3 逍遥

 ラオはおれを先導して歩いた。かなり歩いたところで、振り向いた。

「ここで待っていてくれ。話をつけてくる」

「話はついていなかったのか」

「何も話していない。話してくる」

 そう言ってラオは微笑んだ。

「ここで、待っていてくれ」

 ここで、を強調して、もう一度言った。そして、ゆっくりと歩いていった。

 おれは所在なげにあたりを見渡した。

 日はとうに暮れていて、外灯や民家の灯りがあるものの、暗闇といってよい暗さ。このあたりに民家は密集してはいないようで、地理的には駅の近くに違いないはずなのだが、列車の走る音も乗客の喧騒も聞こえない。静まり返った、といってもよいくらいに静謐な闇の中に、ときどき聞こえていることに気づく水音。川か池か泉か。それに類するものが近くにあるらしい。いや、近くかどうかはわからない。遠くに聞こえるようでもある。せせらぎは遠くにありて近くのごとし。近くにありて遠きがごとし。水は音を吸収するので近くても遠くに聞こえ、水音は低周波なので遠くまで到達するのだ。まあ、相反する内容なのでどちらかはうそである。近くても遠くても、どちらでもいいや。

 静かだ、と思っていたが、人の声が聞こえていることに気がついた。

「・・・・からその・・おかし・・・てい」

「・・もおかし・・かもし」

「・・・・かみのか・・いしのかわらざるを、ぺん」

「・・みな、みかわ・・のでしょ」

「・・・みぶに、しかたない」

 聞き取りにくいか細い声なのだがだんだんはっきりしてきた。

「おう、そこにみしらぬおひとが」

「みしりみしらぬはもうひとこえ」

「もし、そこのかた」

「もし、そこのかた」

 おれを呼び止めるには微妙な距離なので、返事をせず眺めていることにした。

「聞こえておらぬか、聞きとうないのか」

「お主の声なら聞きとうないじゃろ」

「さようなことはなかろうて」

「さようなこともありなむと」

「もいちど試して」

「みようかいのう」

「もし、そこのかた」

「もし、そこのかた」

 二回めなので無視するわけにはいかないだろう。おれは返事をした。

「おれのことか」

「おうおう、お返事じゃ」

「お返事じゃ」

「われらの声が」

「届いたのじゃ」

「かようなこともあるのじゃな」

「かようなこととはいかなるを」

「牛頭か馬頭かと問われれば」

「馬頭らしきかな」

「馬頭らしきかな」

改めて見ると、そいつらは小さな小さな、人間ではない小ささのの、人型をしたなにかだった。遠くにいると思っていたが声が小さくて遠くと思っていただけのようだ。


***


 不思議なことに、おれは目の前にいる超常のものどもについて驚愕を覚えなかった。茶運び人形にしか見えなかったそいつらを見て、何故か、人形も喋る時代になったのだなあと思ったのみであった。

