第53話 黄昏フォトグラフ

 ──真っ暗だ。


 どこまでも続く果てしない黒を、トアンは眺めていた。……いや、違う。誰かが立っている。白い髪の毛が闇の中にぼわりと浮き上がり、『彼』がそこにいることを表していた。

「君は……」

 『彼』が振り返る。

「我は名乗った。忘れたのか?」

 白い髪、赤い前髪。長い前髪で瞳は隠されていて、顔がわからない。──トアンにはわかっている。彼の顔は見ている。

「忘れてないよ。……どうしてここに?」

「……そもそも、此処が何処なのか知っている上で訊ねているのか?」

 質問に質問で返す『彼』にトアンは言葉を迷わせた。

「え?」

「我が此処にいることは、何の不自然さもない」

「……ど、どういうこと?」

「此処は──お前の心の中だ」

 『彼』は口の端を吊り上げて笑った。

「我は、お前と繋がっているのだ。お前は知らない。我は知っている。我等の繋がりは目に見えぬ、聞こえぬ、感じられぬ」

「オレと、君が繋がってる……?」

「お前は、我が『何なのか』分かってるはずだ」

 何もない空間が動いた。風が吹いたのだと、トアンは感じる。『彼』の赤い前髪が揺れ、その下に隠れていた『紫色』の瞳が真っ直ぐにトアンを捉えた。

「覚えておいたほうがいい、トアン。『我等と本体』には、切っても切れない繋がりがある。心の奥は繋がっている。──そう、我は、お前の影から抜き出た存在。」

 『彼』の──ハルジオンの声が聞こえる。──おかしい、聞こえる場所が違う。

 ハルジオンの声は、トアンの中から発せられていたのだ。

「我は、トアン・ラージンの『影抜き』ハルジオン。トアン、恐れるな。直ぐにとは言わない、時間ならまだあるのだ。お前が『我々』を恐れる限り、お前は我々を理解できまい。そしてそれは即ち──」


「哀しい夢からは逃れられぬ、ということだ」





 トアンが瞳を開けたとき、どこか見覚えのある天井が目に入った。

「……あれ?」

 心臓が激しく暴れている。嫌な汗もかいていた──だが、何の夢を見たのかトアンは思い出せなかった。

「……ど、どうしたんだろう。それに、ここは……? オレたちは、父さんの力で脱出して……」

 状況を確認する。トアンはふかふかのベッドに寝かされていて、部屋には箪笥、それから大きな窓と木の扉があった。ベッドは一つだけ。──一人部屋にしては中々豪華な広さだ。

 眠気など感じなかったので、とりあえず起き上がって窓を開けた。──窓の外には、広い草原と朝靄の隙間から見える緑の森が広がっている。深呼吸すると清々しい空気が肺を満たして、トアンの気分を落ち着かせた。

「……どこかで見たことある景色だ」

 そうだ。

 草原と森を真っ白に塗りつぶしてみたらどうだろう。一面の雪。そう、雪に覆われた古城。

 何だか妙な気分だった。嬉しさと懐かしさと、何かがあふれ出すような気持ち。心が大きく膨れ上がって、もう一度深呼吸をしてからトアンは思わず扉を開けて廊下にでた。──そうだ、ここは。

「目が覚めたようじゃのう」

 懐かしい声に振り返ると、黒髪の焔竜が笑っていた。──長かった髪の毛がショートカットになってること以外、そのヒトは何も変わっていない。

「テュテュリス」

「トアンが三番目じゃな。お主等が天空から落下してきてから、二週間も経っておるのじゃぞ」

「はは……え?」

 テュテュリスの言葉が一瞬頭上を素通りし、トアンは笑みを固まらせた。……なんだって?

「え、あの……三番目って? それに、二週間って……?」

「……頭悪いのう」

 テュテュリスはけらけらと笑い声をあげると、短くなった髪の毛を掻きあげた。

「じゃから、天空に浮かんでいたキークの城……わしは見ておったよ。あれは夢幻城というのじゃが、まあ正式名称などどうでもよいの。とにかく、そこからある程度こちらに向けて放り出されたお主等を集め、今度は全員連れてきたのじゃよ。そしてその日から、二週間経過している」

「そうだったんだ。……『今度は』?」

「ふふ、わしは以前失敗しておるからの」

 そうなのだ。

 テュテュリスは以前もトアンたちを助けてくれたが、その際チェリカを運び損ねているのだ。ウィンクとともに告げられた言葉はそのときのことを表しているのだろう。


「一番先に目覚めたのはレイン。二番目がシアング。そして三番目がお主じゃよ。……チェリカとルノ、ウィルはまだ起きる気配がない」

 廊下を歩きながらテュテュリスが説明してくれた。向こうから誰かやってくる。──リクだ。両手にもったトレーには紅茶のカップとクッキーが並んでいる。

「やあトアン君、目が覚めたんスか」

「リクさん! 久しぶりですね!」

「ええ。……テュテュリス、シアング君見ませんでした?」

「ああ、ヤツならまだ屋上で拗ねておるだろうよ」

「そうスか……」

「それよりなんじゃそのお茶は」

 くん、テュテュリスの鼻が動くのをみてリクは苦笑した。

「レインさんに、って思って。」

「ほう?」

「ずうっと無理してますからね。……ほとんど寝てないでしょう」

 テュテュリスとリクの会話を聞いているトアンの腹が、ぐうと鳴いた。それを効いたテュテュリスはにやりと笑うとトレーの上の皿に並べられたクッキーを二枚盗み、一枚をトアンにやる。

