬか」
「ああ、召さないね」
「ならば待合所で退屈に体屈していたほうがよろしいと」
「ああ、よろしいね」
「さような所望であれば待合にて待ち合いましょうぞ」
にまにま野郎はすたすたと歩き出し、おれはわざとゆっくりとその後を追った。
待合所に通されるとにまにま野郎は、これにてごめんと一言だけ残して去っていった。
待合所には先客がいた。赤を基調とした、それでいて落ち着いた色合いの着物を着、髪を島田に結っている女だ。女は少し体をずらしておれのほうを見た。割と若い、いや、かなり若い、年の頃は十八前後、目鼻立ちの整った、丸顔の娘だ。
娘はおれに向って会釈した。思いつめたような表情をしていたように見えた。娘は元に向き直った。おれは娘の横に歩を進めた。
「お隣、よろしいかな」
返事を聞く前におれは娘に向き合うように座った。娘はおれから視線を反らせた。
「どれくらいお待ちですか」
おれは穏やかに尋ねた。娘は驚いたようにおれを一瞥し、だが体のむきは変えずに、嫋やかに応えた。
「二日ほど」
「二日も」
おれは絶句した。待たされると聞いて覚悟はしていたが、単位が違う。
「ここで寝泊りを?」
「いえ、時間が来たら追い出されます」
「あなたの他にはどれくらいの人が?」
「ここに来たのは二日のあいだわたくしだけでございます。あなたを除くと」
おれは嘆息した。二日を過ごすほど快適な場所ではなさそうだ。その前に、おれはここで二日を過ごすほどの暇はない。
「あなたは、どういう用件でここにいるのか」
おれは聞いてみた。
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