「そこなおひとはかようなところで」

「いったいなにをなさっておいでか」

 会話は二人でひとセットらしい。

「連れの用事を待っている」

 茶運び人形どもは顔を見合わせた。

「用事とな」

「用事とな」

「かようなところにいかなる用事が」

「かようなところにいかなる用事も」

「ありなむとてあらむ」

 よくわからんが何の用事かと聞いているらしい。

「ひとにはひとの都合がある。余計な詮索はしないことだ」

 茶飲み人形どもは顔を見合わせた。よく顔を見合わせるやつらだ。発言する前の儀式なのだろうか。

「われら人外のものなれば」

「ひとの用事はわからねど」

「このあたりには妖の類も多きゆえ」

「ひとの都合か」

「怪の都合か」

「いただくわけには」

「いかぬかのう」

 考えてもいない質問だ。

「人外の知合いはいない」

 答えてから、マスターやラオやナミが人外のものである可能性に思い至った。

 いや、そんなことはないだろう。質問を接いだ。

「どんな妖がいると?」

「いかな妖、異なことを」

「異なる妖、いかなるを」

「たとえていえばわしらのような」

「たとえていえばましらのような」

「たとえていえばはしらのような」

「たとえていえばかしらのような」

「にわかなるそのかしらにぞあかりけり」

「はしらにうつすましらありける」

 なにを言ってるのだかさっぱりわからない。こいつらは妖怪なのか。柱や猿や頭のような妖怪がいるのか。

「そこに」

「そこに」

 茶運び人形どもが指差した方角を見てみると、何か光るものが近づいてくるところだった。だんだん近づいてくるに従い、それは車輪、木製の車輪であることがわかった。車輪の中央には人の顔らしきものが見えていて、苦悶の表情をあげていた。何が光っているのかというと、車輪が燃えているのだった。燃えた車輪は時折凄まじい悲鳴をあげてぐわああとかぐええええとか文字で表すならそのように聞こえる声は腸をえぐるようなそれでいて妙に安定した低い調子で、ああこれはお経の抑揚だなとおれは理解した。わかりやすい妖の格好をした車輪はおれのほうにかなりな速度で一直線に近づいてきていた。

「おれのほうに向かっているのか」

 誰に聞かせるわけではなくおれは呟いた。


***


「これはこれは、かしらどの」

「これはこれは、かしらどの」

 茶運び人形が声をかけた。聞こえているのかどうなのかわからないくらいのか細い声であったが、燃える車輪は急停車した。

「おう。お前らか」

「かしらどの、いずこから」

「かしらどの、いずこへ」

「聞かせるようなところへ行くわけじゃねえや。そこのお人は?」

「わしらもいま出会うたばかりに」

「いかなるおひとか尋ねおったところ」

 茶運び人形どもは顔を見合わせながらおれを見た。かしらと呼ばれた燃える車輪も、首の向きは変わらなかったが、目玉がおれの方を睨んだ。おれは何か言わなければならなくなった。

「連れの用事を待ってるんだ」

 半分ウソだよな、と思いながらおれは口を開いた。連れの用事じゃなく、おれの用事につきあわせているのだ。

「連れがいるのか。どこにいる」

「よく知らない。ここで待ってるように言われた」

「ここがどういう場所だか知っているのか?」

「ここは特別な場所なのか?」

 かしらは少し考えるそぶりを見せた。

「いや。特別なことはねえな」

 それを聞いて茶運び人形どもが顔を見合わせた。

「特別なことはあらねと申されど」

「特殊なことはございましょう」

「かの地に住まう三つ巴」

「人の棲家、妖の棲家」

「そして神なるもののの棲家」

「みっつの世界が交叉する」

「神棲む世界、カナンの地」

「河の南の河南の地」

「常に火の手の火難の地」

「彼方と此方の合間なる」

「カナンの地とはここなるを」

「説明せんとていかにせん」

 ちょっと気を抜くと何を言ってるのかわからなくなる。ここは「かなん」という場所で、人と妖と神の棲家だといっているらしいが、怪しいもんだ。

「それは単なる呼び名だろう。神さんにはとんと出会ってねえな」

 かしらが応えた。

「それはよろしきことかな」

「それはよろしきことかな」

「カナンは約束された土地なれば」

「その地に参るも約定のうち」

「よるひとの夢見しにしき白妙の」

「霜を喰むこそ神と思えば」

「いつものことだが、おまえら、もっとはっきりものを言えねえのか」

 かしらにも茶運び人形どもの言葉はわかりにくいらしい。

「はっきりと言われましても」

「はっきり申しておりますぞ」

「回りくどい。なに言ってんだかわからん。いつのまにか会話の途中から詩を吟じているじゃねえか」

 茶運び人形どもは顔を見合わせた。

「お気に召しませぬか」

「お気に召しませぬか」

 二人同時に言葉を発し、おれの方をむいた。

 かしらも、おれの方に目をむいた。なぜおれを向く。おれの顔に何か付いているのか。


***


 おれは困惑して、かしらと、茶運び人形の右側と、茶運び人形の左側を順々に見た。三者ともに明らかに答えを期待している表情で、いや、そも、この質問はかしらに投げられた質問ではないのか。なぜおれに聞くのだという声にならない反論が喉元まで出かかって引っ掛かり、おれはカエルのようにまばたきをして溜飲を下げた。

