第52話 星の残像と還り道

「何だって!?」

 アルライド、という言葉にいち早くレインが反応した。

「どういう意味だよ?」

「……わたしは、大きな罪を犯したわ。死してなお、誕生の守護神のもとへいかずに彷徨って、そう、赤い蝶の姿で彷徨っていたの。トアンには会ったわよね」

「う、うん」

「普段は、勿論キークの傍にいたのよ。でも、キークはわたしに気付けない。わたしも話掛けられない……だから、砂漠で一度わたしとレインを繋いだとき、あんなにキークは取り乱してた」

 アリシアの瞳が悲しそうに曇った。キークがすまない、と呟くと、あなたは何も悪くないわとすぐにアリシアは否定をする。

「……。わたしは誕生の守護神の裁きを受けなくちゃ受けるはずだった。それなのに、私は扉の前で──トアンたちは見たわよね? あの扉の前まで行ったら、アルライドがいてね。お茶に誘われたの」

 俺に、あなたを裁く権利はないんです。アルライドはそう言ったらしい。


『どうして……? ダメよ、私情挟んじゃ。わたしがレインのお母さんだから、そう言ってるの?』

『いいえ、違うんです』

『じゃあ、怒ってるのかしら。わたしがあの子に、スノーという名前をつけて繋いだこと』

 アルライドは直ぐには答えなかった。

彼が手を傾けると、古びたポットからこぽこぽと音を立てて紅茶が流れ出た。アリシアはアルライドの正面に座って、これまた古びて、だが磨き上げられたカップを受け取る。二人が座っている椅子、そしてテーブルはどこかひょろりとしていて頼りなく、だがとろりとした綺麗な乳白色をしていた。テーブルの真ん中には厚焼きのクッキーが皿に盛られていて、クッキーの上にはアイスクリームが乗っている。

 アルライドは、自分のカップに砂糖を三つ、ミルクをたっぷりいれてかき混ぜながら、深い緑色の目を細めた。

『俺は確かに、あなたのご子息の親友です。あなたによって俺をレインは引き合わされましたが、それは俺にとって素晴らしいことだった。怒るはずないですよ』

『ええと、それじゃあ……』

『……焔竜を覚えていますか?』

『テュテュリス?』

『そう。──あのひとから、伝言です。』

 まあ、なにかしら。アリシアは首を傾げながら紅茶を一口飲んだ。砂糖は五つ。ミルクをほんの少し入れて。

『テュテュリスは、あなたのことをずうっと気にかけてきました。キークと出会うより昔の──たった一人だったあなたを見て、あなたを実の妹のように思っていた』

『……。そうね。わたしも、テュテュリスのことが大好きだった。姉さんのように思っていたわ。今でも変わらないわ。外には満天の星がどっさり輝いてるとか、風がちくちくと肌を刺すとか。色んな話をしてくれた。……わたしが寂しくないように綺麗な花を摘んできてくれたこともあったし、なにより、閉じ込められててつまらない話しかできないわたしの言葉を、いつも目を細めて聞いてくれた』

『異端視されるあなたを放っておけなかったんでしょうね』

『そうねえ……。あのひとは、とても優しいから……。』

 アリシアはそっとカップの縁に再び口付けた。温かいミルクティが染み渡っていくのが分かる。

『伝言はそのテュテュリスから、あなたの魂が逝った、ということについて、あなたの権利を訴えたものです。あなたは幸せにならなくてはならないと。』

『わたし、幸せよ』

『本当に?』

『……。わたし、これ以上望むとしたらきっととでもないことよ。今まで秩序を乱したわたしが言うのも変だけど、わたしが幸せになることは世界に波紋を響かせることになるわ』

『……。』

『特別扱いはだめよ、アルライド』

『ところが、あなたはそれを拒否する権利はありません』

『何故?』

 アリシアが首を傾げると、アルライドは暫く沈黙した。その目はじっと、ほぼ白になっている自分のミルクティに注がれている。

『……『もう、受け取っている』んです。そして、『既に差し出して』あります』

『え?』

『あなたが再び、あちらの世界で足を踏み出すだけの、ちょっとした対価をね』

『対価……? どういうこと?』

『あなたが自分で仰った様に、あなたの望みを叶えても波紋を生まない。──最も、あなたの言う波紋は恐らく、『死者が生き返る例──死者の例外』をつくってしまうことで、俺が言う波紋は『修正に響くかどうか』です』

『……よく、わからないわ。でも、でもわたしが生き返るなんて……散々生き血を啜ってきて、死んでからも彷徨って、息子の身体を乗っ取って──そしてその身体で血を求めたわ。これは許されないわよ』

『……。アリシアさん。あなたは罰されたい、罰されなければならないという気持ちを持っています。とても、強く。──けれども、あなたは、あなたが思ってるほど穢れていません。むしろとても純潔です。あなたに最初、吸血を強要したのは周りの人間です。あなたはただ、幸せを求める普通の少女だった──そこで、あなたをもう一度送り出すことにしました。不幸な経験を拭うことができる、愛する人のもとへ。これは焔竜と俺で勝手に決めたことです』

 アルライドは立ち上がり、つ、と暗闇を指した。

『還りなさい。還り道はまっすぐに走っていけばいいですから』

『……そ、それ本当? わたし、もう一度キークに会えるの?』

『ええ。あなたの身体も熱を取り戻しました。今度こそあなたの身体で、息を吸って走って、世界を見てください』

『ありがとう!』

 嬉しくて嬉しくて、アリシアは立ち上がって暗闇に走り出そうとした。が、ふと立ち止まるとのんびりをお茶を楽しんでいるアルライドを見た。

『……。何を、差し出したの? 対価を受け取って差し出しているってことは、払ったのはテュテュリスとあなたでしょう?』

『……。』

『アルライド?』

『テュテュリスは──』

 ところが、アリシアは結局二人が何を犠牲にしたのか聞くことができなかった。アルライドの言葉が終わらないうちに、闇の中を切り裂く鐘の音が響いてきて彼の言葉を飲み込んでしまったのだ。

