第51話 アリシア

「……そんなっ! 火傷しちゃうよ!」

「平気。……お願い」

「……」

チェリカは少し考えているようだ。この作戦は他でもない、チェリカにこれ以上の怪我をさせたくないというトアンの思いからできていることを、彼女は悟っているのだろう。

「骨まで焼くよ?」

脅しなのか本音なのかわからないその言葉に、トアンは頷いて答えた。

「……わかった。正直今の私じゃアリシアの速度に追いつけないから……君にかけるよ」

「うん。加減、いらないよ」

「わかってる。……でも、無理しないでね」

心配してくれているのだろう、そのチェリカの言葉だけでトアンは十分だった。彼女は翼を貫かせてまで、激痛に喘ぎながらもトアンの心配をしている。──十分すぎる。

(君をもう傷つけたくないんだ)

アリシアの言葉は本気だろう。次こそ、チェリカの心臓を狙ってくるにちがいない。

(……。もっと早く、オレが決意を固めていればよかったかもしれないけど……。)

チェリカの額からの出血、翼の傷。トアンにはもう、迷っている時間はなかった。

「──投げて」

「わかった……ッ!」

反動で羽が痛むのだろう、チェリカの声が震える。──次の瞬間、トアンは空中に放り出されていた。といってもたいした距離ではない。チェリカの腕力では、ほんの少しの高さしか投げられない。

「──レング!」

詠唱を破棄した魔法を叫ぶ声が聞こえた刹那、トアンの身体は激しい熱と背中への痛みとともにはるか上空に舞い上げられた。

「まあ!」

アリシアが驚いて急いで印を結ぶ。しかし、トアンの剣を振るう速さの方が速かった。

「きゃああああ!」

肉と骨、腕を切り落とす感覚。だがしかしアリシアの──レインの身体には傷はついておらず、確かにアリシアに対するダメージだけが与えられていることにトアンは少し安堵した。


ごめん、母さん。でもそこから離れないと、オレはやめないよ。


「第四華、展開。ホワイト・ダグ──」


アリシアが慌てて血華術を発動させようとしたが、トアンの振るった剣は彼女の腕と胸、さらにトアンはアリシアの肩を蹴って空中で一回転すると、その身体がすれ違う瞬間に存分にその胴を斬った。──この剣の動かし方は、トアンではない。十六夜が知っていたのだ。スローモーションのように身体が落ちていく。

『──『剣技・閃光剣』』

透明な声がトアンの脳裏に響く。

落下するトアンの身体は、チェリカがしっかりと受け止めてくれた。傷を負った身体が痛むのか、衝撃にチェリカが苦痛の声を漏らすがトアンを支えてくれた。そのままゆっくりと降下していく。

──そして。

「きゃああああああああ!」

アリシアの周囲で光が溢れ、彼女を支えていた赤い蝶の翅が点滅し、消滅した。

支えを失ってアリシアの身体が揺らぎ、落下する。トアンが手を伸ばすも間に合わず、チェリカの翼も届かない。彼女の身体は二人の前を過ぎり、真っ逆さまに落ちていく。

「母さん!」

「アリシア、レイン!」

トアンとチェリカが声を上げるも、このままでは──……


その瞬間、螺旋階段から誰かが飛び出して、アリシアの身体を姫抱きにして抱えた。くるりと一回転し、その人物は着地する。固い床は鋭い衝撃をもたらすと思いきや着地の瞬間、男の周囲で小石が浮上し──落ちた。

「反重力……」

チェリカが呟き、そっと地面に着地する。トアンの腰を離して、チェリカは傷ついた翼を畳んだ。

「何とか間に合ったよ……。すまない、トアン、チェリカ」

アリシアを抱えている人物が、そっと笑う。


──キーク・ラージン、その人だった。



「父さん……」

「遅くなってしまった。チェリカ、怪我は大丈夫かい? 見たところトアンはほとんど傷を負っていないみたいだけど。君がそういう戦いをしてくれたんだろう?」

「ううん」

キークの優しい気遣うような声に、チェリカはゆるりと首を振った。トアンは今の父の言葉で、自分が守られていたのだと感じていた。チェリカは首を振ったけど、自分が負うべき怪我も彼女が代わりに受けたような気がする。