「おれの意見が何になる?」

 茶運び人形どもは顔を見合わせた。

「わしら人ならぬ身としては」

「人なる意見が気になるもの」

「人ひとり等しくありやなしやのさま」

「いづこなるいつきにみるや望月の」

「水に映りて虚ろな移ろい現か夢か」

「まほろばの魔法にかけて朧月」

「朧に覚ゆる思し召し」

「召しませ花を下駄の要」

「幽霊の正体見たりかれ」

「そういうのをやめろと言うておるんじゃ」

 かしらが途中で割って入った。もしかしたらおれが止めなければならなかったのかもしれない。だが、そのようなお役目は断じてごめんだ。と思っているにもかかわらず、かしらはおれを見た。

「兄さんもなんかゆうてやれ」

 何を言えと?

「かれすすき荒野にさくやゆふづきの」

 茶運び人形の前のせりふを受けて夕月と文月をかけてつなげてみた。

 かしらは、お前もかとでも言いたげな表情を浮べて肩をすくめ、いや、肩をすくめることはできないのだが、肩をすくめるような動きをし、吐き捨てた。

「ブルータス、お前もか」

 シェイクスピアの戯作とは違い、ならば死のう、とは言わなかった。その代わり、かしらはいっそう輝かしく光り、自分の心理状態を周りに示そうとしているのか、それとも他の要因があるのか、くるくると回り始めた。

 それを転機にして、ひゅうと秋風がおれの頬を撫でた。いや、撫でるという表現は適格ではなく、殴った、に近い風の強さだった。おれは思わず目をつぶった。

 目を開けると、かしらはいなくなっていた。

 おれは茶運び人形どもに尋ねた。

「かしらは、どこへ」

「かしらどのは先にゆかれた」

「かしらどのはご多忙なのだ」

「かしらどのほどではないが」

「われらも暇なわけではない」

「われらにも役目があるのだ」

「さあ、ゆきますぞ」

 茶運び人形どもはおれの右袖と左袖を掴んだ。その大きさからは想像できないくらいしっかりと袖を掴まれて、おれは逃れることができなくなった。

「なぜおれに掴まるのだ」

「あなたも、ゆくのです」

「あなたをお連れするのです」


***


 おれは言葉に詰まった。茶運び人形とともにどこかに移動することは考えていない。おれはここでラオを待っていなければならないはずだ。そういったことをどのように言えば良いのか言葉を探した。

「悪いが、おれはお前らといっしょには行けない」

 茶運び人形どもはおれの袖を掴む力を緩めもせず、かたかたかたという擬音を連想させる首の動きをさせて首を動かし、揃っておれの方を見た。相変わらず、二人の動きはぴったりとシンクロナイズされており、この二人は実は同じ歯車につながっているのだろうと思わざるを得なかった。見えぬ歯車は二人に同時に口を開かせた。

「さようさよう、そうでしょうとも」

「これはこれは、なんということを」

 二人は完全に同じ声色で同じ抑揚で言葉を発したので、聞き取れたのは不思議だった。

「そういうことを言うためにはそういうことを言うだけの理由がおありでしょう」

「そういうことを言えどもわしらには痛痒でしかないのです」

「でも、ゆくのです」

「だから、ゆくのです」

「これやこのゆくもかえるもわかれては」

「分かれは定め」

「あなたがわれらとともにゆくのは、定められたことなのです」

「定められたことは守られねばならぬ」

「そう決まっているのですからあなたはわれらといっしょに来ねばならぬのです」

「守られるべきことは定められねばならぬ」

「だから、来るのです」

「それでも、来るのです」

 矢継ぎ早に飛び出すせりふに押されて、おれは足を踏み出した。どこへ行こうというのか。そう、それが問題だ。おれの意思とは無関係に踏み出されたおれの足の行き先はおれの意思の管轄内にない。だが、足を止めることはできる。進まぬぞ。