 還りなさい、アルライドが手で指示をした。彼は、珍しく少し焦っているようで、必死に暗闇を指していた。

(きっとあの鐘の音が消えてしまえば、わたしは二度と還ることができなくなるんだわ)

 アリシアは無意識のうちに悟ると駆け出していた。──深い闇が、突如光に変わって──そして──……。


「それから、ガラスの中で目が覚めたわ。本当にわたしの身体が動いてて、とりあえず血華術でガラスを砕いて、この城の結び目が変化してるのに気付いたの。キークたちを探してきたんだけど、そのとき、トアンたちの仲間の姿がどこにもなかったのよ。魔法で弾き飛ばしたみたいにわたしの術が破られていたから、多分、先に逃げ出したのね」

 アリシアはふっとため息をつくと、そっと顔を曇らせた。傍で走るレインの顔も曇っている。──アルライドの差し出したものと、仲間の安否が気になっているのだろう。

「……。ひと一人、生き返らせるてその波紋をなくすとすると、簡単な犠牲じゃダメだね」

 トアンの背の上からチェリカが言う。そうなのだ。アリシアもテュテュリスのことを気にしていた。

(テュテュは──無事なの?)

「簡単なものじゃないとしたら、例えば?」

 トアンがチェリカに問う。トアンは、「母さんはテュテュリスをお姉さんみたいに思っていたのか。あのひとは中性的なひとだから結局どっちなんだろう」と心の中で呟いていたので事の重大さに気付いていなかった。

 チェリカはトアンの問いに、ちらりとアリシアとレインを見た。言うべきか言わないべきか、でももう此処まできたしなあと思い直してから、頭の中をひっくり返す。

(……ええと、アリシアの魂をもう一度引っ張ってくるとすると……)

 簡単に言えば、悪魔と取引するときと似ている。チェリカの本体であるヴェルダニアの元に対価を出して何かを要求することは何度かあった。

 少し考えから逸れるが、人間は時として悪魔と取引する。自分のどうしても欲しい物、叶えたい望みのために。だが結局、悪魔と取引してしまえばその時点でその人間は人間ではなくなり、ヴェルダニアはどの人間もその魂を食べてしまってきた。

(アルライドとテュテュリスが世界に対して差し出したもの……アリシアの魂を引っ張ってきてその身体にもう一度熱を渡しても、何の影響も生まないようにすること……『記憶』か『感情』か、……いや、やめたほうがいいかな)

 チェリカは、思考をとめた。

「ごめん、トアン、わからないや」

「そっか……」

「うん、でも、君はもし何かにとんでもないものに取引を持ちかけられても受けちゃダメだよ」

「……?」

 妙に、その一言はトアンの心に響いていた。


 ──ついに、アルライドとテュテュリスが何を犠牲にしたのかは、わからないまま。



 通路の突き当たりには巨大な扉が聳え立っていた。が、扉の周囲には瓦礫が積み重なっており、トアンたちの足をとめた。

「参ったな、ここを通らなくてはどうしようもない」

 キークが妙に落ち着いた声で呟いた。

「どうすんだよ」

 両膝に手を当てる形で身体を支えながら、レインが訊ねる。──レインの体力も、もう限界だろう。彼は決して口にはださないが、荒い息を何とか整えようとしているその仕草は胸を締め付ける。

「あぁ……。結び目が変わった以上。この城は私の思うとおりに動かなくなっている。私の力はどうにもならないが──チェリカ。一つお前の魔法で、この瓦礫共々吹っ飛ばしてくれないか」

「うん、それがね。私も是非そうしたいと思ってたんだけどね」

 チェリカは煮え切らない返事をし、右手を上げた。しゅるしゅるとその手に真っ黒な炎が収縮していくが、すぐにそれはポンという間抜けな音を立てて弾けてしまう。

「やっぱりどうにもならないみたい。休んでた分、魔力は少しは回復してるけど、魔法を発動させるまでには足りないの」

「そ、そうなのか」

 キークは少し唖然とした表情になってから、一人でブツブツと独り言を言いだした。アレコレと考え始めたようだ。

 ゆさゆさと篩いにかけるように、揺れは大きくなっていた。ミシミシと柱が悲鳴を上げ始めたことにトアンは動揺して声をあげる。

「こ、ここも危ないんじゃない?」

「そうだねえ」

「どうして君は落ち着いているんだよ!」

 トアンの叫びに、チェリカはくすくすと謎めいた笑みを浮かべて肩を震わせた。と、アリシアがキークの腕から抜け出してそっと瓦礫の山に触れる。

「レイン、わたしを手伝ってくれる?」

「え?」

「わたしと一緒に、この瓦礫の山を粉々に吹き飛ばすのよ。あなたが少しでも力を出してくれれば、わたしがコントロールするわ」

 アリシアはレインの手をしっかりと掴むと、そのオッドアイを覗き込んだ。

「……怖がらなくていいのよ。あなたは、もう血華術を使えるんだもの」

「……。」

 しかしレインはその朱色の目から逃れるようについと視線を逸らし、暫く考えている様子だった。

「お願い、力を貸して。あなたの力がないとわたし一人じゃ無理なのよ。このままじゃ、トアンも、チェリカも、みんな生き埋めになっちゃうわ。あなたの大事な、仲間とパートナーもね」

「! ……わかった。どうすればいい?」

 どの言葉がレインの心を動かしたのかはわからない。が、レインはつと顔を上げて頷くと、アリシアに導かれるまま瓦礫に向かって手を伸ばした。

「……大丈夫、リラックスして。レインならできるわ。さあ、お母さんと一緒にやるわよ。息を吸い込んで、一、二の、三!」

 二人の重ねた白い掌から黒と赤の決して交わらない光が溢れ、扉に飲み込まれる。──次の瞬間、凄まじい爆風とともに扉もろとも瓦礫は粉々に砕かれ、扉のあった場所はぽっかりとした穴になっていた。