「あ!」

 当然リクは非難するような声を上げるが、テュテュリスは知らん顔だ。

「トアンが欲しがってたんじゃよ」

「……まったく。」

「のうトアン? どうした、遠慮なく食え。どうせリクはどっさり焼いておるし、この城の食料は豊かじゃ。たかが一枚や二枚で飢えることなんかないぞ」

「……あ、いや、そうじゃ……。いただきます」

 後半はテュテュリスに睨まれたゆえの言葉なのだが、クッキーを乾いた口に無理矢理押し込んでからトアンは続きを発する。どうせ空腹だったのだから、クッキーは災難ではない。

「兄さんが起きてるの?」

「そうじゃよ」

「……無理って、どうして?」

 トアンの言葉にテュテュリスとリクはふっと顔を見合わせ、隣の扉をノックした。──返事は、ない。

「ここにおるよ。説明するより、見たほうが早いのう」


 トアンが寝ていた部屋よりも少し広いが、大よその間取りは変わらない部屋にレインはいた。──いや、レインだけではない。

 ベッドにはウィルが寝ていて、その隣に椅子に座ったレインの上半身が突っ伏していた。──どうやら眠っているようだ。周りには濡れたタオル、水桶、リクが置いていったのだと思われる冷めた紅茶があった。

「やれやれ、やっと寝ておるよ」

「……ずっと、兄さんが看病を?」

「そう。自分の所為だといって聞かぬ。……確かに、ウィルの血の気のなさは尋常ではなかった。かなりの出血があったのじゃろう。首にも傷が残っているし──」

 テュテュリスはそういいながら箪笥の奥から柔らかそうな毛布を取り出してレインにそっとかけてやった。──テュテュリスのレインを見る目がとても優しいことに、トアンは今更ながら気付く。

「わ、テュテュリス! 俺がやりますよ」

「わしとて毛布一枚運ぶ力はあるぞ」

「でも」

「あーもー、うざったいの。ほれリク。お主はルノとチェリカの世話をしてやってくれ」

「……。わかりました。でもあんた、無理して倒れないでくださいよ」

 ばたん、少々乱暴に閉められた扉にテュテュリスは肩をすくめる。トアンはそっとレインの冷たい頬に手を触れ、それからテュテュリスに向き直った。

「母さんから聞きました」

「……む?」

「テュテュリスは、母さんの蘇生の代わりに何かを差し出したんだよね」

「そうじゃけども。まあ、わしなんかのものでアリシアが幸せになるなら安いものじゃよ」

「……何を、差し出したんですか?」

 思わず低くなったトアンの声に、一瞬目を丸くしてからテュテュリスはくつくつと笑った。

「なんじゃ、お主。わしの心配をしてくれとるのか」

「……。」

 沈黙を肯定ととって、テュテュリスは続けた。

「髪の毛じゃ」

「……髪?」

「そう」

 あれだけ長かった髪の毛が短くなったのは、そんな理由があったのか。

 だが、本当にそれでいいんだろうか。

「……いいんじゃよ、トアン」

 トアンの心を見抜いたように、テュテュリスは片目を細めて囁いた。

「わしのように、長く生きているとな。守りたいのに守れないヒトに度々出会うのじゃよ。……わしは、今度こそアリシアを幸せにする手伝いができたものだと思っている。どうじゃ? アリシアは笑っていたかの?」

「……うん。母さんは、とても嬉しそうだった。また父さんに触れる。父さんと居られる。──やっと家族が、向かい合えたから」

「そうかそうか。ほらのう、わしのしたことは間違いではないのじゃよ」

 ほっほっほ、袖で口元を隠してテュテュリスは笑った。トアンはそれを見て──ふっと笑みを浮かべる。

「アルライドも何かを差し出したようじゃが、わしと似たようなものじゃろう。わしの髪には膨大な魔力が宿っておったし、アルライドなんざ存在が大きな力そのものじゃから。爪の先っぽでも十分かもしれんのう」

「そういうものなの?」

「そうじゃよ」

 テュテュリスとトアンは一頻り笑った後、互いに慌てて互いの口を塞ぎ、恐る恐るレインとウィルを見た。

 ──余計な心配だったようだ。二人は、ぐっすりと眠っている。

「ここではなんだし、移動しようかの」

「うん。……ねえテュテュリス、随分城の中が静かになったね。海賊の皆と、ツムギさんたちは?」

 朝の冷えた空気がすっかり浸透している廊下に出てから、トアンは問いかけた。

「むう。海賊のヤツらはお主等が出かけて直ぐにいなくなったよ。ツムギたちは極最近までいたが……ほれ、丁度魂が還って来た日。あの『永遠の雪』を見てからふらりと出かけていったの」

「ふらっと……?」

「うむ。何でも、還って来た魂の光たちを見て──『ビャクヤの生まれ変わりがきた』とかどうとか言いながら裏の山に行ったよ。シンカも、シフォンも一緒にのう。裏の山はまだ雪が積もっておる。危険じゃと言っても聞かんかった。……まああやつは半精霊。お供は魔族と元守護神。簡単には死なないじゃろうから、ほうっておいておる」

 トアンは窓をみた。ツムギが居るという裏の山が見えるかと思ったのだが、開け放った窓からは柔らかな朝の日差しが草原を照らしているのしか確認できなかった。──しかし、気温が上がるのはもう少し待たないといけなさそうだ。