「トアンはもう、守られるだけじゃないよキーク。私のこと守ってくれたの」

「……そうか。しかし、ありがとう」

「いいの。……でもキーク、君は大丈夫なの?」

その間接……とチェリカがキークの腕と血の滲む膝を見る。アリシアの血華術から生まれた棘によって封じられた間接を、彼は力ずくで解いてきたようだ。焼ききれたように残る傷跡が痛々しい。

「平気さ。──トアンもよく頑張ってくれた。手伝えなくてすまなかったな」

「いや、気にしないで。それよりも母さんを助けてくれてよかった。──兄さんの身体も、潰れちゃうところだったんだから」

「ふふ、そうだな」


「ん……」


トアンの見ている目の前で、キークの抱えているアリシアの瞼が震えた。

「アリシア?」

優しい声でキークが問いかける。

「アリシア、気がついたかい?」

「……あら?」

ぱっちりとそのオッドアイが開く。トアンは咄嗟に一歩下がろうとして、キークの優しい瞳に足をとめた。

「キーク、あなたあたしの術を無理矢理解いてきたの? なんて無茶なことをしたの?」

「どうしても、君に会いたくて……。君を止めたくてここにきたんだ。けれどももう、トアンが全てやってくれたあとだった」

「──そうだわ、トアン。あたし、トアンの血を取り入れなくちゃ。『約束』が守れない」

「……そのことなんだが、アリシア。今更だがトアンの血をのまなくても、別に『約束』は果たせるだろう? ずっと一緒に、みんなでいることは、レインの身体を使わなくても……」

キークの言葉に、アリシアの瞳が潤んだ。咄嗟のことにキークが動揺する。何か傷つけるようなことを言ったか?

アリシアはキークの腕から離れ、少々危なっかしい足取りで床に立った。

「……。あたし、『レインの身体』で『トアンの血を取り込む』んでキークといることで、『ずっと一緒に居たい』っていう『約束』を果たそうとしてたの……。そうすれば子供たちがどこにもいかないようにって。家族みんなで居られるようにって……」

「──アリシア」

「それしかないって……! あたしの身体はもう動かないから、それしかないって……」

「……泣かないでおくれ、アリシア。いつか私が、あの身体が動くようにしてあげるから……。君がそう思っているなんて、私は気付いてやれなかった」

「いいえ、いいえ違うの。違う……レインが泣いてる、その理由がわかったわ──あたし、間違ってたのね。……レインを不幸にして、トアンを殺してしまうところだった。……あなたの人生も、縛り付けてしまって……っあたしがここにまた戻ってくることが、間違いだったの……!」