「われらとともにゆくのは」

「気が進まぬと申されるか」

「そうだと言ってるだろう」

 かたかたかたかた。

「あなたをお連れせねば」

「われらは何のためにか」

 かたかた。

「ここにおるのでございましょうか」

 しらん。カエサルのものはカエサルに、質問には質問で返せ。

「ならば聞こう、お前らに連れていかれてしまったら、おれは何のためにここで時間をつぶしていたのだ」

 かたかたかた。

「さて、それは」

「われらには預り知らぬこと」

「知らぬこととは申せ」

「あなたにもご都合がおありか」

「だがわれらにも」

「われらの都合があるのです」

「あなたの都合と」

「われらの都合と」

「いったいどちらが」

「強うございましょうなあ」

 言い終わるやいなや茶運び人形どもはおれの目を見つめながら二人全く同じ速度で首を一回転させ、赤く紅く伸びた舌をぺろりと出した。見事なまでにシンクロナイズされた動きに見とれる間などなかった。根源的な恐怖がおれを襲った。


***


 おれの動揺が茶運び人形どもに伝わってしまったからなのかどうなのか、彼らは別の動きを始めた。右側の首がするするとまっすぐに伸びた。首の長さが頭の長さの三倍くらいと思えるくらいまで伸びたとき、突如右側の首がすとんと落ち、元の頭の位置に戻った。いつの間にか左側の首も同じく伸びていて、すとんと落ちた。その間に、右側の首が再び伸びていて、すとんと落ちた。左側もまた伸びていて、すとんと落ちた。右側がすとん左側がすとん右側がすとん左側がすとん。部屋を黄色く塗るかのごとく首がすとん。

 茶運び人形どもは奇声を発するようになった。

「あーっはっはっはー」すとん。

「いーっひっひっひー」すとん。

「あーっはっはっはー」すとん。

「うーっふっふっふー」すとん。

「あひゃあひゃあひゃ」すとん。

「いひょいひょいひょ」すとん。

 ひとしきり首を伸縮させ、奇声を発し、満足したのか、二体揃って首を一回転させてから、眼をぎょろんとさせて、

「くる」

「くる」

「くる」

「くるの」

「くる」

「くるの」

「くる」

「くるのだ」

「くるの」

「くるのだ」

「くるの」

「くる」

「われらと」

「くる」

「ともに」

「くる」

「くるの」

「くる」

「狂うたくるえらも」

「狂いかけたくるうそうも」

「そおれ」

「それ」

 茶運び人形どもは掴んでいたおれの袖をひいた。おれはひきずられて足を踏み出した。なぜか抵抗することができなかった。茶運び人形どもはさらにおれの袖をひいた。またしてもおれは足を踏み出した。なぜか抵抗することができなかった。茶運び人形どもはさらにさらにおれの袖をひいた。またしてもまたしてもおれは足を踏み出した。なぜか抵抗することができなかった。なぜだろうかと考えて、茶運び人形どもは同時に袖をひいているわけではなく、一歩目は右側の茶運び人形だけが袖をひいているので右袖だけがひかれ、つまり右足が前に出ざるを得ず、二歩目は左側の茶運び人形だけが袖をひいているので左袖だけがひかれ、つまり左足が前に出ざるを得ない、そうなるように計算しておれの袖をひいているのだと思いついた。思いつくまでに十歩くらいを要していた。

 おれは抵抗することにした。このまま曳かれ牽かれてなるものか。足を踏ん張り腰を落とし、重心を低くして叫んだ。

「ぎゃあぁああ」

 おれの叫び声が呼び水になったのか、茶運び人形どもの引きがとまった。


***


「はていまなんと」

「申されましたか」

 茶運び人形どもは動きを停めた。

 問われても意味のある言葉を発したわけではない。こういう場合にはどう言えばいいのだろうか。おれは再度ぎゃあと叫んだ。

 かたかた。

「またしても」

「異国の言葉」

「われら異国の言は」

「わかりませぬゆえ」

「この国の言葉をば」

「お使いになっては」

 かたかた。かた。

「いただけませぬかのう」

 もう一押しかもしれぬ。押せ。押せ押せ。ここで押さねばいつ押すのか。

 おれが再々度センス・オブ・ナッシング、ジャバーウォックな言葉を発しようとしたとき、おれの背後から声が聞こえた。

「何やってんだ、あんた」

 おれに向けていった言葉であろう。なんとタイミングの悪い。おれが茶運び人形どもに対して反撃の狼煙をあげたところで邪魔が入るとは。おかげで、反撃の合図はすれども白妙の兵どもが夢のあと、になってしまった。