「寒いか?」

 思わず身を縮ませたトアンを見て、テュテュリスが笑う。

「うん──少し」

「お茶を飲み損ねたし、そういえばお主、空腹じゃったのじゃな。よしよし、食堂に行こうか」

「ありがとう。……チェリカとルノさんはどこに? 顔を見てから行きたいよ。それに、シアングが拗ねてるってどういうこと?」

 テュテュリスの後を歩きながらトアンが何気なく訊ねると、テュテュリスが苦笑するのが空気で伝わってきた。

「チェリカはあっちの部屋。ルノはその隣じゃよ。わしは先に行って待っておるから、愛らしい寝顔を堪能しておいで」

「オ、オレは、そんなつもりじゃ!」

「よいよい。若いうちは少々世間から見て危ないことをすべきじゃよ。……シアングはのう、ちょっと機嫌が悪いだけじゃ」

「機嫌が? ……オレは、シアングがそれくらいで『拗ねる』なんて思えないよ」

 にやけそうだった表情を引き締めてトアンは答える。テュテュリスはその変わりようにニヤリと笑ったが、それからふっとため息をついた。

「……正直、わしにもわからんのじゃ」

「え?」

「シアングが何を考えているのか。……この世界にいるわしら竜とは……いや、少なくともこのわしとは、雷鳴竜の考えはまったく異なっておるようじゃ。それ故、今年起きた様々な出来事の捉え方が違う。そしてシアングはその雷鳴竜の一人息子。──わしには、あの子の暗がりに踏み込むことは許されていない」

 テュテュリスはそれ以上の話は終わりだとばかりに背を向けて、食堂に向かって歩き出す。

「さ、二人の顔を見てからおいで」

 一言そういい残して、黒髪の焔竜の姿は角を曲がって──消えた。


 トアンは一人残されていたが、テュテュリスの言葉通りまずチェリカの部屋へ入った。一瞬ノックを忘れたことに焦ったが、杞憂だったようだ。チェリカはベッドから半分落ちるように眠っていた。

「チェリカ」

 勿論返事はない。リクの姿もない──ルノのところにいるのだろうか。

「……チェリカ?」

 あまりにも部屋の空気が静まり帰っていることに耐えられなくてトアンはもう一度名前を呼んだ。──やはり、返事はない。

 わかっている。

「……君が無事で、またこうやって一緒にいられて、オレはすごい嬉しい」

 チェリカの呼吸に合わせて長い睫毛が震えている。こうしていると少年のように見える少女は少女でしかなく、そして邪神の人格の神々しさよりもただ愛らしいという表情でしかない。この瞼が開いて、あの青空のような目で真っ直ぐに見つめられたら、トアンは何も言えなくなって黙ってしまう。もしくは、言葉を吃ってしまうだろう。いつもそうなのだ。ずっと一緒に旅をしていても、落ち着いて会話ができたことなんか随分と少ない気がする。

 ──チェリカが、あまりにも眩しいから。

 トアンは自分の考えに苦笑して、それからベッドの横に置いてあった椅子に座ると再び口を開いた。

「オレは君が、どんなことになっても迎えに行くからね。待ち合わせをしても、ずっと待ってるから。……もういなくならないでくれよ」

 突然のように動き出す事態。トアンにとってそれはあまりにも突発的で、覚悟もなにもできていないのだ。……しかし、チェリカはその過程をひとりで見ている。見ているから、知っているからこそ彼女は落ち着いて──受け入れてきた。

「あの晩、オレは君の手をとって──誓ったんだ。……勝手にだけれども。でも、オレの気持ちは変わらないよ。君を守りたいんだ。ずっとずっと、初めて会ったときからそう思ってた。──君が、好きなんだ。チェリカ……。」

 そこまで呟いてからトアンははっとして背筋を伸ばした。何を言っているのだろう。彼女は寝ているのだ。

「……。ま、まあ練習だな、うん。練習だよ。さて、ルノさんのとこにもいかなきゃ」

 あまりにも痛々しい一人芝居で(自覚があるものだから更に痛い)その場と自分を誤魔化し、トアンは部屋を飛び出すように後にした。



 チェリカは瞳を開けた。寝たふりなんて趣味が悪いなあと心の中でぼやきつつ、青い瞳で窓から見える霞のかかった空を見上げて、それから両手で顔を覆った。

 ──この気持ち。

 トアンから掌に口付けを受けた際、首を傾げたことを思い出す。自分にはさっぱり理解できない。──欠落した、感情。

 しかし、トアンは今再びこの感情を思い出させた。

「……。」

 チェリカの瞳から涙が零れる。

 悲しいのではなく、辛かったのだ。わからないことが、理解できないことが。

(トアンがあんなに、真っ直ぐに伝えてくれたのに……私にはわからない)

 辛い。それに、考える時間はもうあまりない。

(……言えない)

 トアンは知らない。この旅がもう直ぐ終わることを。──本当にもう直ぐ、そこなのだ。別れのラインは、もう目に見えている。

(探さなきゃ。大丈夫、多分見つかる。心の中をひっくり返せば、きっと見つかる……私、トアンに返事を返さなきゃ。でもトアン、私は、もう行かなくちゃ……)

 チェリカはやっと上体を起し、窓の外に広がる景色に目を細めた。──靄で見えないが、大樹があるのがわかる。

(私とお兄ちゃんは行かなくちゃ──エアスリクへ。)



「あれ、トアン君。」

 勢い良く扉を開けると、背の高い男がにこやかに笑っていた。──リクだ。

「リクさん」

 リクはちらりと部屋の中を振り返った。窓際のベッドには、ルノが寝ている。良く良く見ればさすが双子、チェリカと似ているところがある。その頬に影を落とす睫毛を見て、トアンは再び顔が熱を持ったのを感じた。……とっさに隠したが、リクの顔はなんとも言えずにやけている。

