第54話 君といる世界、君と僕の未来

 その日の、夕方。

 焔城に馬車を置いて、テュテュリスに移動用の鳥の魔物を二羽借りた。トアンとチェリカ、シアングとルノと二人ずつ鳥に乗って大空へ羽ばたく。目指すは──世界の中心にある大樹、ハルティアだ。

 気をつけてと見送ってくれたテュテュリスとリクの姿が見る見るうちに小さくなっていき、やがて見えなくなる。やがて冷たい風が舞う空と眼下に広がる大陸と海が視界を埋め尽くし、トアンはため息をついた。

 本当にこれで、いいんだろうか。

 良い訳がない。自分は納得していない。しかしチェリカの意思は崩れない。少しも揺らいでくれない。──あれから、一言も言葉を交わしていないのだ。話しかける勇気がトアンにはない。もし話しかけても、チェリカは『帰る』と言うだろう。──これ以上、その言葉を聞くのは辛い。

(これが夢だったらいいのに)

 トアンはそう考えて苦笑する。そんな訳がない。わかっている。

(兄さんとウィルが自分で見つけた道に旅立ってくれた時は、手を振って見送れたのに。……どうしてかな、チェリカがいなくなるって知ったら……。)

 これもわかってる。

 トアンはどこかで、自分はチェリカとずっと一緒にいれるものだと思い込んでいたのだ。ルノもシアングも一緒に。ウィルとレインだって、また会えたら一緒に旅をできるだろう。ところが本当はそんな根拠どこにもないし、チェリカは、自分とずっと一緒にいることなんてできる訳がないのだ。


 だって彼女は、エアスリクという遠い国の王女だから。


 いくらヒトだ、自分と対して変わらないのだ、そう思っていても本当は絶対的な壁があったのだ。遠い遠い、見知らぬ土地を支えるべきチェリカと、ただの村の少年トアン。──一緒にいれる訳、ない。そもそも出会えたことが奇跡に近いのだと自分に言い聞かせる。突然出会ったのだから、突然別れたって何も不思議なことじゃないんだ。


 ──無理だ。


 そんなことできない。奇跡じゃない、必然と思いたかった。思っていた。……そんな風に、思えない。

「……っ」

 嗚咽は何とか飲み込んだものの、涙が頬を伝った。後ろでチェリカが僅かに身動ぎする。どうした、そう問いたいのだろう。だがチェリカは結局なにも言わず、トアンは安堵なのかがっかりしたのか良くわからない気分になった。

(なんで泣いてるのって、もしチェリカが聞いてきたら……)

 涙が強い風に流れていく。

(なんでもないよって言おうか。……それとも、君の所為だ。君が帰るなんて言い出すからって言って困らせてみようか)

 そんなことを考える自分が嫌になり、そして自分で自分が嫌だと感じていることに涙が止まらない。

(……オレはやっぱり……!)


 ふわり。


 何も言わず、何も言わないままチェリカがトアンを後ろからしっかりと抱きしめていた。

「チェリカ……」

 思わず呟いた自分の声は震えている。が、チェリカは何も言ってくれない。──彼女が泣いているのかどうかトアンにはわからないが、トアンの頭の隅っこは、声を出したら震えているのがばれてしまうからチェリカは喋らないのかも知れない、と思った。


 そんな淡い期待にトアンの身体は固まってしまって、振り返ることができなかった。そして期待は期待だと胸のうちに閉じ込めてしまう。

 ──チェリカの頬を涙が伝っているということに、気付かないまま。



「……どうしてチェリカは、こんな急に話を切り出したんだろうな」

 ルノの短くなった銀髪が風に遊ばれ、直ぐ後ろのシアングの鼻を擽った。

 ──ああ。とシアングは思う。

 ルノは気付いていないのだ。そしてルノは、シアングも一緒に帰ると思っている。だからこんなに落ち着いている。別れるのは、トアンだけだと思っているのだ。

 シアングには、それが良く分かっていた。結局のところ、自分もルノも互いに依存している部分がとても大きかったのだ。

 ──でも。とシアングは思う。

 チェリカにはもう、自分の心の奥底を見透かされている。そして彼女は、ルノを守るためにはシアングにだって杖を向けるだろう。そしてシアングも、自分がこれ以上ルノといるのは得策ではないと気付いていた。