ぼろぼろと涙を零しながら、アリシアは泣きじゃくる。キークはそんな彼女をそっと後ろから抱きしめ、そっと耳元で囁いた。

「それでも君との『約束』は、私の希望だったんだよ。私の人生は私の意志で君に捧げられたんだ。……間違いなんて、言わないでおくれ」

「……キーク……」

アリシアの潤んだ瞳から、涙がぽろりと零れ落ちた。

「そういってくれただけで、あたし……。満足よ」

彼女はキークの腕から抜け、まだ涙の残る瞳で微笑む。

「あたし、レインに身体を返すわ」

「じゃあ君は……?」

「一度、逝かなきゃ。」

くすっと子供のようにアリシアは笑って、顔を不安に曇らせたキークの頬に優しく触れた。

「それからどうなるかはわからない。でも、とにかく一度誕生の守護神の裁きをうけなくちゃいけない」

「わ、私もいく」

「……ダメよ」

「いく。君を一人にさせたくない。……私も、もうあんな思いはしたくないよ」

「ダメよ、キーク。あなたにはまだやることがあるでしょう?」

「……。」

「大丈夫、どうなるかわからないけど、もう一度会いに来るわ。そうお願いしてくる」

「しかし、アリシア……」

まだ口を濁すキークを愛おしそうに見て、それからアリシアはトアンに向き直った。

「あたし……わたし、ダメなお母さんだったわね。あなたの人生を勝手に決め付けて、終わらせようとまでしてしまった……」

「──いや、違うよ母さん」

え、アリシアの目が丸くなる。

「確かに母さんは色んなことをしたけど……それって、父さんとした『約束』の意味を母さんなりに考えてやったことでしょ? それでオレの仲間は怪我をしたけど、で、でも母親としてオレと兄さんのことを考えていてくれたの、わかったから。オレの仲間を傷つけたのは許せないけど、それでも、オレ、母さんはずっと居ない存在だったから、会えたと思ったらガラスケースの中だったし……今こうやって分かり合えて、凄く嬉しい。こうやって話せるとか、凄い、嬉しいよ」

「トアン」

おいで、と広げられた両腕の中に、トアンは飛び込んでいた。身体は兄のもの、それでも母の温もりが伝わってくる。

アリシアは息子をしっかりと抱きしめ、もう片方の手を少し動いてキークも抱きしめた。キークは少し驚いてから、トアンとアリシアをしっかり抱き寄せる。──別れの寸前、初めて親子が触れ合うというのもなんとも奇妙な話だけれども。

夫と息子の体温を感じながら、ふとアリシアは一歩離れたところからこちらを見ている少女に視線を移した。自らが傷つけた少女は──自分のことのように嬉しそうに幸せそうに、そして見守るように自分たちを見ていた。と、視線が合う。


やはり、少女は微笑んだ。


(ありがとう)

あなたが、この子を見守っていてくれたのね。

(ありがとう)

あなたが、この子とわたしを引き合わせてくれたのね。

(ありがとう)

翼と額、痛むでしょう? それでも笑ってくれるのね。

(ありがとう)

アリシアは笑みを返すと、そっと瞳を閉じた。


ありがとうキーク。わたしとの約束、守ってくれて。この子の名前が『トアン』だって知ったとき、わたしは本当に嬉しかったわ。

ありがとうトアン。わたしのことを、またお母さんって呼んでくれて。わたしはあなたに恨まれても当然なのに、また私の腕に来てくれて。

ありがとうレイン。わたし、わかったわ。あなたの涙……血で汚してしまってごめんなさい。それでもあなたは、あなたの本質は一点の穢れもなく、本当に白く美しいのね。


ありがとう。ごめんなさい。でも、ありがとう。


トアンは目を見開いた。しっかりと自分と父を抱く母の姿から、赤い蝶がひらひらと舞い上がっていく。

半透明で幻想的な美しさを放つ蝶は、トアンの目の前で光の粉を舞わせる。

キークが隣から離れ、一歩下がったところでその蝶を見て目を細める。キークのスペースが開いた分、よりアリシア──魂は既に……──がより強くトアンを抱きしめた。

「母さん」

喉から出した声は、思ったよりしっかりしていた。涙に震えるわけではなく、ちゃんと立っている。

「母さん……」

「アリシア」

キークが手を伸ばす。赤い蝶はそっとその指先に触れ、トアンたちの周りを一周すると天井高く舞い上がっていった。


「母さん──……」


蝶を見送ってから、トアンは漸く自分の両目から零れる熱いものに気がついた。それはついこの前──随分昔に思えるが──チェリカをなくした際に零した涙とは、違う。どちらかというとチェリカと再び会えた瞬間の涙に近い。