「まだルノさんは起きないみたいですねぇ……顔、赤いッスよ?」

「わ、わかってますよ!」

「ルノさんの寝顔にうっとりしたんスか?」

「違います!」

「ああ、」

 ぽん、わざとらしく手を打ってリクは頷いた。

「チェリカちゃんか……」

「ほ、ほっといてください!」

「図星ッスか」

「……。」

「ははは、わかりやすいッスね……あっ」

「?」

 からかいの表情だったリクの瞳がまん丸になるのを見て、トアンは振り返った。……リクはトアンの後ろを見ているからだ。

「よ、おはよう」

 そこには寝癖を撫で付けようと努力しているウィルと、欠伸をかみ殺すレインの姿があった。


「二週間かあ……すげえな、そんなに寝てたんだ」

 トアン、ウィル、レインの三人は食堂へと歩きながらのんびりと会話をしていた。正確にはトアンとウィルだけが話をし、レインは時折窓を通り過ぎる度に外の景色に目を細めている。そのため遅れがちになるレインの手をウィルが取って歩いているのだが、トアンはそれを黙認した。

「そうだよね……ウィル、身体は大丈夫なの?」

「ん?」

「怪我、したでしょ」

 その酷い怪我を、レインが気にしていることは確かだ。だからトアンは声を潜めて言ったのだが、ウィルはあっけらかんとした表情で普通に返してきた。

「腹と、首のこれだろ? 大丈夫大丈夫、もう傷は塞がってる。ま、ちょっと血が足りねえけどさ。レインが付きっ切りで看病しててくれたみたいだし、飯食えばスッキリするよ」

 な。そう言うとウィルは黙って手を握られているレインを見た。レインは少し目を見開いてからつんと顔を逸らす。

「ほら、心配ないってさ。」

 それを見てウィルはにこりと笑った。──何だか二人を包む空気がとても暖かく柔らかいことにトアンは気付いてしまったが、再び黙認した。

 ──と。

 曲がり角の少し手前で、レインの足が止まった。ウィルもつられて止まった。そのままトアンも足を止めた。

「兄さん?」

「レイン?」

 トアンとウィルは同時にレインを振り返る。が、レインの表情から眠気が跡形もなく消え去っているのを見て身を硬くした。……レインは怒りに眉を顰めていたのだ。そのままレインは暫く曲がり角を睨みつけていたのだが、ふっと表情を変えた。──悲しそうな、顔に。

「シアング」

 ウィルと繋いでいた手を離し、レインが一歩進み出る。

「シアング、いるんだろ」

 その声が、しんとした廊下に響く。

「……兄さん?」

 トアンが小声でレインの服の裾を引くが、レインは口元に人差し指を立ててそれを制した。……黙っていろ、ということだ。

 ──一分経ち、二分経ち、それからまた一分程経った頃、角の影が動いた。そして漸く、酷く暗い表情をしたシアングがふらりと現れる。

 トアンはその辛そうに歪められた顔に驚いてウィルに目線を送った。……ウィルも直ぐに不安のような警戒するような目でトアンをちらりと見やって、何か探るように目を細めてシアングを見た。

「……。」

 シアングは、何も言わない。

 その様子を見かねたレインが一歩踏み出し、そっとシアングに近づいた。

「……どうした」

「…………。」

「黙ってたらわからねぇよ。あんた、起きてからずうっと様子が変じゃねぇか」

 いつもより優しいレインの声は、シアングを気遣っているのだろう。だがしかしシアングは直ぐには答えずに沈黙を守り、それでもレインの目が真っ直ぐに自分を捉えていることに気付いていた。

 ──それから、やっと口を開いた。

「……、……あの、さ」

「なに」

「ルノは?」

 突然出てきたルノの名前にレインは一瞬目を丸くしてから眉を寄せて、それからトアンを見た。今のレインの気持ちは良く分かる。どうだった? トアンにそう聞いているのだ。

「あ、えっと。まだ良く寝てたよ」

「……そうか」

 トアンの答えにシアングの顔が変わった。がっかりしたような安堵したような、なんとも言えない表情になってはあと息をつく。

 その様子に、レインが再び眉を寄せた。トアンにはこのときのレインの気持ちも多分分かった。

 ──シアングの口からルノの名前が出たことが、あまりにも意外だったから。いや、意外というよりは……言葉が見つからないが、『不自然』といったほうが近い気がしたのだ。しかし何故? シアングはルノのパートナーで幼なじみで、目覚めないルノを心配する事は自然なことだ。それなのに、この違和感はなんだろう。

「シアングは平気なのか?」

 恐らくまったくそんなこと感じていないのだろう、ウィルが明るい口調でシアングに訊ねる。

「ああ、うん。オレは平気」

「そうなんだ。オレたち、これから飯食いに行くけどさ。シアングも来るだろう?」

「あー……。」

 シアングは困ったように笑うと頭を掻いた。

「悪い、今あんまり食欲ないんだ。……ルノのとこ、行ってくるな」

「ああ、うん。わかった」

 それじゃ、そういい残してシアングは駆け出した。その姿が向こうの角を曲がってしまうと、トアンはため息を吐き出した。──レインと、同時に。二人は顔を見合わせて、それからゆるゆると首を振った。

「……? 何やってんだ?」

 一人ウィルは首を傾げるが、

「う、ううん。何でも……。ちょっと変な感じがしてさ」

 とトアンが答え、レインがこくりと頷くとよくわかんねえよ、と頬を掻いた。



 


 リクが用意した食事はどれもおいしく、久しぶりに胃袋に温かなものを入れたトアンは涙を流さんばかりに嬉しかった。デザートのヨーグルトゼリーに手を伸ばして大好きなブルーベリージャムをたっぷりかけたところで、レインが呆れたようにトアンを見ているのに気がついた。──レインは相変わらずの少食で、何品か食べた後、トアンがデザートを食べる大分前から食後のコーヒーをゆっくりと飲んでいる。