「すごいわ! さすがわたしの子ね!」

アリシアは手を叩いて喜んだが、レインはぽかんとした顔で自分の掌を見つめていた。

 ──凄まじいばかりの破壊力。それがほんの少し、怖い。

「……すごい力だな」

 と、キークが呟いた。彼の声に畏怖は全くなく、ただ、感心したようだった。

「恐れなくていいんだ。お前の力は、本当にすばらしいのだから。そのうちにお前の血華術はもっと色々発達していくだろう。──ただ闇雲に人を殺す、嫌な能力ではないんだよ。現に今、私たちを助けたんだ」

 その声に、レインが顔を上げる。少し気が楽になったのだろう、今更ながら隣にいる母親を見て微かな笑みを浮かべてみせた。

 ──と、そのぽっかりとした穴を、何かが過ぎった。赤紫の目立つ色がついと走り抜けていく。

「シアング!」

 チェリカが叫び、トアンの背から飛び降りて穴に飛び込んだ。

「待ってよチェリカ!」

「シアング、シアングでしょ?」

 先程の髪の毛はシアングのものだろう。しかし、チェリカの声は聞こえていないのかその足音は離れて行くばかり。

「……、ごめんね!」

 チェリカはすばやく身を屈め、小さな瓦礫を拾い上げると振りかぶって──暗闇に投げた。

「ちょ、何を……!」

「しぃ!」

抗議に口を開きかけたトアンに指を突き出して、チェリカは耳を澄ませているようだ。トアンもそれに倣うと、先程の足音はもう聞こえなかった。止まっている。

「この奥か。死んだのか?」

 穴の中に飛び込んできたレインが首を物騒なことを言って傾げた。

「足止めのつもりだったんだけど」

「息の根も止まってるんじゃねぇか」

「もう、レインの悪ふざけはなんかリアルだよ」

「と、とにかく言ってみよう」

 キークとアリシアも穴を潜っていることを確認して、トアンは先にチェリカとレインとともに暗闇を走った。


 暗闇は暫く走るとさっと開け、大きな部屋になっていた。部屋といってもガラスのテーブルも銀の食器もティーセットもなく、ただ崩れかけた壁に囲まれ、床には足の踏み場がないほどレンガや石が無造作に積んである。──まるで、建設途中の神殿のようだ。

 床と壁全体が淡く発光し、部屋の中を薄い青に染めているのが異質な空間だった。トアンは無意識のうちに感じ取る。

(ここは、まだ創ってる途中か、とりあえず試作的においてある場所なんだ)

 キークはここを完成させる時間がなかったのだろうかと思いながら、トアンはあっと息をのんだ。比較的平らになっている瓦礫のうえに血に塗れたルノが横たわっており、その隣にルノよりも酷く出血しているウィルが寝かされていた。そしてその瓦礫の下に隠れるように、シアングが蹲っているではないか。

「ウィル、お兄ちゃん!」

 チェリカが瓦礫の上に飛び乗って、二人の身体に触れて泣きそうな声を上げた。

「レイン、助けて! 二人が死んじゃう!」

「で、でも、オレにはまだ、そんな傷は……」

 珍しく自信がない声で答えながら、レインもチェリカの横に乗って二人の容体を見た。チェリカはルノの両耳からピアスを外してしっかり握ると、レインを真っ直ぐ見つめた。

「お願い、ウィルの首筋の傷を消して……ううん、出血を抑えるだけでいい。私はピアスで、ウィルのお腹とお兄ちゃんの全身の傷を治すよ」

「……でも。」

「ウィル、死んじゃうよ! いいの? レインの目、覚ましてくれたんでしょう?」

「……!」

 レインの瞳の奥が揺らめいた。薄い唇が戦慄くように震え、白い頬が闇に凍えた。チェリカはじっとレインの瞳を見つめ、ふっと微笑みを向けた。

「大丈夫だよ」

「……。」

「怖がらなくていいよ。でも、君がやらなきゃ。守りたいヒトは、自分の手を伸ばして守らなくちゃ、その手からなくしてしまう。……ウィルは、レインにとって守りたいヒトなんでしょう?」

 レインが目を閉じた。──次に瞼をあけたとき、彼の瞳にはいつもの冷静さと、強い意志を宿していた。

「……チェリカ、ウィルとルノを、頼むよ。オレ、やるから」

「うん」

「この怪我、オレを母さんから引っ張り出そうとして──……。良かった、動脈はいってないみてぇだけど……」

 レインは自らの服が血に汚れるのも気にせずウィルの身体を膝の上に抱き上げた。そして身を屈めて、真っ直ぐに裂かれた傷口にそっと口付けを落とす。生まれた光が柔らかく溢れ、辺りを優しく照らしている。

 光は血華術特有の赤い光ではなく、漆黒の光だった。チェリカは驚きに目を丸くしてからピアスに籠められた癒しの力を引き出していく。

(まさか、黒い光だなんて。面白いなあ、アリシアは赤い光だった。血華の証は血の赤の光だと思ってたけど……レインのは優しく蕩けるみたいな黒の光だ。……私の炎も、今は黒いのが出せるし。お揃いだね)