(情がうつっちまうってか。……もう、手遅れかもしれねーけど)

「……聞いているのか?」

 ルノが不機嫌な声と共に振り向いた。ただの赤ではない、美しい紅い瞳がまっすぐに自分を見ている。

「聞いてるよ」

 シアングは嘘をついた。彼の嘘に気付いたのか、はたまた上の空の返事に気付いたのか、

「……。まあ、いい」

 というと再び前を向いてしまう。

(お前は知らないだけだ、ルノ)

 口に出すことは許されていないから、シアングはその背中を見てそっと心の中で呟いた。

(お前は賢い。知らないだけなんだ。……そう、オレのことだって本当は何も……。)

 

 ルノは、帰るのだ。そうして自分も本来の位置に戻る。そうしたら、……多分、悲しい。 

 もう、二度とルノに背中を預けることも、その手を引くことも、支えてもらうこともないだろうから。


 シアングは苦笑する。こんなとき、抜け落ちたあの心はなんというだろう? シアングと同じ顔できっと『俺様、知らないのよ。弱虫、また怯えてる? だっさいの』と言うだろう。




 ──ハルティア。それはドーナッツ型の島の中央に聳えていた。島には短い草が生えているだけで見通しは良く、中央には水──海水ではない、真水がキラキラと光っている。そして大樹の幹が水面から顔を出していて、何処までも透明な水の底を覗くと幹──そして根が見えた。先までは、暗くて見えない。不思議なことに、水に漬かっているのにその樹はちっとも腐っていない。

 そして何より驚くべきは、大樹の大きさだ。この樹にそって一周したら、一日以上かかるかもしれない。世界のどこからでも見えるというのは知っていたが、とにかく大きい。頂上も見えない。──首が痛くなってしまう。

 大樹の表面には緑のコケが生し、様々な植物が絡み付いている。しかし獣や鳥の気配はなく、水の中にも魚影は見えない。あたりはしんとした空気が立ち込めていて少し肌寒い。トアンは魔物から飛び降りるとチェリカの手をひいてやった。──彼女の顔に、涙は見えない。僅かな落胆を隠すように魔物に寄り添うと、鳥は震えているのが伝わってきた。

「怖いの?」

 と、チェリカが魔物に問う。

「空気が凄く澄んでる。……澄みすぎて、少し息苦しいや。トアンは大丈夫?」

「オレは……平気だよ」



 本当は澄み切った空気が肺に痛い。呼吸をするたびに、まるで針のように尖った酸素がトアンの中に刺さっていく。

「……。」

 しかしそれ以上の会話は気まずさで続かず、シアングとルノの着地を待った。二人もこの大樹を包む空気に身震いをし、そして神聖な空気に身長に呼吸をした。

「……すごいところだな」

 すっかり感嘆の声をあげながら、ルノが呟いた。そのとき。


「空の子よ、竜の子よ、そして人の子よ。世界樹ハルティアのもとへよくぞ来た」

「やあ、とうとうにやってきたねえ」


 ほろん、懐かしい竪琴の音とともに樹の影から姿を現したのはタルチルクだった。その後ろに青い髪の美しいエルフが立っている。

「タルチルクさん……後ろの方は?」

「以前話しただろう? このエルフがハルティアを守る者さ。名前は」

「シルル」

 自分の名前くらい自分で言えるといわんばかりに、多少不機嫌な声でエルフ──シルルは答えた。

「って言うんだ。クランキス王の友達なんだよ。それでいて、この樹の弟君さ」

 キ、シルルの目がタルチルクを睨む。おっと言い過ぎたとタルチルクは口を覆い、はぐらかすように微笑んだ。

 通常ならばトアンか誰かが『どういうこと?』と訊ねたのだが、幸か不幸か今の心にそんな余裕はない。

「帰るのだな、其々の場所へ」

 全員の顔を見渡してからシルルが口を開く。

「……うん」

「余計な詮索はしない。お前たちは本来いるべき場所へ行くのだから。だが……本当にそれでいいのか?」

「もう決めたの」

 チェリカがきっぱりと言い返すと、シルルはトアンたちに背中を向けた。──どこへ、いやそれよりも申し合わせたようなタイミングでシアングが歩き出し、湖の前で足を止めて振り返る。