「何? 兄さん」

「……良く食うな」

「うん、だってお腹へってたし」

 ああそう、とレインは返し、トアンと同じようにがつがつと料理を貪るウィルに視線を送った。

「……寝起きでよく、バカバカ食えるな」

「う? ……っ、うん。あーうまい。オレもトアンみたいに腹減ってたしさ。あれ、レイン全然食ってないじゃん」

「食ったよ」

「嘘付け。どれだよ」

「あれとあれだよ」

「足りないよ。もっと食えよ」

「ちょ、馬鹿! やめろ!」

 ウィルが強引にレインの皿に料理を盛りつけたことで喧嘩が開始。ぎゃいぎゃいとした喧騒をトアンは苦笑で見守って、それからデザートをスプーンでそっと掬った。

 やはりデザートも、うまかった。


「シアング」

「!」

 突然背後からかけられた声に、シアングは一瞬身をすくませた。ルノの寝ている部屋のドアノブを握った瞬間だ。まだ、まわしてはいない。

 ドアノブを握ったまま、シアングはゆっくりと振り返った。

「チェリちゃん……起きたのか」

「うん、おかげさまでね」

 にこにこと笑っている少女の右手が印を結んでいる。シアングは一瞬それを盗み見るが表情は笑みを浮かべたまま、そっとドアノブから手を離した。

「……私ね、シアングが嫌いになったわけじゃないんだよ」

「じゃあ、どうして?」

「お兄ちゃんを守りたいから。」

 チェリカは即答し、右手の印を解いた。シアングの緊張が緩んだのが分かる。

「……一つ、聞いていいかな」

「なに?」

「どうして、あんなことを……?」

「……。」

 困ったようにくしゃりと髪を掻き上げるのはシアングの癖だ。返事に困っているのだろう。

「何のことだ?」

 これが、シアングの返事だった。

「そっか。」

 チェリカはそれ以上何も聞かず、シアングの手を取るとそっとドアノブに乗せてやった。

「私、シアングの味方だよ」

「ルノを守りたいんじゃなかったのか?」

「それもそうなの。……でも、シアングは今私にとめられたから、暫くは何もしないでしょう。」

「……すげえ子だよ、チェリちゃんは。」

 二人は笑いあい──シアングは悲しそうにだったが──一緒にドアノブをまわして、手を繋いで室内に入った。

「シアング、私ね」

 扉を閉めて、未だ眠りの世界にいるルノを見やってからチェリカが口を開いた。

「……ん?」

「……ううん、『私たち』ね」

「うん」

 シアングはそんなチェリカの様子を見て、優しく微笑むと少女を椅子に座らせた。その横にしゃがみ込んで繋いでいた手をそっと離す。無理強いはしない。話したいときに、話せばいいと考えて──そして、そのままルノの髪を梳いた。さらさらと指をすり抜ける髪は、昔とは違う長さで終わってしまう。

「私、帰ろうと思うんだ。お兄ちゃんも連れて」

「……帰る?」

 そこに自分が含まれないことを残念に思う気持ちと、ルノが自分の目の届かないところに行くのだと喜びを感じる自分を殺し、シアングはそっと呟いた。

「うん。エアスリクに」

「──チェリちゃん。それって帰ろう、じゃなくて帰らなきゃいけないんだろう」

「……」

「そうだよな。一応王であったクラインハムトが消えて──クランキスさんもセフィラスさんもいないんだから。王位後継者である二人は、混乱を抑えるために帰らなきゃいけねーんだろ」

「よくわかってるね、シアング」

「まあな。でも大体、この旅を知ってるヤツにはわかるって」

「そう、だね」

「……元気ねーな」

「…………。もし、一度エアスリクに帰ったら──もう二度と戻ることはできないと思ってさ。そしたら、お兄ちゃんはシアングに会えない」

「チェリちゃんもトアンに会えない」

「……。」

 チェリカの目が揺れる。僅かな動揺を見せ、それを隠すようにチェリカは俯いた。

 シアングはそっと少女の肩に手を置いてやる。

「トアンには言ったのか?」

「ううん、まだ。……いえないよ」

「そうだよな」

「私、『お兄ちゃんが起きたら』って逃げてるの。それに、まだトアンは私が起きたことを知らない……寝たふり、しちゃったから」

「……」

 ──きっと。

 彼女は知らないのだろう、とシアングは思う。

 彼女は、チェリカはその気持ちがどこから来ているのか。何を意味するのか。彼女には理解ができないのだ。

「どうせ、しばらくはここに居るんだ。そのままゆっくり、考えたらいいんじゃねーの」

「ここって焔城だよね?」

「そう。チェリちゃん、ルノのこととか国のこととか、全部抜きにして考えてみなよ」





 ──トアンが目覚めた日から、さらに三日経った。シアングは段々元通りになっていき、あの妙な気配は感じなくなっていた。チェリカも目を覚まし、城の中を探検している姿が見かけられた。その探検の相棒はまちまちだったけれどもトアンも同行したことがある。──大抵、テュテュリスの宝物を見つけ出して怒られるのがオチだった。ルノはやっと目を覚まし、リクの淹れた紅茶を飲みながらトアンとよく話をした。朝霧が綺麗だとか、少し寒いとか──チェリカの元気がないだとか。今までの旅の記録を一緒に書いたりして、体調を回復していった。テュテュリスは其々の変化について決して何も言わず、代わりに自分の昔話を教えてくれたりした。