 長い口付けをし、レインの唇が少し滑って移動した。先程までキスをしていたところの傷はしっかり塞がっている。──跡は残ってしまっているが。

 やがてピアスからも優しい光が溢れ、ルノの傷を跡形もなく消し去っていった。ウィルの腹の傷も治し始めていく。


「……シアング?」

 トアンは一人、光を横目で見ながらシアングに語りかけた。シアングの左手は頭に当てられて、顔は髪の毛が垂れていて窺えない。

「シアング、どうしたの?」

 見たところ、彼の身体には目立った傷は見受けられなかった。──いや、違う。小さな切り傷すら見られないのだ。トアンの見たところ全くの無傷で、彼はそこに蹲っていた。

「……トアン、か」

「……っ!」

 漸くシアングは顔をあげたが、その低く唸るような声と鋭い目つきにトアンは息をのむ。

「オレに石をぶつけたのはチェリちゃんか?」

「あ、ああうん。そうだよ。……やっぱりシアングに当ってたんだね?」

「あの子の命中率は尋常じゃないからな……。」

 成程、だから彼の手は頭を擦っているのか。そういってシアングは少し笑ったのだが、しかしその笑みは冷たく研ぎ澄まされたものだった。


「シアング……どうしたの? どこか、痛いの……?」

「いや? オレはどこも……。それより、ルノとウィルが……」

「大丈夫。二人なら今、チェリカと兄さんが治療している」

「へえ、ネコジタ君が、ねえ。トアン、お前お袋と親父は?」

「うん。二人なら、今こっちに向かってる」

 トアンは頬を掻きながら告げると、慌てて付け加えた。

「あ、もう母さんは元通りだから危なくないよ。父さんも、敵意はないから」

「……。そうか」

「それよりびっくりしたね、突然揺れて。シアングはあの二人を此処まで連れて来てくれたんでしょう?」

「ああ、ちょっと乱暴にだけど。担いできたぜ」

 シアングはそこでやっといつもの笑みを浮かべてくれた。トアンは思わず安堵のため息をつき、会話をとめた。シアングは今、あまり話したがっていないみたいだと、それだけは分かったから。


「お兄ちゃんとウィルの怪我、大体治ったよ」


 ひょこりと顔を出したチェリカが瓦礫の上から手招きをする。それを聞いてシアングが立ち上がったので、トアンも瓦礫の上へ飛び乗った。

「お兄ちゃんは無傷にまで治せたけど、ウィルの首の傷、残っちゃった」

 チェリカの言うとおり、ルノとウィルは、先程までの傷が嘘のようにほぼ塞がっていた。ルノは完全に眠っているようで、チェリカが揺さ振っても擽っても目を覚ます気配がない。──無理もない、アリシアの戦いはクラインハムトとの一件から連続して起こったものだった。そういえばトアンは、もう二日ほど寝ていないのだ。

 一方ウィルはレインの膝の上に頭を預けていた。その首元にはあのぱっくりした傷が跡となってはっきりと残っている。

「兄さ……」

「トアン」

 レインに声をかけようとしたところで、チェリカに止められた。

「もう、ウィルが起きるよ」

 チェリカの言葉はそれだけだったが、トアンはそれが何を意味するかわかって彼女に笑いかけた。──チェリカも、にこりと笑みを返す。

 と、チェリカが言ったように、ウィルの指がぴくりと動いた。トアンは急いで二人から少し離れたチェリカの横に移動すると、その場に座った。シアングはじっと眠るルノの顔を見ていたが、トアンとチェリカの様子をみて、目を細めて笑うとルノの身体を抱えてトアンの隣に座る。



ぴく。

 ぼんやりとした意識が身体に浸透する。徐々に自由が利くようになった身体には、あれほど強烈に意識を貫いていた痛みが感じられなかった。まるで、何もかも夢だったような気さえする。

 違う──夢なんかじゃない。

 まるで、ただ眠りから覚めたような頭のだるさと痛みからの開放感を感じながら、ウィルは瞼を震わせてやっと世界を映した。


「……おい?」

 ぼんやりとした視界のすぐ傍に、レインの顔があった。冷たく冷静な瞳が真っ直ぐにこちらを見ていると思ったが、レインは眉を寄せ、なんとも言えない表情をしていた。何故彼の顔がこんなに近いのかウィルにはわからなかったが、何故と思う前に頬につたんと何かが落ちてきた。

「目が、覚めたか?」

 レインの声が──震えている。

 ウィルは霞む視界を何とかしようと瞬きを繰り返し、目を凝らした。身体は鉛のように重く、手で目を擦ることができなかったからだ。クリアになった視界で見たレインの瞳から、涙が弧を描いて頬を滑る。

「……どうして、泣いてるんだ。もう、自由に、なっただろう」

 口が思うように動かないことに歯がゆさを感じながら、ウィルはレインに告げる。

「良かった、レインは怪我してないみたいだな──泣くなよ、なあ」

「泣きたくて、泣いてるわけじゃない」

 少し強めな口調でレインが答える。

(困ったな、手が動かないとレインの涙が拭いてやれない)

 ウィルはそんなことをぼんやり考えてながら、周りの状況を可能な範囲で眺めた。──良かった、ルノも傷が癒えている。チェリカがピアスを持っているところを見ると、彼女が魔法を使ったことは一目で分かった。

 そして今更ながら、ウィルは自分がレインの膝の上に居ることを知ったのだ。

「レ、レイン」

「どうして」

「……え?」

「どうして。どうしてあんなことを? 腹の傷だけで十分じゃねぇか。態々、余計に死に掛けるなよ」

「……ああ、あのときか。だって、オレはお前に会いたかったんだ。勝手に身体取られて、それでもうレインに会えないなんていやだった。……覚えてるか? オレとレインが、初めて会った時。」


『行くところがないならオレと一緒に来い!』

 雪原で、まだ暗殺者だったレインを見つけた時。

『オレ、シアングみたいに前から引っ張っていくことも、トアンみたいに後ろから見守ることも、できないけど。お前のすぐ隣なら歩けるよ』

『だから……一緒に行こうぜ』

 雨の降る森の中で、生きることに絶望したレインを見つけた時。

『……いいんだな?』

 逝ってしまうアルライドを見送ったレインが、帰ろうと自ら言った時。

 背中で静かに泣いていたレインの重みが、背中にしっかりと感じられた。


「あれからさ、またお前とトアンの母さんのこととかあったけどさ。オレは、ずっと、レインを呼んでたんだ。オレたちはデコボコだ。でもそれでも、オレにはレインが必要なんだよ。オレの居場所は、ここにあるんだ。アリシアじゃない、レインに。」