「……シアング?」

 怪訝そうな声でルノが呼びかけるが、シアングはタルチルクに頭を下げるだけ。

「そうかい」

 何がそうか、なのかトアンにはわからない。が、タルチルクが竪琴を慣らすと透明な泡ができ、そっとシアングを包み込んだ。

「何をするつもりだ!」

「……オレも、帰るんだよ」

「……え?」

「ルノ、お前、オレがエアスリクに帰ると思ってただろう。確かにオレはあそこに世話なった。けど、オレにはオレの、『行かなきゃ行けない』場所があるんだ。この下にある世界、フロステルダに。」

 シアングの静かな声に、嫌々するようにルノは首を振った。そのままシアングの元へと駆け寄るが、透明な泡がそっと二人を阻む。

「ああ、言い方が少し悪かったから不安にさせちまったか? 今までのこと報告したいし、オレだって親にも会いたいし。……それにセイルがこっちの世界に来てることも言わなきゃならねーんだ」

 トアンの耳に、まるでそれは予め用意された言い訳のように聞こえた。しかし、足が動かない。ただ突っ立ったまま、ルノとシアングを見ていた。

「……シアング」

「また会える。そっちがひと段落ついたら遊びにこいよ」


 正念場だった。シアングは、今自分はいつもの笑みを浮かべていられるか少し不安に思う。……杞憂だったようだ。ルノは混乱した頭を整理しようと必死で、シアングの笑顔の裏に気付いていないようだった。

 ──それで、いい。


「本当に、また会えるんだな?」

 不安を覆い隠しながら問うルノに、シアングはそっと苦笑した。

「大丈夫。約束するよ」

「……そうか。」

 うん、自分に言い聞かせるように頷いてルノは一歩下がった。シアングはそのまま水面へと足を踏み出す。

 トー……ン。

透明な波紋が響き、そっとシアングの身体が水に沈んでいく。──深い深い、暗闇に。

「シアング」

 振り返ると、チェリカが複雑な顔をして立っていた。謝るに謝れない、苦しそうな顔。その不安の壁を壊してやれることを願いつつ、シアングは笑って手を振った。

「身体に気をつけろよ、チェリちゃん。それからトアン、お前もな」

 チェリカとトアンがつられて手を振る姿を見て、シアングはルノに視線を向ける。

 シアングの目が見ていると気付くとルノは慌てて目を擦り、それから笑った。

 ──そう、それでいいんだ。

 その美しい笑顔を向ける相手を、今までお前は間違ってきたけれど。


「さよなら、ルノ」


 その言葉を聞いたルノがどんな顔になったか、シアングは見届けることができなかった。とぷん、小さな水音と共に泡は深く沈んでいく。


 闇の中へ。





「空の子、こっちにおいで」

 手に大きな杖を持ったシルルが手招きした。タルチルクはその場に残ってトアン、チェリカを見送る。──ルノは、ごしごしと目を擦りながらゆっくりとついて行った。

 招かれた先には、水面の直ぐ下まで根があるところだった。シルルはその根を小さな水音を立ててわたり、その先の大樹を登っていく。登るといっても木登りのようなものではなく山を登るものに近い。緩やかな斜面を登っていくと、やがて石でできた扉に到達した。

 それはまるで、樹の内部へと続く扉のようだ。

「これは……」

 トアンが呟くと、扉の前に立っていたシルルが答えてくれた。

「エアスリクにもこれと通じる扉があるんだ。樹の中に入るものではないぞ」

「わ、わかってます」

「ふん。……さて、開こうか」

 シルルが杖をならし、扉を叩く。──ゆっくりゆっくりそれは開いていき、真っ白な光が中で渦巻いていた。

 ──これが、エアスリクへと通じる唯一の扉。

「泣くのはおよし、空の子よ」

 シルルは困ったように呟いて、そっとルノの頭を撫でてやる。ルノはコクコクと何度も頷きながら擦る手に力をこめた。

「腫れてしまうぞ」

「へ、平気、平気だ。……もう泣いてない」

 そういって顔を上げたルノの顔から、涙が消えていることを見てシルルは満足気に頷いた。そしてそのまま、ひらりと飛び降りる。

「ならばいい。行きなさい。私は先に下に行ってる」

「ああ。チェリカ、行こう」

 トアンとシルルに頭を下げて、ルノはチェリカの手を引いて扉に向かう。トアンの身体は石になったように動かない。視線は下。二人の足だけが、見える。


 このまま、見送るのか?