でも、いくら近いと言ったって違うのだ。安堵と悲しみ、喪失感と安らぎをぐちゃぐちゃに混ぜて振り回したような感情。

ぎゅ、更に強い力で抱きしめられる。伝わってくる心臓の鼓動が自分を安心させようとしているのがわかる。しかしなお更、トアンは止まらない涙を流すことになった。

「……泣け」

もう母ではない、その身体の『持ち主』の声が、これ以上ないくらい優しく話しかけてくれる。

「見てた、全部。いいぜ、思いっきり泣いても。オレが受け止めてやるから」

「……──っ、兄さぁああん!」


柔らかく優しかった腕は、細く冷たいものに変わっていた。本当の魂があるべきところに収まっているからだ。こうして今、ここにいるのはレインなのだ。

しかし彼の声は優しく、とてもあたたかかった。

レインはずっと、トアンの背中を優しくさすってくれていた。

随分彷徨ったけれども、迷子はしっかりと来た道を思い出していた──


「……落ち着いたか?」

涙が枯れるころ、レインが再び声をかけてくれた。

「う、うん……ありがとう、兄さ──うわっ!」

まだ感謝の言葉も終わらないうちに、トアンの身体は突き飛ばされていた。思わず地面に尻餅をついたその横で、チェリカがくすくすと笑い声をあげている。

「わ、笑わないでよ。酷いよ兄さん」

「何が酷いだよ、あーあー、もう全然泣き止まなくてうざいっての」

「素直じゃないね」

「うるせぇ」

ふんと顔をそらしたレインを見て、チェリカがまた笑った。

「お帰り、レイン」

「……あぁ。それよりお前、怪我してるな」

「え?」

チェリカは畳んだままの翼を見た。が、レインはその顔を自分の方に向かせると、未だ出血をしている傷口にそっとキスをする。

「に、兄さん!?」

「わあ」

そんなまさか、挑戦状かとトアンは慌てるも、レインの口付けはまったく別の意図があった。チェリカが傷口を触って、目を丸くしたのだ。

「血が、とまった」

「よかったな」

「……レイン、傷治せるの?」

「まだ出血をとめるくらいしかできねぇけど、簡単な傷口なら治せるようになる。母さんの意識と一緒に居るときに、少しは覚えたんだ。その傷も一応、翼と一緒にルノに治してもらってくれ」

「うん。よかった、これで両目でものが見れるよ」

チェリカはごしごしと血を拭った。白い法衣に乾いた赤い染みがこびりつく。トアンは大丈夫? とチェリカが言うので全然大丈夫と手を振ると、レインが視線を向けてきた。

「お前はホント怪我してねぇな」

「う、うん。」

そうかと息を吐き出してから、レインはゆっくりとキークを見た。キークはレインを見るが、視線をすぐに逸らしてしまう。

「……。」

「親父、オレは許さねぇから。」

「に、兄さん……! 父さんは、別に好きでこんなことしてたわけじゃないよ」

レインの冷たい言葉に慌ててトアンがとりなす。が、レインは首を振って、キークを見続ける。──その瞳は、決して睨んではいない。

「好きでとか、そういう問題じゃねぇんだ。言っただろ、全部見てたから。親父の都合もわかってるよ」

レインの瞳が一瞬濡れた。が、一度目を伏せ、開いたときにはもう涙の気配はなかった。

「好きでやってたらそれはまた問題だ。はっ倒してぶん殴るぞ。……オレは、あんたを恨んでもいいんだ。憎んでもいい。その権利があるだろ。ここまでオレの人生を決め付けて、アルを、巻き込んで──」

一端言葉を切って、レインは額に手を当てた。探しているのだ。自分がここまでやってきた人生で溜め込んだ言うべき言葉を。半端な覚悟ではできない、それでもここまでやってきた父親に言ってやるべき言葉を。

「いや……アルのことは、もういいんだ。あいつはとりあえず元気にやってるし、トアンに助けられてから、色んなものを見て、理解したしアルも許してくれてたし。でもオレを捨てて……預けて、あの優しい育て親を間接的に殺しただろう。親友だったのに、殺しただろ。オレが血に溺れてても、あんたは耳を塞いできたんだ」