 ウィルはもう一度手を伸ばした。ぎこちないながらもなんとか腕は動いてくれ、そっとレインの涙を拭ってやれた。

「……。覚えてるさ。お前はオレを、カラッポだったとき一番最初に、トアンじゃなくてお前が、オレに手を差し伸べてくれたんだ。お前の言葉が、オレに殺しをやめさせたんだ。お前と会ってから、オレはヒトを殺せなくなってたんだぜ」

 大人しく拭われながら、レインが言葉を紡いでくれた。それは、今まで彼が飲み込んで隠してきた言葉だった。ウィルはそれが分かっていたから、そっと笑みを浮かべてレインを見つめる。

「そのお陰で、今此処にオレはいるんだ。……馬鹿野郎、お前はオレの為に主人も、自分の命も投げ出そうとしてたんだろう。」

「うん」

「お前はホント、大馬鹿野郎だ」

「うん」

「ホントに……っ、どうしようもない……。……、生きてて、良かった……」

「……レイン」

「お前が死んだら、オレは、どうすりゃいいんだよ」

「そうだな、ごめん。ごめんな」

「別に、お前なんか居なくたって構わないけど。けど、……もう、二度と目を開けないかって思って……」

 拭っても拭っても、レインの瞳から涙は溢れた。まるで涙腺が壊れてしまったかのように、レインの夕焼けの瞳から涙は途切れない。

 ウィルはしっかりとその言葉をかみ締めながら、枯れない涙を拭い続ける。

「泣くなよ、なあ」

「泣きたくて、泣いてるわけじゃない」

 先程と同じような口調でレインが答えた。それからレインはそっと微笑みを浮かべると、泣きながら続けた。

「嬉しいんだ。どうしようもなく」

 意外な答えにウィルの瞳が丸くなる。レインはウィルの手をそっと降ろし、自分で涙を拭った。すん、鼻をならして、レインは言った。


「また、ウィルに会えて。」


 レインはウィルの名前を呼ばなかった。ずっとずっと、あいつとかお前とか、名前を呼ぶことはなかったのだ。

「レイン、オレの、名前……。……そうだな、オレも嬉しいよ。ありがとう、帰ってきてくれて」

 ウィルは笑みを返して、レインの手を力強く握り締めた。



「トアン、あれ……。」

 感動的な場面に瞳を潤ませていたトアンの袖を、チェリカが引っ張った。彼女の視線は真っ直ぐにこの部屋の入り口に注がれていて、トアンもついと目線を向け──開いた口が塞がらなくなった。やっと追いついたアリシアとキークがそこに立っていたわけだが、キークの顔はあからさまに面白くなさそうだ。

「もう、いいかい?」

 この言葉を発した声もそうだが、腕を組んで人差し指でその腕を忙しなく叩く様子から見て、キークの機嫌は急降下なようだ。アリシアは対照的に、隣で掌を組んでにこにこと笑って見守っている。

「キーク、さん」

「親父」

「ウィル。私はお前を利用してきた。眠れるお前の魂を起こして、仮初めの肉体に入れたのだって私だ。それはお前がトアンの友として、しっかりあの子を引っ張ってくれるだろうと思ってしただけで、それに、お前にルノを守らせたのだって──」

 ブツブツと文句を告げるキークの横からアリシアが進み出て、レインの隣に座った。ウィルは彼女の顔を見て瞠目し、若干の動揺を表すもレインが大丈夫だと頷くと警戒を解いてアリシアを見る。

「ごめんなさいねえ、痛かったでしょう」

「いえ、……いや、痛かったです、けど。平気でした。今生きてます」

「首、傷跡が残っちゃったわ。……深すぎたわね。レインが塞いだんでしょうけど、多分それはずうっと残るわよ」

 すっとアリシアの瞳が悲しそうに伏せられる。ウィルは慌てて、いい加減レインの膝に世話になっているのもアリシアに失礼だと思い身を起こした。直ぐに視界が高くなったのは、レインが手伝ってくれたからだ。

「さんきゅな」

「……。別に」

「ええと、アリシア……さん。オレはそういうの気にしてないです。……こうやって生きてて、十分嬉しいですから。レインともまた会えたし、あなたともちゃんと話せてる。あの時、怨霊だとか失礼なこといってすいませんでした。でも……この傷は勲章になります」

 不意に大人びた口調で、ウィルは真っ直ぐにアリシアに告げた。隣できょとんとした顔で聞いていたレインは、最後の言葉に「馬鹿」と呟いて顔をぷいと背ける。アリシアはそれを見て両手の掌をぴったりと合わせる。

「まあ、レインったら照れてるのね。大丈夫よ、キークは何か反対してるみたいだけど、お母さんはOKだからね」

 くすくすと笑いながら、彼女は合わせた両手を頬につけて、首を傾げた。ちらりとキークに目線を向ければ、彼はまだ一人で文句を言っている。

「レインも、ギャップに弱いのね……。」

「は?」

「ううん、なんでもないわ」

 仏頂面だったレインは未だ笑い続ける母親の目を見て、それから自分もそっと微笑んだ。

 ああ、きっと母もそうなのだろう。この少女のような母も、あの──こうやって見ると、到底アリスの箱庭などに居たとは思えないほど抜けている──父の、幽閉から連れ出してくれた頼れる手、そして全てを捨ててまで母の蘇生を求め続けた姿を見て、愛しているのだ。

 改めて、レインは思う。

(良かったな、父さん、母さん。また、一緒にいれて……。)