 顔を上げられないまま、二人の姿が扉を潜る──が。


「チェリカ?」


 ルノの怪訝そうな声にトアンは顔を上げた。──チェリカの足が、立ち止まっているのだ。トアンはその背中を、まだ小さいその背中をじっと見つめる。

「チェリカ、どうした」

 ルノがもう一度名前を呼ぶ。それでも動かない。

(オレも笑顔で見送らなきゃ。手を振って、チェリカが心配をしないように)

 トアンが息を吸い込んで何か喋ろうとした瞬間、チェリカが振り返った。──泣いている。

(え?)


「本当は怖いから」

 チェリカは言う。その瞳から涙が、頬を伝って流れ落ちた。

「君は私にパートナーを申し込んだ。けど、私は人間じゃない。君は不幸になってしまう。そう思ったから」

 トアンはチェリカが言おうとしていることが良く分からなかった。しかし、彼女の言葉を聞くうち、あの夜が脳裏に思い出される。返事を聞けず逃げ出したトアン。残されたチェリカ。そして──その後、最後の戦いに流れていってしまったのだ。

「……私、君の言う好きがわかんないから、だから、だからこのまま逃げようと……君の心に踏み込む勇気がないから、ずっと逃げてるの!」

 チェリカが叫んだ瞬間、涙が雫になって舞った。──トアンが、チェリカを抱きしめたから。チェリカは抵抗せず、そのまま泣きながら呟いた。ごめん、ごめんと。


「謝らないで」


 トアンは笑った。

「混乱させちゃったの、オレだし。君は何も悪くないよ。そうだよね、怖いよね。……ごめんね」

「トアン」

「確かに君は人間じゃないけど、オレは絶対不幸にならない。君を知って、君と旅をして、大切なものを沢山もらった」

「……トアン」

 ぎゅ、チェリカを抱きしめる腕に力が篭る。

「わからなくてもいいんだ。これから、知っていって欲しい。……オレは、君が好きだ。出会ったときから、今この瞬間も」

「嬉しい、けど、……それしかわからない」

「嬉しいって思ってくれてるなら、オレは幸せだ」

「そうなの? ……けど……私、帰るんだよ?」

 不安に顔を曇らせるチェリカとは対照的に、トアンは笑ったまま告げた。練習では自分はガチガチにあがっていた。ところがどうだ、こんなに自然に言葉が出てくるなんて。


「離れてても、遠くない。だって、エアスリクはいつでも上にあるだろ。空を見上げればそこにチェリカはいるから」


 チェリカの腕がそろそろとトアンの背中に回った。一度強く抱き合ってから、二人は静かに離れる。

「……ありがとう。」

 二人は笑った。

 そっと、チェリカはトアンの額に口付けを落とす。──パートナー成立。

 やっと気持ちが通じたことが嬉しいのか、別れが悲しいのかわからない。トアンも、チェリカも。しかし二人の瞳から零れる涙は、笑顔の上を優しく滑っていった。

 ルノが寂しそうに笑って頷く。しっかり見届けた、行くぞと。チェリカはゆっくり後ずさり、ルノの隣に立った。

「忘れない」

 泣いているのに彼女の声は震えない。

「忘れないよ! わたし、また必ず会いに来るから!」

「うん、オレも待ってる! 待って待って、ずっと待ってるから──!」

 双子の姿が光に溶け、そして天空へと昇っていく。帰っていくのだ。その先にあるエアスリクの扉へと。トアンは手を振る。涙を零しながら、手を振り続ける。


「いってらっしゃい」


 そしてたった一人、トアンはハルティアに背を向けてきた道を辿る。

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