第5章:性癖

第5章第1節:母


   A


「さてさて、私も打ち合わせに行くとするよ」

「え? 僕のデビュー作の打ち合わせは……?」

「悪いけど悪いけど、先に、工藤先生との打ち合わせをしてくるよ。ここは、好きに使ってくれていいからね」

 ということで、打ち合わせ室には神田1人。

 打ち合わせらしい打ち合わせは、ほとんどしていない。ここが本当に打ち合わせ室なのか不安になってくる。

(……僕は何をしに来たんだ……? デビュー作の打ち合わせ……のはず……だったと思うんだけど…………)

 自分でも自信がなくなるくらいだが、マンガの打ち合わせに来たはずだった。

 青年が目を向けたのは、ルーズリーフを収めたファイル。キャラクターのデザイン画を含む設定集だ。デビュー作の分だけではなく、彼が過去に描いたマンガ(同人誌)の設定なども収められている。

 そのファイルに、新たな1枚を追加する。二階堂に言われて描いた、主人公が使うスマホのデザイン画だ。

(打ち合わせって、あれくらいだよな)

 スマホを描いて二階堂に見せたら……。話は、マンガから『古事記』にシフトしてしまった。

(なんで、こうなったんだ……)

 溜め息を吐く神田。

 マンガの打ち合わせに使うべきホワイトボードには、彼のマンガとは関係のないもので埋め尽くされていた。

 いろいろと書いたものを消すと、ホワイトボードが白さを取り戻す。

 もう1度、溜め息が漏れた。

(喉が渇いたし、何か買ってくるか)


   B


 鶴岡は、水谷の仕事場を訪れていた。

 水谷は、王道RPGのようなマンガを連載している。当然、主人公は勇者。ヒロインは年上巨乳キャラを予定していたが、鶴岡が幼女な妹キャラを猛プッシュ。殴り合いの末、年下の巨乳キャラになった。

 あの日、鶴岡は殴り合いに負けた──。

 言わば、これがリベンジマッチ。

「くたばれ、水谷ィィッッ!」

 鶴岡が右拳を突き出した。相手からすれば、拳が上から降って来るようなものである。何せ、鶴岡は大柄だ。一方の水谷は、細身の男。

 水谷は冷静に対処する。回避が難しいと見るや、左手で鶴岡の拳を受けた。

 だが、勢いまでは受け止めきれない。わずかながら、後退を強いられる。

「いきなりですね、鶴岡さん。痛いじゃないですか」

 柔和な表情の水谷だが、その目は笑っていない。

 そもそも、鶴岡の拳を受けておきながら、平気な顔をしている。体格差は歴然だというのに。

(この男は、見た目こそ優男だが、その内に獣を飼っている……!)

 これがマンガであれば、鶴岡は獣のオーラを見ているところだ。ライオンとかトラとか、そういう類の獣である。

 前に拳を交えた時も、鶴岡の拳は水谷の左手に止められた。

 あの時は、ここで鶴岡が距離を取った。相手が右利きなのは知っていたため、水谷の右拳を警戒してのことだった。

(あれが、俺の敗因だった)

 鶴岡が距離を取ったことで、水谷の左手が空いたのだ。そして、鶴岡を撃ち抜いたのは、左の拳の方だった。

 今日の鶴岡は、水谷の左手を警戒する。あえて距離は取らない。

 この状態ならば、自分の利き手を封じられるが、水谷の左手も封じられる。

「どうしたんですか? 逃げなくていいんですか?」

 痺れを切らしたのか、水谷が口を開いた。右手で握り拳を作りながら。

(ブラフだ。右は飛んで来ない)

 鶴岡は、掴まれている拳に力を込める。距離を取る気はないと、それこそ、拳で語ってみせた。

 水谷の方はと言えば、敵の拳を包んだ手に、さらに力を入れるしかない。その上、鶴岡のもう一方の手──自由なままの左手を警戒せざるを得ない。

 水谷には右手を使えない理由があるが、鶴岡は両手を使える。鶴岡は、恵まれた体に常人離れした腕力の持ち主だ。元より、この勝負は鶴岡に分がある。

 もっとも、鶴岡の拳を受ける水谷も、相当なパワーを持っているということだが。

「どうした?」

 鶴岡が言った。

「いつもの余裕が無いな」

「……」

 水谷の頬を冷や汗が伝う。

 鶴岡には余裕があるのか、好戦的な笑みを浮かべていた。

 その時──。

 意識したのか無意識の行動だったのかは不明だが、水谷の視線は鶴岡の左手に。目の前にいた鶴岡には、それが見えている。

(好機!)