 ──レインが、最近城の屋上から遠くを見ていることに気付いたのは全員だった。

 そしてその日の夕方、ウィルはやっとレインの隣に立った。

「何を見てるんだ? そうやって、ここんとこずっと。」

 そっと問いかけるウィルの声に、すぐ隣に立つレインは目線だけ動かしてまた直ぐに夕日に目をやった。

 暫く続いた沈黙にウィルが横を盗み見ると、レインの白い頬が夕日に赤く染まり、淡い金髪に赤が透けている。思わず息を飲み込んでから、誤魔化すように咳払いした。

「……別に、これといってなにか見てるわけじゃねぇんだ」

「え?」

「親父がオレに言った言葉が忘れられなくさ。……ジュタの花は、もうねぇんだって考えたら、なんだか……。」

「──レイン。オレが絶対探してやるから、怖がらなくていいんだぞ?」

 ウィルにしては勇気のいる言葉を告げたのだが、レインの横顔には何の変化も見られない。

「怖がってるわけじゃねぇんだよ。……なんだろう、言葉がうまく見つけられないけど……。こうやってここに立ってるとさ、ずうっと遠くまで見えるじゃねぇか。今までどれだけ自分が狭い世界にいたのかって考えたりして、……らしくねぇな」

 レインの声は透明だ。悲しみも嬉しさも、何もない。ウィルは出会った当初のレインの様子を思い出して、手に持っていた毛布を握り締めた。これはシアングに持っていけといわれてもってきた品だとも今更思い出す。

 そう、初めて会ったときのレインの声に良く似ていたからだ。カラッポの声。でもそれは悪い意味だけではなくて、恐らく、本当に自由になったレインは、これからどうしたらいいかわからないのだろう。

「……寒いか?」

 返事を待たずに、レインの肩と自分の肩に毛布をかける。昼間は暖かい太陽も、沈んでいく今は寒さを感じる時刻だ。嫌がられないし文句もないから、ウィルはそのままレインの肩に手を回した。──彼との距離の保ち方を、やっとわかってきた気がする。レインがウィルに慣れてくれたのもあるのだろうが。


「……トアンを」

「ん?」

「トアンを置いて、行くことにした」

「レイン?」

「オレは、自由になった。これからもトアンの傍にいて、あいつの兄として守り続けることはできるはずだ。……けど、オレは人殺しだ。」

 青に溶けそうな太陽を見ながら、ウィルは口を挟まないでレインの呟きに耳を傾ける。

「自分勝手だとは思ってるさ。こんなに助けてもらったのに。……でも、オレは、あいつを置いて行くよ」

「オレは、ついてってもいいのか?」

「……。」

 レインは答えなかった。それ以上は、何も。




 その日の、晩のこと。

 夜の帳が下り、もう真夜中を過ぎて朝に近い時刻だった。レインは暗闇の中で起き上がり、そっと辺りを見渡す。窓から入る月明かりが柔らかく室内を照らしていた。

 ベッドから降り、手早く身支度を整えてからベッドサイドにおいてあった殆ど荷物が入っていない肩掛け鞄を手に取って、何だかいつもより荷物が重いと感じる自分に苦笑する。──中身の確認は、夕方にしてある。


 ──大丈夫。



 できるだけ音を立てないように扉を開けて、肌寒い廊下に足を踏み出す。そのまま、目の前の扉を静かに開けて中に入った。

 トアンが寝ている。寝相も良く、寝言も言っていない。歯軋りもしてない。眠る前と同じしっかりした格好で、月明かりの下で寝息を立てていた。

「……オレは、行くよ」

 レインはベッドの横に身を屈め、優しくトアンの髪に手を触れた。

「何も返せなかったけど……オレは、お前の兄でいられて、中々楽しかったよ。お前、バカだからな。もう少しついててやりたかったけどさ、今ここで行くのが……いいタイミングだと思うんだ」

 トアンの寝顔は笑っているようだ。──いい夢でも、見ているならいい。

「……ホントのこと言うとな、時間がないんだ。もう、何をしてても眠気が覚めねぇんだよ。これが眠りの病なんだな」

 さて、とレインは立ち上がってトアンの髪から手を離した。

「それじゃあ、オレは行くよ。これ以上ここに居たら、どうでもいい弱音ばっか吐きそうだし。……それじゃあな、トアン。今まで、……」

 立ったまま身を屈め、レインはそっとトアンの額に口付けを落とす。

「……また、会えればいいけどな」

 入ってきたときと同じように、音を立てずに静かに部屋から出た。完全に扉が閉まる瞬間、小さな声でレインなりの祝福を告げて。

「おやすみ。」


 再び廊下に出たレインは、すぐ傍の扉を開けた。その部屋の中では、一つのベッドにチェリカとルノが仲良く眠っている。……チェリカの寝相が酷いので、ルノが少し可哀想だけれど。

「ルノ。最初のあの時は……悪かった。チェリカ、ありがとう。オレのことを守ってくれて。……お前等二人には、どれだけ感謝しても足りねぇな」

 ずれかかっている毛布を直してやって、トアンにしたように双子の額に優しいキスをした。くすぐったかったのかルノが何か呟いたが、レインはその微笑ましい様子に小さく笑って部屋を後にする。


 今度は、双子が眠る部屋の傍のドアノブを回し、レインは同じように部屋に入った。シアングが寝ている。──ソファの上で。疲れが溜まり、珍しくうっかりそんなところで寝てしまったのだろう。シアングのそんな一面を見るのは本当に珍しい。レインはふうと息を吐き出し、ベッドの上でキチンと畳まれていた毛布をひっぱってシアングにかけてやった。

「言い訳だけど。あんたとの約束、忘れたわけじゃねぇから。……オレはあんたに、本当に助けられた。ありがとう。できることなら、もうルノとあんまり喧嘩しないでくれよ。……もし、また会えたらだけどさ。もう一回酒飲もうな」

 レインはほんの少しためらって、それから身を屈めた。


 最後に残った部屋のドアノブには、レインは手を触れなかった。何かから逃げるように、振り切るように、ただ暗い廊下を走って──焔城の城門から飛び出した。




 もう夜空が白んできている。急がなくては、彼らが目を覚ましてしまう。

 城門の外に続く緩やかな坂を走りながら、レインは思う。

(これで、良かったんだよな)

 目が覚めたとき少年は怒るだろうか。呆れるだろうか。……どう、するんだろう。

(でも、これで良かったんだ。あいつはお人好しでバカだから、オレの為に人生無駄にする必要はない)

 ──本当に?