 レインがそっと息をついた瞬間、にこりと笑ったウィルがレインを見た。



「キークったら、いつまで拗ねてるの」

 不満そうな顔を隠そうともしない夫の手を、アリシアは笑いながら引いた。キークはそれで少し機嫌を直したのか、ゴホンと咳払いして腕を組みなおす。

「父さん、どうやって脱出するの? 此処に来てから、揺れがまったく感じなくなったけど……」

 トアンが問うと、キークは眉を寄せて苦い顔をすると、うんと呻いた。何かまずいことを言ったのかとトアンは心配したが、アリシアは首を振っている。──トアンの所為ではないようだ。

「揺れが感じない……か。そうだろうな。……ここだけは、結び目が正常だから。見ての通り、この部屋は創りかけで放置してある。他の部屋とは繋がっていないんだ。『初めから此処は潰れないように』されている。……その、結び目を変えた者は、この部屋を避難所として……」

「……え?」

「あなた、ダメよ」

「か、母さん? どういうこと……?」

「……。言えないわ。」

 キークとアリシアは共々黙り込んでしまった。そんな二人に、もう何かに気付いていたチェリカが助け舟をだす。

「ここの結び目が正常ってことは、キークの力は効く? ここから脱出できる?」

「……いや、安全に出るなら上の方がいいだろう。ここは言ったろう、創りかけ。何が起こるかわからない。……外はどんどん崩れているから、急いだほうがいい。この部屋をでて階段を登り、通路を右に曲がった扉を出れば空中庭園がある。そこは私がこの城の力の中心としたところだから、そこにいけば……」

「話が長いね、キークって」

「……。」

「じゃあ、そこに行くしかないよね」

「そーだな」

 チェリカが立ち上がるのに続いて、シアングがルノを左手で起し、小脇に抱えた。

 チェリカにつられてトアンも立ち上がってズボンの埃を落とすと、キークとアリシアが顔を曇らせていることに気がついた。

(さっき……父さん、何を言おうと?)

 トアンには分からなかった。──が、隣のチェリカは分かっている。

(少し不公平だよ。オレだって気になるのに……。誰が、オレたちを殺そうとしたんだろう)



 もう歩けるから、そういうチェリカを強引に背負い、トアンはとりあえず考えを保留にしておくことにした。一度とめなくては。──頭がいい加減爆発しそうだ。

 ウィルにレインが肩を貸し、シアングがルノを抱え、キークがアリシアを抱きかかえたところでトアンは扉をあけた。──途端。


ミシミシミシミシ……ッ

メキメキ!

ガラガラガラ……

 あまり聞きたくない崩壊の音が、扉の外には溢れていた。

「トアン、走りなさい!」

 キークの叫びに、放心していたトアンは弾かれたように走り出した。





(すごい、建物が崩壊していく。柱が崩れる、壁が泣いてる。……でも、おかしいな。オレ、少し嬉しいよ)

 まるで怖い夢でも見ているような状況に冷や汗をかきながらも、トアンはこの状況に喜びを抱いている自分に苦笑した。

「なあに、トアンどうしたの?」

 背中を笑いが伝ったのだろう、チェリカが興味深げな声で訊ねてくる。

「あ、あはは……何でもないよ」

「嘘でしょう。……私にも教えてよ」

 彼女の声は非難するわけでもなく、だが甘く甘美な囁きとなってトアンの心を擽った。……ただ単に、チェリカの押さえられない好奇心がトアンの特別製フィルターによって変換されただけなのだが。

 ──やっぱり自分は、彼女に弱い。

「……あ、あのね。オレ、この状況が嬉しいんだよ。こんなことになっちゃったけど、でも、こうやって皆で一緒に、一つのことをしようとしてる。──父さんも、母さんも一緒に。それが、すごく嬉しいんだ」

 笑うかな、とトアンは思ったのだが、チェリカはやっぱり笑っていた。──しかし、それはトアンの予想したからかうような笑いではなく、優しく包むような笑い声で、トアンはとても安心した。

「そうだね、すごいよね。私もそれはとても素晴らしいことだと思う」

「ありがとう。」

「ううん、お礼を言う必要はないよ。……やっぱり君は、『約束』なんだね」

「へ?」

「……。」

 思わず聞き返したトアンだったが、チェリカは直ぐには答えてくれなかった。暫くの間、崩壊の音色と仲間たちの足音が空間を支配する。

「……みんなを繋いでくれたのは、君なんだ。君がみんなを導いてくれたの、気付いてないでしょう? それで、叶えてくれるから──……」

「チェリカ……?」

「ついほんの、一日以内に、私は、一度消えた。それなのに君が探してくれた」

 チェリカの表情は見えないが、多分微かな笑みを浮かべているのだろうとトアンは思う。

「そして君は、アリシアとキークを、すれ違ってた二人を再びめぐり合わせた。レインを救った。お兄ちゃんも生きてた。ウィルも助かった。シアングも無事だった。──私は最初、正直ここまで君が強いひとだなんて思ってなかったの」

「オ、オレは強くなんか、ないよ。チェリカみたいに魔法も使えないし、ルノさんみたいに傷を治せない」

「……でも、心が強いでしょう。そう言うけどね、剣の腕はすごい上がってるよ」

 柔らかに心を震わすチェリカの声が心地良い。──だが、何だろう。何故こんなにも悲しそうに言うんだ?