 鶴岡が左手を握る。あたかも、その拳を振り抜こうとするかのように。

 水谷が警戒心を高めたのが、気配でわかった。

(バカめ! 俺の本命は──!)

 頭突きである。

 鶴岡の額が、水谷の頭を打つ。「ぐあっ!」と声が上がった。

 声を上げたのは──鶴岡の方だった。水谷は石頭だったようだ。ゆえに、攻撃した側が痛い思いをすることに。

(石頭め……!)

「そこっ!」

 すかさず、水谷が鶴岡の懐へと潜り込んだ。鶴岡の拳は、まだ掴んでいる。距離を取らせないためだ。

 お返しと言わんばかりに、水谷も頭突きを繰り出す。狙うのは敵の顎。体格差がある分、狙いやすいか。

「チッ!」

 鶴岡は、体勢を変えて回避を試みる。もはや、直感に頼った動きだ。野性というやつかもしれない。

(躱されたか!)

「止むを得ん……!」

 鶴岡が後ろに跳ぶ。予備動作から見抜いたのか、水谷は手を放していた。鶴岡の拳を掴んだままだったら、今頃は体勢を崩されている。

「やはりな──」

 鶴岡が、水谷の利き手を指差した。

「水谷。貴様、その右手は使わないようだな。いや──『使えない』ようだな」

「……僕はマンガ家ですからね。商売道具である利き腕は、こんなことでは使えませんよ」

「プロ意識か。立派だな!」

 鶴岡が殴りかかる。

 水谷は躱し、目潰しを狙った。使うのは、ここでも左手。しかし、相手の目の位置が高いせいで失敗。

 鶴岡のカウンターは噛み付きだった。歯と歯がぶつかり、「ガキンッ」と音を発する。空振りをした証拠だが、顎の力も強そうだ。

 今度は、水谷が距離を取る番に。

「……噛みつくのはナシじゃないですか?」

「アリだ!」

 そんなこんなで、彼らの殴り合い(?)は続く。

 なお、水谷のアシスタントが数人いたが、彼らは2人の激闘を見ていることしかできなかった。

 近付くだけで吹き飛ばされかねない──。そんな気迫を感じていたからだ。


   C


 お互い、どれほどの手数を費やしたのか。いまだ、決着はついていなかった。

「このロリコンめ!」

「愚かなオッパイ星人め!」

「受けてみろ、〈平原を望む者〉!」

「くたばるがいい、〈大いなる山を目指す者〉!」

 2人は殴り合いを続ける。しかし、疲れが見え始めていた。

 なお、アシスタント陣は撤収済み。マンガ家がこんな状態のせいで、彼らは仕事ができないのだった。

「オッパイが好きで何が悪い!? 巨乳が好きで、何が悪いと言うんだ!?」

「愚かだ……。愚かな男だな、水谷!」

「幼女にしか興奮しないあんたは、変態じゃないか!」

「それは違うぞ! 俺は、合法ロリでもイケる!」

「ほざけ!」

「巨乳なんぞに惑わされるとは、まだまだ若い! 若いのだ!」

「だったら、あんたはオッサンだ!」

「俺はまだ、そんな歳ではない! お兄さんと呼びなさい!」


   D


 鶴岡と水谷が(くだらない)争いを繰り広げている時──。

「何にしようかなあ」

 神田は、自動販売機の前にいた。

「……鶴岡さんは、水谷先生と和解できたのかな?」


   E


「鶴岡さん……僕らは分かり合えませんよ。あんたには、僕のことなんか理解できないんだ!」

「──水谷。貴様は何故、巨乳にこだわる?」

「……僕は……」

 不意に、水谷が拳を下ろした。

(何が目的だ?)

 鶴岡が警戒心を抱く中、水谷が語り始める。

「僕は……母の愛を求めていたのかもしれない」

「何……?」

 シリアス気味な空気を感じて、鶴岡は戸惑った。とりあえず、拳を下ろした。

「……僕は、幼い時に両親が離婚して、父親と暮らしていたんです。だからきっと、母親の愛を求めていた──巨乳を求めてしまったんだ……!」

(母親の愛=巨乳なのか?)