「お人形あそびだ」

 おれは振り返りもせずにそう応えた。だが実はおれは邪魔が入ることを望んでいたのではなかったか。そもそもこの声の主を待っていたら人形どもに絡まれたのではないか。


 かたかたかたかた。


「おうおうこの国のお言葉じゃ」

「われらの言葉が通じたのじゃ」

「しからばあの問いを問おうぞ」

かたかたかたかたかたかた。

「キシャのキシャはキシャでキシャできしや」

 言葉遊びが大好きな茶運び人形どもは放っておくことにして、おれは背後にいるであろうおれの待ち人に声をかけた。

「遅かったな」

「そうか。おれが来ることを知ってたってわけだ」

「そりゃそうだ。ーーいや、ちょっと待て」

 おれは振り返って、会話の相手を確かめた。そこにいたのはラオではなかった。見知らぬ人物が立っていた。

「あんた、誰だ」

「知ってたんじゃないのか」

「ああ、勘違いだったらしい」

「誰と間違えたんだ」

「こんなに人通りが多いとは思わなくてな。だが約束の時間に声をかけられれば、誰だって待ち人が来たに違いないと思うだろう?」

 問われた内容には答えず、おれははぐらかした。

「それは人に依るのではないか」

「そうだな。訂正しよう。約束の時間に声をかけられれば、大抵は待ち人が来たに違いないと思うだろう?」

「あんたは大抵の人の気持ちがわかるのか」

 改まって問われると、おれは人の気持ちがわからないほうの人種なのだと気づかされた。

「そうだな。さらに訂正しよう。余人は知らぬが、おれは待ち人が来たと思った」

「ならそう言えばいいだろう。おれが来ることを知ってたのかと思ったぞ」

「知ってたら何か都合が悪いのか」

「脅かし甲斐がない」

「驚いてはいない」

「脅かし甲斐がなかった」

「それは気の毒なことをした。だがおれも黙って脅かされるほどお人好しではない」

「黙って脅かされるのはお人好しなのか」

「そうだと思うぞ」

 おれは適当に相づちを打った。


***


「脅かされても黙っているようなやつはあまりお人好しとは言えないのではないか」

 おれは返答に詰まった。

「やはり何らかのリアクションをとってくれたほうが脅かし甲斐がある」

 おれは何も答えなかった。

「秋来ぬと目にはさやかに見えねども、という古人の歌もある」

 何を言っているのだ。風の音にぞ驚かれぬるあの歌か。あれは勝手に驚いただけだ。脅かされたわけではない。

「秋が来ても飽きが来ないのか。どうなんだ」

 それが、秋というもの。秋に飽きたとき、それは冬だ。

「秋が来ても飽きが来るとも来ないとも限らないだろう」

「秋が来たら次は冬ではないのか」

「秋の次は冬だ」

「こんな言葉がある。青は紺より出でて紺より青し」

「藍より出でて藍より青し、だろう」

 おれは思わず訂正を入れた。

「こんな言葉もある。愛は恋より出でて恋より愛し」

 おれは首をひねった。そんな格言は知らない。知らないが、ありそうな気もする。

「さらに、こういう言葉もある。いーのぱいあいじょうはマイナスイッチ」

 おれの頭の中に数えきれないほどの疑問符が浮かんだ。ひとつずつ疑問符を片付けているうちに正解っぽいものに思い当たった。eのπ i 乗はマイナス1のことか。

「つまり、愛情いっぱいだ」

 ここまで言うと、その見知らぬ人物は口をつぐんでおれの目を覗き込んだ。次に発言するのはお前だと言わんばかりに。これは、何を言えばよいのだ。困惑するおれの耳に、消え入りそうなか細い声が聞こえていた。