「チェリ……」

「着いたみたい。ここが空中庭園だよね」

 トアンの言葉を遮ってチェリカが告げる。言われて辺りを見渡すと、塔と塔の間に創られた庭についていた。青々とした緑が生い茂り、中心には噴水がきらきらと飛沫を上げている。──ここはまだ無傷のようだ。


「……よし、ここなら、はあ、はあ……。ここなら大丈夫だろう」

 ぜえぜえと息をつきながらキークが呟き、アリシアを降ろしてそっと地面に手を触れた。──と、光が地面をなぞる様に紋様を描いていった。それは円に囲まれていて、一見魔方陣のようだが何か一枚の絵を切り抜いたような図だった。

「全員いるね?」

 キークは地面から手を離して立ち上がり、トアンを見た。チェリカがするりと背中から降りて、トアンの横に立つ。

 トアンは、チェリカを見た。後ろにいるレインとウィルを見た。その隣にいるシアングと、抱えられたルノを見た。

 そして、キークの目を見て、頷く。


 みんないるよ、父さん。

 ──不思議だよね、何もなかったように、ここにいるんだ。


「先に乗りなさい。とりあえず地上に繋いだが、私たちとは──ここでお別れだな。」

「え!?」

「は!?」

 トアンとレインの声が重なる。だがそれを優しく二人の両親は制し、静かに告げた。

「まさか私たちまで旅に連れて行くつもりだったのか?」

 キークが笑いながら問い、トアンはあ、と目を丸くした。考えていなかったのだ。

「私とアリシアには、片付けなくてはならない問題がいくつか残っているんだ。それに、それが済んだら──今度こそ一緒に、ゆっくり生きていきたいと思ってる」

「それは……そうだけど」

「なに、どうせまた会えるだろう。問題を片付けたら、どこかに腰を落ち着かせているかもしれないし、二人でのんびり旅をして回っているかもしれない。──どんな形であれ、再び会えるさ。お前たちが旅の途中に、どうしても高い壁にぶつかってしまったら。私たちから会いに行くよ」

「でも父さん! それって、いつのことかわからないじゃないか! また会えるって、保障もないんだよ?」

「そうだな」

「そうだなって……」

「だが、保障は私とトアン、そしてレイン。お前たちと私の血の繋がりを信用してくれていい。……もう私は、お前の敵ではないんだ。」

 安心させてくれる、優しい笑顔でキークは言った。

「……父さん」

「レインもな。……体調は、ジュタの花によって回復していくはずだ。胸の、痛みも。」

 キークはレインの傍に歩いていくと、とんとその肩に手を置く。

「……。」

「お前は以前、自分の身体の限界があと数年ということを知っただろう? だが、スノゥはお前の魂から離れ、お前は本来の力を取り戻した。呪縛の楔は抜けた。胸はもう痛まなくなるだろう」

「……本当に?」

「ああ。……だがその代わり、血華術の眠りの病がお前を闇夜に誘うだろう。ジュタの花を探しなさい。この城のものは全て消えてしまったが、世界にはまだあるはずだから。──幸い、お前のパートナーは守森人だ。……ウィル、レインにその力を貸してやってくれ」

「当たり前ですよ」

 レインの横で、ウィルは太陽のような明るい笑みを浮かべて答えた。

「……。そういってもらえると……。安心できる」

 どこか寂しそうに笑う父を見て、レインはキークの肩に置いたままの手にそっと自らの冷たい手を重ねた。冷たいと思ったのは、やはりキークの手が温かかったからだ。

「親父」

「なんだい?」

「……ありがとう」

「え?」

「親父がこうやって何から何まで計画して、母さんのために色々やってくれなかったら……オレは今ここに、こうしていない。どこか一つでも親父が手を抜いたところがあって崩れていったとしたら、オレは──とっくに死んでたんだ。ウィルに出会って、殺しをやめることがなかったかもしれない。アルの最期を見てやれなかったかもしれない。……グングニルにいた頃──ずっと昔みてぇだけど、ほんの少し前──そのとき邪魔だったトアンを殺して、自分もオーラに殺されて、それで終わりだったかもしれない」

 レインの目は真っ直ぐにキークに向けられていた。キークはその瞳に少しの戸惑いと、彼なりの感謝の言葉に涙を滲ませる。──決して、零すことはしないが。

「……親父が、ウィルの魂を使って、こいつをこの時代で眠りから目を覚まして生かしてくれてなかったら、オレはきっと……。やったことは確かに間違ってるけど、親父の計画にオレが感謝するのって……悪いことなのか?」

「……レイン」

 堪えられなくなったのだろう、キークはレインの折れそうな身体をしっかりと抱きしめると鼻を啜った。そして優しい声で、思わず強張った身体を宥めるように告げる。ウィルは一歩離れてそれを見守る。

「お前の言葉は、私を救ってくれる。……ありがとう、スノー……。」

 もう呼ばれないと思っていた名前にレインは目を丸くして、そして顔をキークの胸に埋めて微笑んだ。想像していた父の気配とは違い、煙草の香りも、酒の香りもしない。

 ただ本の埃の匂いがシャツから微かに感じられた。──これが、キークの匂い。想像上の父親の温もりや香りより、ずっと良かった。


「坊や。」

 キークとレインのやり取りを見てから、ついに堪えられなくなったのだろう。アリシアは走り出しトアンを強く抱きしめた。ウェーブした髪がふわりと広がって、トアンの頬を擽る。

「わ!」

「……トアン、もう一度わたしに、『お母さん』をさせてくれてありがとう……っ! わたしは、あなたに救われたわ」

「か、母さん……。……ううん、母さんはずっと母さんだった。これまでも、これからもね。でももう二度と、あんなことしちゃだめだよ。」

 ずっと。

 その言葉にアリシアは目を見開き、それからほろりと涙を零しながらトアンを抱く手に力を籠める。──彼女とキークは似た者夫婦だと、トアンはほんのりと感じて嬉しくなった。