レインの声は非常に淡々としていた。が、所々に涙が滲んでいるのをトアンはわかってしまった。チェリカを見ると、彼女も不安そうに、それでも見守るようにキークとレインを見ていた。

「……会ったら、もし会えたなら、あんたを殺そうと考えてたよ」

「──それでも私は、文句は言うまい」

「──! 何でそういうんだよ! 初めてあんたにあって、言いたいことが沢山あった! ……初めてオレ、あんたとまともな会話してんだよ。結構まともじゃない内容だけど、初めて、ちゃんとあんたの目を見て話してんだよ。文句とか沢山あったけど、そんなの、一つもちゃんと出てこなくて……あんたを殺すことなんて、できそうにないんだ。恨んでるし憎んでるけど、でも、初めて会話ができて、嬉しいって──……」

一気に吐き出したレインを見て、キークは思わず彼の身体を抱きしめていた。──アリシアにしたように、けれども決定的に違う優しい抱き方で。

彼女の反応とは違う、硬く強張るような反応が悲しかった。──自分がどれだけのものを犠牲にしてきたか、この子を自分の勝手の渦の中に置き去りにしてしまったのか、心に叩き付けられるようにして感じ取る。

「すまない──レイン」

「……スノーって、呼ばねぇの?」

「確かにお前はスノーだが、レインでもある」

「……意味わかんねぇよ」

「そのうちわかるさ。……私とアリシアの与えた名前が一つずつ。それはお前の色の違う瞳のようだな……スノーという名前は、お前が本当に受け取って欲しい相手に教えてあげるといい。お前の口から。」

「よく、わかんねぇんだけど?」

「もう少し大人になればわかる……ところでレイン。私のことは親父じゃなくて父さんと呼んで欲しいな」

「親父。」

「……。トアンだって父さんと呼んでくれるぞ」

「親父。」

「……そうか。無理にとは言わない……。お前が私の愚行を許してくれたとき、『父さん』と呼んでくれ」

「やだね、許しても絶対呼ばねぇ。どうせあれだろ、『母さんによく似た顔で親父と呼ばれるのが辛い』とかいうんだろ?」

「それもあるが……。それだけではない」

「オレは別に、親父って呼び方に距離もなにもこめちゃいねぇよ?」

「それでも」

「ああもう、うっせぇ」

キークの申し出を突っぱねて、レインがくつりと笑った。それは照れくさいような嬉しいような、柔らかな感情がまぜこぜになったものだ。


レインにとって、父という者は何なのだろう。

幼い頃にわかれてそれっきり。暗殺者として心休まらない日々に追われ、アルライドという大きな支えをなくしてしまった。記憶さえ失って、それでも生きていた──生かされていたレインを、オーラが殺した。しかしレインは生きていた。死んだという事実が、なかったことになって──……

これはトアンの存在、夢幻道士としてのその力の所為だ。しかもそのトアンの力を導きレインを生かすことに動いていたのは、父。しかもその父親に一度再会するも、母親の魂をまだ受け入れることができず、不完全な人形にされてしまった。そしてその結果、レインは仲間の血を求めたのだ。

父が自分を生かしたのは、たった一人、母のため。では自分の存在する意味は?

レインの心の中で、どれほどの葛藤があったかトアンは知らない。予想はできる。しかし、それを全て知ることはできない。

(兄さんにとって、父さんの存在は物語の中からぽんとでてきた登場人物みたいなものだろうか)

──つまり、実感のない、唐突な存在。

トアンはそう考えながらも、兄が父に笑みを向けたことに自分も笑みを浮かべた。

(それなのに、今、笑ってる……)