「もし、そこのかた」

「もし、そこのかた」

 おれのことか、とおれは応えた。

 かたかたかた。

「違う」

「違いまするぞ」

「あなたのことでは」

「ごじゃりませぬぞ」

「あなたの御前に」

「おられるおかた」

「もし、そこのかた」

「もし、そこのかた」

 さて、どうしようか。おれの御前におられるおかたは茶運び人形の声が聞こえていないだろう。だが茶運び人形とこの得体のしれない人物との間をとりもつ義理もない。義理はないのだがおれはこの人物から問いかけを受けていて、何か答えねばならない雰囲気になっている。どちらがましな受け答えをできるのだろうか。

 おれは茶運び人形の言葉を目の前にいるやつに伝えることにした。

「あんたを呼んでるやつがいる」

「あんたを呼んでるのは、おれだ」

「そうじゃない、ここに、小声で、あんたを呼んでる」

 おれは体をずらして茶運び人形どもが視界に入るようにした。

「なんだこいつらは」

 かたかた。

「なんだとはあまりなおっしゃりよう」

「われらこの地を棲家としておる妖の」

「主の遣いをことづかりてここにおる」

「われらに対する物言いは主への言葉」

「存分にその心に刻み焼きつけてから」

「ものを申すがよかろうぞ」


***


「なんだこいつらは」

 おれの前にいる人物はふたたび同じ言葉を繰り返した。茶運び人形どもの声が届いていないとは思えないのだが。茶運び人形どもは同じ言葉を繰り返すことはしなかった。なぜかおれを媒介にしてにらめっこが始まった。つまり、おれの前の人物はおれをにらみ、茶運び人形どももおれをにらんだ。おれが何かしなければならないかのように。

 おれがこいつらの明らかに噛み合いそうもない、会話とも言えない言葉の応酬になるだろうやりとりのメッセンジャーを務めなければならない理由は一つも見つからないので、おれは半歩後ろに後ずさった。当事者どうしで会話してくれという合図だ。しかしおれの意に反して茶運び人形どもも正体不明の人物もおれの動きに合わせて視線を動かした。おれはもう半歩後ろに後ずさった。六つの目の見ているさきはおれから外れなかった。もう半歩後ずさっても視線はついてきた。六つものイブルアイに魅入られたおれはどうすればよいというのだろう。

 おれはそっと踵を揃え、踵を返す準備をした。

「おい、あんた、こいつらをどうすればいいんだ」

 正体不明がおれに向って語りかけた。

 おれは無視することに決めた。急いで体を一回転させ、駆け出した。

「待て」

「お待ちなされ」

 待てと言われて待つ馬鹿はいない。おれは加速した。

 背後からおれを追いかける音が聞こえた。

 捕まってなるものか。

 おれはさらに加速した。つもりだった。

 つもりだったのに、次の瞬間、おれは地べたに転がっていた。何があったのかよくわからなかったが、空を向いたおれの視界にそのままおれにむかって倒れこむ正体不明の人物が飛び込んできた。