「しないわ、絶対に……。トアン、母さん、あなたの無事を祈ってる。あなた、他の子たちと違って魔力を感知できないでしょう。それに耐性もないもの……気をつけるのよ」

「うん、大丈夫」

「暑いからって掛け布団しないで寝ちゃダメよ」

「うん、平気だよ」

「お肉はちゃんと加熱するのよ」

「うん、心配しないで」

「食べたいからって好きな物ばっかり食べちゃダメよ」

「うん、そうしてる」

「お掃除はまめにしないと、虫がわいちゃうわよ」

「うん、ちゃんとしてるよ」

「ご飯を食べたらちゃんと歯を──」

「か、母さん。大丈夫だよ。オレ、ずっとそうやってきたし……」

 ね? とトアンは安心させるように笑ったのだが、アリシアの顔はしゅんと曇った。何だ、何がいけなかったのかとトアンの胸は不安で揺れ動くが、さっぱりとわからない。

「母さん?」

「トアンは、いい子なのね。お母さんが今更世話を焼く必要なんてどこにもなかったのね……」

 ああ、そういうことか。トアンの頭は彼女の寂しさを唐突に理解し、そして受け入れた。なんとかこの状況をいい方向に進めようと、凄まじい勢いで頭は動き出す。

「ええと、母さん。確かにオレはもうそんな子供じゃないけど──母さん?」

 アリシアの顔がますます落ち込んだのを見て、トアンは思わず浮かべていた苦笑を柔らかいものに変えた。

「子供じゃないけど、でもそういって気にかけてくれるのはすごい嬉しい。ありがとう。……でもここでは、少し恥ずかしいな」

 照れ笑いとともに告げられたトアンの言葉に、アリシアの朱色の目が丸くなって──笑みに細められた。

「そうね、そうよねえ。チェリカもいるしね」

 アリシアの蕩けるような笑みは真っ直ぐにチェリカに向けられている。チェリカはん? と首を傾げたがトアンは大慌てで母親の視界で手を振った。

「ちょ、ちょっと母さん。何言って」

「お母さんはね、賛成してるわ。いい子じゃない」

「母さん!」

「うふふふ」

 ころころとした笑い声に、トアンはカッと頬が熱くなるのを感じた。顔から火が出そうだ。

「最後に、いいかしら」

 アリシアは赤面する息子を見て、笑いながら言った。

「……いいところを見せようとして無理したって、怪我しちゃうからね。トアンのいいところは、格好つけなくてもちゃあんと伝わるからね」

「う、うん……?」

「お母さんは、そう思うわ……ねえ、キーク?」

 レインから手を離したキークが振り返る。レインとは違い、トアンはキークと過ごしていた長い年月があるために言葉はなく、こちらに向かってきて肩を叩かれてキークがふっと微笑むだけだった。その肩越しで、今度はアリシアがレインを抱きしめて暗いところで本を読んじゃだめよとか冬は寒くてもちゃんと窓を開けて換気をするのよとかアレコレ言っている。

「……父さん」

「なんだい?」

「母さんを、幸せにしてね」

「勿論だとも。さあさ、アリシア。レインを離してやれ。……トアン。お前たちは何も考えず、この陣に乗るんだ」

 キークに言われるとアリシアは素直にレインを離してやった。それから寂しくなってしまった両手の掌を合わせ、祈るように組んだ。

「気をつけていくのよ」

「……。」

「あんまり、我侭言っちゃだめよ?」

「……あぁ」

 レインは怒鳴らず静かに答えを返し、再びウィルの脇に手をいれると歩き出した。──アリシアはそれを、目で追う。

「シアング、此処に残りてぇのか? 行くぞ」

「……もう、いいのか?」

「当たり前だろ。急がなきゃ、ここも落ちるんだし──言葉がなくても、母さんの幸せは親父にあるってわかってるから。親父の幸せもだ。この夫婦はもう平気だろうよ」

「あぁ……そうだな」

 シアングはレインのぶっきらぼうな答えにくつりと喉を震わせ、ルノを抱え直してその後に続いた。トアンもチェリカに袖をひかれ、漸く歩き出す。

 陣に全員乗ったところでキークは深呼吸した。──と、光が強くなってトアンたちの身体を包む。『心繋ぎ』だとトアンは感じたが、詳しいところはさっぱり分からなかった。

「……トアン」

 薄れいく景色の中、キークが優しい低い声で囁く。陣の光が強風とともに吹き上げ、視界を白く染めていってしまう。

「頑張りなさい」

「応援してるわ」

 隣に居るアリシアがキークとトアンを見、それからレインを見てにこにこと笑いながら言う。

「父さん──母さん!」

 思わずトアンが叫ぶのと同時に、後ろに立つレインも叫んでいた。ごうごうという光の吹き上げる音で自分の声すら聞こえなかったが、心が叫んでいるのをトアンはしっかりと感じ取ったのだ。──恐らく、レインも。

 一瞬、真っ白な空間にトアンとレイン、キークとアリシアは立っていた。四人の間には長い年月が流れていて、四人を繋いでいるものは頼りない紐だった。が、それでも紐はほつれる事も切れる事もなく、四人をまっすぐに繋いでいたのだ。


「いってきます!」


 誰が叫んだのかはわからない。それでもその声は空中庭園に膨れ上がると、光と共に消滅したトアンたちの残像とでも言うように長く尾を引いて響いていった。

「……さて、アリシア?」

 いよいよ城の悲鳴が大きくなった。キークはアリシアの瞳を見つめ、私たちも行こうかとその手を握る。

 アリシアは笑い──そしてすぐに憂いの表情を浮かべた。

「どうした?」

「……。あの子達、ちゃんとやっていけるのかしら」

「……アリシア。」

「だって、結び目を変えたのは──……」

「そうだな、彼が何を考えてあんなことをしたのか、少し考えなくてはならない」

 二人の足が陣に入る。しゅん、すぐさま光が立ち上ってキークたちを別の空間へと誘おうとしていた。

 キークは慣れた手つきで、指を使い空中に文字を書くとアリシアの手を握る反対側の手に力を籠める。

「よし、行き先はここで……。……平気さ。大丈夫、悪いことはそんなに沢山起きないよ。トアンたちの旅は、もうすぐ『一度終わる』のだから」

「……でも」

「さあさ、行こうアリシア。ね?」

「……ええ!」


(『彼』が何を考えているのか私にはさっぱりわからないが──)


 キークとアリシアの姿を、光が包んでいく。


(何故トアンたちを殺そうとしたんだ? ──シアング。)


 さぁ、突然起こった風で庭園の花が散った。……庭園には、もう何の人影は見えなかった。

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