(良かったんだ)


 少しだけ足が疲れている。緩やかな坂は、足を少しずつ重くしている。

(さよなら)

 息が上がっていく。目の前の坂は、まだまだ続いている。

(さよなら)

 苦しい。けれど、この苦しみは身体だけじゃない。……もう直ぐ、坂が終わる。

(……さよなら。)

 坂の頂上についたら、少しだけ休もうか。そうして、残してきた仲間のことを少しだけ考えてやろうか。


「どこ行くんだ?」


 レインは、足を止めた。

昇ってくる朝日を背中に背負い、坂の頂上にウィルが立っていた。身支度もしっかり整えているようだ。リュックを括り付けたプレーズに寄りかかるようにして、レインを見ている。

「……どうして」

「レインは自分が、自分勝手だって言った。」

 ウィルの口調は怒っているようだった。レインは目線から逃げるように、俯く。

「オレは聞いたよな。『オレは、ついてってもいいのか?』って。でも、レインは答えなかった。だから、オレも自分勝手に考えて行動した。──つれてけよ」

「……」

「還りの聲の城で、レインはオレに『ずっと一緒に居るっていったくせに』っていって、オレをうそつきって呼んだ。それって、一緒に居るってことを認めてくれてたからだろう?」

「……。」

「この前だって、レインはオレの為に泣いてくれただろ。今更お前を一人にできるか!」

 ウィルの強い口調にレインが顔を上げた。ところが、レインが顔を上げた先で見たウィルの表情は怒ってはいなかった。──何だか泣きそうな顔をしている。

「……守るって決めたんだ。一緒に行くって決めたんだ。隣を歩くって決めてたんだ。……だから、オレを置いていくな」

 泣きそうな少年を見て、レインは大きく深呼吸をした。一歩踏み出して、その距離を縮める。

「……ウィル」

「ん」

「…………本当に、いいのか?」

「!」

「お前に甘えて」

「……へへ、そういうの、甘えるって言わないんだぜ。勿論大歓迎だ」

 やっとウィルが笑った。昇ってくる太陽と同じくらい、眩しい笑顔で。ウィルがプレーズに跨るのを見て、レインはその後ろに横向きに腰掛けた。──何だか懐かしい。アルライドを見送った後は前向きに座っていたけれど、こうやって横向きに座ればウィルの背中の体温が伝わってくる。

(一人にできるか、なんて。オレもそう思ってたよ。泣きそうな顔して、バカなヤツ)

 自然に安堵の笑みを浮かべるレインを肩越しに振り返って、ウィルが訊ねる。

「で、何処に行くんだ」

「……そうだな、とりあえず……。オレとお前の、村を見たい」

「村を? っていってもさ、オレの村は昔に滅んでるし、レインのとこも……焼かれただろうし」

「それでもいい。村の跡地に行くんだよ。で、まずは墓参りだな」

「ジュタの花は?」

「そのうち見つかるだろ。」

「……お前なあ」

「なにせ、守森人がいるんだからな」

「……う」

「それに、アルがこの世界のどこかで待ってるんだ。銀色の丘も探すさ……嫌か?」

「い、嫌じゃねえよ」

「ホントに?」

「ホントさ。もうレインを渡さないから。……逝きたいなんていうなよ」

 そこまで言って、ウィルは前を向いてしまった。耳まで赤くなっているのがレインには分かっている。そう思うレインの頬も、ウィルが振り返れば桜色になっているのが分かったはずだ。

「……ウィルアーク」

「なんだよスノー」

「……やっぱり、レインの方がいいな」

「オレも。まだ実感わかないし。ウィルで。」

「……逝きたいなんて思わねぇよ」

「ん?」

「いや? なんでも」

「じゃ、いくか!」

 ウィルの元気な声が太陽と共にはじけた瞬間、ペダルが漕ぎ出されて二人はゆっくりと進んでいく。




「──お前がいるから。」




「行っちゃったね」

 焔城の屋上、ウィルが片付け忘れた毛布に包まったままチェリカが呟く。隣に居るルノは目尻をそっと拭った。

「ウィルも、兄さんも。最初は凄い仲悪かったけど……っ……いってらっしゃあい! 気をつけてね!」

 トアンはそう叫んで大きく手を振った。もう、二人の姿はあんなに小さい。恐らく気付いていないだろう。それでも見えるように、聞こえるように、少しでも大きく叫んで手を振った。