それがきっとキークにとってどれほどの救済か、レインはわかっているのだろうか。



「風の流れが変わったよ?」



突然、チェリカがキークの服の裾をひいた。

「感動してるところ悪いんだけど、何か変だよ」

「? ……! こ、これは!」

キークが慌てて周囲を見渡す。ズズズズ、地鳴りのような音が響いた。ぱらぱらと螺旋階段の裏からほこりが落ちている。

「何、どうしたの」

父の様子に不安を覚えたのか、レインが問いかけた。

「『結び目』が変わってしまっている!」

「む、『結び目』?」

不安は伝染し、今度はトアンが訊ねる。

「それ、何のこと?」

「私がモノを造るときに、空間と物質、様々なエネルギーを繋げる。紐と紐を繋げるようなもので、その接合点だ」

「そ、それが変わることなんかあるの?」

「……いや、普通はない……。しかし──……。」

「そんなことどうでもいい。変わるとどうなるんだ?」

「……。」

「親父?」

「私わかるよ」

床に手を当てて、目を細めたチェリカが言う。しかし、その表情はあまりよくない。

「……さっきからパラパラ崩れ始めてるよね。これって、つまり」

「崩壊する」

チェリカの言葉の最後をキークが受け継いだ。

「えええ!?」

「……どうすんだ?」

「此処は城の最深部。上に行けば脱出はできないこともない」

「急いだほうがいいかも」

チェリカがトアンの背をぐいと押した。

「場が不安定になってる」

「そ、そうなんだ。兄さん、父さん! 行こう!」

「……。」

「父さん?」

「あ? ああ。そうだな」

キークはトアンを安心させるようにふっと笑うと、螺旋階段に向かった。

「こっちだ」

(──しかし……)

後ろから三人の足音がするのを確認し、螺旋階段を駆け上りながらキークは考える。


(結び目が変わるなんて──しかも、強引に焼ききったような感じだ。高熱で──雷のような一瞬の高熱で結び目を焼いて、無理矢理変えられたのか……?)


「チェリカ、平気か?」

長い長い螺旋階段の中腹に差し掛かった頃、レインが訪ねた。そういうレインだって息が荒い。元来瞬発力はあるが持久力はないほうなのだ。

「だ、大丈夫」

しかし、そう答えるチェリカは明らかに疲労の色が濃い。翼は閉まったが、恐らく背中にある翼の痣には深い傷がついているだろう。それに、アリシアとの戦闘中、ずっとトアンを抱えて飛び回っていた。──普段ならこれくらいの運動で、息をここまで乱すこともない。

「チェリカ」

トアンは先程から自分の足を重く感じていたが、構わず話しかけた。地鳴りは大きくなっている。時折振動も感じる。

「やっぱり、オレ背負うよ」

それは階段を登り始めて直ぐに「トアンだって疲れてるでしょ」という彼女の譲らない強がりで却下された言葉だった。

「で、でも……」

「背負ってもらえよ。倒れるぞ。……今までオレは魔力なんて感知できなかったけど、母さんが入ってから少しは分かるようになったから。──殆ど魔力残ってねぇだろ。お前、もたねぇよ」

先は長いんだ、というレインの言葉に、ついに観念したようにチェリカが小さく呻き声をあげた。

と、先を走っていたキークが振り返る。

「私が背負おうか?」

「えっ」

「トアンが頼りないというならほら、私におぶさりなさい。」

「オレ、頼りなくなんかないよ!」

「……。」

四人は立ち止まった。

チェリカは少し悩んで、トアンとキークを見比べた。助けを求めるようにレインを見るが、レインは「どっちか選べ」と顎で二人を指す。それでもチェリカが迷っていると、レインが助け舟を出してくれた。──トアンにとって。

「……怪我させたのはトアンなんだから。トアン背負えよ。……つか、二人が嫌ならオレでもいいぜ」

「レインが一番ダメだよ。倒れちゃうでしょ」

「……。」

「レイン、怪我をさせたというなら、アリシアと二人を戦わせたのは私だぞ?」

「親父はもう歳だから倒れるって。トアンにしろよ」

「なっ!」

「……トアン、ホントに大丈夫?」

「う、うん! 任せて!」

トアンが少し身を屈めると、チェリカがひょいと飛び乗ってきた。軽い。こんな状況にでもささやかな幸せを感じるトアンを見て、キークはレインを見た。

「……じゃあ父さんはレインをおんぶしようかな」

「親父、無理すんな」

「無理はしていないぞ、これでも私は」

「ほら、くだらねぇこと言ってないでいくぞ」

ゴゴゴゴゴ!