「オッパイは母性の象徴──。大きなオッパイは、大きな愛なんですよ!」

「…………ふ……ふははは……ははははは!」

「何がおかしいんですか!?」

「おかしいとも。ああ、おかしいとも! 貴様は、母親の愛の象徴だとほざきながらも、巨乳に劣情を抱いているではないか!」

「それは……!」

「貴様は何故、うちで連載を持っている? 貴様の実力ならば、大手からも声がかかっただろうに。何故、わざわざ、うちで描く必要があった? 大手で連載する時間を削ってまで、うちで連載するのは何故だ?」

「……それは……」

「姫野編集長、だな」

「っ!」

「いや、『姫野編集長の巨乳』と言った方が正しいか。貴様は、姫野編集長をオカズに──」

「どうして、そのことを知っている!?」

「まさか、本当に編集長を?」

「! カマをかけたのか……!」

「もう遅いぞ、水谷。貴様は今、自供したも同然だからな!」

「……お願いします……!」

 水谷が頭を下げた。今なら、彼を殴るのも難しくない。だが、鶴岡は黙って、水谷の言葉の続きを待った。

「編集長には……内緒にしてください。お願いします」

(編集長には知られたくないか。当然ではあるが)

 鶴岡は握り拳をほどき、腕を組んだ。

「顔を上げろ、水谷」

「……内緒にしてくれるんですか」

「内緒にしておいてやる。武士の情けだ」

「鶴岡さん……!」

 水谷が顔を上げると、鶴岡の笑顔が見えた。ニヤニヤしている。

「そうかそうか。姫野編集長をオカズに、シコシコと」

「く……!」

 水谷は、鶴岡に借りを作ってしまう形になった。悔しそうな表情をしていた。

「──そう言えば、水谷。知っているか?」

「……何をですか」

「『古事記』に、イザナミという女神が登場するのだ」

「イザナミなら知ってますよ。『古事記』で最初に母となった神でしょ?」

「え?」

「え?」

「ちょっと待て」

 鶴岡は両手で「T」を作った。

「タイムだ、タイム」


   F


 二階堂は、工藤と打ち合わせをしている最中だった。場所はファミレス。このファミレスは、よく打ち合わせで使っているのだ。

「こった感じで、どうだべ?」

 工藤が二階堂に見せたのは、新キャラのデザイン画。3つのパターンが用意されている。

 青森市出身の工藤は、上京してから結構な時間が経っているベテランの作家だが、いまだに津軽弁を使っていた。訛りはマイルド(?)になっているが。

 ちなみに、前野が担当していた時期もある。彼が編集長になれたのは、工藤のマンガがヒットしたのが主な理由。結局、前野は副編集長に降格したわけだが。

「これがいいんじゃないかな。真ん中のやつ」

「真ん中で。了解」

 打ち合わせが一段落した頃、頃合いを見計らっていたかのように、オバサ……ベテランの女性店員が料理を運んできた。

 工藤が注文したのは、トンカツ定食とポテトサラダ。卵好きの二階堂は、オムライスの他に、固ゆで卵入りのサラダをオーダーしていた。

 工藤はトンカツにソースをかけ、ポテトサラダにもソースをかける。

 二階堂が驚く様子はない。工藤がポテトサラダにソースをかけるのは、いつものことだった。

 工藤はソース大好きオジサン……ということではなく、青森出身の彼にとっては、ポテトサラダにソースをかけるのは当たり前のこと。上京して驚いたことはいくらでもある工藤だが、ポテトサラダにソースをかけるのが普通ではないと知った時は、大層驚いたものだ。

 あの時の衝撃は、ゴキブリが実在する生物だと知った時並み。青森では、ゴキブリなんて滅多に見かけないのである。てっきり、フィクションの中だけに生息するものだと思っていた。

 あと、揚げパンもフィクションの中だけの存在だと思っていた。給食の人気メニューらしいが、青森市生まれで青森市育ちの工藤には、揚げパンに馴染みがない。

 積雪10センチで交通機関がマヒした時には「そんなバカな」と思ったものだ。青森だと、10センチなんて積もっていないも同然。100センチでも大したことないくらいだし。