 チェリカはそれを見てトアンの隣にいくと、自分も同じように手を振る。

「レイン、ウィルー! またねぇええ!」

「いってらっしゃああい!」

「気をつけてね──!」

「……ちゃんと二人で、仲良くやっていけるかねー」

 頬を擦りながら、シアングが手すりにもたれた。ルノはシアングを見てにっこり笑うと、楽しそうに訊ねる。

「ちゃんと二人分あるのか?」

「勿論……なんでそんなに嬉しそうに笑ってんだ?」

「気付いたときの二人の反応が楽しみなんだ」

「オレたちにゃ、見えないぜ?」

「それでもいい。……それでも。」



 坂を下っていく。頬を冷たい風が撫でていく。

 レインは今更ながら、膝の上においている肩掛け鞄が温かいことに気がついた。そっと手を入れてみて、夕方チェックしたときには『なかったもの』を引っ張り出す。

「あれ」

「どうした?」

「……いや。あいつらからさ。餞別だって」

 一瞬だけウィルは後ろを向いて『それ』を確認し、くつりと笑った。

「ちゃんと二個あるぜ」

「ああ」

 レインも笑みを浮かべると空を仰ぐ。夕焼けではない、温かく力強い太陽が昇る空。でも色はいつしか仲間が言ったように、自分の瞳そっくりだ。

「どこで開ける?」

「そうだな……」

「あ、レイン、あれ見ろよ」

「?」

 ウィルが顎で指した先は、何か見覚えのある崖と林。

「……ああ」

「覚えてる?」

「お前と、初めてあった場所だ」

 笑いながらそう答え、ああ、幸せだとレインは感じた。今この時間がとても楽しいと。

「懐かしいな」

「うん、あの時は敵同士だっただろ」

「……もう、敵にはならないからな」

「わかってるよ。一々言わなくて」

「レイン」

「……何?」

「……どこであけようか」

 一瞬怒ったように名前を呼んでから、笑い混じりにそう言うウィルの背はとても温かい。

「どうする?」

「……あそこにする?」

「我慢できねぇのかウィル。まだ焔城の近くだろうが」

「そうだけどさ」

「もう少し行って見ようぜ。で、腹減ったら食おう」

「そうだよな」

 坂で焔城が見えなくなっていく。レインは一度焔城を見て、そこにいるだろう仲間のことを考えてもう一度笑った。

 シアングから受け取った弁当を鞄にしまうと、スピードを上げていくプレーズから落ちないようにウィルに捉まる。


「──あいつら起きてたのかよ、性質悪い」

「まったくだ」





「あれ……レインさんとウィル君は?」

 朝食の席で紅茶を注いでいたリクがトアンに訊ねた。

「……え、えっと」

「なんじゃ、気付かなかったのか? あの二人は旅に出たぞ」

 トアンの代わりに答えたのはレモンを絞っていたテュテュリスだ。

「え? だって、あの二人はトアン君たちの仲間でしょう。先に行っちゃったんですか?」

「んなわけあるか。……あの二人はの、もう自分の行くべき道を見つけておるのじゃ」

「……そういうものですか」

「うむ」

「テュテュリス、良くわかったね」

 チェリカは目玉焼きの黄身をナイフで割りながら聞く。つぷ、切り口から溢れた黄身は中が半熟ということを教えてくれた。

「ある程度、城の門くらいまでなら気配が読めるからのう。しかしトアンよ、寂しくはないか?」

「……。オレは、別に。ホントは少し寂しい。けど、兄さんが決めたことだし」

「ふむふむ」

「……な、なに?」

「お主、中々大人になったのう」

「そう?」

「そうじゃよ」

 トアンに向いていた金の切れ目がチェリカを捕らえた。チェリカは一瞬手を止め、何事もなかったかのようにまた動かす。

「チェリカ」

「……なあに?」

「きいていたじゃろう。トアンはもういい大人じゃ。……ちゃんと受け止められる」

「……。」

 今度はチェリカの手は、はっきりと止まったまま制止した。

「え、オレが何?」

 状況を飲み込めないトアンが慌てて言う。シアングがほんの少し目を細め、ルノが不思議そうに首を傾げているのが視界に入った。

「リク、ちょっと」

「な、なんスか」

 テュテュリスにリクがつれられて二人が部屋からいなくなり、四人だけが広い食堂に残った。トアンは訳が分からずにチェリカを見る。

「……オレが、どうしたの?」

「……。あのね。私──ここで目覚めた瞬間から、ずっと考えてたんだよ。レインとウィルに先を越されちゃったけど……」

「何を?」

「……。」

 チェリカは言いにくそうに沈黙をし、流れ出る黄身を見つめていた。……それからゆっくりと顔をあげ、真っ直ぐにトアンを見る。


「私、エアスリクに帰る。──だから、旅は、もう終わる」





「……え?」

 いつもは耳に吸い込まれる彼女の声が頭の上を素通りし、トアンは苦笑して誤魔化した。

「どういう」

 しかし、トアンの誤魔化しをチェリカは認めてくれなかった。きっぱりと、ただ一言でもう一度告げる。

「帰るの。」

「どうして……」

「……クラインハムトが消滅した。お父さんのいないエアスリクを、一応支えてきたのはあのひとだから。国っていうのは、誰かが上に立たないと成り立たないの」

「で、でも!」

「……でも、はないんだよ、トアン」

 静かな声だった。

「もう決めた。帰らなきゃいけない。クラインハムトが消えても、お父さんとお母さんの封印はまだ解けてない。……お兄ちゃんも、帰るんだよ。」

 目を丸くして状況を見ていたルノのことをちらりと見て、チェリカは言った。

「私たちにやるべきことを、私たちがやる。私たちにしかできないことを、私たちがやるんだよ。もうクラインハムト派は消え始めてるだろうし、お兄ちゃんに何か言うひとは私がやっつけてあげるよ。……大丈夫、お父さんの友達があの城にはいっぱいいるんだから」

「だがチェリカ! ……それでいいのか? もしエアスリクに戻ったら、もう二度と下には来れないだろう。もうこれ以上、地上に住む人々との交流を持たないために」

「……お兄ちゃんはさ、このまま私たちが帰らないでもいいって本気で考えてるの?」

 チェリカの青い瞳がほんの少し悲しげに揺れた。が、彼女はそれ以上の感情を押し潰すと席から立ち上がった。

「優しいからそう思うんだよ。でも私たちが戻らなかったら誰がお父さんとお母さんを助ける方法を探すの? 誰があの国を支えていくの?」

「それは……」

「私は帰る。お兄ちゃんが何を言っても、お兄ちゃんもつれて。……だから、もう、旅はここで終わりなんだよ」

 最後まで淡々とした口調で告げると、唖然とするトアンとルノをその場に残しチェリカは食堂から出て行ってしまった。

 トアンは呆然と、たった今告げられた言葉を呟く。


「……もう……旅は、ここで終わり……」

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