一際大きな地鳴りがし、足元が大きく揺れた。──見ると床が崩壊し、遙か下の大地にレンガが崩れ落ちていく。

「うわ……っ!」

「……この城、飛んでたのか」

「もちろん」

「早く言えよ! 急げ!」

ばこりと遠慮なくレインがキークを殴り、トアンたちはその声を掛け声に再び階段を登り始める。穴の開いた床から、強風が吹き上げてきた。

「階段が崩れていってる……」

トアンの背中で、チェリカが呟く。走りながらトアンが目を向けると、遙か下の階段が崩れて通り過ぎる雲の海に消えていった。

「落ちたら、終わりだね」

「……」

「……チェリカ?」

「……。崩壊が早すぎるよ。やっぱり変だ。そもそもキークの創ったものが勝手に壊れるわけないんだよ。しかも、それをとめられないなんて──誰が、結び目を変えたんだろう」

チェリカの声が、暗い。

「チェリカ」

「……まさか、でも──」

「チェリカってば!」

「あ、ごめん……なあに?」

「大丈夫だよ、絶対に生きて帰ろう。不安だから、ルノさんたちが心配だから君はそんなこと考えてるんだよ」

「そうか、なあ……」

「そうだって」

「……そっか。ありがとね、トアン」

チェリカが笑った。──しかし、決してそれは心からの笑みではないことをトアンは知らないほど、もう子供ではない。

(チェリカが気にしてるのは、結び目を『誰』が変えたかってこと。……気付いてるの? 変えたのは誰?)

──それを訊ねることは、彼女の笑みを握る潰すことと等しい。

(……オレも、不安だ。怖いよ。あのタイミングでこの城を壊すなんて、オレたちを殺そうとしていたの? 一度に片付けようとしたの? ……父さんの城なんだ。ここには、オレたちしかいない。──オレの、仲間しかいない。)

トアンは唇を噛んでその考えを振り払った。だめだ、走ることに集中しなきゃ。──躓いたら、崩壊に巻き込まれちゃう。

「トアン、レイン! こっちだ」

螺旋階段も終わりにさしかかった時、キークが壁に触れた。と、壁は一瞬で消滅し長い通路が現れた。

暗く、巨大な柱に囲まれた狭い通路だったが、崩れ落ちていく階段よりはよっぽど精神的に安心できる。キークはトアンとレインを押し込んで、最後にまわった。彼が壁に触れ、何か呟くと柱が淡く発光し辺りを照らしてくれる。

「まっすぐ行きなさい!」

「わかった!」

レインが走りながら答え、チェリカを背負っているトアンを先に行かせるとキークを振り返り、叫ぶ。

「親父、早く来い!」

「ああ、大丈夫だよレイン。ここはあの階段よりも丈夫に創られて──……」

「いいから!」

レインは父親の言葉を無理矢理遮ると立ち止まってしまったトアンの方に引っ張っていく。

「何で止まってんだ」

「だ、だって二人のこと置いていけないよ」

「馬鹿、お前は──」

ゴウン!

突き上げるような揺れが襲ってくる。直後、直ぐ傍の柱が突然傾いて倒れてきた。

何故突然。いや、それよりも逃げなくては。──しかし、足が、動かない。

疲れきっていた四人はかたまったまま、巨大な柱が倒れてくるのを見つめていた。


「亡国の叫びに導かれん、散り逝く花よ! ブラック・ローズ!」


柔らかで心地良い、聞いたことのない声──しかし、懐かしい声がトアンの鼓膜を振るわせた。……聞いたことのない?