「ぐぇ」

 おれは腹に衝撃を受けて声と一緒に肺腑に溜め込んでいた息を吐き出した。衝撃で息のしかたを忘れてしまったらしく、息を吸い込むことができなかった。

 苦しい。

 苦しい苦しい。

 苦しい苦しい苦しい。

 おれは手足をばたばたさせた。みっともないがしょうがない。

 おれの腹が急に軽くなった。それを契機に息を吸い込んだ。

 弾む息が収まるのを待たずにおれはよろよろと立ち上がろうとした。先ほどおれの腹にダイブした正体不明の人物が手を貸してくれた。

 正体不明の人物はおれの手を放さず、逆におれを引き寄せた。

「なぜ逃げた」

 不思議なことにそいつは息を切らしていなかった。

「追いかけられたからだ」

 おれは息を弾ませながら答えた。

「あんたが逃げる前には追いかけていない。なぜ逃げた」

 こいつの理性は飛んでいないようだった。

「あんたに追いかけられたとは言ってない」

 またもおれは反射的に答えた。さっき倒れたときに打ったらしく腰がずきんと痛んだ。


***



「これはこれは、あやしなるかな」

「それはそれは、おかしなるかな」

 かたかたかた。

「あの場あの時居合わせたるは」

「あなたとそなたとわれらのみ」

「あなたは追いかけられたとな」

「そなたは追いかけてないとな」

「われらも追いかけてはおらぬ」

「さてさてそれでは」

「いったいどなたに」

「追いかけられたと」

 かたかた。

「いうのでしょうな」

 おれは息を落ち着かせようとしながら、何と答えればよいかを考えた。格好の答えが見つかった、ような気がした。

「時間だ。時間に追いかけられたんだ」

 正体不明はばかにした目つきでおれを見、ばかにした声でつぶやいた。

「時間は全てに共通だ。特定の人間を追いかけることはない」

 おれはすぐさま反論した。

「だが現におれは時間に追いかけられた」

「それは被害妄想だ」

 即断の言葉には穴があるはずだ。

「時間がおれを追いかけ走らせた。だがお前は」とおれは正体不明のやつの顔を見つめ、「お前はおれに追いついて倒した。つまりお前は時間よりも速くおれに追いついたことになる。時間よりも速いとはお前はいったい何者だ」

 正体不明のやつはおれの言葉を聞いて身構えた。続けどきと思いおれは続けた。

「お前は時間よりも速く走れる。つまりお前は今より未来の時間から来たに違いない。未来から何をしに来た」

 正体不明のやつは目を見開いた。おれの戯言にこれだけ反応するのは怪しい。正体不明はぼそぼそと何かつぶやいていた。耳をすまして聞き取った。

「どこでばれた・・・いや・・・違う・・・それは・・・こいつは・・・何ら確信があるはずが・・・疑われるだけでもだめ・・・だがどうしろと・・・他に気づいたやつは・・・こいつだけか・・・こいつだけ・・・ならば・・・決して・・・消して・・・芥子・・・消す・・」

 ぎりぎり可聴水準の声量だったので定かではないが、ものすごく不穏な言葉を認識した。聞き違いならよいのだが、もう一度言ってくれと言っても言ってくれないだろう。

 かたかた。

「さればこそこのお人とは」

「未来より来たりあるとな」

「未来とは未だ来ずと記す」

「未だ来ず方より来たりと」

「来たりと言えど不来方の」

「お城の草に寝ころびたり」

「空に吸はれし十五の月夜」

「月夜月よと愛想も尽きよ」

「愛想も愛憎も合いそうに」

茶運び人形どもが本領を発揮し出した。

未来から来た疑いのある正体不明のやつは茶運び人形どもに免疫がないためか呆気に取られていた。

チャンスだ。


***



 おれは逃げ出した。

 やみくもに走った。

 外灯や民家の微かな薄明かり、ほとんど暗闇と言っていいような中、おれはどちらに向かうべきか確固たる意思のないまま全力で走った。

 おれを追いかけてくる足音は聞こえなかった。

 ほっとしたような拍子抜けしたような。

 首尾よく巻いたのだろうか。

 おれは逃げ出すことをやめた。

 足を止め、腰を下ろす場所を探した。うまい具合にあまり背の高くない樹が薄明かりのなかぼんやり見え、近づいてみるとさらにうまい具合に切株と思しきものがあるのが見えた。

 日ごろの行いはよいとは言えないのでこんな僥倖が続くのはおかしいと思うべきだったのかもしれない。しかしそのときにはそんなことを思うはずもなく、天の配剤は適材適所に廃材を配すなどと能天気なことを思いながらおれは腰を下ろした。

 切り倒されていない樹の枝がまるで背もたれのように切株から見て絶妙の距離と角度で横向きに延びており、おれは慎重に背をもたれた。おれの上半身の重さくらいは支えてくれそうだ。

 全力疾走のおかげで火照った体を秋の夜風が冷やした。汗をかいたせいで感じる程度の強さの風。これまたおあつらえむきだ。涼とはかくあるべし。

 さて。

 一息ついたところで、これからの処遇を考える。

 茶運び人形と未来人は振り切った。逃げなければならない理由はわからないままだ。未来人はおれに害をなす兆候が見られたからという理由があるが、茶運び人形どもには相手にするのが面倒だという理由しかない。