 ともあれ。

 工藤がポテトサラダを食べようとした時、二階堂のケータイが震えた。着信を報せるバイブレーション。

「おやおや、鶴岡くんからの電話だ。これはこれは珍しい」

 電話に出る。

「はいはい、こちら二階堂」

『二階堂さん、神田君に尋ねたい事があるのだが』

 鶴岡は神田に電話をかけようとしたのだが、神田の電話番号もメールアドレスも知らなかった。その事実に気付き、二階堂に電話をかけることにしたのである。

「実は実は、今、社外でね。工藤先生との打ち合わせ中なんだよ」

 実際には打ち合わせと称する食事だが、それは言わないでおく。

「神田くんに何か用かい? 私から彼に電話しようか?」


   G


 オレンジジュース(果汁100%)を飲んだ神田は、リンゴジュース(こっちも果汁100%)を買って、出版社が入っているビルに戻る途中だった。

 ケータイに着信。

「二階堂さんから……。もしもし?」

『もしもし、神田くん。鶴岡くんが確認したいことがあるそうでね。私が代わりに電話したというわけなんだ』

「あ、なるほど。何を確認したいんでしょう?」

『『古事記』で最初に母になったのは、イザナミでいいのかな?』

「はい。イザナミが母親1号です」

『そうかそうか、ありがとうありがとう。鶴岡くんに伝えておくよ』


   H


『──ということだったよ、鶴岡くん』

「そうか。手間をかけたな、二階堂さん。感謝する」

「で、どうだったんですか?」

「イザナミたんが、母親第1号だそうだ」

「イザナミ……たん?」

 スマホをしまった鶴岡は、代わりにエロゲーを取り出した。

「水谷、これは差し入れだ」

「……僕、ロリ系には興味ないんですけど」

「──もう1度聞かせてくれ、水谷。貴様は、『古事記』にイザナミという女神が登場するのを知っているか?」

「知ってますよ。母親1号なんでしょ?」

「では、知っているか? 彼女が幼女だったという事を」

「……幼女? イザナミが幼女ですって?」

「そうだ。イザナミたんは幼女だったのだ」

「……」

 水谷は「そんなバカな」とでも言いたそうな顔で鶴岡を見た。「このロリコンが」とも言いたそうな顔だった。

「そんなバカな、このロリコンが」←実際に言った

「確かに、俺は幼女が好きだ。だが、だからと言って、事実を捻じ曲げているのではないぞ」

「まさか本当に……イザナミが幼女だったと言うんですか」

「そうだ」

「イザナミが幼女だったというのは、どのタイミングですか? 生まれたばかりは幼女だった……という程度なら、それほど驚きませんよ」

「結婚するタイミングだ」

「は?」

「結婚するタイミングだ」

「いや……いやいや、いやいやいや。本気ですか? いくら何でも、そんなバカな話があるはず……」

「ならば、説明してやろう。イザナミたんが幼女だったのだと!」

 鶴岡は、神田から聞いたことを説明した。最初は「そんなバカな」を繰り返していた水谷だったが、いつしか、幼女説を受け入れたようだ。

 それに気付いたのか、鶴岡が言う。

「貴様に覆す事は出来るか? イザナミたんが幼女だったという説を!」

「……僕の負けですよ、鶴岡さん」

 イザナミ幼女説(神田の説)は、鶴岡自身が唱えたものではないのだが。

「イザナミは、幼女だったんですね……」

 弱々しい足取りで、水谷が本棚に。マンガや資料などを収めたそこから、1冊のスケッチブックを引き抜いた。あるページを鶴岡に見せる。

「見てください」

「これは?」

「僕が昔描いた、イザナミです」

「これが……?」

 そこに描かれていたのは、巨乳の美女(全裸)だった。

「何故、裸なのだ?」

「地上に降りた時、イザナキとイザナミは、体の作りを確認したでしょう? 体の作りを確認するなら、裸だろうと思ったんですよ」

「……では何故、巨乳なのだ?」

「僕の好みというのが、理由の半分です」

「本当に半分か?」

「……9割です」

「残りの1割は?」

「巨乳は母性の象徴だから……ですよ。イザナミは、母親になるために地上に降臨した……。そう考えたんです」

「それで、巨乳にしたのか」

「それなのに……。まさか、幼女だったなんて」

「イザナミたんは、幼女であり妹でもあり幼妻でもあるのだ! ──そして、母親でもあるのだ」

 鶴岡は、水谷が受け取らなかったエロゲーを手に取る。それを再び、水谷に。

「このゲームでは、幼女のようだが18歳以上のヒロインを嫁に出来る。今の貴様なら、貴様を悩ませる呪縛から、自らを解放出来るはずだ」

「僕の……呪縛……?」

「巨乳だけが母性じゃない」

「!」

「水谷。このゲームのエッチシーンは、全てアニメーションだぞ」

「僕、このゲームをプレイします……!」

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