赤い光が炸裂し、バラのツルが柱に何重にも巻きついて落下をとめた。──誰かが走ってくる。


トアンはしかし、ありえないと目を瞬いた。もし、両手が自由だったならば、ごしごしと遠慮なく自分の目を擦っているだろう。

「キークっ! レイン、トアン! 大丈夫!? 怪我してない?」

聞いたことのない、──いや、遠い昔に聞いていた声の主が、ぱたぱたと走り寄ってくる。

柔らかくウェーブした金髪が暗闇に揺れ、不安と焦燥にほつれてしまっている。雪のように白い肌はうっすらと上気して、潤んだ朱色の瞳がきらきらと輝いた。

真っ白なワンピースがまるで天使のようにひらひらと広がる。──ありえない。ガラスケースの中で人形のように眠っていた、母の身体が動いている。

何故──トアンが口にする前にキークが飛び出して、しっかりとその身体を抱きしめて訊ねた。

「何故……一体どうして? 君なんだね? 君だろう。アリシア、何故、何故……」

死人の身体が動いている。普通に考えたら多少は躊躇し、ここで「そうよ、わたしはアリシアよ」と認めたところで抱きしめるものではないのかと、なんとなくトアンは考えていた。──いや、その順番を変えてしまうくらい、父にとって母はどういう存在なのかがまた少し伝わってきた。聞いて、知るものではない。トアンは生前の母の姿を覚えていないからこうややこしい理屈を考えてしまうが、もっとずっと一緒に居たら、質問なんて後回しで抱きついていたかもしれない。

「……キーク。わたしよ。わたし、わたしね、ああ、言わなくちゃいけないことが沢山あるの……。でも、それより今はわたしを呼んで。わたし、ここにいるわ。ここにいるから──」

「わかってる。わかってるよ……。ああ、しかしなんてことだろう。まさか、もう一度温かい君の身体を、こんなに早く抱きしめられるなんて。アリシア、ああ、アリシア。」

キークはアリシアのその細い肩に顔を埋め、身体を震わせた。──泣いてるのだ。

「レインの身体でアリシアが生き返ったとき、キーク、こんなに喜んでなかったよね」

チェリカが柔らかく呟く。うん、トアンは頷くことでしか返事を返せなかった。

──だって、自分の涙の滲んだ声なんて、聞かせるのはかっこ悪いでしょう?

「……母さん、あいつらは?」

腕を組んだレインがぶっきらぼうに言い放った。

「え?」

「あいつらだよ! ……母さんがいた花畑に居なかったのか?」

「あ、レインたちのお友達ね。……いなかったわ」

「? じゃあ、どこに……? ──親父、いつまで泣いてるんだ。もういいじゃねぇか、ここも崩れるぞ」

「あ、ああ。そうだね」

仲間の姿が消えた? チェリカ、トアンの顔が曇った横で、レインの顔がすっと青ざめたのを見てキークはやっと顔を上げた。そのままアリシアをもう離さないというように横抱きに抱え上げる。

「きゃ、どうしたの?」

「……もう君がどこかに行かないように。行くぞ、トアン、レイン」

二人に声をかけ、キークが走り出す。その腕の中で、アリシアがころころと笑った。

「相変わらずね、キーク。……そういうところが好きよ」

隣で走るレインの顔が明らかに「いつまでイチャついてんだ」という不愉快そうなのを見ながら、アリシアはキークの胸に頭を預けた。

とくとく、少し早い鼓動が心地いい。ああ、わたしは本当に還ってこれたんだ。この人のところへ。優しい腕の、愛する人の元へと。……レイン、そんなつまらなそうな顔をしているあなたも今にわかるわ。何てことを考えながら。

「そ、そうかい?」

「そうよ。」

 アリシアはうっとりと目を細めてから、ゆっくりと告げた。

「走りながら、わたしの話を聞いてくれる? わたしが忘れないうちに。レインも、トアンも、チェリカも。……とくにレイン、あなたはしっかりと。」

「あ?」

「わたしが戻ってこれたのは──テュテュリスと、アルライドのおかげなの」


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