 充分な理由だな。

 面倒を避けた代わりに、おれはラオと待ち合わせていた場所から離れることになった。

 遅すぎないか、ラオは。

 ラオは別れ際におれに何と言った。

 ここで待っていてくれ、と言っていたはずだ。

 それはどれくらい前のことだ。

 おれは腕時計を見た。しかし薄暗がりの中、時間を見ることは叶わなかった。

 おれはラオと別れてから何が起こったかを想起し始めた。

 別れてすぐに茶運び人形どもが現れた。

 しばらく遊んでやっていたら、かしらどのが表れて、去っていった。

 茶運び人形どもが自分の用事を思い出して、なんということかその用事とはおれを連れ去ることだったが、そのせいで一悶着あった。

 未来人だと言われてたやつがおれに声をかけた。

 逃げ出そうとして捕まった。

 茶運び人形どもが発した呪文で未来人が混乱してる間に再度逃げ出した。

 うん、完璧だ。頭は正常に働いているらしい。

 この一連の、連なっていないような気もしないでもないが、この間どれくらい時間が経ったのだろうか。

 短い時間ではないことははっきりしている。

 ラオはまだ用事が済まないのだろうか。


***



 だんだんと冷えてきた。

 力の限り走ったせいで火照った体が落ち着きを取り戻したのだろう。おれの精神状態よりも早く。そういうものか。

 動かずにじっとしていたため、手足が強張りかけていた。おれは背をもたれていた木の枝から半身を起こそうとした。

 重い。

 起きぬ。

 なぜだ。

 おれは首を傾げて背もたれの枝を見た。正確には、見ようとした。そう言えば腰掛けるときには暗がりに目が慣れきる前だったので、ろくに確認せずに座ったのだが、そもそも切株のすぐ傍に枝があるということはたいていの場合は切られたはずの木が何らかの理由で息を吹き返して新緑のいづる若芽のなかなかに行きてし枝はいづくなるかなということなのだから、まだ若くてほそい枝なのだ。そんな枝に体重を預けていたものだから、

「みし」

 枝が悲鳴をあげ始めた。おれは慌てて飛び起きようとし、

「みしし」

 しかし遅かったようだ。飛び起きるためには体を支えているものにも力を加えなければならないがそれに耐えられるだけの耐性がおれの体重を預かっている枝にはなかった。

「ぽきり」

 天がゆっくりと回り始め、おれは自分の体が半回転しながら落ちていく様を実感した。背筋を丸め、頭を守った。

 ずさり。

 おれは背中から地に落ち墜ちた。

 起き上がるのも面倒になってきた。しばらく寝転がっていた。

 耳を澄ますと水の流れる音がする。

 静寂が包む暗闇の中で、時の流れを認識させる唯一といってもよいものだ。

 やみくもに走っていたとき、あの川だか泉だかにはまりこまなくてよかった。この暗闇では水の中に突っ込んで行っても気付かなかっただろう。いまこうして水の音が聞こえているということは、おれは水の外にいる。

 おれは何をすべきか考えた。

 と言ってもすべきことは決まっている。ラオと落ち合うことだ。おれが場所を移動してしまった以上、ラオを探すのはおれの役目だ。

 しかし、ラオがどこにいるのかわからない状態でどこを探すというのか。ひとつには喫茶店に戻るというのがある。うん、そうしよう。

 ふたつめ以降の選択肢を考えようともせずにおれは決めた。

 次なる問題は、どうやったら戻れるのかということだ。来たときにはラオに連れられてきたため、おれは道をよく覚えていない。さらに、未来人と茶運び人形からやみくもに逃げ出したため、ラオと分かれた地点に戻ることも、認めたくはないが、簡単ではない。

 つまり、おれは迷子だ。

 おれは耳をすませた。喫茶店まで戻るのならば、都会の、というほど都会ではないかもしれないが、ともかく町の、喧騒が聞こえてくるはずだろう。

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